西尾維新の《人間シリーズ》も、残すところ最終巻となった(因みにボクにとっての最終巻は『戯言遣いとの関係』である)。
その最終巻の中盤に、京都の『哲学の道』、その入り口にあるという、案内板の紹介文が引用されており、その中に「社寺」という言葉があり、読めなかったのでインターネット辞書を引いた。
とは言え、普通に「しゃじ」と音読みすれば良かっただけで、意味も「神社と仏寺(仏教の寺、寺院)」と、見たまんま、字面のまんま、文字通りだったわけだが。
ただし、意味の最後に「寺社」とも書かれており、どうやら前後入れ替えても同じ意味合いらしかった。
そこで、「社寺」→「しゃじ」→「謝辞」だなぁ、と。
もしかしてと思って「謝辞」→「辞謝」と替えてみたら、そちらも辞書にあった。
ただし、社寺と寺社が単なる並列関係の、単語と単語とを単純に並べただけであるのに対して、謝辞と辞謝のほうはそれぞれが熟語としての意味合いを有するわけで、後者は意味が異なっていた。
謝辞[①感謝の意を表す言葉。②非をわびる言葉。]
辞謝[断ること。辞退。謝絶。]
つまり、「謝(謝る、感謝する)」の意味か、「辞(辞める、辞退)」の意味か、という違い。
先に来た漢字の意味合いが強く出るという法則。
何事も先人が偉いという、世の中の理(ことわり)みたいなことだ。
先人の知恵とか、先手必勝とか、先駆者とか、先生とか。
早いか遅いか、ただそれだけ、時代や時期や時流や時勢や時世が少しばかり違うだけの、単純な差でしかないというのに、しかし確実で確立された差異だ。
タイムマシーンで過去に飛んだら、誰もが天才になれる。
天才でなければ、奇才か鬼才か機才かな(いや、機才は[機敏な才能と知恵]だから、この場合、間違いなく間違っているのだが)。
ま、そんな発見だ。
社寺/謝辞。
寺社/辞謝。
言葉遊びだね。
戯れ言だった。
その最終巻の中盤に、京都の『哲学の道』、その入り口にあるという、案内板の紹介文が引用されており、その中に「社寺」という言葉があり、読めなかったのでインターネット辞書を引いた。
とは言え、普通に「しゃじ」と音読みすれば良かっただけで、意味も「神社と仏寺(仏教の寺、寺院)」と、見たまんま、字面のまんま、文字通りだったわけだが。
ただし、意味の最後に「寺社」とも書かれており、どうやら前後入れ替えても同じ意味合いらしかった。
そこで、「社寺」→「しゃじ」→「謝辞」だなぁ、と。
もしかしてと思って「謝辞」→「辞謝」と替えてみたら、そちらも辞書にあった。
ただし、社寺と寺社が単なる並列関係の、単語と単語とを単純に並べただけであるのに対して、謝辞と辞謝のほうはそれぞれが熟語としての意味合いを有するわけで、後者は意味が異なっていた。
謝辞[①感謝の意を表す言葉。②非をわびる言葉。]
辞謝[断ること。辞退。謝絶。]
つまり、「謝(謝る、感謝する)」の意味か、「辞(辞める、辞退)」の意味か、という違い。
先に来た漢字の意味合いが強く出るという法則。
何事も先人が偉いという、世の中の理(ことわり)みたいなことだ。
先人の知恵とか、先手必勝とか、先駆者とか、先生とか。
早いか遅いか、ただそれだけ、時代や時期や時流や時勢や時世が少しばかり違うだけの、単純な差でしかないというのに、しかし確実で確立された差異だ。
タイムマシーンで過去に飛んだら、誰もが天才になれる。
天才でなければ、奇才か鬼才か機才かな(いや、機才は[機敏な才能と知恵]だから、この場合、間違いなく間違っているのだが)。
ま、そんな発見だ。
社寺/謝辞。
寺社/辞謝。
言葉遊びだね。
戯れ言だった。
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