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青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

仙石原のススキと箱根湿性花園・大涌谷

2018-11-12 07:40:54 | 日記

ススキのシーズンなので、仙石原に行ってきました。
箱根湿性花園と大涌谷にも立ち寄りましたよ。コースは、箱根湿性花園⇒仙石原⇒大涌谷です。


箱根湿性花園。


コムラサキの実。
湿性花園は一足早く秋が終わりかけていました。園内の花は殆ど休眠期に入っていて、山辣韭と竜胆がちらほら咲いていたくらいでしたよ。
その代わり、企画展で山野草を色々見ることが出来ました。






秋の山野草と木の実・草の実展。


ダイモンジ草の園芸種。










遊歩道から見る、山、紅葉、水面の組み合わせ。


水芭蕉の葉があちこちから顔を出していました。
約2万株も植わっているので、白い花を咲かせる春に見に来たいです。




湿性花園から出てすぐの所にある臨時の無料駐車場に車を止めて、仙石原のススキを見に行きました。
秋の仙石原は初めてなので、一面のススキに感激しましたよ。この日は前日と打って変わってお天気に恵まれたので、日を浴びたススキの穂がとても綺麗でした。



付近の売店で売っていた蓬のソフトクリーム。さっぱりしたお味でした。


大涌谷は大学時代に来ているのですが、その頃よりガスの臭気が強くなったような気がしました。私は気管支があまり強くないので、屋外では厚めのタオルハンカチを鼻と口に当ててしのぎました。




ガスが濛々。


大涌谷と言えば、黒たまご。五つセットで500円。


地獄ラーメンは、赤いスープと黒い麺がなかなか強烈なビジュアルです。
豚骨ベースで赤いのは豆板醬みたいです。辛い物好きな夫は平気で食べていましたが、私は喉が痛くなってしまいましたよ。




食後はお土産物屋で娘の買い物に付き合ってから、ジオミュージアムに入りました。
箱根の火山や温泉についてのパネルと模型、火山灰や溶岩などの実物が複数展示されていました。
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ベニスに死す

2018-11-08 07:42:42 | 日記
『ベニスに死す』は、1971年に公開されたアメリカ資本のイタリア・フランス合作映画。トーマス・マン作の同名小説の映画化。映画では主人公のグスタフ・フォン・アッシェンバッハは作曲家だが、原作では作家である。
監督はルキノ・ヴィスコンティ。
テーマ曲にマーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」、アッシェンバッハがコレラの流行でひと気のなくなった町を徘徊するシーンでは3番が使用されている。

アッシェンバッハ  ダーク・ボガード
タッジオ  ビョルン・アンドレセン
タジッオの母  シルヴァーナ・マンガーノ
アッシェンバッハ夫人  マリサ・ベレンソン
アルフリート  マーク・バーンズ


静養中の老作曲家が、美貌の少年と出会い、彼の虜になり破滅する。それだけの話だが、コレラの忍び寄るベニスを舞台に、美と醜、若さと老い、気品と猥雑に心引き裂かれる老作曲家の姿は、滑稽であると同時に息苦しいほどに切ない。
私がこの映画を見るのは二度目だが、タッジオに近い年齢の頃に見た一度目と、アッシェンバッハの歳に近づいてきた今回とでは受けた印象がまるで違うのだった。


心臓の衰弱のため静養を余儀なくされたドイツ人の作曲家アッシェンバッハは、療養のためにベニスを訪れる。
しかし、今回のベニス滞在は初っ端から散々であった。

まず、港に着く直前の船内で奇怪な老人に絡まれる。
白いスーツに白い帽子、髪を赤く染め、皴だらけの顔に厚化粧を施したその男の醜悪さに、アッシェンバッハは不快感を禁じ得ない。しかし、アッシェンバッハの態度などどこ吹く風で男は馴れ馴れしく話しかけ続けるのだった。
その後、リドの船着き場へ行くためのゴンドラに乗り換えるが、船頭は口答えばかりしてアッシェンバッハの思うように動いてくれない。おまけに、荷物は手違いで別のところに送られてしまっている。幸先が悪いことこの上ない。

アッシェンバッハは、グランドホテル・デ・バンにチェックインする。
高級ホテルのはずだが、ロビーのあちこちで宿泊客の子供たちが駆けずり回り、人の出入りも忙しない雑然とした雰囲気だった。
疲れたアッシェンバッハは、テラスに出ると今回の療養のきっかけとなった医者の診断を思い出すのだった。

アッシェンバッハは、ホテルのレストランで美しいポーランド貴族の家族連れを見かける。
母親も娘達も美貌であるが、アッシェンバッハの目を釘付けにしたのは長男と思われる少年だった。アッシェンバッハは、そのタッジオという名の少年を美と純潔の象徴と捉える。
アッシェンバッハの喰いつき気味の凝視に気が付いていたらしく、タッジオはレストランから出ていく時に立ち止まり、アッシェンバッハの方を振り返った。

ホテルの装飾は豪華であるが、滞在客達は金満ながらも物腰は下品で騒々しい。
街に出れば路地は観光地と思えないほど不衛生で、そこかしこに大量に撒かれた消毒剤の異臭が鼻を突く。何故消毒剤など撒いているのかを尋ねても、シロッコのせいにするばかりで誰も本当のことを答えない。
何もかもが醜く不快な中で、アッシェンバッハにはタッジオだけが美しく清らかに感じられた。タッジオの姿を目にするたびに、アッシェンバッハはかつて友人のアルフリードと交わした芸術論を思い返すのだった。

アッシェンバッハの心中でタッジオへの憧憬が日毎に増してゆき、彼を奇行へと駆り立ててゆく。
ホテルの内外でタッジオを追い求めるアッシェンバッハの姿は、ストーカーそのもので不気味なことこの上ない。一方、タッジオはと言えば、自分に執着する老人の存在を認識していて、時折意味深な微笑や視線を投げかけてくるのだった。
しどけなく椅子に腰かける姿を見せたり、アッシェンバッハが作曲家であることを知っているのか拙い手つきで「エリーゼのために」を演奏してみたりと、なかなか小悪魔的である。

荷物が届いたとの知らせを受け、ホテルを引き払うことを決めたアッシェンバッハは、タッジオとの別れを惜しむ。
しかし、引き取り所で手続きを済まそうとすると、係員から荷物がさらに別の場所に運ばれてしまったと告げられ、ベニス滞在が長引くことになる。
タッジオと再び会えることにアッシェンバッハは喜びを禁じ得ない。
満面の笑みを浮かべた彼は、ホテルに舞い戻ると、さっそく部屋のバルコニーから水着姿でビーチを歩くタッジオの姿を見つける。ビーチに降り立ったアッシェンバッハは、タッジオがはしゃいだり母親に甘えたりする姿を思う存分堪能するのだった。

実はこの頃、すでにベニスではコレラが流行り始めていた。
だが、観光で生きるベニスでは、夏は稼ぎ時である。地元の商売人や役人たちは、観光客に逃げられることを恐れ、本当のことを伏せていた。
そんな中、アッシェンバッハは両替のために訪れた銀行でようやく真実を知らされる。
数日後には交通手段が遮断されると告げられたアッシェンバッハは、タッジオ一家に一刻も早く立ち去るように伝えなければと思う。

そこで、何故かアッシェンバッハは理髪店に入り、若作りを始める。
髪を染め、厚化粧を施した彼の顔は、まるでベニス行きの船内で話しかけてきた老人の様にグロテスクであった。
煙の立ち上る街なかを、真っ白なスーツの胸にピンクの薔薇を挿し、汗を掻きながらタッジオを付け回し、しまいには疲れ果てて井戸端に凭れかかるアッシェンバッハの姿は、滑稽を通り越して悲惨である。

最期の日。
波打ち際で戯れるタッジオの姿を見つめながら、アッシェンバッハは息を引き取る。それは、汗で溶けた黒い毛染め剤が化粧の剥げた頬を伝う醜く惨たらしい姿であった。


地位も名誉もあるはずの老紳士がたった一人の少年に翻弄され、一喜一憂する。
そんな惨めで滑稽なシーンの合間に、希望に満ちていた若い頃、我が子を亡くした悲しみと喪失感、友人との軋轢、売春宿での戯れ、才能の枯渇への不安などの回想が細切れに差し込まれる。ストーリーが進むほどに回想シーンは憂鬱な色合いを帯び、ベニスの薄汚い路地裏や歯抜けで厚化粧の大道芸人のシーンと融合してゆく。

タッジオは美と若さ、健康の象徴であり、町中に蔓延するコレラは醜さと老い、死を象徴しているのだろう。
アッシェンバッハはアルフリートとの芸術談義の中で、「美と純潔を想像するのは精神の働きだ」と主張するのだが、彼の憧れたタッジオには残念ながら精神性など欠片も感じられない。だからと言って、アルフリートの言うような「天賦の狂気、罪深くて妖気に満ちた閃光」というのも当てはまらない。
タッジオは、美しい容貌を除けば、年齢相応に不作法で騒々しい普通の少年だ。
そんな当たり前の少年を、人生をかけて追及してきた芸術のアイコンにしてしまうところに、アッシェンバッハという男の愚かさがある。アルフリートの「君の芸術の根底にあるのは凡庸だよ」という指摘のなんと辛辣なことか。
気持ち悪いと言えば気持ち悪いアッシェンバッハの奇行であるが、別にタッジオとどうにかなりたいわけでは無いのである。ただただ少年の美しい姿を眺めていたい、愛させて欲しい。その純情だけで彼を肯定してしまいたくなるのは、私が彼の歳に近づいてきたからだろうか。
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ゆめこ縮緬

2018-11-05 07:40:07 | 日記
皆川博子著『ゆめこ縮緬』は、大正時代から昭和初期あたりを舞台にした幻想短編集。
八つの物語は独立した作品としても読めるが、すべての短編が最終話の「ゆめこ縮緬」に還るので、全部まとめて一つの作品としても読むことも出来る。

収録作は、「文月の使者」「影つづれ」「桔梗闇」「花溶け」「玉虫抄」「胡蝶塚」「青火童女」「ゆめこ縮緬」の八編。

“行き場を追われた魔性、化生が、中州に寄り集まってくる”

温気の揺らめく雨上がりの中州、薄汚れた隔離病棟、纏わりつく濡れた黒髪、熟れた桃の汁、薬液漬けの蛇、白い振袖を着せられた西洋人形…それは官能と禁忌のイメージが点滅するひどく居心地のよい地獄なのだった。
この中では「文月の使者」「花溶け」「青火童女」が特に私好みだった。


「文月の使者」は、短編集のトップバッターとして入り易いユーモラスな作品だが、根底に流れる狂気は皆川博子ならではだ。
この作品の持つ仄暗く閉鎖的なイメージが、全作のそれを決定づけている。

「指は、あげましたよ」から始まる物語は、最初から不穏な空気を帯びている。
ちょっとしゃがれ気味の、それでいてなまめかしいその声は、空耳、いや聞き間違えだろうか。なにしろ、振り向いた時は姿がなかったのだから、想像をたくましくするほかはない。

主人公の書生が女橋を渡り中州を訪れる。
前日の豪雨で濁った水が、桟橋を洗う。その板も腐って黴とも青苔ともつかぬ錆色まだら。水かさが増した川面には芥が漂い、杭に引っかかって、鳰の浮巣のようだ。
湿った温気が地面から立ち上る。頭上からは日が照り付け、すべてのものが揺らいで見える。そんな中を書生は水を吸った小枕を抱えながら歩く。枕紙に滲む墨の文字は、とけた黒髪 水面を走る、と読める。何でそんなものを抱えているのか。

腐った板を踏みぬいた書生は、危うく川に落ちるところを中年女に救われる。
指は…確認するまでもない。がさつな声の女だった。
渡しは当分出そうもない。書生は女に伴われ、煙草屋で時間を潰すことになる。
煙草屋の老人は、女の舅らしい。老人は枕紙に目を凝らすと、「とけた黒髪…を喰らう」と呟いた。何を喰らうと言ったのかは聞きそびれた。書生は「水面を走る」と訂正しつつも、何か喰らう、と書いてあるような気もするのだった。

“――まさか珠江が使った枕じゃあるまい…。”

書生は、女と老人に自分が三年前、友人の弓村を見舞うために初めて中州を訪れた時に遭遇した怪異について話し始めるのだった。

珠江は雨宿りをさせてもらっただけの、ゆきずりの相手だった。
手も触れず、唇を合わせたわけでもない。好きな男が出来ると髪が伸びて相手の首に絡みつく、なんて話もからかっているのだと思っていた。綺麗だなとは思ったものの、格別惚れたわけでは無かった。そもそも女ですらなかったのだし。惚れ返さないのはそんなに惨いことなのだろうか…。
長い髪の毛が、捨てても捨てても絡みついてとれないのは事実。散切り頭の賄い婦が、三度三度の食事を運んでくるのも明らかなのだ。それなのに、医者にも弓村にもそんなものは見えないと言われてしまう。それらが見えるうちはここから出られない。

誰が生者で誰が死者か。誰が人で誰が化生か。
時の澱んだ中洲ではそんなことはどちらでも良いらしい。騒いで静まって、また騒いで、同じことの繰り返し。何も変わりはしないのだから。


「花溶け」は、泰山木の陰りのある白い花と香りに包まれた、白昼夢とも現実ともつかない光景を描いている。

伽耶は、少女の心のまま年の離れた産科の開業医のもとに嫁いだ。
結婚式の直後から心身の調子を崩している伽耶は、二階の座敷に飼い殺しの身である。夫は他所に女を作り、年上の義妹からの風当たりは強い。
早くに母親を亡くした伽耶は、父親の急死のあと、姉の嫁ぎ先に引き取られた。
父親は泥酔して玄関先で凍死していたのだが、姉は父を早く見つけなかった伽耶のせいだという。姉の夫は姉のいないところで伽耶を慰めたが、そこには邪な意図があったのだろう。その結果起きた不幸が、伽耶と夫を引き合わせることになった。

夢と現実を取り違えるほど愚かではない。そう伽耶は思っているけれど、彼女は明らかに現実から逸脱している。それはいつからだったのだろう。
夫となる人の病院で、処置を受けた時からか。
特殊な趣向の持ち主らしい(義妹は、兄は伽耶のような不運な人たちのために危険を冒していると言うが)夫に娶られることが決まった時からか。
或いはもっと前、赤ん坊の様にぐにゃりと縮こまっていた父親の死体を見た時からか。

伽耶は、日がな一日、自室の窓辺に腰かけて、隣家から漏れ伝うバイオリンの音に耳を澄ませながら、バラさんのことばかり考えている。
バラさんは本当の名をヴァレンシアという。露西亜から亡命してきた白系露西亜人だ。
白系露西亜人とは、十月革命で政権を奪ったボリシェヴィキに反対して亡命した露西亜人のことをいう。義妹は革命の戦禍を逃げ延びて来たバラさんの苦労と引き比べて、伽耶の不運はありふれたことだと罵るが、義妹の言葉など伽耶の心には刺さらない。
バラさん以外のすべてが伽耶の心にはしみ込まず、うわべを滑っていくだけなのだ。
バイオリンの音色が切なくて、伽耶の瞼が濡れる。
泰山木の花の散るさまはロマノフ王朝の落剝のようだ。二階から出られない伽耶と、隣家の一室に身を潜めるバラさん。二人は現実には顔を合わせたことはないのに、どこか別の世界で邂逅しているのだった。


「青火童女」は、収録作の中で最もエログロ色の強い作品。
荒れた屋敷、若衆の腐乱死体を描いた肖像画、青火、夥しい数の人形など、甘美で醜悪な道具立てと、手の込んだ構成。何より、ヒロインの玉緒の妖美な造形が圧巻である。

“彼にとって、現実は肌に荒い束子のようなもので、なぜ絹の夢よりも亀の子束子が値打ちがあるのか、皆目わからなかった”

主人公の舟也が紹介状を携えて中洲の病院を訪れる。
中洲には病院は一つしかない。「文月の使者」の主人公と友人の弓村が死ぬまで入院していたあの病院だ。入り口の石段を登りかねていた舟也は、老いた洋犬を抱いたやせ細った老人に声をかけられ、とある屋敷に連れ込まれる。
入母屋造り黒瓦、和風の屋敷の大玄関の左手に青い釉薬をかけた洋瓦の洋館が一つ。モダンな建築だが荒れている。薄紫の桐の花と、真紅の落ち椿。この佇まいには既視感があった。
富崎玉緒の家に初めて招き入れられた時は大階段を上った、と彼は記憶の中をさまよう。

彼は画家を志して上京したのだった。
郷里では神童と謳われたが、都にのぼれば十人並みの凡才。いっこうに目の出ない彼にしびれを切らせた生家から、もう援助はしないと縁切りを言い渡された頃、彼はまだ二十歳前ながら、偽名で描く煽情的な大衆小説の挿絵で人気を得た。しかし、これは大画伯の生誕をねがう郷里の望むところではない。画家の間でも通俗的な挿絵を描くのは堕落と見なす風潮が強い。
徴兵検査でいったん故郷に戻った彼は、肺湿潤の疑いで丙種不合格となり、追放されるように東京に戻ってきた。そうして、彼を贔屓にしていた通俗小説の大家から富崎玉緒を紹介されたのだった。

老人は彼を館に招き入れると、大玄関の広間を横切って、洋風の扉を開けた。
黴と湿気の匂いが漂う。天井の電燈をともすと、応接間のあちこちから発せられる視線は、すべて人形のものであることが分かった。
古びた這い這い人形、御所人形、芥子人形、三つ折れの姉様人形、市松模様の振袖を着たやまと人形。夥しい数の人形が所せましと並べられている。

玉緒の部屋にも人形が溢れていた、と彼は思い出す。
送ってくれる人がいて。そう、玉緒は言ったのだった。その時、配達人が包みを届け、玉緒は彼の前で開いた。桐の箱に、身の丈五寸ほどの童女姿の御所人形が収まっていたのだった。

正妻でありながら〈罪人〉として、侘び住まいを強いられる玉緒。彼女はまだ十三歳である。
画材はこれ、と玉緒から見せられたのは、若く美しい陸軍士官の写真であった。
玉緒の夫ではない。夫は四十から五十くらいの肥満した紳士だ。陸軍士官は玉緒の長兄だった。玉緒はその兄を前髪の若衆姿にして欲しいというのだ。

“ざっくりと、切り傷をつけて頂戴。肩から袈裟懸けにね。乳のあたりまで”

陸軍士官を描き終わるまでには一月余りかかった。
途中で玉緒が口出しするからである。漸く擱筆した時、前髪の士官は、顔面の肉が落ち、眼窩はくぼみ、半顔髑髏、残る半面に美男の面差しの名残をとどめ、肩口ばかりか腹まで達した傷が膿み爛れ、青紫や朱紅、金までまじえた腐乱の華が半裸を飾っているのだった。

「送られてきたものだ」夥しい人形を差して、老人は言った。
毎年、一つずつ、大晦日の夜に、便りを携えて人形は届けられる。うない髪にした青い振袖の人形を老人は抱き取る。送り主が誰で、何処から贈られてくるのか。玉緒はなぜ〈遠流〉に処されたのか。老人は何者で、この家は誰の物なのか。それらが明らかになった時、老人と舟也の人生が一つの輪になる。『ゆめこ縮緬』という閉じられた円環の中の、更に小さな円環がこの「青火童女」なのだ。


人形のイメージを引きずりながら、物語は最終話の「ゆめこ縮緬」へと繋がっていく。
中洲の漢方薬屋“蛇屋”は本当にあったのだろうか。
中州とは、川の中において、上流から流されて来た土砂などが堆積し、陸地となった場所である。本来は土地ではなかったその場所には、土砂とともにあってはいけないものも集まってくる。そこは生と死、現実と虚構、正気と狂気、男と女、大人と子供、本来ならば線引きされているあらゆるものが混沌とした異界なのだった。

本書に収録されている八つの物語は、すべてチャーちゃんの叔母が書いた「お話」だったのだろうか。もしそうならば、ラストにおいてこの作品集は書き手自身によって火にくべられてしまうのだが。
縁側に並ぶ、祖母と人形が見守る中、次々に「お話」は灰になった。大きいチャーちゃんは燃え尽きた。その時、そこに棲んでいた人々、魔性、化生はどこへ旅立てたのだろうか。
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結婚記念日2018

2018-11-02 07:38:55 | 日記

10月31日は私たち夫婦の結婚記念日でした。
毎年ハロウィンとセットで祝っていたのですが、心を入れ替えて今年は別々にお祝いしました。ハロウィンパーティは、日曜日に済ませておきましたよ。


お互い香水を贈り合いました。どちらも100mlなので、当分なくならないと思います。
先月、実母が句集を出版したので、そのお祝いを買いに行ったついでに香水も買ってきました。やっぱり何かとセット…。

花束は夫が買ってきてくれました。

夫の香水は、カルバンクラインのエタニティ・フォー・メンです。
彼は冒険をしたがらないタイプなので、定番の香りで。

私の香水は、同じくカルバンクラインのシアー・ビューティ・エッセンスです。
私は、香水はその日の気分で何種類か使い分けています。カルバンクラインは20年くらいエスケープを愛用しているのですが、もう少し軽めの香りが欲しいなと思いまして。エンドレス・ユーフォリアと、どちらがいいか迷いました。

因みに母には、クロスのボールペンを贈りましたよ。
母とは長い付き合いなので、プレゼントを選ぶのは毎回悩みますね。ネタ切れ気味です。
万年筆は何年か前に俳句の賞を受賞した時に贈りましたし、お花やコスメではいつもの誕生日と変わらないし、服やアクセサリーの趣味は合わないし…。


自分でも意外でしたが、スポンジを焼くのは今年初めてでした。
普段から何かの折には焼菓子を作っているので、スポンジも何度か焼いているつもりでいましたよ。多分、去年のクリスマス以来なので、ちゃんと膨らむか心配でした。こういうのは、メレンゲが上手く出来たら何とかなるみたいです。

材料は、卵4個、砂糖120g、薄力粉120g、バター40g、バニラエッセンス適量。4の倍数なので覚えやすいです。
卵を卵白と卵黄に分ける。薄力粉をふるっておく。バターは溶かしておく。
砂糖を3回に分けて加えながら、卵白をハンドミキサーでメレンゲにする。
メレンゲに卵黄を1個ずつ入れながら、その都度ハンドミキサーで混ぜる。バニラエッセンスを加える。
混ざったら薄力粉を加え、泡を潰さないようにヘラで切るように混ぜる。
バターはクリーム状になるまで混ぜてから、泡を潰さないように生地に混ぜ込む。


型紙を敷いた型に流し込んだら、20cmくらいの高さから2~3回落として空気を抜き、170度に予熱しておいたオーブンに入れて、時々様子を見ながら約50分焼く。


焼きあがったら、焼き縮みを防ぐために20cmくらい高さから2~3度落とす。
飾りの黄桃と白桃には、缶詰のシロップとゼラチンで作ったナパージュをかけて艶を出しました。相変わらずナッペは苦手です…。


フォアグラとミートローフの盛り合わせ。
フォアグラは赤ワイン、醤油、レモン汁、バターで焼きました。


ミートローフは小さめに切りたかったので、今回はパウンドケーキの型で焼きました。
いったん焼き上がってから、ベーコンに焼き目をつけるために天板にひっくり返して再度オーブンで焼きました。表面にはみ出しているオレンジ色は、溶けたチェダーチーズです。


野菜たっぷりクラムチャウダー。


蒸し鶏とゆで卵のサラダ。
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