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青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

完全演技者 トータル・パフォーマー

2015-03-21 08:08:43 | 日記
山之口洋著『完全演技者 トータル・パフォーマー』

完全演技者――それは、別の自分として生きることを許された特別な存在。求めるのは、痛みを伴う甘美な世界。
本書は、80年代に活躍した歌手クラウス・ノミのパフォーマンスから着想を得ているのだが、読みやすい文章と所々に散りばめられた仕掛けのおかげで、ノミを知らない人でも最後まで楽しく読めると思う。しかし、多少はノミ知識があった方が作品から受ける透明な悲しみは深まるだろう。

クラウス・ノミ。
1944年1月24日、ドイツ生まれの歌手・パフォーマー。本名はクラウス・スパーバー。
そのスタイルについてはオペラ、ニュー・ウェイヴ、ディスコ、ダンスなど色々言われているが、それらすべてを絶妙なバランス感覚と高度な歌唱力で融合させており、特定のジャンルに押し込むことが出来ない。
ベルリンの音楽学校でオペラを学び、1972年に渡米。異星人ともロボットともつかない強烈なビジュアルとカウンターテナーを武器に、NYのアンダーグラウンド・シーンで注目を集めた。デヴィッド・ボウイのバック・コーラスを務めたことで一般にも名が知られ、1981年にファーストアルバム『Klaus Nomi』をリリース。翌82年にはセカンドアルバム『Simple Man』をリリースした。
しかし、『Simple Man』が発売される頃には、彼の身体はAIDSに蝕まれていた。83年8月6日、死去。まだAIDSが「ゲイの癌」として忌み嫌われていた時代、著名人患者第一号として誹謗中傷に曝される中での非業の最期だった。遺灰は風に乗せてNYの街に撒かれた。
死後長らくその存在は忘れられていたが、2005年にドキュメンタリー映画『THE NOMI SONG』が上映され、熱烈な支持者を生み続けている。

さて、『完全演技者 トータル・パフォーマー』であるが――。
東京で冴えないロック・バンドのボーカリストだった井野修が、クラウス・ネモの音楽に惹かれNYに渡り、ネモ・バンドの一員として受け入れられ、シュウ・イーノと名を改める。ネモはシュウをパフォーマーとして徹底的に鍛え上げる。なぜ、ネモはシュウに目をかけるのか?そこには周到かつ倒錯的な計画があったのだ――。
ネモのビジュアルはノミそのものであるが、性格はかなり異なるようだ。しかし、作中でネモが歌うのは、「Keys of Life」「Cold Song」「Wayward Sisters」「Total Eclipse」「After the Fall」「Death」と、ノミが実際に歌った曲である。それらは私の脳内でノミの歌声で再生された。

わたしを忘れないでおくれ
だけど ああ! わが運命は忘れておくれ

地縁も血縁も顔も…心さえも捨て去り、人生のすべてを捧げ尽し、死をも欺き、完全演技者として己の芸術に殉じる――。「クラウス・ネモ」のペルソナはネモ自身からシュウに受け継がれ、やがてまた別の誰かに受け継がれていく。そして魂は「詩人の天」へと昇って行く。パフォーマーにとって、これ以上の幸福はないだろう。たとえそれが、人の道に外れた選択だったとしても…。己の生涯を一つのパフォーマンス作品にすることなど、才能とチャンスに恵まれた一握りの超越者にしか許されないことだ。
怒り、恨み、憎しみ、流した涙の一滴まで、すべてはシュウを完全演技者として転生させるためにネモが用意したものだった。
最後に恋人の背中を見送る場面、一秒の何分の一かの間、「クラウス・ネモ」は「井野修」に戻る。彼女と暮らしていた頃の、ほんの一年前の「井野修」に。たった一年。だがそれは歳月というより一光年の距離のように二人の世界を隔ててしまった。その行間に秘められた悲哀はあまりにも深い。しかし、マントを翻した瞬間、感傷は失せ、「井野修」はこの世界から完全に消滅する。すべては、ネモが計画したとおりに――。
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だらしない…

2015-03-20 08:14:15 | 日記

桜、だらしない寝姿。寝惚けて時々落っこちます
猫はだらしなくても良いのですが、人間は困ります。娘8歳のことなのですが…。彼女は学校から帰ってくると、玄関から居間までの廊下に点々と荷物を落として行くのですよね。ここ数日は春休みに向けてお持ち帰りの道具が多いので特にひどいです。昨日なんか玄関の外に縄跳びが落ちていましたよ…。当然居間も子供部屋も散らかり放題。ちょくちょく「お母さんが居間を片付けるから、○○(娘の名前)は自分の部屋を片付けてよ。どっちが速いか競争だ~!!」などと誘ってみるのですが、向こうは勝負する気がないので、私の連勝記録更新中。
幼稚園まではちゃんとお片付け出来る子だったんですけどね。小学校に入ってからひどくなりました。時期的なものでしょうか…。あまりキィキィ言ってもノイズになるだけなので、シンプルな声かけが見つけられれば良いのですが…。将来、汚部屋娘にならないか心配です。
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素朴な洋菓子店

2015-03-19 07:24:29 | 日記

昨日は私の誕生日でした。いつもの『とろわふれーる』ではなく、主人が新しく見つけたお店に予約を入れておいてくれたので、夕方受け取りに行きました。主人は、体はおじさんですがハートは乙女なので、甘い物は作るのも買うのも食べるのも好きなのです。
今回のお店は『カシム』といって、昔ながらの洋菓子店という感じです。60代半ばの男性が1人で切り盛りしていて、売られているお菓子も、上の写真のような素朴で懐かしいデザインのものばかりでした。1週間前に予約を入れれば、ケーキの上に好きな絵を描いてくれるそうなので、こどもの日に利用してみようと思っています。
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地球に落ちて来た男

2015-03-18 07:25:34 | 日記
ウォルター・ テヴィス著『地球に落ちて来た男』は、デヴィッド・ボウイ主演、ニコラス・ローグ監督の同名映画の原作である。

  ……とても驚くべきもの、空から落ちてきた少年を
  見たに相違ないぜいたくで優美な、かの船は
  どこかたどりつくべき場所があり、
  なにごともなくおだやかに航海を続けた。

ブリューゲルの『イカロスの墜落』が、主人公ニュートンが辿る運命を暗示している。
ニュートンは、死に瀕した星アンシアから“地球に落ちて来た男”だった。彼は、最初の登場シーンから寂しい。地球の異質さに戸惑い、緊張し、怯えている。色素の薄い瞳と髪を持ち、体格はありそうもないくらい細く、顔立ちは繊細で妖精のような趣だ。物腰は上品で柔らかく、感情が窺えない。その姿は、有り勝ちなSFにみられる襲来者としての異星人とはまるで異なる。それもそのはず、原作者テヴィスは、SFが専業の作家ではない。彼が描きたかったのは、アウトサイダーの悲しみだ。
映画化するに当たっては、原作のままではメランコリック過ぎると考えられたのであろうか。大筋は変わっていないものの、細部には映像映えするような改変が施されている。
例えば、原作では小太りの中年女性であるベティ=ジョーは、映画版では若い女性だし(名前も異なる)、原作では内省的な性質の化学者ブライスは、映画版では教え子たちと火遊びを重ね、裏切り行為に走ったりもする分かり易い俗物なのだ。原作の二人はどちらも、ニュートンの孤独に寄り添おうとして寄り添えない、疎外感に苦しむ人間として描かれていて、読者に与える印象は悲痛だ。
映画版ではやたらと多いセックスシーンも、原作にはいっさい出てこない。ベティ=ジョーはニュートンを愛していて、彼とセックスしたいと思っているが、実行に移すことはない。ニュートンが体に触れられるのを恐れていることを知っているからだ。アンシア人の骨は、地球人よりはるかに脆く、エレベーターの重力にも耐えられない。そして、アンシア人であることを隠しているニュートンの心には、地球人を受け入れる余裕はない。
正体を暴かれたニュートンを襲う過酷な運命――。彼は両目を潰されただけでなく、心まで潰されてしまった。

「ぼくはきみたちみんなを救いに来たんだ」

アンシアと地球、二つの星を救える可能性があったはずなのに、もはや縋る希望も信念も失った。アンシアに帰ることは叶わず、地球に馴染むことも出来ない。両目を潰されてしまい、あれほど愛した地球の自然を見つめる事さえ出来なくなった。酒に溺れることで残りの人生をやり過ごすこととなったニュートンの孤独と諦念はあまりにも痛ましい。
この残酷な地球に武器も持たずに落ちて来たニュートン。

「きみ。ぼく。故郷にいるぼくの仲間たち、わが賢明なる仲間たちがさ……ぼくらは無邪気だったんだよ」

頭を垂れ、潰された両目から涙を流すニュートンを、つかのま見つめるブライス。次の瞬間、片腕をニュートンの背中にまわし、そっと抱きしめた。手の中に包んだその細い体は、羽ばたきをしながら、苦しんでいる、ひ弱い小鳥のようだった――。
ブライスには、ニュートンの元で働くことで、自分の人生がとても重要なものに、とても価値のあるものに関わっているのだという気がしていた時期もあった。しかし、喜びの日々は永久に失われてしまった。彼もまた敗残者である。たぶんいまごろは、船の一部には錆が浮いてしまっているだろう。アンシアも地球もいずれ滅びてしまうだろう。
助けが必要だ。だが、この世界はソドム並みに命運が尽きている。打てる手は、何もない。
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黙って行かせて

2015-03-17 07:37:23 | 日記
ヘルガ・シュナイダー著『黙って行かせて』は、アウシュヴィッツ第2強制収容所ビルケナウの看守だった母と娘ヘルガの別れを描いた自伝的小説である。
ヘルガの母はナチス党での活動を経て、ザクセンハウゼンとラーヴェンスブリュックの強制収容所に勤務し、最後にはアウシュヴィッツ第2強制収容所ビルケナウに配属されていた。ラーヴェンスブリュック女子強制収容所では、人体実験に携わり、その後絶滅収容所の看守になるための訓練を受けた。ビルケナウにはもっとも非情で冷酷な人材が派遣されていたのだ。母はヘルガが4歳の時に家族を捨てた。それから、母子が会ったのは1971年と、1998年の2回だけだった。
1971年の再会においては、娘や孫には肉親の情を一切示さず、ただただ絶滅収容所の優秀な看守であったことを誇る母に、そしてガス室に送られたユダヤ人の金品を奪ったことを自慢する母に、絶望させられただけだった。
そして、1998年。再会の喜びは感じていないが、気持ちは高ぶっている。少し期待もしている。何といっても、終戦から50年も経っているのだ。母の心も変わっているかもしれない。だってあなたは私のお母さんなのだから…。
――何を期待していたのか?懺悔?母子の情?母の実像を掴むことで、ナチの子としての呪縛から解放されたいと思ったのだろうか?
しかし、母の口から溢れ出すのは、相変わらずのナチス礼賛だった。

「今じゃ、みんながドイツを見下しているけど…どうしてだかわかる?戦争に負けたからだよ。勝っていたら、世界中が総統の足にキスしただろうね。」

SSたちが皆高い教養を身に着けた紳士で、理想的なマイホームパパであったこと。自分がいかに効率よく囚人を「しごき上げた」か、という自慢話。具体例を挙げて自分が関わった人体実験や虐待、虐殺を得々と語る母の姿に娘は打ちひしがれる。
娘の心が離れていくのを感じ取った母はこう主張する。

「自分が潔白だなんて顔をしないで!あたしの目を逃れることはできませんよ、あんた!それともユダヤ人に対して一度も憎悪の念を抱かなかったって、ほんとうに主張できるの?」

その瞬間、ヘルガの心に嫌な思い出が蘇ったのだ。まだ6歳だったヘルガは、寄宿舎の近くでユダヤ人夫婦のリンチに参加したことがあったのだ。あの時代にドイツ人だった者は、被害者面でナチスを糾弾することなどできないのである。
ユダヤ人の子供や妊婦をガス室に送ることに何の心の痛みも感じなかったという母。彼女はせめて自分の子供は愛したのだろうか?たとえそれが一瞬だったとしても…。
最後まで「私には何の罪もない、命令を実行しただけなんだから」と言い募る母に、娘は何の接点も見いだせないまま別れの時を迎える。訣別してもなお「この母の遺伝子の何かを自分は受け継いでいる」という嫌悪と「なんと年老いて弱々しいのだろう」という憐憫に娘の心は引き裂かれ続ける。

いいえ、あなたを憎むことはできないわ。ただ愛せないだけ…。

母との再会と訣別によって、ヘルガは母の罪を明確にし、自分に母と同じ血が流れているという事実を突きつけ、母の罪を引き受ける宿命を自覚することとなる。

「あなたが憎いわ!あなたの母親がビルケナウの看守だったからよ。」

そう睨みつけるユダヤ人女性にどもりながら詫びるヘルガ。彼女はただ自分の過去を克服するために本書を執筆したのではない。加害者の身内として、犠牲者のために戦うという課題に取り組んだのだ。
その勇気を讃えたいと思う一方で、私は厳しい現実にも目を瞑れないでいるのだ。それは、娘がいくら人道的な立場から糾弾しても、母のナチス的正義を打ち負かす決定打には欠けていたということである。その戦後民主主義の脆弱さは日本においても同じである。戦争賛美者から「平和ボケ」と鼻で笑われる論理しか持っていない我々の未来は決して楽観できないのである。
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