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沼名前神社を考えてみる・・2 続☆27 2021-07-11

2023年11月13日 | 続☆歴史の中の「経緯」

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いずれにしろ、

前を、「熊」とかいたり「隈」とかいてあったりすることがあるとわかって、

(確か、キトラ古墳の渡来人の集落の名前から・・)

熊襲征伐=前祖征伐(先住民・原住民を征伐する)

前祖征伐とは書けないので、

同じ音で、悪いものになる漢字をあてたと思える。

 

狗奴国・奴国を漢字で考えると。

「犬」「狗」「戌」の意味と違い | 社会人の教科書 (business-textbooks.com)

「狗」もやはり、「食肉目イヌ科イヌ属」に分類される哺乳動物を意味します。読み方は「いぬ」ですが、音読みでは「く」となり、「良狗」、「狗肉」などと使われます。

「狗」にはまた、「いやしいもの」の意味合いもあります。この場合は、「走狗(そうく)」や「狗盗(くとう)」などと使われます。

「狗」の字は、「イヌ」を表すけものへんと、「ちいさくかがむ」を意味する「句」から成っています。このことから、「狗」の字は特に小型犬を指すと考えられています。

「犬」との違いは、前述のようにサイズにあります。「犬」が大きさや種類を問わず「イヌ」全般を指すのとは違い、「狗」は主に、小型犬や子犬を指すようになっています。
ただ、古くはこうした使い分けがされていましたが、現在ではほとんどなく、大型も小型も含めて「犬」が使用されるのが通常です。

「奴」

会意。女と、又(ゆう)(手でつかまえる)とから成り、捕虜となった女、転じて、しもべの意を表す。

「天狗」

天狗にまつわる文献は多数あるが,「源平盛衰記」の,後白河法皇と住吉明神との問答から,天狗とは,ひたすら傲慢偏執(自分の片寄った考えにとらわれて,他人の意見を聞き入れようとしないこと)のみあって佛法を信じない佛法破戒の妙門・学匠か,または,佛道に志もあり知恵行徳をもちながら,虚妄の智の働きに邪まされて真実の知恵が働かず,悟りの世界に入れない者。これらはすべて,天狗道におち入るとしている。
ようするに,佛法修業者でありながら驕りたかぶる者は堕落僧で,これらはすべて天狗という無智蒙昧(道理のわからない)の世界に落ち入るというのである。

 この傲慢・偏執について「天狗草紙興福寺の巻」に,「慢に七種あり。いわゆる卑慢,慢,過慢,慢過慢,我慢,邪慢,増上慢これなり。これによりて日本国中の天狗多しと云へども七種をいでず。これすなわち興福,東大,延暦,薗城,東寺,山臥(醍醐寺),遁世(高野山)の僧徒なり。これ皆我執に任じ,驕慢をいただき,名聞をさきとし,利養を事とす。」としるしている。これは興福寺以下七寺の僧徒を,それぞれ上記の七慢にあてはめて配し,僧徒達の傲慢・堕落を諷刺警告したものであるが,一般的に天狗が持つとされている傲慢さを比喩したものとして興味がある。

狗奴国はおごり高ぶった愚か者のしもべ

と、いう悪口。

こんな名前をつけるだろうか?

そして、奴国はしもべ。卑しい

と、いう悪口。

こんな名前をつけるだろうか?

奴国と狗奴国をならべてしまうと

おごり高ぶった愚か者のしもべ と しもべ 

つまり、奴国が、おごり高ぶった愚かものといってることにもなる。

漢委奴国王

わざわざ、謁見して、その相手に

おごり高ぶった愚かもので卑しいといわれてる。

逆に、海を越えて謁見していったものに

おごり高ぶった愚かもので卑しいという印を与えるのだろうか?

だいたいが、

奴国・狗奴国の名前自体がおかしいのだから

これは、卑弥呼同様、勝手に向こうがおとしめた名前をつけているだけであろう。

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「漢委奴国王」

金印は本物? 真偽めぐる論争過熱|サイカルジャーナル|NHKオンライン

中国の古代王朝は周辺の国に対して主従関係の証しとして印を与えていて、中国の歴史書「後漢書」には、西暦57年に「後漢に貢ぎ物を持ってあいさつに来た倭の奴国に対して皇帝が印を与えた」という記述があります。

金属製品など古代の工芸技術に詳しいNPO 工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、金印に残る彫り痕の特徴が古代中国で作られたとされる印と大きく異なっていると指摘。後世の偽造ではないかと考えています。

鈴木さんによりますと、志賀島の金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度からも「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法が使われています。

一方、この金印とほぼ同じ時期のもので特徴もよく似ているとして「本物説」の根拠の1つとなっている、中国で見つかった「広陵王璽」という印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されているということです。

さらに、前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているのに対し、志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があるうえ、印面に対する文字の部分の面積がほかの印と比べて突出して大きいということです。

鈴木さんは「さらい彫り」やこうした文字の特徴は江戸時代の印によく見られるとして、「金印は江戸時代に作られた偽物の可能性が非常に高い」と指摘しています。

石川教授は弥生時代の考古学が専門で、これまでに中国で見つかっている古い時代の印の外見や刻まれた文字の特徴との比較などをもとに研究を進めてきました。

それによりますと、志賀島の金印は、「漢」の字の「偏」の上半分が僅かに曲がっている点や、「王」の真ん中の横線がやや上に寄っている点が、中国の後漢初期の文字の特徴をよく表しているということです。

また、蛇の形をした「つまみ」について、中国や周辺の各地で発見された同じような形の印と比較すると、後漢はじめごろに製作されたものが最も特徴が近いとしています。

さらに、志賀島の金印に含まれる金の純度は90%以上と古代中国の印とほぼ同じだと指摘。「江戸時代に金の純度をまねてまで作ることはできず、後漢のものだとして何ら問題がない」と主張しています。

つまみの部分をよく観察すると、前足や後ろ足があるようにも見え、一般的にイメージされる蛇とはほど遠いデザインであることに気付かされます。

大塚さんによりますと、つまみの形と印が見つかった場所との関係を調べてみると、当時、「蛇=南」「ラクダ=北」という区別があったと推測できるということです。

大塚さんは、漢は奴国が北にあると思い込んでラクダにしたものの、途中で間違いに気付き、あわてて蛇に変えた可能性があるとしています。

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奴奈宣破姫の奴は翡翠を指すということで、

翡翠の霊力をもって言い破る

宣うがあるので、宣託

つまり、巫女?

と、取っていたが、

これも、奴ととると、

言い破る(見通す)卑しい姫となり、

妙に、卑弥呼とダブる。

言い破る(宣破)も、取りようによっては

宣(神から?の宣託を破る(約束を破るの破る)

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藤原氏が消した邪馬台国と翡翠 - 卑弥呼と魏志倭人伝 (xhimiko.com)

 翡翠(特に価値の高い翡翠硬玉)、については、縄文時代から弥生時代、古墳時代を通して、権力者の威信財として日本全国から多く出土しています。この翡翠の99%は、新潟県糸魚川産とされています。上流域の姫川に翡翠硬玉の鉱脈があるからです。

 ところがつい近年まで、出土した翡翠はミャンマー産であると、強く信じられていました。昭和初期に翡翠鉱脈が再発見されるまでです。糸魚川に鉱脈がある事は、なぜかずっと忘れ去られていたのです。

 これは、歴史から消された邪馬台国と非常によく似た流れを辿っていますね?

古事記や日本書紀が編纂された時代から、プッツリと翡翠が使われなくなり、人々の記憶からは翡翠鉱脈の在りかさえも、忘れ去られてしまったのです。瑪瑙や碧玉、ガラス玉といったほかの宝石類は、その後もずっと使われ続けていたのとは対照的です

*******皆既日食 卑弥呼の殺害 - 卑弥呼と魏志倭人伝 (xhimiko.com)

卑弥呼の死と皆既日食を関連付けてみましょう。有力な比定地は、近畿地方や九州地方ですが、皆既日食は全く起こっていません。つまり、邪馬台国は近畿地方でも九州地方でもない、という事です。

 では、邪馬台国はどこか? 北関東、信州、北陸、が有力となります。この中で、邪馬台国の可能性がある地域は、北陸地方だけです。つまり、邪馬台国越前説を唱える私の説だけが正しいという事です。ちょっと我田引水かな?

 しかしこのデータは、NASAが発表しているもので、私が捏造したものではない事をご理解下さい。

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奴奈川姫と関連する?宇迦之御魂神

諏訪氏系図』において建御名方神八坂刀売神との子である八杵命の子とされるが、別の資料では倉稲主神としており、八杵命の子である倉稲玉神が記紀の宇迦之御魂神と同一神であるとは限らない。

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ミホススミは建御名方の別名だった! - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)

越の国から信州に移住した九州人

『ウエツフミ』には、もっとすごいことが書いてありました。

 

青幡佐久佐彦 (アオハタサクサヒコ、スサノオの子孫で、大国主の祖先) の時代に、筑紫の国は人が多く住んでおり、越の国には人口が少なかったので、筑紫の人民を越の国に植え替えた。

とあるのです。

さらに、信州から族長がやってきて「ウチには山狩人は多いが、海漁人は少ないので、交代しよう」ということになり、信州人が海で釣りをして釣れたのがサヨリ (長野の古名サヨリシヌから来ている) である。

というのです。

つまり、海人族の九州人が新潟県に移住して、さらにそこから長野県に入っていったということであり、その人たちが「豊国文字」を伝えた可能性が高いということになります。

そういえば、博多を本拠地とする海洋民族の阿曇氏が、長野県にも移住して「安曇野」の語源となったという説を聞いたことがありませんか?

もうひとつの証拠として、越の国には独特の神代文字が伝わっていました。

それが、「越文字」と呼ばれた文字です。

それを世に知らしめたのは『竹内文書』であり、竹内巨麿も越の国の出身でした。

問題は、この「越文字」と「豊国文字」がそっくりなのです。

つまり、九州人が「豊国文字」を上信越地方や北陸地方に伝えたのちに、ここで独自の進化を遂げて「越文字」が誕生したと考えられます。

ちなみに、沼河比売の「ヌナガワ」ですが、その昔、大分県臼杵市の臼杵川の上流にあった【渟川】と同じ名前です。

ここから、カムヌナガワミミ(第二代綏靖天皇)も生まれたとあり、もしかしたら沼河比売も九州から越の国に移住したひとりだったのかもしれません。

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諏訪大社の祭神である建御名方神(諏訪大明神)の妃神とされ、諏訪大社下社ほか、各地の諏訪神社などに祀られている。記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる

名義は不詳であるが、「八坂」は一説に「弥栄(いやさか)」に通じるとされ、神名は「ますます栄える女性(トメ)」の意味とも考えられる

『諏方大明神画詞』によれば、神功皇后三韓征伐の時に諏訪と住吉の神々が現れた。皇后は大変喜び、二神をもてなした。また、戦いに赴くことを海底の龍宮に知らせるために「高知尾の豊姫」を遣わし、海神から「満干の両珠」を借り受けたという。

延宝2年(1674年)の『諏方講之式』では「下宮亦八坂姫之云豊姫神」とあり、豊姫は八坂刀売神と比定されている。『高島藩書上帳』にも、下社の女神に関して「又名高知尾豊姫命」とある

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話が複雑になってしまうのは、2000年の間に、いろんなところに、色んな神や挿話?を合祀・奉納することによると思うが

この絡まりまくった話を紐解くことは、むつかしい。

だが、ところどころに出てくる、

「八坂」は一説に「弥栄(いやさか)」に通じる

とか、で、12支族系の渡来人の系列?が奉納したのだろうとか推理はできる。

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「奴」に関わると、なお、判らなくなるが・・・

この字が悪口であれば

糸魚川の奴奈川姫

卑弥呼かもしれない。

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また・・日を改めて

(月を改めて?年を改めて?になるかもしれないが・・・)

考えてみよう。

 


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