ブロワ著『薄気味わるい話』には、ボルヘスによる序文と、「煎じ薬」「うちの年寄り」「プルール氏の信仰」「ロンジュモーの囚人」「陳腐な思いつき」「ある歯医者へのおそろしい罰」「あんたの欲しいことはなんでも」「最後に焼くもの」「殉教者の女」「白目になっても」「だれも完全ではない」「カインのもっともすばらしい見つけもの」の12編が収録されている。
本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の13巻で、私にとっては4冊目の“バベルの図書館”の作品だ。
ボルヘスはブロワを“憎しみの収集家”と評している。
言い得て妙である。私がブロワの作品を読むのは今回が初めてだが、そのようにしか表現できない作家だと思った。私が読んだことのあるフランスの作家の中では、ブッチギリの感じの悪さだった。
罵詈雑言度ではセリーヌの方が圧倒的に上なのだけど、セリーヌには他人の苦境に悲憤慷慨する感受性があると思う。セリーヌはきっと、世の不条理が悲しいから吠えているのだ。が、このブロワからはいっそ清々しいくらい悪意しか感じられない。皮肉、冷笑、傲慢、憎悪が、彼の性根を構成する要素のほぼ全てなのではないだろうか。前回読んだのがチェスタトンだったこともあって余計にそう感じた。
なんせ、ボルヘスの序文がこれである。
“彼はみずから「汚辱の小島」と呼んだイギリスをはじめ、ドイツ、ベルギー、アメリカ合衆国を、ひとしなみに憎んでいた。(略)彼は反ユダヤ主義でもあった。イタリアの背信を告発し、ゾラをピレネーの痴呆症患者呼ばわりし、ルナンを、アナトール・フランスを、ブールジェを、サンボリストたちを、さらに人類一般をののしった。そして、フランス人は選ばれた民であり、他国民はフランス人の皿からこぼれおちるパン屑をなめることで我慢すべしと書いた。”
このように批判精神の旺盛な論客でありながら、不思議とその作風は写実主義とは距離を置いている。
“ブロワは、ホフマンのように、またポーのように、最初から、幻想的なものを怪異的なものとして表現するほうをよしとしている。
現代は「黒いユーモア」と呼ばれる言い回しを考え出した。いままでに、レオン・ブロワほどパンチのきいた、表現豊かな黒いユーモアを達成した者はいない。”
ブロワは毒気が強すぎるので、写実的な小説を書いても案外詰まらなかったかもしれない。独特の神秘的幻想的な空気が、持ち前の底意地の悪さを覆うことで、表情豊かなブラックユーモア小説を成立させたのだろう。
フランス文学って、ゾラとかモーパッサンとか、読んでいてしんどくなる作風の作家が多いけど、ブロワほど性格の悪い作家も稀だ。彼に創作の才があって良かった。もし、彼が凡人だったなら、心中の黒い感情を昇華させる術もなく、世に容れられない人となったのではないだろうか。丁度、彼の作品の主人公たちのように。
正直、序文を読んだ時点では、彼の作品はパスしようかなと思った。しかし、読みもせずにスルーするのもなんだし、何らかの機会がないと絶対手に取らない作家だと思うので、その機会が今なのだと思い読んでみたのだった。
「ロンジュモーの囚人」は、収録作の中で最も幻想色が強い作品だ。カフカを彷彿とさせるが、カフカよりもスピーディーで荒っぽい。
新聞記事が、昨日のフールミ夫妻の痛ましい最期を報じる。
二人は、非常に若く結婚してロンジュモーに移り住み、以来二十年、仲睦まじき夫婦生活を送った。この間、ただの一日すらもロンジュモーの町を離れたことがなかった。結婚生活の幸福を保証してくれる必要物の数々に恵まれ、世間の人々の眼には「永遠の愛」の奇跡を実現した二人と見えていた。
ところが、夫妻が町から出かけようとすると、必ず何らかの失策が起きて目的を果たせない。逆に、夫妻が客人を迎える約束をしても、これまた必ず失敗するのだ。
いったい、如何なる超自然的な力が働いているのか。
二十年間、夫妻は孤独な抵抗を試み続けた。
彼らの旅行用トランクは、いつも準備が出来ていた。そして、友人に出発を知らせる電報を打ち続けていた。しかし、すべてが失敗に終わった。生きている限り監禁生活は続くようだった。ロンジュモーの囚人であることに絶望した夫妻は、数え切れないほどの旅行の失敗の果てに、死への逃避行を選んだのだった。
「陳腐な思いつき」は、ここまで極端な例は珍しいかもしれないが、同じ傾向の集団は現実に割とよくいるので、気持ち悪さが一入だった。
マイルドヤンキー、学生サークル、宗教団体、暴力団等々、この手の人々は、身近でもニュースの中でもよく見かける。極端に閉鎖的で、仲間内でしか通用しないローカルルールを金科玉条の如く尊び、外部の人間の意向や人権は一切考慮しない。しょうもないことで大揉めに揉め、暴力沙汰に発展するのもありがちなパターン。実に日本的な集団だと思っていたら、フランスにも小説に書いてみたくなるくらいにはいるようだ。
テオドール、テオデュール、テオフィール、テオフラストの四人のテオのグループは、大変な仲良しで、兄弟でもないのに片時も離れることがなかった。
彼らは四人して、バルザックの構想した「十三人組」のような秘密結社を造ろうと目論んだ。要するに、自分の個性を捨て、十把一絡げとなり、集団の一部と成り果てるのである。狂気の着想であるが、彼らは、これこそは崇高な在り方だと思い込んでしまった。
彼らは、完全に四人が仲間内となるため、古い友人たちも、心寄せてくれる人たちも、すこぶる汚いやり方で捨てた。周囲の人々からは、まるで己が魂を地中に埋めていくように見られていたが、四人は幸せだった。
この不自然な集団は、当然ながら悲劇によって崩壊する。
テオドールが恋に落ちたのだ。残りの三人は驚愕し、恐ろしい悪態をついたが、テオドールの恋心は冷めず、結婚の意志を曲げなかった。あわや決闘かと思われたが、何とか万事が上手く収まり、人口の秩序は回復した。新婚のテオドール夫妻と他三人との共同生活が始まったのである。
この集団には、家の外にも中にも一切のプライバシーが無かった。
テオドールの妻は、自分が四人もの男と結婚してしまったことを悟って恐怖に駆られた。下劣な奴隷生活に陥れられたことを知った彼女は、息詰まり、地団駄踏み、萎れ果て、絶望しきって、深い沈黙に陥った。最早、夫への愛は冷めきり、軽蔑しかない。
そんな境遇の若妻が求めたのは、夫たち以外の男との恋だった。
彼女の浮気は、当然、常に彼女を監視している四人のテオに知られることになる。その結末は、最近新聞の三面記事に取り上げられたとおりである。
独善的人物が齎す災厄の描写は、「殉教者の女」もなかなか酷い。
デュラーブル夫人こそは、まさに殉教者の範であった。
彼女は、誰が何をしようと何を言おうと、その度毎、必ず決まって相手を極悪人に仕立て上げずには済まない人物なのだ。三十年前、彼女と結婚したデュラーブル氏は、自分が妻の拷問者の役割に据えられたことを知ると、精根枯らし、遂には痴呆老人になってしまった。
彼女に値する男は誰もいない。何人たりとも彼女の苦しみを理解し、慰めることは出来ない。夫がどう気遣っても、彼の言動は、妻の心を踏みにじり、その胸を突き刺す結果になるに決まっていたのである。
結婚数年を経たころ、まだ若かった殉教者の女は、田舎貴族の誘惑に熱を上げ、夫をコキュにした。
彼女は、夫の目の前で平然と愛人と逢引するようになり、夫に対しては、今後は絶対の緊急時を除いて口をきかぬ旨を言い渡した。なにしろ、デュラーブル氏は、たかが小商い風情で、妻の顔色ばかり窺い、デリカシーに欠け、理想を持たぬ無作法者なのだから仕方がない。殉教者の末裔たる夫人は、この機会に己が出自の優越を思い起こさせておくことも忘れなかった。
哀れなコキュは、地獄の生活の中で酒浸りになり、痴呆となり果て、妻のお慈悲で保護施設に収容される末路を迎えたのである。
夫の次に迫害者の役割を与えられたのは、彼女の一人娘だ。
彼女は長年夫を痴呆に追い込むことに熱中し、その上不倫の恋に耽っていたから、娘に構い付ける暇はなかった。
修道院に保護された娘は、母親の悪意を見抜ける年頃になると、自分で結婚相手を見つけてきた。娘夫婦は、結婚式が済むとすぐに特急列車で母の元を旅立つ決意を伝えた。母は怒り狂い、泣き喚いたが、娘の決意は揺るがなかった。
娘夫婦を見送り、一人寂しい家に戻った母は、親不孝な娘夫婦に罰を下すことを決めた。蔑ろにされた母には、罰を下す権利があるのだ。いや、義務があると言った方が正確だろう。神が十戒の第四の掟で「あなたの父と母を敬え」と訓えているのだから。
殉教者の女は、あらゆる企みを弄して、娘夫婦を恥辱で打ちのめした。
二人が逃れて行く先々で、ホテルの中にも、夫の勤め先の主人にも、召使の間にも、地域の有力者の元にさえ、無署名か匿名で誹謗中傷の投書がばらまかれた。そうして、憔悴しきった娘夫婦が自殺すると、二人にへばり付き、呪詛を吐き続けた殉教者の女は、二人が自殺した証明書を出させ、キリスト教徒として埋葬されることを阻んだのだった。
しょうもない人のしょうもない人生を冷徹な観察眼で活写しながらも、どこか神話や説話を読んでいるような幻想のベールも感じさせる奇妙な作品群だった。それ故に、「胸糞悪い」とか「底意地悪い」とかではなく、「薄気味わるい」話なのだろう。
パンチが効き過ぎで読むのに疲れる作風であるが、徹底的に情け容赦のない描写には、一周廻って笑いが込み上げてくるのもまた確かなのだった。
本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の13巻で、私にとっては4冊目の“バベルの図書館”の作品だ。
ボルヘスはブロワを“憎しみの収集家”と評している。
言い得て妙である。私がブロワの作品を読むのは今回が初めてだが、そのようにしか表現できない作家だと思った。私が読んだことのあるフランスの作家の中では、ブッチギリの感じの悪さだった。
罵詈雑言度ではセリーヌの方が圧倒的に上なのだけど、セリーヌには他人の苦境に悲憤慷慨する感受性があると思う。セリーヌはきっと、世の不条理が悲しいから吠えているのだ。が、このブロワからはいっそ清々しいくらい悪意しか感じられない。皮肉、冷笑、傲慢、憎悪が、彼の性根を構成する要素のほぼ全てなのではないだろうか。前回読んだのがチェスタトンだったこともあって余計にそう感じた。
なんせ、ボルヘスの序文がこれである。
“彼はみずから「汚辱の小島」と呼んだイギリスをはじめ、ドイツ、ベルギー、アメリカ合衆国を、ひとしなみに憎んでいた。(略)彼は反ユダヤ主義でもあった。イタリアの背信を告発し、ゾラをピレネーの痴呆症患者呼ばわりし、ルナンを、アナトール・フランスを、ブールジェを、サンボリストたちを、さらに人類一般をののしった。そして、フランス人は選ばれた民であり、他国民はフランス人の皿からこぼれおちるパン屑をなめることで我慢すべしと書いた。”
このように批判精神の旺盛な論客でありながら、不思議とその作風は写実主義とは距離を置いている。
“ブロワは、ホフマンのように、またポーのように、最初から、幻想的なものを怪異的なものとして表現するほうをよしとしている。
現代は「黒いユーモア」と呼ばれる言い回しを考え出した。いままでに、レオン・ブロワほどパンチのきいた、表現豊かな黒いユーモアを達成した者はいない。”
ブロワは毒気が強すぎるので、写実的な小説を書いても案外詰まらなかったかもしれない。独特の神秘的幻想的な空気が、持ち前の底意地の悪さを覆うことで、表情豊かなブラックユーモア小説を成立させたのだろう。
フランス文学って、ゾラとかモーパッサンとか、読んでいてしんどくなる作風の作家が多いけど、ブロワほど性格の悪い作家も稀だ。彼に創作の才があって良かった。もし、彼が凡人だったなら、心中の黒い感情を昇華させる術もなく、世に容れられない人となったのではないだろうか。丁度、彼の作品の主人公たちのように。
正直、序文を読んだ時点では、彼の作品はパスしようかなと思った。しかし、読みもせずにスルーするのもなんだし、何らかの機会がないと絶対手に取らない作家だと思うので、その機会が今なのだと思い読んでみたのだった。
「ロンジュモーの囚人」は、収録作の中で最も幻想色が強い作品だ。カフカを彷彿とさせるが、カフカよりもスピーディーで荒っぽい。
新聞記事が、昨日のフールミ夫妻の痛ましい最期を報じる。
二人は、非常に若く結婚してロンジュモーに移り住み、以来二十年、仲睦まじき夫婦生活を送った。この間、ただの一日すらもロンジュモーの町を離れたことがなかった。結婚生活の幸福を保証してくれる必要物の数々に恵まれ、世間の人々の眼には「永遠の愛」の奇跡を実現した二人と見えていた。
ところが、夫妻が町から出かけようとすると、必ず何らかの失策が起きて目的を果たせない。逆に、夫妻が客人を迎える約束をしても、これまた必ず失敗するのだ。
いったい、如何なる超自然的な力が働いているのか。
二十年間、夫妻は孤独な抵抗を試み続けた。
彼らの旅行用トランクは、いつも準備が出来ていた。そして、友人に出発を知らせる電報を打ち続けていた。しかし、すべてが失敗に終わった。生きている限り監禁生活は続くようだった。ロンジュモーの囚人であることに絶望した夫妻は、数え切れないほどの旅行の失敗の果てに、死への逃避行を選んだのだった。
「陳腐な思いつき」は、ここまで極端な例は珍しいかもしれないが、同じ傾向の集団は現実に割とよくいるので、気持ち悪さが一入だった。
マイルドヤンキー、学生サークル、宗教団体、暴力団等々、この手の人々は、身近でもニュースの中でもよく見かける。極端に閉鎖的で、仲間内でしか通用しないローカルルールを金科玉条の如く尊び、外部の人間の意向や人権は一切考慮しない。しょうもないことで大揉めに揉め、暴力沙汰に発展するのもありがちなパターン。実に日本的な集団だと思っていたら、フランスにも小説に書いてみたくなるくらいにはいるようだ。
テオドール、テオデュール、テオフィール、テオフラストの四人のテオのグループは、大変な仲良しで、兄弟でもないのに片時も離れることがなかった。
彼らは四人して、バルザックの構想した「十三人組」のような秘密結社を造ろうと目論んだ。要するに、自分の個性を捨て、十把一絡げとなり、集団の一部と成り果てるのである。狂気の着想であるが、彼らは、これこそは崇高な在り方だと思い込んでしまった。
彼らは、完全に四人が仲間内となるため、古い友人たちも、心寄せてくれる人たちも、すこぶる汚いやり方で捨てた。周囲の人々からは、まるで己が魂を地中に埋めていくように見られていたが、四人は幸せだった。
この不自然な集団は、当然ながら悲劇によって崩壊する。
テオドールが恋に落ちたのだ。残りの三人は驚愕し、恐ろしい悪態をついたが、テオドールの恋心は冷めず、結婚の意志を曲げなかった。あわや決闘かと思われたが、何とか万事が上手く収まり、人口の秩序は回復した。新婚のテオドール夫妻と他三人との共同生活が始まったのである。
この集団には、家の外にも中にも一切のプライバシーが無かった。
テオドールの妻は、自分が四人もの男と結婚してしまったことを悟って恐怖に駆られた。下劣な奴隷生活に陥れられたことを知った彼女は、息詰まり、地団駄踏み、萎れ果て、絶望しきって、深い沈黙に陥った。最早、夫への愛は冷めきり、軽蔑しかない。
そんな境遇の若妻が求めたのは、夫たち以外の男との恋だった。
彼女の浮気は、当然、常に彼女を監視している四人のテオに知られることになる。その結末は、最近新聞の三面記事に取り上げられたとおりである。
独善的人物が齎す災厄の描写は、「殉教者の女」もなかなか酷い。
デュラーブル夫人こそは、まさに殉教者の範であった。
彼女は、誰が何をしようと何を言おうと、その度毎、必ず決まって相手を極悪人に仕立て上げずには済まない人物なのだ。三十年前、彼女と結婚したデュラーブル氏は、自分が妻の拷問者の役割に据えられたことを知ると、精根枯らし、遂には痴呆老人になってしまった。
彼女に値する男は誰もいない。何人たりとも彼女の苦しみを理解し、慰めることは出来ない。夫がどう気遣っても、彼の言動は、妻の心を踏みにじり、その胸を突き刺す結果になるに決まっていたのである。
結婚数年を経たころ、まだ若かった殉教者の女は、田舎貴族の誘惑に熱を上げ、夫をコキュにした。
彼女は、夫の目の前で平然と愛人と逢引するようになり、夫に対しては、今後は絶対の緊急時を除いて口をきかぬ旨を言い渡した。なにしろ、デュラーブル氏は、たかが小商い風情で、妻の顔色ばかり窺い、デリカシーに欠け、理想を持たぬ無作法者なのだから仕方がない。殉教者の末裔たる夫人は、この機会に己が出自の優越を思い起こさせておくことも忘れなかった。
哀れなコキュは、地獄の生活の中で酒浸りになり、痴呆となり果て、妻のお慈悲で保護施設に収容される末路を迎えたのである。
夫の次に迫害者の役割を与えられたのは、彼女の一人娘だ。
彼女は長年夫を痴呆に追い込むことに熱中し、その上不倫の恋に耽っていたから、娘に構い付ける暇はなかった。
修道院に保護された娘は、母親の悪意を見抜ける年頃になると、自分で結婚相手を見つけてきた。娘夫婦は、結婚式が済むとすぐに特急列車で母の元を旅立つ決意を伝えた。母は怒り狂い、泣き喚いたが、娘の決意は揺るがなかった。
娘夫婦を見送り、一人寂しい家に戻った母は、親不孝な娘夫婦に罰を下すことを決めた。蔑ろにされた母には、罰を下す権利があるのだ。いや、義務があると言った方が正確だろう。神が十戒の第四の掟で「あなたの父と母を敬え」と訓えているのだから。
殉教者の女は、あらゆる企みを弄して、娘夫婦を恥辱で打ちのめした。
二人が逃れて行く先々で、ホテルの中にも、夫の勤め先の主人にも、召使の間にも、地域の有力者の元にさえ、無署名か匿名で誹謗中傷の投書がばらまかれた。そうして、憔悴しきった娘夫婦が自殺すると、二人にへばり付き、呪詛を吐き続けた殉教者の女は、二人が自殺した証明書を出させ、キリスト教徒として埋葬されることを阻んだのだった。
しょうもない人のしょうもない人生を冷徹な観察眼で活写しながらも、どこか神話や説話を読んでいるような幻想のベールも感じさせる奇妙な作品群だった。それ故に、「胸糞悪い」とか「底意地悪い」とかではなく、「薄気味わるい」話なのだろう。
パンチが効き過ぎで読むのに疲れる作風であるが、徹底的に情け容赦のない描写には、一周廻って笑いが込み上げてくるのもまた確かなのだった。