ホーソーン著『人面の大岩』には、ボルヘスによる序文と、「ウェイクフィールド」「人面の大岩」「地球の大燔祭」「ヒギンボタム氏の災難」「牧師の黒いベール」の五編が収録されている。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の3巻目にあたる。私にとっては16冊目の“バベルの図書館”の作品である。
ホーソーンの作品は、中3の時に読書感想文のために『緋文字』を読んだきりだった。
『緋文字』については、読む前には魔女裁判が出てくるらしいということ以外は知らなかったし、読み始めてから作品の面白さとは別に、感想を書きにくい作品を選んでしまったことについては後悔した。
緋文字とは、不義密通者の徴である。
水死した夫以外の子を産んだヘスターは、不義密通の咎で、胸に赤いAの文字を縫い付けた布をつけられ、晒し台に立たされる。その後は、周囲の人々の好奇と批判の視線に晒されながら、生涯その赤い文字を身に着けて暮らさなければならなくなった。
そうこうするうちに、死んだはずの夫が帰って来て、子供の父親について妻を詰問した。しかし、彼女は白状せず、夫は執念で密通者を探し出した。ヘスターの密通相手は意外な人物だった。ホーソーンはこの不義密通を通して、アメリカン・ピュータリニズムの汚点と信仰の闇を描こうとしたのだ。
因みに、中2の読書感想文はスタンダールの『赤と黒』で、こちらは大変読み易く、また、感想文も書き易かった。当時の私が何で二年続けて宗教と不義密通の作品を選んだのかは、今となってはよく分からない。
序文ではホーソーンの経歴を端的にまとめてあるが、その中で、彼が魔女狩りの嵐が吹き荒れたセイレムの出身であることだけでなく、彼の親族がまさにその中心人物であったことにも触れている。
彼の四代前の先祖ジョン・ホーソーンは、156人が魔女の容疑者となり、そのうち19人が絞首刑に処された、1692年の魔女裁判において裁判官であったのだ。
ネット社会の現代では、ジョン・ホーソーンという人物についても、アメリカン・ピューリタンの歴史についても、簡単に触れることが出来る。が、アメリカン・ピューリタンと言えば、『大草原の小さな家』みたいな感じだと思っていた私には、これがなかなか中立な立場で読むのにはしんどい内容なのだった。
この件について、ホーソーンはこう述べている。
「魔女たちの殉教においては、それら不運な女たちの血が殉教というものに汚点を残したと考えるのが正しいことがじつにはっきりとしている。それはチャター・ストリートの墓地の、彼女らの骨の中に、もしそれらの骨が塵と化していなければいまなお消え残っているに違いないほど根深い汚点だ。」
ホーソーンのこともアメリカン・ピューリタンの歴史も触りしか知らない身なので、どうこう言えないが、この件一つとっても私とは立ち位置の違う人だなという感想を抱く。
作家と一読者としてなら、別に立ち位置が違ってもいいのである。作品が面白ければ。そして、本書に選ばれた五つの短編はどれも大変面白かった。私には彼のピューリタニズムを共有することは出来ないが、それを置いても一読に値する作品をいくつも書き残している才能と真摯な精神は尊敬している。
本書に収められた作品は、「人面の大岩」を読むと先ず、ああピューリタンだなぁという感想を抱くが、それだけに留まる作品でもない。
ボルヘスの述べるように、この作品は独創的な分身譚である。また、そうとは知らずに自身が探求の目的である探究者という、別の古来のテーマ(たとえば『オイディプス王』のような)をも取り上げている。更に、そこには素朴な温かみもあり、テーマは異なるが、小川未明の「牛女」を思い浮かべたりもした。
「ウェイクフィールド」は、際限なく先送りに引き延ばす仕組みがカフカの作品に近いが、カフカの様に不安と緊張を長引かせず、冒頭から、事の顛末と、話が寓意を含むものであることが提示されている。
ウェイクフィールドは、ちょっと旅に出ると言う態で家を出て、それ以来約二十年、自宅と隣り合わせの通りのアパートに身を隠し、毎日自宅を眺める生活を送った末、何事も無かったように帰宅して、死ぬまで愛情深く暮らした。
ウェイクフィールドとはどういう人物だったのか。
彼は壮年期を迎え、妻に寄せる思いは落ち着いた情感に沈静していた。彼ほどに不実とは無縁な者もいなかったが、それはある種の不精さ故に今いるポジションから動きたくないというのが主な理由だった。頭は良すぎず悪すぎず、物思いには耽るが、行動は伴わない。厳密な意味での創造力や心根の温もりには欠けているが、堕落もせず放埓でもない。何もかもが日常茶飯から逸脱しない男なのだった。
“彼を知る者たちは、明日になってもまだ思い出してもらえそうなことを、今日何一つ絶対にしでかさぬロンドンっ子は誰かと問われたら、ウェイクフィールドを思い浮かべたことだろう。”
十月のある日、彼は妻と出がけの挨拶をあっさり済ませると、その足で赤毛の鬘と古着を購入して変装し、知り合いに見つからぬように遠回りして、アパートに辿り着いた。
この日から、生きている人間の世界での自分の位置や特権を放棄しながら、死者の仲間にも入れてもらえぬ彼の奇妙な生活が始まる。果たして、通り一つ隔てただけの近所で、妻にも知り合いにも見つけられることなく二十年間も暮らすことが可能なのか。この男は、実は別の次元に迷い込んでいたのではないか。別世界から、自分の家や妻を眺めていたのではないか。そんなことまで思わせるのだった。
自分は変わり果てているくせに、そのことには気づかず、これまで通りの人間だと思いこんでいる。「近いうちに帰ってやるぞ」と言い続け、自分が二十年間同じことを言って来たとは思っていない。「つい隣の通りにあるじゃないか」と時折言ってみるが、そこは既に別世界となっているのだ。自ら流民となり果てた彼に比べれば、死者だって現世の自宅を再訪する機会に恵まれているだろう。そう思わせておいて、彼は出ていった時と同様にあっさり帰宅するのである。
ここからどんな寓意を読み取ればいいのか。
彼の奇行の根底には、病的な虚栄心があったのだ。彼は、この広い世界で彼など何の意味も持たぬこと、彼に注目している者など誰もいないということを分かっていなかった。自分がいなくなっても何も変わらない世界を見つめながら、彼は何を思ったのだろう?
“一見混沌たるこの謎めいた世界のさなかで、個人は実にみごとに一つの組織へと調整され、組織は相互に調整されて、遂には一つの全体を成しており、ために人間は一瞬でも離れたら、永遠に持ち場を喪うという恐ろしい危険に我が身をさらすことになる。ウェイクフィールドのように、いわば「宇宙の孤児」となるかもしれないのだ。”
「牧師の黒いベール」もまた、「宇宙の孤児」となった男の物語だが、こちらの主人公はウェイクフィールドとは異なり、鉄の意志の持ち主であったため、生涯を「宇宙の孤児」として全うしただけでなく、彼を見る者すべてを「宇宙の孤児」にしおおせた。
フーバー牧師は、三十歳ぐらいの独身ながら品の良い人物で、いかにも聖職者らしいこざっぱりとした身なりをしていた。活力には欠けるが、その分、人当たりが柔らかく、穏やかな微笑を絶やさない彼は、教区の信者たちから尊敬と親愛を一身に受けていた。その彼が、ある時から常に黒いベールで顔を隠すようになったのだ。
その時から教区の住民たちの態度が変わった。
それまではフーバー牧師の隣を歩くことや昼食に招くことを名誉と考えていた人々が、掌を返したように彼を避けるようになった。彼の正気を疑う者もいれば、何か恐ろしい罪を抱えているのではないかと噂する者もいたが、彼に真意を問いただす勇気のある者は皆無だった。一度だけ、彼の婚約者がベールを外すように懇願したことがあったが、その願いは跳ね除けられ、二人は破局した。
たった一枚の布切れで、彼は教区の人々にとって別人になってしまった。
唯一ベールに隠されていない口元に浮かぶ微笑は、以前と変わらず穏やかなものなのに、だからこそ見る者を青ざめさせた。男同士の友情も、男女の愛も失ってしまった。心根の優しい人だけに、人々から避けられることは心底辛かった。それでも、彼はベールを被る理由を語ることも無ければ、ベールを外すこともなく、長い年月を孤独に暮らした。行為という点においては非の打ち所の無かった彼の名は、黒いベールの謎と共にニューイングランド中の教会に知れ渡り、彼はフーバー尊師と呼ばれるようになった。
臨終の床においても、フーバー牧師は黒いベールを外そうとしなかった。
ウェストベリのクラーク牧師がベールを外そうとすると、フーバー牧師は瀕死の老人とは思えない力でそれを抑え、荒い息遣いでこう言い放ったのだった。
“「わたし一人になぜ震えるのだ」(略)「おたがいを見て震え合うことも忘れてはならぬ。男たちがわたしを避け、女たちが憐みを示さず、子供たちまでが悲鳴をあげて逃げ出したのは、はたしてわたしの黒いベールのためだけなのか。この一枚のクレープ布をこんなに恐ろしいものにしたものは、その布に朦朧と浮かび出る神秘のほかに何があろう。友人に対してもしも自分の心の奥底を見せる者がいたら、恋する者が最愛の人にもしも心の奥底を覗かせてやるなら、もしも『創造主』の眼から逃れて、自分の罪の秘めごとを忌まわしくも隠匿することが徒労でなければ、それならわたしが顔を覆って生涯を過ごし、そのまま死んでいくこの徴ゆえに、わたしをばけものと思ってくれて結構だ。こうやって見まわしてみると、おやおや、誰の顔にも『黒いベール』がついているな」”
それを聞いた人々はお互いが怖くなった。
この瞬間、彼らはこれまでの常識と日常から、遥か彼方に飛ばされたのだ。
黒いベールを被ったまま地中で朽ち果てたフーバー牧師の顔を想像すると、私は教区の人々同様に青ざめてしまうのである。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の3巻目にあたる。私にとっては16冊目の“バベルの図書館”の作品である。
ホーソーンの作品は、中3の時に読書感想文のために『緋文字』を読んだきりだった。
『緋文字』については、読む前には魔女裁判が出てくるらしいということ以外は知らなかったし、読み始めてから作品の面白さとは別に、感想を書きにくい作品を選んでしまったことについては後悔した。
緋文字とは、不義密通者の徴である。
水死した夫以外の子を産んだヘスターは、不義密通の咎で、胸に赤いAの文字を縫い付けた布をつけられ、晒し台に立たされる。その後は、周囲の人々の好奇と批判の視線に晒されながら、生涯その赤い文字を身に着けて暮らさなければならなくなった。
そうこうするうちに、死んだはずの夫が帰って来て、子供の父親について妻を詰問した。しかし、彼女は白状せず、夫は執念で密通者を探し出した。ヘスターの密通相手は意外な人物だった。ホーソーンはこの不義密通を通して、アメリカン・ピュータリニズムの汚点と信仰の闇を描こうとしたのだ。
因みに、中2の読書感想文はスタンダールの『赤と黒』で、こちらは大変読み易く、また、感想文も書き易かった。当時の私が何で二年続けて宗教と不義密通の作品を選んだのかは、今となってはよく分からない。
序文ではホーソーンの経歴を端的にまとめてあるが、その中で、彼が魔女狩りの嵐が吹き荒れたセイレムの出身であることだけでなく、彼の親族がまさにその中心人物であったことにも触れている。
彼の四代前の先祖ジョン・ホーソーンは、156人が魔女の容疑者となり、そのうち19人が絞首刑に処された、1692年の魔女裁判において裁判官であったのだ。
ネット社会の現代では、ジョン・ホーソーンという人物についても、アメリカン・ピューリタンの歴史についても、簡単に触れることが出来る。が、アメリカン・ピューリタンと言えば、『大草原の小さな家』みたいな感じだと思っていた私には、これがなかなか中立な立場で読むのにはしんどい内容なのだった。
この件について、ホーソーンはこう述べている。
「魔女たちの殉教においては、それら不運な女たちの血が殉教というものに汚点を残したと考えるのが正しいことがじつにはっきりとしている。それはチャター・ストリートの墓地の、彼女らの骨の中に、もしそれらの骨が塵と化していなければいまなお消え残っているに違いないほど根深い汚点だ。」
ホーソーンのこともアメリカン・ピューリタンの歴史も触りしか知らない身なので、どうこう言えないが、この件一つとっても私とは立ち位置の違う人だなという感想を抱く。
作家と一読者としてなら、別に立ち位置が違ってもいいのである。作品が面白ければ。そして、本書に選ばれた五つの短編はどれも大変面白かった。私には彼のピューリタニズムを共有することは出来ないが、それを置いても一読に値する作品をいくつも書き残している才能と真摯な精神は尊敬している。
本書に収められた作品は、「人面の大岩」を読むと先ず、ああピューリタンだなぁという感想を抱くが、それだけに留まる作品でもない。
ボルヘスの述べるように、この作品は独創的な分身譚である。また、そうとは知らずに自身が探求の目的である探究者という、別の古来のテーマ(たとえば『オイディプス王』のような)をも取り上げている。更に、そこには素朴な温かみもあり、テーマは異なるが、小川未明の「牛女」を思い浮かべたりもした。
「ウェイクフィールド」は、際限なく先送りに引き延ばす仕組みがカフカの作品に近いが、カフカの様に不安と緊張を長引かせず、冒頭から、事の顛末と、話が寓意を含むものであることが提示されている。
ウェイクフィールドは、ちょっと旅に出ると言う態で家を出て、それ以来約二十年、自宅と隣り合わせの通りのアパートに身を隠し、毎日自宅を眺める生活を送った末、何事も無かったように帰宅して、死ぬまで愛情深く暮らした。
ウェイクフィールドとはどういう人物だったのか。
彼は壮年期を迎え、妻に寄せる思いは落ち着いた情感に沈静していた。彼ほどに不実とは無縁な者もいなかったが、それはある種の不精さ故に今いるポジションから動きたくないというのが主な理由だった。頭は良すぎず悪すぎず、物思いには耽るが、行動は伴わない。厳密な意味での創造力や心根の温もりには欠けているが、堕落もせず放埓でもない。何もかもが日常茶飯から逸脱しない男なのだった。
“彼を知る者たちは、明日になってもまだ思い出してもらえそうなことを、今日何一つ絶対にしでかさぬロンドンっ子は誰かと問われたら、ウェイクフィールドを思い浮かべたことだろう。”
十月のある日、彼は妻と出がけの挨拶をあっさり済ませると、その足で赤毛の鬘と古着を購入して変装し、知り合いに見つからぬように遠回りして、アパートに辿り着いた。
この日から、生きている人間の世界での自分の位置や特権を放棄しながら、死者の仲間にも入れてもらえぬ彼の奇妙な生活が始まる。果たして、通り一つ隔てただけの近所で、妻にも知り合いにも見つけられることなく二十年間も暮らすことが可能なのか。この男は、実は別の次元に迷い込んでいたのではないか。別世界から、自分の家や妻を眺めていたのではないか。そんなことまで思わせるのだった。
自分は変わり果てているくせに、そのことには気づかず、これまで通りの人間だと思いこんでいる。「近いうちに帰ってやるぞ」と言い続け、自分が二十年間同じことを言って来たとは思っていない。「つい隣の通りにあるじゃないか」と時折言ってみるが、そこは既に別世界となっているのだ。自ら流民となり果てた彼に比べれば、死者だって現世の自宅を再訪する機会に恵まれているだろう。そう思わせておいて、彼は出ていった時と同様にあっさり帰宅するのである。
ここからどんな寓意を読み取ればいいのか。
彼の奇行の根底には、病的な虚栄心があったのだ。彼は、この広い世界で彼など何の意味も持たぬこと、彼に注目している者など誰もいないということを分かっていなかった。自分がいなくなっても何も変わらない世界を見つめながら、彼は何を思ったのだろう?
“一見混沌たるこの謎めいた世界のさなかで、個人は実にみごとに一つの組織へと調整され、組織は相互に調整されて、遂には一つの全体を成しており、ために人間は一瞬でも離れたら、永遠に持ち場を喪うという恐ろしい危険に我が身をさらすことになる。ウェイクフィールドのように、いわば「宇宙の孤児」となるかもしれないのだ。”
「牧師の黒いベール」もまた、「宇宙の孤児」となった男の物語だが、こちらの主人公はウェイクフィールドとは異なり、鉄の意志の持ち主であったため、生涯を「宇宙の孤児」として全うしただけでなく、彼を見る者すべてを「宇宙の孤児」にしおおせた。
フーバー牧師は、三十歳ぐらいの独身ながら品の良い人物で、いかにも聖職者らしいこざっぱりとした身なりをしていた。活力には欠けるが、その分、人当たりが柔らかく、穏やかな微笑を絶やさない彼は、教区の信者たちから尊敬と親愛を一身に受けていた。その彼が、ある時から常に黒いベールで顔を隠すようになったのだ。
その時から教区の住民たちの態度が変わった。
それまではフーバー牧師の隣を歩くことや昼食に招くことを名誉と考えていた人々が、掌を返したように彼を避けるようになった。彼の正気を疑う者もいれば、何か恐ろしい罪を抱えているのではないかと噂する者もいたが、彼に真意を問いただす勇気のある者は皆無だった。一度だけ、彼の婚約者がベールを外すように懇願したことがあったが、その願いは跳ね除けられ、二人は破局した。
たった一枚の布切れで、彼は教区の人々にとって別人になってしまった。
唯一ベールに隠されていない口元に浮かぶ微笑は、以前と変わらず穏やかなものなのに、だからこそ見る者を青ざめさせた。男同士の友情も、男女の愛も失ってしまった。心根の優しい人だけに、人々から避けられることは心底辛かった。それでも、彼はベールを被る理由を語ることも無ければ、ベールを外すこともなく、長い年月を孤独に暮らした。行為という点においては非の打ち所の無かった彼の名は、黒いベールの謎と共にニューイングランド中の教会に知れ渡り、彼はフーバー尊師と呼ばれるようになった。
臨終の床においても、フーバー牧師は黒いベールを外そうとしなかった。
ウェストベリのクラーク牧師がベールを外そうとすると、フーバー牧師は瀕死の老人とは思えない力でそれを抑え、荒い息遣いでこう言い放ったのだった。
“「わたし一人になぜ震えるのだ」(略)「おたがいを見て震え合うことも忘れてはならぬ。男たちがわたしを避け、女たちが憐みを示さず、子供たちまでが悲鳴をあげて逃げ出したのは、はたしてわたしの黒いベールのためだけなのか。この一枚のクレープ布をこんなに恐ろしいものにしたものは、その布に朦朧と浮かび出る神秘のほかに何があろう。友人に対してもしも自分の心の奥底を見せる者がいたら、恋する者が最愛の人にもしも心の奥底を覗かせてやるなら、もしも『創造主』の眼から逃れて、自分の罪の秘めごとを忌まわしくも隠匿することが徒労でなければ、それならわたしが顔を覆って生涯を過ごし、そのまま死んでいくこの徴ゆえに、わたしをばけものと思ってくれて結構だ。こうやって見まわしてみると、おやおや、誰の顔にも『黒いベール』がついているな」”
それを聞いた人々はお互いが怖くなった。
この瞬間、彼らはこれまでの常識と日常から、遥か彼方に飛ばされたのだ。
黒いベールを被ったまま地中で朽ち果てたフーバー牧師の顔を想像すると、私は教区の人々同様に青ざめてしまうのである。