8月5日
予定通り、我孫子先生の短編集を読んでいる。
しかしこれ、ミステリではなくホラーの短編集なので、ボクのミステリ好奇心が満たされることはなかった。
これは『たけまる文庫 怪の巻』という文庫本で、『小説たけまる増刊号』(雑誌風の装丁で注目を集めた単行本)のホラー系作品だけを文庫化したものである。続刊の『たけまる文庫 謎の巻』がミステリ作品集になっている。
収録されている一作目「猫恐怖症」は、平凡な作品だった。
ストーリーにはほとんど意外性がなく、怪異という言葉がぴったりくる優等生的作品である。ただし、猫アレルギーかと思われた少年の変貌ぶりと語り手の現実逃避ぶりが、ホラー色を一段と強めていて良い。
二作目「春爛漫」は、裏表紙に謎の答えが書かれており、作品の面白みを欠いている。展開の読みやすい作品だったが、ラストのオチが少し変わっている。体が動かせないという状況と意思疎通の方法が乙一先生の「失われた(失われる)物語」を彷彿させたし、人間の体が全く異質なものに侵食されるという点で貴志祐介先生の「天使の囀(さえず)り」に似ている。
三作目「芋羊羹(いもようかん)」は殺害方法が安易という意味でボクの小説と同じだった。ラストまで全く恐さがないので、これホラーか? と思っていたら、最後の最後でようやくホラーになった。しかしある意味でこれは笑劇である。
四作目以降はまだ読んでいない。
十作品あるので、また明日も感想を書くと思う。
今のところの印象としては、我孫子先生のホラー作品は「ユーモアホラー」という感じである。
金曜ロードショーで「火垂るの墓」をやっており、観た。
この作品は何度も見ているが、全部通して観たことはない、と記憶していたからである。
しかし観終わってみて、目新しいシーンはなかったから、一応全部見ていたのだろう。
いやー、なんだね、この救いのない作品は。
というのがボクの感想の全てである。
やるせない。
ボクはこういう作品は悪いとは思わないが書こうとも思わない。
書けない(書くスキルがない)けど、書きたくない。
人を感動させる、といっても色々ある。
喜怒哀楽、どんな感情の波に客を乗せるか。
ボクは悲しみというのが大嫌いなので、人を悲しませるような作品は書きたくない。「哀」は嫌だ。
やはりやるなら、「楽」を与える作品を書きたい。
もちろん、サプライズを伴った楽しさである。
サプライズ、意表をつく、といえばミステリである。
できることならミステリを書きたい。
ただ、ボクはミステリの作法なんて知らないし、どうやら探偵小説を書く才能もない。
ボクが書けるのは、探偵や警察の存在しない、ただ事件の当事者だけが出てくる限られた世界の物語だけなのだ。
いや、いかんね。
これはダメだよ。
ボクには才能がない。
才能に唯一対抗できる「努力」すらない。
ダメダメだね。
ボクが小説家になったっていいことはないよ。
でもなりたいんだ。
ボクは運に任せようと思う。
とりあえず小説賞に応募して、何か受賞できたら、頑張って小説家になろうと思うし、受賞できなかったら、仕事に精を出そうと思う。
でもなぁ、もし受賞できちゃったりしたらどうしよう。
今は妄想に過ぎないけれど、もし本当にそうなったら?
小説家にはなると思うけど、十中八九、一発屋になるだろう。
あれ、なんか前にも同じこと書いたな。
また同じオチになってしまうと思うけど、それら未来は不確定要素で、現時点ではどうなるか分からないのだ。
やってみなくちゃわからない、ってこと。
だったら、挑戦するっきゃないでしょう。
失敗したって損するわけじゃないし、失敗から得られるものはあると思う。
勝手に絶望するまえに、とりあえず挑戦してみることが肝心だ。
そして、一度や二度の失敗で諦めてちゃいけない。
夢っていうのはなかなか叶わないから夢っていうんだ。
なかなか叶わないけど、ムチャクチャ頑張れば叶うかもしれない。
あるいは、頑張らなくても叶うかもしれない。
オーディションに合格した人って必ずこう言う。
「まさか自分が合格するなんて思っていませんでした」
これは客観的にみれば、「才能があったから合格したのだ」と分かる。
でも、オーディションを受けるまでは才能があるかないかなんて、自分では分からない。
才能っていうのは自分じゃなくて他人が認めるものだから、自分じゃ判断できない。
挑戦してみるまでは、才能があるかどうかなんて、本当には分からないのだ。
そう考えると、希望が見えてくる。
でも、たまに希望を失いたくないから挑戦しない、という逃げ腰の人がいる。
それは勿体無い。
才能があるかもしれないのに、何もせずに凡人の中にとどまっているのだ。
勿体無いじゃないか。
やっぱりね、後先考えずに、まずは挑戦することが大切だと思う。
自分の才能を埋もれさせておくなんて馬鹿のすることさ。
そういう人には、「人生の成功をつかむ才能」がないんだろうね。
宝の持ち腐れだね。
よし。いつもどおり、何の話をしてたか分からなくなった。
8月8日
前回、『十作品あるので、また明日も感想を書くと思う』と書いたが全て嘘に終わった。
『明日』は日記を書かなかったし、実は十作品ではなく九作品の間違いである。
『たけまる文庫 怪の巻』は、『明日』読み終わった。
前回の日記のように一作品ごとに感想を書いてみたいが、あまりそういう気が起きない。
しかし一応、やってみよう。
四作目「再会」は、ついさっき綾辻先生の短編「再会」を読んだので上書き保存されてデータが消えてしまった。少し読み返してみると、なるほど幽霊の話である。展開は読めてしまったけど、物語の流れはきれいだった。
五作目「青い花嫁」は、最後までオチが読めなかったので悔しかった。
六作目「嫉妬」は……すみません、エグすぎてコメントしづらい。ただ、ガラスが密着していて出血が少なかったため助かった、という設定には感心した。
七作目「二重生活」は、どっちが夢なんだか分からなくなりそうだった。ラストは、なるほどそうなるのか、と感心した。この作品に関しては先が読める読めないは関係なかったので悔しくはなかった。
七作目の次には「改題」というタイトルの文章があり、この七作品には「隠しテーマ」があるのだと書かれていた。『七編すべてを読了後に読んでください』と書いているのでここでは語らない。
八作目「患者」は、なにがなにやら混乱してくる話だった。途中である謎に気づいたが、その手前にあった大きな叙述トリックに気づかなかった。もう少しで分かるところだったのでいつもなら相当悔しい思いをするのだが、叙述トリックが鮮やかだったので、悔しさは半減した。
九作目「猟奇小説家」は、とんでもないラストだった。巧い作品である。
ボクの印象としては、あとの作品になるほど出来が良い気がした。
最初の二編ほどは、「なんだこれ?」だったのに、最後のほうではちょっと絶賛しそうなほど巧い作品だった。
おそらく最初の七編は「隠しテーマ」を意識しすぎて巧くいかなかったのだろう。
ともかく、我孫子武丸が優れた作家であることは認めざるを得ない。
本日、夏休みに入ってから書き始めた短編が完成した。初めてパソコンの画面上で考えた作品である。
少々難産だったが、なんとか産まれた。
書き始めてから実に17日もかかってしまった。
文字数は三万を越え、四百字詰め原稿用紙106枚に達した。
おそらく、ボクの作品では最長のものである。
内容はまだ言えないがタイトルだけ公表しておこう。
「ピンポンだっしゅ」
およそ真面目な作品とは思えないタイトルだが、大真面目な話である。
真面目すぎて物語の展開についていけないかもしれないが、その際はご容赦下さい。
8月9日
今日は綾辻行人先生の『眼球綺たん』を読了した(「たん」は本来漢字表記だが該当文字がなかった)。
四編目に収録されている「バースデー・プレゼント」はホラーのアンソロジーで読んだことがあり、それがかなり巧い作品だったので、かなり期待して拝読させていただいた。
しかし……。読んでみた感想としては、あまり期待通りではなかった。ホラーとしては成功しているのかもしれないが、私の求める作品ではなかった。
苦手な内容の作品が多かった、と言える。要するに私の趣味に合わなかったのである。
始めの二編「再生」と「呼子池の怪魚」はラストが巧くて良かった。
最も苦手だったのは三編目「特別料理」である。テーマが悪すぎた。ラストが予想できてしまったのはさしてマイナスポイントにはならない。ともかくテーマが私の嗜好に合わなかった。残念。
四編目は「バースデー・プレゼント」だったので読み飛ばした。
五編目「鉄橋」は、彼だけが死ぬ理由が分からない。
六編目「人形」も、ちょっとよく分からないラストである。冒頭に出てくる彼らの正体は始めから予想がついていたし、ラストでその意味も分かった。しかし、いったいそれがどうして起こるのかが分からない。意味のない現象のようにしか思えない。なんとも腑に落ちなかった。
最後の七編目は表題作で、最長のものだった。中編と呼べる長さである。作中に「眼球綺たん」という題の原稿用紙100枚以上の短編が収められてある。恐るべきは、その短編が綾辻作品でない雰囲気を醸しているところである。綾辻作品なんだけど、綾辻作品っぽくないのである。おそらく作者もそこのところは気を使ったことだろう。これは凄いことだと思う。実際にやってみれば分かることだが、文体を使い分けるのは難しい。なんとか文体を変えられたとしても、今度はクオリティが下がってしまったりするのである。文体というものにはその作者特有のクセがどうしてもあって、それを意識して――しかもクオリティを下げずに――変えるのは至難の技なのである。
最優秀作品を選ぶとすれば、やはり「バースデー・プレゼント」だろう。この作品はホラーとミステリ、両方の要素がバランスよく配合されていて、折り合いも良い。
私は思うに、ホラーはあまり好きでないらしい。やはりミステリのほうがスッキリ爽快で良い。
綾辻ホラーは思ったよりミステリを含んでいなかったし、ラストがすっきりしなかったりしたので、私には合わなかった。おそらく、綾辻先生は純粋にホラーを書いてみたかったのだろう。
合う合わないでいくと、どうやら我孫子ホラーのほうが私には合っているようである。ユーモアもあるし、軽快さがあって良い。ただし、あまり過激な官能シーンはやめてもらいたいな、と思ったりして。
久しぶりに日記帳を読んでみたら、ちょうど一年前の日記に、「いま小説を書いている」とあった。
それがはじめての作品だったので、もうかれこれ一年以上、小説を書きつづけていることになる。
といっても、今までに完成させた作品は短編ばかりで、ノートに走り書きしただけのものを含めても全部で四編しかない(ショートショートは除く)。おまけにそのうちの一編は長編の第一話にすぎない。純粋に完成したと言えるのは、つい最近書いた、たったの二編である。
これは筆が遅いとかいうレベルではない。まだ書き始めたばかりでネタに悩む必要のない活気あるはずの最初の一年に、短編がたったの二編。
お話にならないとは、まさにこのことである。
しかしそこで諦めてはいけない。
プロの作家の中には、「一度も作品を完成させたことがなかったが、ようやく書けた」と処女作のあとがきに書く人もいるからだ。
諦める必要はないが、息の長い活動をしたければもっと努力する必要があるということである。
また、完成させたからといって、それが必ず本に載るわけではない。ボツを食らう可能性も大いにある。
ボクの書いた二編は特にシリーズものだから、一編がボツになるともう一編も共倒れでボツになってしまう。結局、世に出せる作品ゼロの状態になる。
こうなると、やってられない。
成人する前にデビューするという夢はいったん諦めて、きっちり就職を決めてから再挑戦するべきだろう。
しかしそれだと興ざめである。
成人してしまうと、なんだか若さとか勢い、フレッシュな感じがそこなわれて損である。
未成年がデビュー! だから良いのだ。うん。
付加価値はいくらあっても良い。あるだけ良い。
というかボクの場合、大してアピールポイントもないので、強引に若さで押していきたいところである。
作品自体には若さなんてないけれども。
若さでなくて、青さならある。
ホントにもう、文章が下手で仕方が無い。どうして自分はこんなにヘタなのだ? と考えてみると、そういえば今まで作文をまじめに書いたためしがない。「ただ事実を並べ立てた報告書のような作文」というような感想をもらったことすらある。自分の行動だけを淡々と書き、それでいて情景描写がないという、浮遊感たっぷり、という感じの駄文しか書かなかった。のっぺらぼうと言ってもいいかもしれない。なんの味もない淡白な文字のつらなり。この作者には感情が欠けていると思わせる感じであろう。
そんな人間が、小説なんて書けるはずもない。
ボクは最近になってようやく書けるようになったが、たぶん書き始めたばかりの頃は、書こうと思っても書けない状態だったのだろう。
つまり、ボクはこの一年で確実に成長したわけである。
偶然に物語を書けるレベルに。
一年前のボクは偶然に頼ってさえ、書ききる能力がなかった。
いまのボクは偶然を利用して書く能力を手に入れた。ほとんど受動的に、偶発的なひらめきに身をゆだねて、衝動的に物語を書くことができるようになったのである。
要するに、まだ偶然に頼らないと書けないということなのだけども。
つまり、能動的に書けないのだけども。
能動的に書けないということは、依頼されても書けないということで、気が向いたときにしか書けないということなのだ。
言ってしまえば、まだプロになれるレベルではないということ。
これがコンスタントに書けるようになれば、いいなぁ、と思う。
楽観視。
さんざん現実的に自分を追い込んでおいて、能天気に受け流すボク。
ボクの作品を読んで、誰かコイツに説教を垂れてやって下さい。
コイツは叱って伸びるタイプです。
このあいだ、そう言われました。
予定通り、我孫子先生の短編集を読んでいる。
しかしこれ、ミステリではなくホラーの短編集なので、ボクのミステリ好奇心が満たされることはなかった。
これは『たけまる文庫 怪の巻』という文庫本で、『小説たけまる増刊号』(雑誌風の装丁で注目を集めた単行本)のホラー系作品だけを文庫化したものである。続刊の『たけまる文庫 謎の巻』がミステリ作品集になっている。
収録されている一作目「猫恐怖症」は、平凡な作品だった。
ストーリーにはほとんど意外性がなく、怪異という言葉がぴったりくる優等生的作品である。ただし、猫アレルギーかと思われた少年の変貌ぶりと語り手の現実逃避ぶりが、ホラー色を一段と強めていて良い。
二作目「春爛漫」は、裏表紙に謎の答えが書かれており、作品の面白みを欠いている。展開の読みやすい作品だったが、ラストのオチが少し変わっている。体が動かせないという状況と意思疎通の方法が乙一先生の「失われた(失われる)物語」を彷彿させたし、人間の体が全く異質なものに侵食されるという点で貴志祐介先生の「天使の囀(さえず)り」に似ている。
三作目「芋羊羹(いもようかん)」は殺害方法が安易という意味でボクの小説と同じだった。ラストまで全く恐さがないので、これホラーか? と思っていたら、最後の最後でようやくホラーになった。しかしある意味でこれは笑劇である。
四作目以降はまだ読んでいない。
十作品あるので、また明日も感想を書くと思う。
今のところの印象としては、我孫子先生のホラー作品は「ユーモアホラー」という感じである。
金曜ロードショーで「火垂るの墓」をやっており、観た。
この作品は何度も見ているが、全部通して観たことはない、と記憶していたからである。
しかし観終わってみて、目新しいシーンはなかったから、一応全部見ていたのだろう。
いやー、なんだね、この救いのない作品は。
というのがボクの感想の全てである。
やるせない。
ボクはこういう作品は悪いとは思わないが書こうとも思わない。
書けない(書くスキルがない)けど、書きたくない。
人を感動させる、といっても色々ある。
喜怒哀楽、どんな感情の波に客を乗せるか。
ボクは悲しみというのが大嫌いなので、人を悲しませるような作品は書きたくない。「哀」は嫌だ。
やはりやるなら、「楽」を与える作品を書きたい。
もちろん、サプライズを伴った楽しさである。
サプライズ、意表をつく、といえばミステリである。
できることならミステリを書きたい。
ただ、ボクはミステリの作法なんて知らないし、どうやら探偵小説を書く才能もない。
ボクが書けるのは、探偵や警察の存在しない、ただ事件の当事者だけが出てくる限られた世界の物語だけなのだ。
いや、いかんね。
これはダメだよ。
ボクには才能がない。
才能に唯一対抗できる「努力」すらない。
ダメダメだね。
ボクが小説家になったっていいことはないよ。
でもなりたいんだ。
ボクは運に任せようと思う。
とりあえず小説賞に応募して、何か受賞できたら、頑張って小説家になろうと思うし、受賞できなかったら、仕事に精を出そうと思う。
でもなぁ、もし受賞できちゃったりしたらどうしよう。
今は妄想に過ぎないけれど、もし本当にそうなったら?
小説家にはなると思うけど、十中八九、一発屋になるだろう。
あれ、なんか前にも同じこと書いたな。
また同じオチになってしまうと思うけど、それら未来は不確定要素で、現時点ではどうなるか分からないのだ。
やってみなくちゃわからない、ってこと。
だったら、挑戦するっきゃないでしょう。
失敗したって損するわけじゃないし、失敗から得られるものはあると思う。
勝手に絶望するまえに、とりあえず挑戦してみることが肝心だ。
そして、一度や二度の失敗で諦めてちゃいけない。
夢っていうのはなかなか叶わないから夢っていうんだ。
なかなか叶わないけど、ムチャクチャ頑張れば叶うかもしれない。
あるいは、頑張らなくても叶うかもしれない。
オーディションに合格した人って必ずこう言う。
「まさか自分が合格するなんて思っていませんでした」
これは客観的にみれば、「才能があったから合格したのだ」と分かる。
でも、オーディションを受けるまでは才能があるかないかなんて、自分では分からない。
才能っていうのは自分じゃなくて他人が認めるものだから、自分じゃ判断できない。
挑戦してみるまでは、才能があるかどうかなんて、本当には分からないのだ。
そう考えると、希望が見えてくる。
でも、たまに希望を失いたくないから挑戦しない、という逃げ腰の人がいる。
それは勿体無い。
才能があるかもしれないのに、何もせずに凡人の中にとどまっているのだ。
勿体無いじゃないか。
やっぱりね、後先考えずに、まずは挑戦することが大切だと思う。
自分の才能を埋もれさせておくなんて馬鹿のすることさ。
そういう人には、「人生の成功をつかむ才能」がないんだろうね。
宝の持ち腐れだね。
よし。いつもどおり、何の話をしてたか分からなくなった。
8月8日
前回、『十作品あるので、また明日も感想を書くと思う』と書いたが全て嘘に終わった。
『明日』は日記を書かなかったし、実は十作品ではなく九作品の間違いである。
『たけまる文庫 怪の巻』は、『明日』読み終わった。
前回の日記のように一作品ごとに感想を書いてみたいが、あまりそういう気が起きない。
しかし一応、やってみよう。
四作目「再会」は、ついさっき綾辻先生の短編「再会」を読んだので上書き保存されてデータが消えてしまった。少し読み返してみると、なるほど幽霊の話である。展開は読めてしまったけど、物語の流れはきれいだった。
五作目「青い花嫁」は、最後までオチが読めなかったので悔しかった。
六作目「嫉妬」は……すみません、エグすぎてコメントしづらい。ただ、ガラスが密着していて出血が少なかったため助かった、という設定には感心した。
七作目「二重生活」は、どっちが夢なんだか分からなくなりそうだった。ラストは、なるほどそうなるのか、と感心した。この作品に関しては先が読める読めないは関係なかったので悔しくはなかった。
七作目の次には「改題」というタイトルの文章があり、この七作品には「隠しテーマ」があるのだと書かれていた。『七編すべてを読了後に読んでください』と書いているのでここでは語らない。
八作目「患者」は、なにがなにやら混乱してくる話だった。途中である謎に気づいたが、その手前にあった大きな叙述トリックに気づかなかった。もう少しで分かるところだったのでいつもなら相当悔しい思いをするのだが、叙述トリックが鮮やかだったので、悔しさは半減した。
九作目「猟奇小説家」は、とんでもないラストだった。巧い作品である。
ボクの印象としては、あとの作品になるほど出来が良い気がした。
最初の二編ほどは、「なんだこれ?」だったのに、最後のほうではちょっと絶賛しそうなほど巧い作品だった。
おそらく最初の七編は「隠しテーマ」を意識しすぎて巧くいかなかったのだろう。
ともかく、我孫子武丸が優れた作家であることは認めざるを得ない。
本日、夏休みに入ってから書き始めた短編が完成した。初めてパソコンの画面上で考えた作品である。
少々難産だったが、なんとか産まれた。
書き始めてから実に17日もかかってしまった。
文字数は三万を越え、四百字詰め原稿用紙106枚に達した。
おそらく、ボクの作品では最長のものである。
内容はまだ言えないがタイトルだけ公表しておこう。
「ピンポンだっしゅ」
およそ真面目な作品とは思えないタイトルだが、大真面目な話である。
真面目すぎて物語の展開についていけないかもしれないが、その際はご容赦下さい。
8月9日
今日は綾辻行人先生の『眼球綺たん』を読了した(「たん」は本来漢字表記だが該当文字がなかった)。
四編目に収録されている「バースデー・プレゼント」はホラーのアンソロジーで読んだことがあり、それがかなり巧い作品だったので、かなり期待して拝読させていただいた。
しかし……。読んでみた感想としては、あまり期待通りではなかった。ホラーとしては成功しているのかもしれないが、私の求める作品ではなかった。
苦手な内容の作品が多かった、と言える。要するに私の趣味に合わなかったのである。
始めの二編「再生」と「呼子池の怪魚」はラストが巧くて良かった。
最も苦手だったのは三編目「特別料理」である。テーマが悪すぎた。ラストが予想できてしまったのはさしてマイナスポイントにはならない。ともかくテーマが私の嗜好に合わなかった。残念。
四編目は「バースデー・プレゼント」だったので読み飛ばした。
五編目「鉄橋」は、彼だけが死ぬ理由が分からない。
六編目「人形」も、ちょっとよく分からないラストである。冒頭に出てくる彼らの正体は始めから予想がついていたし、ラストでその意味も分かった。しかし、いったいそれがどうして起こるのかが分からない。意味のない現象のようにしか思えない。なんとも腑に落ちなかった。
最後の七編目は表題作で、最長のものだった。中編と呼べる長さである。作中に「眼球綺たん」という題の原稿用紙100枚以上の短編が収められてある。恐るべきは、その短編が綾辻作品でない雰囲気を醸しているところである。綾辻作品なんだけど、綾辻作品っぽくないのである。おそらく作者もそこのところは気を使ったことだろう。これは凄いことだと思う。実際にやってみれば分かることだが、文体を使い分けるのは難しい。なんとか文体を変えられたとしても、今度はクオリティが下がってしまったりするのである。文体というものにはその作者特有のクセがどうしてもあって、それを意識して――しかもクオリティを下げずに――変えるのは至難の技なのである。
最優秀作品を選ぶとすれば、やはり「バースデー・プレゼント」だろう。この作品はホラーとミステリ、両方の要素がバランスよく配合されていて、折り合いも良い。
私は思うに、ホラーはあまり好きでないらしい。やはりミステリのほうがスッキリ爽快で良い。
綾辻ホラーは思ったよりミステリを含んでいなかったし、ラストがすっきりしなかったりしたので、私には合わなかった。おそらく、綾辻先生は純粋にホラーを書いてみたかったのだろう。
合う合わないでいくと、どうやら我孫子ホラーのほうが私には合っているようである。ユーモアもあるし、軽快さがあって良い。ただし、あまり過激な官能シーンはやめてもらいたいな、と思ったりして。
久しぶりに日記帳を読んでみたら、ちょうど一年前の日記に、「いま小説を書いている」とあった。
それがはじめての作品だったので、もうかれこれ一年以上、小説を書きつづけていることになる。
といっても、今までに完成させた作品は短編ばかりで、ノートに走り書きしただけのものを含めても全部で四編しかない(ショートショートは除く)。おまけにそのうちの一編は長編の第一話にすぎない。純粋に完成したと言えるのは、つい最近書いた、たったの二編である。
これは筆が遅いとかいうレベルではない。まだ書き始めたばかりでネタに悩む必要のない活気あるはずの最初の一年に、短編がたったの二編。
お話にならないとは、まさにこのことである。
しかしそこで諦めてはいけない。
プロの作家の中には、「一度も作品を完成させたことがなかったが、ようやく書けた」と処女作のあとがきに書く人もいるからだ。
諦める必要はないが、息の長い活動をしたければもっと努力する必要があるということである。
また、完成させたからといって、それが必ず本に載るわけではない。ボツを食らう可能性も大いにある。
ボクの書いた二編は特にシリーズものだから、一編がボツになるともう一編も共倒れでボツになってしまう。結局、世に出せる作品ゼロの状態になる。
こうなると、やってられない。
成人する前にデビューするという夢はいったん諦めて、きっちり就職を決めてから再挑戦するべきだろう。
しかしそれだと興ざめである。
成人してしまうと、なんだか若さとか勢い、フレッシュな感じがそこなわれて損である。
未成年がデビュー! だから良いのだ。うん。
付加価値はいくらあっても良い。あるだけ良い。
というかボクの場合、大してアピールポイントもないので、強引に若さで押していきたいところである。
作品自体には若さなんてないけれども。
若さでなくて、青さならある。
ホントにもう、文章が下手で仕方が無い。どうして自分はこんなにヘタなのだ? と考えてみると、そういえば今まで作文をまじめに書いたためしがない。「ただ事実を並べ立てた報告書のような作文」というような感想をもらったことすらある。自分の行動だけを淡々と書き、それでいて情景描写がないという、浮遊感たっぷり、という感じの駄文しか書かなかった。のっぺらぼうと言ってもいいかもしれない。なんの味もない淡白な文字のつらなり。この作者には感情が欠けていると思わせる感じであろう。
そんな人間が、小説なんて書けるはずもない。
ボクは最近になってようやく書けるようになったが、たぶん書き始めたばかりの頃は、書こうと思っても書けない状態だったのだろう。
つまり、ボクはこの一年で確実に成長したわけである。
偶然に物語を書けるレベルに。
一年前のボクは偶然に頼ってさえ、書ききる能力がなかった。
いまのボクは偶然を利用して書く能力を手に入れた。ほとんど受動的に、偶発的なひらめきに身をゆだねて、衝動的に物語を書くことができるようになったのである。
要するに、まだ偶然に頼らないと書けないということなのだけども。
つまり、能動的に書けないのだけども。
能動的に書けないということは、依頼されても書けないということで、気が向いたときにしか書けないということなのだ。
言ってしまえば、まだプロになれるレベルではないということ。
これがコンスタントに書けるようになれば、いいなぁ、と思う。
楽観視。
さんざん現実的に自分を追い込んでおいて、能天気に受け流すボク。
ボクの作品を読んで、誰かコイツに説教を垂れてやって下さい。
コイツは叱って伸びるタイプです。
このあいだ、そう言われました。
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