goo blog サービス終了のお知らせ 

音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ギターエテュード

2024-09-24 21:00:00 | 近代
連休最終日は、今津公民館て西宮ギター練習会にギター川原さんと参加しました。

曲はバッハのバディネリ、モーツァルトのソナタop15の二楽章、イベールの間奏曲、ピアソラのリベルタンゴとアヴェ・マリアを演奏しました。

バッハはギター譜が見つけられなくて、ピアノ譜でした。
10月12日(土)光明寺お寺ライブでもするつもりですが、ギター譜を見つけるか?楽譜を作っちゃうか…もうちょっと考えなくちゃ。

モーツァルトはかわいい曲です。
7歳から10歳までに作った曲ですからロンドン旅行で出会ったバッハの末弟ヨハン クリスチャン バッハの影響も曲の中に見えます。
かわいいけれど簡単では無いですが…。

川原さんはソロでも弾いていましたよ。
マキシモ ディエゴ プホール(1957-)の
「9月」
タレガの「2人の姉妹」


他の人で、ヴィラ=ロボスの「エテュード」を弾いた人がいました。

これはなかなかの難曲でコンクールの課題曲にもなっているようです。
何人か果敢に挑まれていました。

エイトル ヴィラ=ロボス(1887-1859年)ブラジル帝国ブエノスアイレス生没
エイトルの父ハウル・ヴィラ=ロボス 
はスペインからブラジルに移住した大学教授で、またアマチュア音楽家でした。
母、ノエミアの父は作曲家のアントニオ・サントス・モンテイロです。
ハウルとの間に8人との子どもをもうけました。

ヴィラ・ロボス家は二階建ての家に住んでおり、一階に叔父と叔母が商店を営んでいて、二階にはハウルとノエミア、エイトルが暮らしていました。 叔父たちが営む商店では音楽家を招いたパーティが行われていて、エイトルは「トゥフ」というあだ名で可愛がられていました

しかし1892年、ハウルが職場のトラブルや、当時の副大統領への政権批判記事を新聞に掲載したことによる政治的危険性から、一家はリオ・デ・ジャネイロを離れ、ブラジル各地を転々とする生活を送ることになります。

1893年、最終的にリオ・デ・ジャネイロへと戻り、再び音楽家たちを集めたパーティが再開されます。

この時、就寝時間の言いつけを破って度々、音楽家たちのパーティを見に行きました。
また叔母はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集
平均律クラヴィーア曲集第1巻自筆譜の表紙
を好んで弾いたと伝えられていて、エイトルのその後の音楽に大きな影響を与えました。

こうしてエイトルはハウルからピアノ、クラリネット、チェロを演奏することを学び、また演奏会などにもハウルに引き連れられ見学に行きました。

その後、独学でギターとサキソフォンを学び、作曲も1899年頃には記録に残る最初の作品が音楽家たちのパーティの中で発表されました。

1899年に当時ブラジルで流行していた天然痘によって父ハウルが亡くなります。

どうにか医学部のある大学へと進学させたい母ノエミアの反対を押し切って、エイトルは16歳の時に家を出て叔母の家に移り住みます。
その後、ギターのレッスンなどで収入を得つつ、演奏家としての活動を始めます。



1905年にはブラジル北部に民謡の収集に出かけ、1907年には税関の警備員などをし、1908年にはパラグアイを拠点に演奏活動を続けました。

1913年にはピアニストのルシリアと結婚しました。

ルシリア

1915年から1917年にかけて多くの室内楽作品や管弦楽作品などを作曲し、また自作品だけの演奏会も度々企画して興行を行いました。

1922年には「近代芸術週間」や「独立百周年記念博覧会」などで主に室内楽を中心に作品が演奏され、イベントの前衛的な趣旨と相まって、前衛作曲家としての地位を高めていきます。

こうした活動がダリウス・ミヨー

やアルトゥール・ルービンシュタインを通じて認められ、政府の奨学金を得て、1923年にパリへ留学します。 

この頃に書かれた作品として、ヴァンサン・ダンディの手法による3つの交響曲 (交響曲第1番から第3番)、3つの戦争交響曲 (交響曲第4番から第6番)、ヴァイオリンとピアノのための幻想曲第1番などがある。

1923年にはアルトゥーロ ルービンシュタイン(1887-1982年)

によって「赤ちゃんの一族」第1集が上演されたほか、同第2集、ノネット、ピアノ三重奏曲などが上演され好評を得ます。

またルービンシュタインの紹介もあり、音楽出版社であるマックス・エシック社との契約が結ばれ、声とヴァイオリンのための組曲などが出版されます。
その後、資金が底を付き、ヴィラ=ロボスは一旦、ブラジルに帰国することになります。ヴィラ=ロボスの代表作ショーロスの多くはこの時期に作曲されました。

その後、カルロス・ギンレの資金援助を受け、再びパリを拠点に活動を再開します。
この時期にはショーロスを始め、多くの作品がパリで上演され、パリでもヴィラ=ロボスの名が知られるようにななります。

またエドガー・ヴァレーズやレオポルド・ストコフスキー、セルゲイ・クーセヴィツキー、アンドレス・セゴビアなどの著名な音楽家たちと交友関係を築いたのもこの時期です。

セゴビアとヴィラ=ロボス

しかし、1930年革命により、金銭難に陥ったため留守にしていたパリのアパートから立ち退きを余儀なくされます。この時に、2つのショーロス(第13番と第14番)を含む多くの作品の自筆楽譜と筆写譜が失われたと考えられています。

ブラジルに帰国後、サンパウロ州を統治していたジョアオ・アウベルト・リンス・ジ・バホスよりブラジル内陸部でクラシック音楽のイベントを行うよう要請されます。

このイベントは「ヴィラ=ロボス芸術ツアー」と命名され、サンパウロ州、ミナスジェライス州、パラナ州などを巡りました。

1932年には25歳年下の音楽教師アルミンダ・ネヴェス・ダウメイダと愛人関係になり、ルシリアとの婚姻関係の解消を巡り裁判沙汰にまで発展します。

1933年には、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権が設立した音楽芸術教育庁の初代長官に就任します。

1940年代になると、アルゼンチンやアメリカなど南北アメリカ大陸を中心に渡り歩き、各地で講演や自作の演奏会などを行いました。
1945年にはブラジル音楽アカデミーを設立し、初代会長に就任しました。

1948年には膀胱がんと診断され手術が行われます。以降、入退院を繰り返しながらも、戦後のヨーロッパやアメリカ、イスラエル、フィンランドなど世界中を巡り、自作の演奏会などを行います。
1959年、故郷リオ・デ・ジャネイロで72年の生涯を終えた。

ヴィラ=ロボスの没後、アルミンダはブラジル大統領ジュセリーノ・クビチェクに掛け合い、ヴィラ=ロボス博物館を設立、初代館長に就任しました。

1928年ギターのために書かれた「12曲の練習曲」(エテュード)はバッハの平均律クラヴィーア曲集に影響を受けています。

練習曲第1番、第7番、第8番は1947年3月5日、アンドレス・セゴビアによってマサチューセッツ州ウェルズリーのウェルズリー大学で初演されました。
第2番。
Leonora Spangenberger13歳が演奏しています。


家庭のミューズ

2024-09-22 21:13:00 | 近代
土曜午後からギターの川原久美子さんと合わせでした。

9月23日(月 祝日)今津公民館で13:00〜西宮ギター練習会でバッハの管弦楽組曲バティネリ、モーツァルトのフルートソナタK.14の第2楽章、イベールの間奏曲、ピアソラのアヴェ・マリアを演奏します。

ドライベジタブル買ってきてくれました。
これヘルシーで美味しいです。
オクラは食べたらぬめりが出てきます。

お返しの肉球フィナンシェ。
先週末知恩寺手作り市で買ってきました。
これ見た途端、川原さんのことが頭に浮かびました。
だって川原さんスペシャルな猫好きなんです。
猫のはるおさんを飼っているだけでなくほら今回も…

にゃんこのイヤリング!

ダリウス・ミヨー(1892-1974年)フランス共和国エクス=アン=プロヴァンス生まれ、スイス ジュネーブ没

アーモンド取引で財をなした富裕なユダヤ人の家庭に生まれます。父は商館をとりしきるかたわら地元の音楽協会の中心人物を務め、母はかつてパリで声楽を学んでいました。
生まれつき小児麻痺を患っていたため、車椅子を使っていました。

1920年代以降はリウマチにも悩んでいました。

パリ音楽院で作曲を学びます。
1914年第一次世界大戦では健康上の理由から従軍を免れます。
しかし、戦争と関わる仕事を求めて「フランス・ベルギー親善協会」(亡命者の受け入れや援助などを行うための組織)で働きます。

1915年ブラジル大使になり2年間ブラジルて過ごします。
1918年には連合国経済使節団のフランス代表となったポール クローデル(1868-1955年フランスの劇作家、詩人、外交官。外交官としては駐日・駐米フランス大使などを歴任)

に従ってアメリカまで同行し、そのままニューヨークを経由して1919年にフランスに帰国します。
そこで、「フランス6人組」

ジャック=エミール・ブランシュ『6人組の面々』(1921年)。中央はピアニストのマルセル・メイエ。左側、下からタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル。右側、左上がプーランク、隣がジャン・コクトー、下がオーリック。デュレはこの頃すでに6人組から離れていたため描かれていない

として知られるようになります。
1920-30年にはリューマチの進行に苦しみながらも作曲した曲が評価されるようになり、映画音楽にも手を出し人気を博します。

1940年、ユダヤ人だったミヨーは、前年に始まった第二次世界大戦を避けるためにアメリカ合衆国に逃れます。

合衆国では、カリフォルニア州のミルス・カレッジ

で作曲を教えつつ、サンフランシスコ交響楽団、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ボストン交響楽団などで客演指揮を行いました。

この中には、シカゴ交響楽団創立50周年のための委嘱作品『交響曲第1番』(1940年)や、クーセヴィツキー夫人ナタリーを追悼するためクーセヴィツキー財団による委嘱作品『交響曲第2番』(1944年)の初演が含まれています。

1944年作曲の「家庭のミューズ」op245は、ピアノの独奏のために作曲されました。後にオーケストラに編曲されました。

作曲の経緯なとはよくわかりませんでした。

ダリウス・ミヨーは
1925年、幼少から知り合いで従姉妹のマドレーヌ(1903ー2008年)と結婚しました。

1925 年 5 月 4 日、結婚式当日のミヨー家。@ ミヨー アーカイブス
彼女は、80年間パリの文化生活の中心にいた俳優兼脚本家で、結婚後ミヨーがリューマチを患い車椅子に乗っていたことから常に彼の後ろにいで車椅子を押していました。

1930年には息子ダニエルをもうけます。
1940年5月にドイツ軍がパリの射程圏内にまで迫ったとき、オペラ座はミヨーの『メディア』の初演を行っていました。
マドレーヌはセネカ、エウリピデス、コルネイユの文章を引用して台本を書きました。

しかし、音楽には高射砲の音が伴い、3回目の上演でオペラが中止されると、マドレーヌはダリウスに フランスを去るよう促しました 。

「あなたのためにできることはたくさんあるわ。でも、わたしはあなたを背負って隠すことはできないのよ」

と、彼らは10歳の息子ダニエルとともに、リスボンを経由してアメリカ合衆国に着きました。

その後戦争が終わるまでそこで暮らしました。

マドレーヌはラジオ劇の朗読をしたり、台本を書いただけでなく、文化人との広い交友も知られています。

ジッド、クローデル、コクトー、サンドラール、マルローなどの人気作家、レジェ、ピカソ、マッソンなどの画家、ルノワール、カヴァルカンティ、レルビエなどの映画監督と交流しました。

夫の死後105歳まで生きたマドレーヌはフランスの文化人を知る生きた情報源で、話し上手な人だったそうです。
フランス語ですが、彼女のインタビュー動画が残っています。

Mはマドレーヌのことでしょう。
家庭では息子が絵を描き、猫を飼い、台所では食事の用意がされ、洗濯したり、花が飾られていたり、病むときには看病。
音楽を合奏したり、友人たちと夜の集いをしたり、トランプ占いに興じたり「家庭のミューズ」(家庭の女神)はミヨーに安らぎと安定を与え、作品を書く原動力となっていたようです。

「家庭のミューズ」op245
第1曲 私のもの – M.M.M.M. に捧ぐ
第2曲 目覚め
第3曲 家事
第4曲 詩情
第5曲 台所
第6曲 家の中の花
第7曲 洗濯
第8曲 音楽の合奏
第9曲 絵を描く息子
第10曲  猫
第11曲 トランプ占い
第12曲  看病
第13曲 夜の集いの楽しみ
第14曲 夜の読書
第15曲 ミューズへの感謝

第10曲 猫






水の戯れ

2024-09-07 21:00:00 | 近代
朝、子育てサロンのスタッフYさんとファミリーポートひらかたへ行きました。

お目当ては、これ。

次の火曜日に子育てサロンで使うボールプールを借りに来ました。

本物のプールには敵わないけれど、ひんやり冷たくてコロコロの感触は子どもたちに人気です。

サロンの子どもたちにも味わってもらいたくて!
プールの囲いはポートのスタッフのみなさんが作った牛乳パックを布で包んだ普段は椅子に使っているものです。
動物や電車の模様がついています。
子どもたち喜んでくれるかな?

殿二校区子育てサロン 毎月第二火曜日(8月は無し)10:00-11:30
会館トノ二 申込み不要 無料
子育て中の保護者と子ども、妊婦さん、ぜひおいでください。
子育て仲間と出会いませんか?

モーリス ラヴェル(1875-1935年)フランス共和国シブール生まれ、フランス共和国パリ没

『水の戯れ』(みずのたわむれ、仏: Jeux d'eau)は、ラヴェルがパリ音楽院在学中の1901年に作曲したピアノ曲です。

当時の作曲の師であるガブリエル・フォーレ(1845〜1924年)

に献呈されました。
初演は1902年4月5日、サル・プレイエル


で行われた国民音楽協会主催のリカルド・ビニェス
リカルド・ヴィニェス(左)とラヴェル
ヴィニェスはラヴェルやドビュッシーの初演を数多くつとめた優れたピアニストであり、文学にも造詣が深く、ラヴェルに影響を与えました
のピアノ・リサイタルで『亡き王女のためのパヴァーヌ』とともに初演されました。

ホ長調、4分の4拍子、8分音符=144、きわめて優しく。

ラヴェルは「テンポ、リズムも一定なのが望ましい」書いています。

楽譜の冒頭に、「水にくすぐられて笑う河神(ポタモイ)」というアンリ・ド・レニエ(1864-1936年)

の詩の一節を題辞として掲げています。

曲の構成はソナタ形式。
また、七の和音、九の和音、並行和声が多用されており、初演当時としてはきわめて斬新な響きの作品でした。

実際初演時には『亡き王女のためのパヴァーヌ』と比較され、耳障りで複雑すぎるとの評価がくだされました。

出版時には「まったくの不協和音」というカミーユ・サン=サーンスの酷評をも招きました。

しかし、今日では「水の運動と様態を描いてこれほど見事な作品はあるまい」(三善晃)などと高い評価を得ています。
また、ピアノ音楽における印象主義の幕開けを告げた作品とされています。

ラヴェル「水の戯れ」



ボルト

2024-08-20 21:00:00 | 近代
月曜は次男の骨折箇所のチタンのボルトを抜く手術前検診でした。

病院の駐車場に咲いていた都草ミヤコグサ ロータス ジャポニカ。
遣唐使が伝えた「新修本草」に659年には都草の記述があるそうです。


レントゲンの「照射中」の文字だけ昭和です。
血液検査、尿検査、
これは心電図を回って、整形の先生の診察。入院相談。
それから麻酔科医の先生と面談。
初めの手術に続いて2回目なので動画によるレクチャーは省略。

「アルコールは飲みますか?」
「アレルギーはありますか?」などなど何度も確認されました。

看護師さんによる入院の説明。
最後に入院受付をして、会計。
「あれ?診療科での印鑑が抜けてます。ちょっとまってて下さい。」と事務員の方が回ってきてくれました。

朝一番から、お昼過ぎまで「お腹すいた。」ということで、1号線沿いを走っているとびっくりドンキーが見えたので行ってみました。  
次男初ドンキー。私も2回目。
ハンバーグにS、M、Lのサイズがあります。
次男はMサイズ、私はSサイズのセット卵のせ。
「カリフラワーライスに変えられるよ。」と次男。
変えてもらいました。
カリフラワーライス、カリフラワーを茹でて刻んだものです。
サラダはキャベツが高いからか、大根とにんじんの千切りとミニトマトでした。
Sサイズでもハンバーグは充分に大きくて、カリフラワーライスでもお腹いっぱい。 
Mサイズ、白ご飯の次男もお腹いっぱいだそうでした。 

ドミトリー ショスタコーヴィチ(1906-1975年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

バレエ音楽「ボルト」
脚本はウラジーミル・スミルノフ
振付フョードル・ロプホフ
指揮アレクサンドル・ガウクで
1931年4月8日、レニングラード・キーロフ劇場で初演されました。

バレエ「ボルト」の衣装デザイン
バレエ音楽「ボルト」

怠惰で大酒飲みの労働者レーンカ・グールバは、その性格のために勤めていた工場から解雇されます。
グールバは復讐を企み、ゴーシュカを騙します。

若い見習労働者のゴーシュカが機械の中にねじ(ボルト)を差し込んで機械を壊してしまいます。

守衛達は、グールバの密告によって無関係な共産主義者の若者ボリスを捕らえます。

やがて事態を理解したゴーシュカは罪を悔いて工場長らに騙されてしたことを告白します。ボリスは釈放され、陰謀を暴かれたグールバが代わって逮捕されます。





ある暑い夏の日

2024-08-04 21:00:00 | 近代
土曜日、うちの裏庭のスダチ、初収穫。
ちょっと早かった小さくて固い。
絞りにくい!
でも香りが高く酸味は充分。
冷しゃぶにかけていただきました。

午前中実家でレッスン。10:00で36度。
それなのに着いたら、母は、「午前中はクーラーを入れない。」とクーラーつけません。
「いやいや、昔と6度は平均気温違うし、昔だって36度過ぎたらクーラー入れてたでしょ。」
「汗かいてるから大丈夫。」
どういう意味?

12:00頃、帰ろうと車に乗ったら

41度!
サンシェードをしていたのに、ビックリしました。

母は正午過ぎてもクーラーつけません。「窓開けたら風が入るから。」家の中より暑い風なのに、もう打つ手なし。

咲いているのは百日紅だけ。

てらてらと小鳥も鳴かず百日紅
          正岡子規

ああ!暑い…そのまま、帰ってきました。

ジョージ ガーシュイン(1898-1957年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没 

東欧系ユダヤ人の父親はロシア、母親はベラルーシからの移民でした。

『ポーギーとベス、Porgy and Bess)

ガーシュウィンが死の2年前の1935年に作曲した3幕9場からなるオペラです。

1920年代初頭の南部の町に住む貧しい黒人の生活を描いています。
ジャズや黒人音楽を用いて作曲されています。登場人物はごく数名の白人を除き全て黒人です。

海に面した黒人の居住区キャットフィッシュ・ロウ(“なまず横丁”)が舞台です。

第1幕
ある夏の夕方 - 夜
足の不自由な乞食のポーギーは給仕女のベスに思いを寄せています。

ベスの内縁の夫クラウンは賭博のトラブルから仲間を殺して逃亡し、これをきっかけにベスはポーギーと一緒に暮らすようになります。

住民たちはクラウンに殺されたロビンスの部屋に集まり、彼の死を悼むとともに、なけなしの金を出し合って葬儀の費用を捻出します。

第2幕
殺人事件の1ヶ月後 - その1週間後
ある天気のよい日、キャットフィッシュ・ロウの住民たちは離島にピクニックに出かけます。

ポーギーは足が不自由なために留守番をします。
ベスもピクニックに参加しますが、島に隠れていたクラウンと出会います。

島から戻ったベスは熱を出して寝込み、ポーギーは献身的に彼女を看病します。1週間後、回復したベスはクラウンとのことを告白し、ポーギーへの愛を誓います。

その翌日、ハリケーンがキャットフィッシュ・ロウを襲います。

住民たちが集まっているところへクラウンが登場しポーギーと険悪なムードになります。

その時、漁師ジェイクの妻クララが難破した夫の船を見つけ嵐の中へ飛び出して行きます。
クラウンは嵐を恐れる住民たちを臆病者と罵りクララを追います。

第3幕
ハリケーンの翌日
嵐のために死んだ仲間のための葬式が終わった後、
クラウンがポーギーの部屋に忍び込みます。
それを見たポーギーは乱闘の末にクラウンを殺してしまいます。

翌日、警察による捜査が行われ、ポーギーは検死のために参考人として警察へ連行されます。

ポーギーが犯人であることは発覚しなかったものの、彼は自分が殺した相手を見ることができなかったため警察に1週間勾留されてしまいます。

勾留がとけて意気揚々と帰ってきたポーギーはベスの姿がないことに気づきます。
住民たちから、ポーギーがいない間に遊び人の麻薬の売人スポーティング・ライフがベスを誘惑し、遠いニューヨークへ行ってしまったことを知らされます。

ポーギーは悲嘆にくれるどころか、ベスを見つけるため、不自由な足をおして数千キロ離れたニューヨークを目指し旅立ちます。




祭り

2024-07-26 21:00:00 | 近代
昨夜、帰宅前に夫が送ってきた写真。
大川の向こうに、夜店の灯りが、きれい。
天満橋駅近くにある夫の会社の通勤路から見える天神祭りの一部です。

あまりに人が多いので地元企業に務めていても、めったに行きません。
私ももう何年も前に行ったきり。
会社帰りに、船渡御を橋の上から何台か見たのと、後は夜店でビールや、とうもろこし、カルメ焼きなんかを買って暑い中外で食べたきり。
人しか見えません。

また、京阪電車の混むこと!
25日は花火があるみたいだけど、これ以上混むと聞いて近寄ったことありません。

大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)は、大阪市北区天神橋にある神社。
大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。

白雉元年(650年)、孝徳天皇が難波宮を造営した際、その西北に守護神として大将軍社を創建しました。

大将軍社(再建)
延喜元年(901年)に菅原道真

菅原道真像(菊池容斎『前賢故実』巻第五より
が藤原時平によって九州大宰府へ左遷させられた時、この地にあった大将軍社に参詣し、旅の安全を祈願してました。

延喜3年(903年)に菅原道真が没した後に天神信仰が広まり始め、天暦3年(949年)に道真ゆかりの大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わりました。

そして、それを聞いた村上天皇の勅命によってこの地に天満宮が建立されることとなりました。
以後、大将軍社を摂社として新たに天満宮が中心の社となりました。

度々火災に見舞われ、なかでも享保9年(1724年)の享保の大火(妙知焼け)では全焼。
後に復興したものの、今度は天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱による大火でまたも全焼してしまいました。しかし、天保14年(1843年)には現在の社殿が再建されて復興を果たしています。

1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲の際には幸運にも被害を免れています。

天神祭りは菅原道真の命日にちなみ、7月25日前に6月25日頃から1ヶ月間に渡って行われます。

船渡御

モーリス ラヴェル(1875-1937年)フランス共和国シプール生まれ、フランス共和国パリ没

ラヴェルの母親はスペイン・バスク地方出身のバスク人です。
ラヴェルは幼少時母親の歌っていたスペイン民謡に影響を受けています。

スペイン音楽に影響を受けた作品としては『スペインの時』『ボレロ』などがよく知られています。
ラヴェルが『スペイン狂詩曲』を完成させた1年後、ドビュッシーもスペインを題材にした作品『イベリア』(管弦楽のための『映像』第2曲)を作曲しています。

作品はシャルル・ド・ベリオの息子で、ピアノと作曲の教授だったシャルル・ウィルフリッド・ド・ベリオ(Charles Wilfrid de Bériot)に献呈されています。

初演は1908年3月15日、パリのシャトレ座

にて、エドゥアール・コロンヌ指揮


のコンセール・コロンヌ管弦楽団によって行われました。

第1曲:Prélude à la nuit(夜への前奏曲)très modéré=Molto moderato 

F-E-D-Cisが基本の循環主題が曲全体の印象を形作っています。 

第2曲:Malagueña(マラゲーニャ)
assez vif=Vivace assai

マラゲーニャはマラガの民族音楽のファンダンゴです。後半部にコーラングレのソロがあります。

第3曲:Habanera(ハバネラ)
assez lent et d'un rythme las=Lento assai

この曲には唯一、第1曲の序奏の主題が現れません。
1895年に2台のピアノのために作曲・初演されていたものです。ラヴェルは1907年から1908年にかけて「夜への前奏曲」「マラゲーニャ」「終曲」を2台ピアノのために作曲し、まもなく「ハバネラ」を加えてオーケストレーションを施し4曲からなる組曲としました。

なぜわざわざ旧作の「ハバネラ」を加えたのかははっきりしていませんが、ドビュッシーの「グラナダの夕べ」(『版画』第2曲)を聴いたラヴェルは、自作「ハバネラ」の盗作だという印象を持って不愉快がっていたという友人たちの証言があり、意趣返しの意味もあったのではという説もあります。

第4曲:Feria(祭り)
assez animé=Animato assai

祭の日の市場が賑わう様子を描写した色彩豊かな音楽。中間部にコーラングレとクラリネットのソロがある。

第4曲 Feria(祭り)


緑の袖 

2024-07-14 21:00:00 | 近代
三連休の始まりは実家でレッスンの後、里山へ

お茶の緑が濃いです。

松尾神社の手前の池には


ねむの木の花が…。
今にも降りそうですが、降らない。
湿気が多くて、そのうち霧まで出てきて幻想的でした。

幻想曲(げんそうきょく)は、ファンタジア。
一般に作曲者の自由な想像力に基づいて創作される器楽作品の名称として用いられます。
しかしその実例は、即興的なものから厳格な対位法によるもの、小品から多楽章形式の大規模な作品までいろいろです。

レイフ ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958年)イングランド ダウンアンプニー生まれ、イングランド ロンドン没
 
「グリーンスリーブス幻想曲」は、彼の作品の中で最も有名なものです。

イングランドの古い歌『グリーンスリーヴス』に基づきます。

『グリーンスリーヴス』はエリザベス朝時代(1558-1603年)から知られている曲です。

My Lady Greensleeves
ダンテ・G・ロセッティ画

ヴォーン・ウィリアムズはシェークスピアの喜劇「ウィンザーの陽気な女房たち」を基にしたオペラ『恋するサー・ジョン』 (Sir John in Love) を1928年に完成しました。

この歌劇は、サー・ジョン・フォルスタッフ(恋人、詐欺師、魅力的な男性、みすぼらしい騎士)の活躍を描きます。
2人の純真な若い恋人、数人の不運な求婚者、陰謀、策謀、そして善意の復讐の物語です。

この劇の中の曲をラルフ・グリーヴズ(Ralph Greaves)が編曲し、独立させた作品が『グリーンスリーヴスによる幻想曲』です。

初演は1934年9月27日、ロンドンにおいてヴォーン・ウィリアムズ自身の指揮で行われました。

なお、このグリーヴズの編曲以外にも、様々な編成のための編曲が数多くの人の手で行われているほか、作曲者自身によるピアノ独奏版も存在します。

ヘ短調、レント、8分の6拍子でフルート独奏の導入部の後、ヴァイオリンとヴィオラが「グリーンスリーヴス」を奏でます。

イ短調、アレグレット、4分の4拍子の中間部ではヴィオラとチェロに新たな旋律が現れますが、これはヴォーン・ウィリアムズがノーフォークで採集した民謡『ラブリー・ジョーン』(Lovely Joan)です。

フルート独奏のカデンツァをはさんで再び導入部と「グリーンスリーヴス」に戻り、静かに曲を閉じます。


お別れ

2024-07-10 20:56:00 | 近代
ギターとチェロを演奏されるKさんが亡くなりました。
西宮ギター練習会で出会いました。
もう何年になるかな?

牧野の聴きあい会を始めた頃にあっちではチェロは弾けないからと
何度か来てくださいました。
歳をとってから始めたからとおっしゃっていましたが、ピアノの名手や、同じチェロの方をお連れくださって
力のこもった演奏をされていました。

ここ数年は私の顔をみるたびに「フルートと合奏してあげるよ。」と声をかけてくださっていたのに雑事に気を取られて果たさずじまい。

本当に残念でした。
でも、昨夜Kさんのことをいろいろ思い返していると、聴き合い会に来られた時に一度だけ持ってこられた楽譜を一緒に演奏したことがありました。

「オブリビオン」フルート、チェロ、ピアノ版
優しい笑顔で、大作では無いけれどいい音でチェロをひびかせて…その時の温かい空気。、楽しかったこと思い出しました。

お通夜に伺ったら、2020年に癌と診断されて手術をして、一度は回復されましたが再発。宣告を受けられました。
しかし、家族と一緒に最後まで過ごされていたこと、好きなことをして、一度も不機嫌になったことがなく、却って奥さまの体調を気遣われていたことなどKさんらしいエピソードを話されました。

私は最後をそんなふうに過ごせるかしら?
お通夜で会った友人たちと飲みながら思い出話をして帰宅しました。

Kさん、楽しく温かい時間をありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。


アストール ピアソラ(1921−1992年)アルゼンチン マル・デル・プラタ生まれ、アルゼンチン ブエノスアイレス没

作曲の「オブリビオン」は
1984年のマルコ・ベロッキオ監督の映画『エンリコ四世』の挿入曲として作曲されました。

映画『エンリコ四世』は落馬事故で頭を打ったショックで記憶を失い、自分が皇帝エンリコ四世だと思い込んで古城で暮らす男を主人公にしたストーリー。
もともとは戯曲だったものを映画化した作品です。

マルチェロ・マストロヤンニ主演、音楽をピアソラが担当という豪華な作品でしたが、当時は日本未公開で近年までなかなか映像を見ることができませんでした。

「オブリビオン=忘却」というタイトルが物語るように、甘美なメロディながらどこかはかないこの曲は、狂気と正気が交錯するようです。

「はたして彼は本当に記憶を失っているのか?」

おおむね3・3・2のゆったりとしたミロンガ(アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部のダンス音楽、4分の2拍子、変則的なシンコペーション、一部はタンゴ)のリズムに乗って演奏されます。

ピアソラとも共演している歌手ミルヴァの歌うフランス語の歌詞のついたバージョンも存在しています。

Astor Piazzolla
J'oublie (Oblivion)
忘却
作詞ディビット マクニクール
1982年

ビロードのシーツが

重たく感じるようになったとき

二人の愛を忘れる

夜更けのバーで聴いたメロディも

頬よせあって踊ったことも

私は忘れる

短い一夜が過ぎ去り

振り返ることなく駅で別れ

そして私は忘れる

忘れる


フルート属が活躍する曲

2024-07-09 21:04:00 | 近代
月曜日18:00〜は渡辺橋近くのサロンドプリンシパルでフルートアンサンブルエスカルの練習でした。
無料体験の方がいらして、張り切っていましたが、
曲が初見の「アルルの女」の組曲と「くるみ割り人形」2回目。

楽器をどれにする?から始まりましたが、神戸のメンバー2人も加わって、アルルはフルート6th まであり、それにアルト、バス、コントラバス。
大編成です。それにピアノと太鼓も加わるかも。

アルト・フルートを演奏する人が足りなくて少し問題になりました。
職場が変わってアルト・フルートを仕事の間おいとけない!アルト嬢

Tさんが練習の時は貸してくれることになって解決。

くるみ割り人形はほぼバスの無い曲があって楽かと思ったら動きがあって結構難しい。
でも楽しい。定期演奏会は11月。

みんな意気軒昂です。


モーリス ラヴェル(1875-1937年)フランス共和国パリ生まれ、フランス共和国パリ没

1910年ラヴェル

バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲
1909年、ラヴェルはロシア・バレエ団の主宰者であるセルゲイ・ディアギレフ(1879-1929年)

より呼び出され、“ダフニスとクロエ”と銘打った1冊の台本を手渡されました。

フランスの画家ラファエル・コランの作品『ダフニスとクロエ』

「来年うちがやる新作バレエを作曲して欲しいんだ」

それは振付師ミハイル フォーキン(1880−1942年)

が、古代ギリシァに伝わる物語を基に5年の歳月をかけて自ら起こした台本でした。

ラヴェルは持ち帰り、ページを繰ってはみたものの・・・時間をじっくりかけて作っている割には、若い男女の恋物語に醜い牛飼いの横恋慕が入るお決まりで起伏に乏しい筋書きにがっかりします。

加えて、フォーキンと打合せを重ねれば重ねるほど、彼のイメージしているバレエ音楽とラヴェルの作曲の方向性が上手く噛み合わず、なかなか作曲の筆は進みませんでした。 

結局その年は新進気鋭の作曲家ストラヴィンスキーが起用され、1910年は「火の鳥」、翌1911年は「ペトルーシュカ」が上演されました。

しかし、これがラヴェルにとって起爆剤となりました。

ラヴェルが打ち出したコンセプトは、ギリシャ神話に基づく「音楽のフレスコ画」。

楽器編成は色彩豊かな打楽器群に加え、ディアギレフの反対を押し切って混声合唱も起用しました。

1912年6月8日、「ダフニスとクロエ」はパリのシャトレ座


において、ロシア・バレエ団(バレエ リュス)により初演されました。

ちなみにこの公演に居合わせたストラヴィンスキーはさらにこの「ダフニス」に刺激を受け、翌1913年「春の祭典」を発表します。

Ⅰ.夜明け
Ⅱ.パントマイム(無言劇)
Ⅲ.全員の踊り

Ⅱのパントマイムでは、ピッコロ、コンサートフルート、アルト・フルートとフルート属が大活躍します。

Ⅱ,パントマイム
パンの神に感謝の意を表すため、ダフニスはパン(牧神)に扮し、クロエは妖精に扮して、無言劇を演じます。  
ダフニスに扮したミハイル・フォーキン(1914年のロンドン公演)

2本のフルートが交代で吹く、息の長いソロが続きます。

そして激しい踊りの末、クロエはダフニスの腕の中に倒れこみます。

2人はここでハッと我に返り、アルトフルートの低音のソロに導かれつつ、静かに幸福を噛みしめます。

1番フルートの大ソロが終わると、ピッコロを交えながらフルート1番と2番がひとつのラインを紡ぎ出します。ふたりを祝福する来客のやんやの波が最高潮に達したあと、ふらふらしたクロエがフルート1&2番が掛け合うオクターヴのパッセージからピッコロの上行型に押し寄せられ、今度はあたかも1本の楽器のように下降するピッコロ→フルート1番→フルート2番→アルトフルートの音階でダフニスの腕の中にはらりと倒れ込みます。

 そして、クロエがダフニスの腕に倒れ込んだ後、アルトフルートが演奏されます。
抱擁のテーマを吹くのですが、この旋律は「愛の主題」ともいわれています。

「非常に表情豊かに」との指示があります。
アルトフルートはフルートより完全4度低い音域を持つ楽器です。たった4度ですが、普通のフルートよりも柔らかくて、温かく包み込むような音色を持っています。
1854年頃に開発された聴き慣れない音色の楽器を、いきなり使っているところは、さすがオーケストレーションの魔術師ラヴェルと言わざるを得ません。


夏の日

2024-07-08 21:01:00 | 近代
すっかり夏の様相の里山。


何をすると言うのでも無いのですが…

いくつか巡回ポイントがあります。



合歓の花


そうそう、ガサガサポイントでメダカとカワエビを発見しましたが…。

咲いているのはハルジオンばかり。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツオフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

4年にわたってモスクワとパリの間を行きつ戻りつした後の1936年、
プロコフィエフはモスクワに居を構えることにしました。

プロコフィエフと2人の息子、スヴャトスラフ、オレグ、そして最初の妻リーナ。1936年

彼の全作品中でももっとも知名度のある『ピーターと狼』が、ナターリャ・サーツ

の依頼で中央児童劇場
モスクワ児童劇場の建物(画像は劇場創設以前、1901年のポストカード 
のために作曲されました。

サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲「Sweet Song」と「Chatterbox」を書くよう説得します。
これらに「The Little Pigs」を加えて最終的に『3つの子供の歌』 作品68として作曲、出版しました

それに加えて作曲されたのが「子どものための音楽」作品65です。

ジェームズ・リールによる解説
「子どもが聴きやすい音楽を作れ」というソ連政府の指示に応えて、セルゲイ・プロコフィエフは1936 年に短く絵画的なピアノ曲集を作曲しました。

「子どものための音楽」作品 65 として出版されたこの作品は大変好評を博し、プロコフィエフは1941 年に 7 曲をオーケストラ化し、「夏の日: 小管弦楽のための子どもの組曲」と名付けました。


プロコフィエフは最終的に、オーケストラ化されたこれらの曲の 3 曲目と 6 曲目を、最後のバレエ作品「石の花」に再利用しました。

この組曲は「モーニング」で始まります。これは、オーケストラの底で静かに響くドスンと震える音に乗せて、ためらいがちに奏でられる繊細な木管楽器の曲です。

イギリス人が「ティップ・アンド・ラン」(アメリカ人は「タグ」と呼びます。=追いかけっこ)
「ティップ・アンド・ラン」は、軽快な木管楽器の音色が奏でるスケルツォです。

「ワルツ」は、かなり決まりきった弦楽器のメロディーで始まり、予期せぬリズムの変化やハーモニーを奏でる完璧なキャンバスとなっています。

「悔い改め」(「後悔」とも訳されます)は、組曲の中で最も長い楽章で、約 3 分です。プロコフィエフは、ピチカートの弦楽器による時折風刺的な伴奏で、この非常に雰囲気のある葬送曲にいくつかのウィンクを加えています。

「行進曲」は、パロディという意味でのみ軍国主義的であり、ビゼーのカルメン の「子どもの行進曲」に似ています。

「夕べ」では、落ち着きのない弦楽器の伴奏に乗せて短い木管楽器のソロが演奏されます。
この楽章には特定のプログラムはありませんが、穏やかに舞う木管楽器のソロはホタルを連想させ、第 2 セクションの静かな 4 音の打楽器のオスティナートは、カエルや夜の虫の穏やかなリズムを思い起こさせます。

「月明かりの草原」は詩的で素朴な音楽シーンです。最も興味深いのは、プロコフィエフがオーケストラのソリスト、特にフルートとホルンの間で主題の断片を渡し、その後、結論が出ないままフェードアウトしていくことです。