青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

無鹿

2016-03-16 07:10:28 | 日記
遠藤周作の『無鹿』は、著者晩年の短編集。『無鹿』『取材日記』『あの世で』『御飯をたべる会』の四篇が収録されている。

『無鹿』は、定年間際の銀行員・加治が、彼にとって最後の出張となる宮崎市内の小料理屋で聞かされた無鹿という地を訪れる話。

無鹿は、大友宗麟と西郷隆盛がそれぞれの夢をかけて、その夢が破れた地だ。今は平凡な田舎町で、当時を偲ばせる遺跡はない。北川という川の流れだけが当時のままだ。

加治は出張の直前に血痰を吐き、肺癌を疑われて検査を受けた。その結果は、帰京後に言い渡される。

大友宗麟は、日本史の教科書でキリシタン大名として数行で説明されている程度の、どちらかと言えばマイナーな武将。そのためか、土地の人たちも観光客らしき加治に西郷の話ばかりする。

しかし、この作品の核は宗麟なのだ。
この世の楽土として、この土地を見出し、無鹿と名付けたのは宗麟だ。無鹿は、ラテン語でムジカ、英語でミュージック、音楽と言う意味だ。

宗麟が日本人として初めて西洋音楽を聴いたのは、豊後の府内(現在の大分市)に宣教師トルレスや修道士アルメイダたちが建てた教会を訪れた永禄5年の秋のことだ。
その時、演奏された曲目は記録に残っていない。しかし、初めて耳にした西洋音楽に魅了された宗麟は、ムジカなる言葉を憶え、いつまでも忘れなかった。

宗麟はすぐに洗礼を受けられた訳ではない。
九州六か国の総領である彼は、仏教徒である家臣団や僧侶の反撥、妻の反対を考慮して、洗礼を受けることを伸ばしに伸ばした。そして、北九州の国人たちを絶えず扇動して反乱を起こさせていた毛利元就が死に、宗麟の体制が盤石となったと思われた時になって、漸く洗礼を受けたのである。
生来の虚弱体質に無理を重ね、屋形である激務や絶えざる謀反にくたびれた宗麟は、基督教徒になった時、この世に理想の地を作ろうと思いたった。それは、彼があの時聴いた音楽“ムジカ”のように穢れの無い、山も川も優しい、陽の光温かな土地だ。
「余はその土地をムジカと呼ぼう」
と、宗麟は常々側近にそう語っていた。

宗麟が、北日向の土持親成の居城近くを理想の地と定めたのは、天正6年のことだった。
4万6千の将兵は三軍団に分けられ、主力は府内から南下し、嫡男・義統は大野郡の野津に駐留して背後に備え、宗麟自身は臼杵から日向灘に南下した。出発の日に宗麟の洗礼名、聖フランシスコの祝日である9月4日を選んだのも、日向の理想の地を聖なる街にする記念でもあった。
白の緞子に赤い十字架をつけ、金糸の刺繍がほどこされた旗が、宗麟の乗る船に建てられた。つき従う船にも十字架の旗がはためき、乗り込んだ家臣団はすべてキリシタンに改宗していた。
彼らが上陸したその地には、晩秋の日を浴びた白い薄原が広がり、丘と丘に挟まれた北川が水量豊かに流れていた。北川沿いの丘に教会が建てられ、鐘の音が野に流れる。信仰が人々を結ぶ。神の国をそのまま地上に具現したかった。

だが、一か月後の11月、大友軍は薩摩軍に大敗する。
大友軍は名だたる武将の大半を失い、屍は累々として子丸川から北の耳川の七里の原野を埋めた。耳川もまた大友兵の溺死体で流れが堰き止められたほどだったという。
理想の地は、こうして放棄された。

人間の声の中へ
楽器の音が流れこむ
その瞬間は
秋のよろめき

宗麟が初めて西洋音楽を聞き、理想の地・ムジカを夢見たのも、その夢を永遠に失ったのも秋のことだ。
そして、加治が無鹿を訪れたのは、秋の香りがまだ残る初冬。
加治は、秋の名残を惜しむように宗麟の残り香を求めて、無鹿を逍遥する。それは加治自身の人生の総決算でもあったのだ。
北川の橋を渡った時に、雲の間から陽の光が丘やそのまわりの田園に幾条か射しているのが見えた。それは人間の声の中へ楽器の音が流れこむ、その瞬間のようだった。

宗麟は、美への憧れに生きた人だったのだろう。
その心根は武将より、学者や芸術家に近い。激しい戦乱の世では、敗者となることがあらかじめ運命づけられていた儚い人だ。
本作は、短編ということもあり、宗麟の人物像を深く掘り起こしてはいない。だが、むしろそのことが、遠い昔に夢に殉じた人の残像として、切ない余韻を読者の心に刻む効果となっている。

もっと宗麟について知りたいのなら、遠藤周作の長編『王の挽歌』を読むと良いだろう。長編だけあって、宗麟の生涯に起きた様々な事件、その時その場で抱いたであろう想いが詳しく描かれている。作品としての完成度も『無鹿』より『王の挽歌』の方が高い。
『王の挽歌』の宗麟は、迷いが多く、脆い、ある意味人間臭い人物として描かれている。遠藤周作が、同じキリシタン大名でも高潔と評価される高山右近より、欠点の多い宗麟を愛した理由がわかるのだ。
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