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高島行宮遺址から・・(混乱中)続☆100 2021-09-07

2023年12月08日 | 続☆歴史の中の「経緯」

4marutani.pdf (hasukura.com)

 

『陶山系譜』 
天照国照彦火 明命→ 天香 山命  越後国蒲原郡   伊夜日子神社
          宇摩志摩治尊  石見国安濃郡 物部神社

神武天皇東国発向之為従二日向国 移(わたり)玉ふは
備中ノ国兵官軍ニ付るの趣。

則御武将宇摩志摩治尊之軍 虜とりこにナリ依而。

皇居之名 神 嶋(こうのしま)の宮ト侍ル。

其後改而神嶋王泊ト号スハ寄二ル。

皇居一地名也。三年之神遊兵根御舩之数整内黄蕨(き は らー備中古名)之勇猛御方ニ馳集。

宇摩志摩治尊 内裏為メニ守護一之ヨツテ 司所ヲ
物部
もののふ
ト名シ給フハ是ヨリ始ル。武士をモノノフト訓スル。

利ヨリ非起ルニ即物部
別号ニ下ル由此城地今
ノ要砂築クニ洲濱ヲ城之外ト堀ニ用ユルニヨリ諸人呼二フ洲山城一ト。

天皇叡山聞而洲山ト給ヒ亦陶山ト
下シ給フ也。八杉 田邊 原 澤山 高辻 奥村 右之氏陶山家ヨリノ別家武功軍記ニ有テ世ニ知ルノ
所ナリ陶山ノ定紋洲濱ニ寄而洲濱ニ定メル。古城跡備中小田郡要砂村。古書ニハ西砂トアリ。 
宇摩志摩治尊ヨリ七十五代 備中守高信 寿永三年(1184)屋島合戦ニ通盛教経トモニ勇々敷働後長洲
赤間闘ニ而討死。 

 

7 まとめ 
① 『日本書紀』とは『先代旧事本紀大成経七十二巻本』の要点のみを表記した記録である。 
② 『古事記・日本書紀』では吉備國
に行館(高嶋宮)を設置したのは神武天皇としている。

『陶山系譜』に「皇居之名 神 嶋宮ト侍ル。其後改而神嶋王泊ト号スハ寄二ル。皇居一地名也。」とある。 
『先代旧事本紀大成経七十二巻本』には大歳在とある。

笠岡市の馬飼・絵師・金浦・飛島に大歳神社があり、近くの浅口市鴨方町本庄に大歳天神社がある。

浅口市鴨方町本庄鎮座の大歳天神社の最
初の鎮座地が兄弟神である宇迦大神の山上である。

山上より眺め最適の地を探したの意である。 
他の高嶋伝承地の近くには大歳神社は無い。

つまり、「大歳在」とは「大歳」が先回りしてお待ち
していたと解すべきであり、大歳神は方位神である太歳神と考察すべきである。 
つまり、吉備國の行館
(高嶋宮)は笠岡市の神島宮となる。 
③ 源(水戸)光圀修『大日本史』の校注には「高嶋宮 今の備中国小田郡高嶋の王泊の地、其の旧址
なりと云う」とある。『大日本史』は水戸光圀死後の正徳 5 年(1715)の藩主綱條による命名である。
「本朝史記」・「国史(倭史)」とも呼ばれている。 
今回の調査結果は水戸光圀説と世良長造説の補説である。 
④ 新納
に い ろ
泉(岡山大学教授)は、吉備の古墳時代を 10 期に分け前方後円墳を分析している。「Ⅰ期(3
世紀後半)には南部と北部では規模の差に無い。それが次第に南部の古墳が大型化して中心が現れる。 
5 期(5 世紀前半)の造山古墳は一人勝ち。それが 7 期(5 世紀後半)には中心が備前と備中に分かれ、
次の 8 期(5 世紀後半~6 世紀初頭)には 1 期に戻ったようになる。これは雄略朝期のいわゆる吉備
の反乱の時期で、やはり何か大きな事が起きたと考えざるをえない。この 5 期と 8 期が吉備の歴史の
大きな画期といえる。」と報告している。 
⑤ 吉備國の行館(高嶋宮)伝承は、神武天皇即位前記 紀元前 665 年[神話上の年号]では無くて、
西暦 451 年、508 年、564 年の史実となる。

新納泉説より考察し 508 年(継体 2)の史実伝承と推定する。

新納泉説の補説である。 

************

『先代旧事本紀大成経七十二巻本』「巻第十六 天孫本紀下」の吉備國行館記録は「大歳在」で始まる。

大歳神とは、『古事記・神代記』の説明では「速須佐之男命が大山津
見神の娘、神大市比売を娶って生まれられた御子である。宇迦之御魂神は兄弟神」である。

大歳神は五柱の御子神をもうけられた。 
『先代旧事本紀大成経七十二巻本』の「先代旧事本紀巻第十七 神皇本紀上巻上 神武天皇」にも、
「大歳在」の記録が3ヶ所ある。

**********

天照国照彦火 明命→ 天香 山命  越後国蒲原郡   伊夜日子神社
          宇摩志摩治尊  石見国安濃郡 物部神社

**********

ウガヤフキアエズ王朝実在論さまの記事から

**********

ウガヤ朝が存在したのが、おおよそB.C.1000年頃からA.D.300年頃の間です。

なぜ、そんなに正確に分かったのかというと、ウエツフミには天文に関する正確な記述が含まれているからです。

五島プラネタリウムの金井三男氏が分析した結果、この「ウエツフミ」の星辰伝承は、「紀元前8百年から同千年頃の間に成立したことは間違いない。」と結論づけています。

 

そして、A.D.150年頃に発生した「異常気象=世界的な寒冷化」により、九州地方を大飢饉が襲い、これが理由でウガヤフキアエズ王朝は、九州を離れ奈良県の吉野山に遷都します。(のちに神武東征と呼ばれる)

>>>詳しくはこちら

その後、倭国大乱が発生し、ウガヤフキアエズ王朝は第74代で滅んでしまいます。(これ以降の記録が無い)

 

さらに、A.D.200年~300年頃、第12代景行天皇が大分にやってきて、

奥豊後の地に残っていたウガヤフキアエズ王朝の末裔たちを一掃しています。

その経緯は『日本書紀』に、『土蜘蛛成敗』として、正確に書かれています。

>>>詳しくはこちら

 

「勝ち組」である大和王朝は、「負け組」であるウガヤフキアエズ王朝の存在そのものを、歴史から抹消し始めました(推測)。

だから『古事記』や『日本書紀』では、ウガヤフキアエズ天皇は一代で終わり、神武天皇が後を継いだことになっているのです。

 

約1000年の歴史をパイパスして、いきなり「神代」と「神武天皇」をつなげてしまったため、あちこちで矛盾が発生しているというのが、私の解釈です。

************

<あらすじ>

◆そもそものきっかけは、天変地異による大飢饉だった。

◆第71代ウガヤフキアエズの命や皇族たちが、豊の国から全国を巡幸して、食料確保の指導を行なっていた。

◆その途中で、関西の長脛彦(ナガスネヒコ)と新羅の連合軍が、五瀬の命を襲撃して戦死させる。

◆長脛彦は、新羅にそそのかされ、天皇家を滅ぼして、自分がそれに代わろうとしていた。

◆彼はニギハヤヒの子孫ではない。その持っていたご神宝の弓矢は、斑鳩山から盗んだものだった。

◆しかし、弟の日高狭野=ヒダカサヌらを中心とする皇軍に滅ぼされ自殺する。新羅軍も一掃される。

◆日高狭野の兄弟たち、稲飯と三毛入野は、「熊野の海戦」で、新羅の船団50隻を全滅させるが、自らも犠牲となり、英雄として熊野神社に祀られた。

◆この日高狭野こそが神武天皇であると記紀は伝えているが、ウエツフミにはこの呼称は存在しない。

◆日高狭野は、いったん豊の国に凱旋帰国して、人民の歓待を受ける。

◆しかし、占いにより再び奈良・吉野山への遷都を決意する。(まだ天変地異が続いていたので)

◆橿原の地で第73代ウガヤ天皇に即位するが、ここでウエツフミの記述は終わる。

(つまりウガヤフキアエズ王朝は滅ぼされたが、その経緯はどこにも書かれていない)

***********

約1000年の歴史をパイパスして、いきなり「神代」と「神武天皇」をつなげてしまったため、あちこちで矛盾が発生しているというのが、私の解釈です。

***

南海トラフ超巨大地震発生

第71代の御世に、わが国観測史上最大・最悪の地震が西日本を襲う

(M9クラス)

これが原因で九州は大飢饉となり、神武東征のきっかけとなる

**********

笠岡の諸島あたりにも、ウガヤフキアエズ王朝の住民?が

遷都?のために、訪れている。(と、思う)

笠岡の笠氏は、もしかすると、笠沙族の流れを汲んでいるのかもしれない。

実際は、ウガヤフキアエズ王朝73代あたり?が、先に奈良を治めたのではないだろうか。

そこに、神武天皇が(倭王朝)がやってきて、

ー神武が二人いるーは、不味いので、

もっと、昔の(1000年くらい前か?)饒速日が居た。ということにしたのだろう。

このおかげで、1000年ほどの溝がうまってしまった。

不思議に思うのは、同じ天孫族で、饒速日が先に居た。

と、いうことを、なぜ、わざわざ、書かなければいけなかったのだろう。

と、いう事だった。

別段、まつろわぬ民がいた。と、いう事にしてしまえばよかっただろうに。

ところが、神武天皇をウガヤフキアエズからの流れにしないとならないわけがあった。

ウガヤフキアエズの本名 

  • 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこ なぎさたけ うかやふきあはせず の みこと) - 『日本書紀』
  • 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ ひこ なぎさたけ うかやふきあはせす の みこと ) - 『古事記』

神武の本名 

神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)他

この二人の名前をヘブライ語にて、読み替えると

(少し、記憶曖昧-別途、いただいてきている)

南ユダ国の国王達の名前になってくるという。

記紀のなかに、ユダ国王を入れ込めるためだけに、

ウガヤフキアエズ王73代が切り捨てられた。

と、いう事になってしまう。

つまり、日本書紀の名をかりて、

古代ヘブライの歴史書を作っていた。

と、いう事でもある。

************

なので、神武天皇にあたる人間はいたかもしれないが、

神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)他は、

藤原不比等?の勝手な創作と解することが出来る。

そして、ウガヤフキアエズ王の出来事を

混乱させて、判らなくさせたわけだけど

おそらく、冒頭の

高島行宮も、ウガヤフキアエズ王が遷都し始めたころのものではなかろうか?

◆しかし、占いにより再び奈良・吉野山への遷都を決意する。(まだ天変地異が続いていたので)

◆橿原の地で第73代ウガヤ天皇に即位するが、ここでウエツフミの記述は終わる。

************

⑤ 吉備國の行館(高嶋宮)伝承は、神武天皇即位前記 紀元前 665 年[神話上の年号]では無くて、
西暦 451 年、508 年、564 年の史実となる。

新納泉説より考察し 508 年(継体 2)の史実伝承と推定する。

新納泉説の補説である。 

************

おそらく、

高島行宮も、ウガヤフキアエズ王が遷都し始めたころのものではなかろうか?(AD50年~ごろか?)
の伝承と

508 年(継体 2)の史実伝承 との間に、

例えば、ウガヤフキアエズ王朝と倭王朝の混乱?大乱・政権変革?などがあったと思われる。

*********

浅口市鴨方町本庄鎮座の大歳天神社の最
初の鎮座地が兄弟神である宇迦大神の山上である。

山上より眺め最適の地を探したの意である。 
他の高嶋伝承地の近くには大歳神社は無い。

つまり、「大歳在」とは「大歳」が先回りしてお待ち
していたと解すべきであり、大歳神は方位神である太歳神と考察すべきである。 

***********

大歳神とは、『古事記・神代記』の説明では「速須佐之男命が大山津
見神の娘、神大市比売を娶って生まれられた御子である。宇迦之御魂神は兄弟神」である。

*******

ウガヤフキアエズ王朝実在論さまの記事

********

スサノオが霧島に降臨し、北上して出雲に至る

大国主が食肉を許した罰により出雲国は滅び、統治権を天上界に返上

後任を探すが難航(多くの神々が降臨するがいずれも行方不明となる)

大国主はニニギの降臨のために準備調整を行ない政権交代を実現させる

*********

この二つの記事から

「大歳」が先回りしてお待ちしていたと解すべきであり

大国主はニニギの降臨のために準備調整を行ない政権交代を実現させる

**ざっとであるが、これは、3000年前くらいの話になる。****

ウガヤフキアエズ王朝実在論さまの記事

*********

この人物の別名が書かれていないが、「カムヤマトイワレビコ」という見解が有力。

つまり、第一次東征を行った神武天皇である。

(第二次東征は第73代ヒダカサヌ)

病弱で早期に引退し第3代に譲位した後、宇佐で隠居。

ここで、薬学・解剖学などを研究して人民に周知するため西日本を行幸

猿を使って動物実験を行なうなど、かなり高度な医学ノウハウを伝える

豊国文字(旧字体)が発明され、その後、より簡略化した新字体が登場する

****

第3代・マシラタマカカヒコ

兄の第2代とともに全国を行幸

特に東日本を訪れたので「ニギハヤヒ伝承」として残る

月ごとの年中行事と節句を定める

*****

どうも、高島行宮(行き)は、約BC1000年頃と

南海トラフ後(AD50年ごろ?)

そして、

A.D.200年~300年頃、第12代景行天皇が大分にやってきて、

奥豊後の地に残っていたウガヤフキアエズ王朝の末裔たちを一掃しています。

と、あるが、ウガヤフキアエズ王朝の遷都?に備えたものが

そのまま、(笠岡他各地に)居残り、

倭王朝と一戦交えたかもしれない。

実際には、ウガヤフキアエズ王は、(別の土地で)まだ、継続していたかもしれない。

が、その史実は残っていないだろう。

********

そこで、気にかかるのが

陶山系譜の冒頭にかかれた文。

『陶山系譜』 
天照国照彦火 明命→ 天香 山命  越後国蒲原郡   伊夜日子神社
          宇摩志摩治尊  石見国安濃郡 物部神社

この説明文?は、4marutani.pdf (hasukura.com)さんが挟み込んだものなのか?説明がない。

だが、

天照国照彦火 明命→ 天香 山命  越後国蒲原郡   伊夜日子神社

と、はっきり指摘している。

天照国照彦火 明命→ 天香 山命  越後国蒲原郡   伊夜日子神社ー饒速日

*********

これは、どういうことになるか?

兄弟姉妹 ニニギノミコト

************

1000年前(程)(現在からは3000年前?)の饒速日を繰り下げて?登場させたので

国譲(おそらく、これも1000年くらい前)の話も

同時期に書き綴ってしまわなければならなかった。

と、いうところか?

このウガヤフキアエズ王朝をかくも見事に消し去ってしまったというのも、

饒速日から数えて、1700年後に記紀が登場するわけだから、

今から考えても、AD300年のころのことさえ、はっきり判らないところがあるわけで、

記紀の内容を仮に全国民が700年ごろに読んだとしても

1700年前の話が700年前の話にすり替えられていたって

判らないだろう。

その「すり替え」があったと判るウガヤフキアエズ王朝の記録を

読むにつけ、思い出すのは、記紀にたいする、違和感だった。

ウガヤフキアエズからいきなりwww始まる神武の話が奇妙におもえて

これは、ウガヤフキアエズ(王朝)を消せないわけがあるのと

王朝をウガヤフキアエズ一人にまとめてしまったに違いない。

と、思えた。

確かに、鵜の羽で産屋をふいて・・・間に合わなかった。

妙な名前でしかない。

出産まじかになって、なんで、また、鵜の羽で産屋をふく?

これは、どう考えても、

宇(神・宇宙の宇・ウガヤフキアエズ王朝の「う」)が屋(世)を、ふきあえず、(統べれなかった)

と、王朝があったことを示唆した名前ではないか?

単純にウガヤフキアエズ王朝という名前で呼んでいるだけで・・・・

本来? ユダ王の名前の連立になる、1代目の本名から妙に感じる。

と、いうことは、

ニニギノミコトというのは、

すでに、古代ヘブライ人(12支族)の中のどれかの支族により

九州に降臨させられた(した)・・と、いう事になってくる。

+++++++

天照国照彦火 明命→ 天香 山命  越後国蒲原郡   伊夜日子神社

と、はっきり指摘している。

天照国照彦火 明命→ 天香 山命  越後国蒲原郡   伊夜日子神社ー饒速日という事になる。

 

ニニギノミコトがウガヤフキアエズ王朝の始祖?であるのなら、

兄弟である、饒速日がどこにいってしまったか?

天香 山命 であるわけだから、最初はそのあたりを統治したと思えるし

飛騨口碑では、奈良を統治したと読める。

(飛騨口碑では、兄弟ではない)

ところが、弥彦神社では、伊夜日子大神 (ここは、2礼4拍手1礼)

御祭神 天香山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し上げ、皇祖天照大御神の御曾孫(ひまご)にあたられます。父神は饒速日命(にぎはやひのみこと)、母神は天道日媛命(あめのみちひめのみこと)で、天孫降臨に供奉して天降られました。

天香山命が、紀伊国熊野神邑に御住まいの頃、御東征途上の神武天皇を始め皇軍将士は、熊野荒坂津にて敵の毒気により昏睡に陥りました。この危機を救うべく、天照大御神と武甕槌命は天香山命に韴靈剣(ふつのみたまのみつるぎ)を神武天皇に献ずるよう夢の中で告げられました。韴靈剣とはかつて武甕槌命が国土平定に用いられた威力ある霊剣です。夢告に従い天香山命が昏睡している神武天皇に韴靈剣を献じたところ、霊剣の威力によって神武天皇を始め皇軍将士は忽ち昏睡から覚醒し、敵を撃破されました。天香山命の韴靈剣献上の大功により危機を乗り越えた皇軍は、その後次々と蛮賊を平定し、大和国に入られた神武天皇は、橿原宮で初代天皇として即位されました。

********

照大御神と武甕槌命は天香山命に韴靈剣(ふつのみたまのみつるぎ)を神武天皇に献ずるよう夢の中で告げられました.。

↑↓

高倉下の夢に天照大神(あまてらすおおかみ)と高木神(高御産巣日神)があらわれ,(記紀)

****

ややこしくなってくる話ですwww

高倉下命

記紀の神武天皇条にあらわれる人物。神武天皇東征の際,熊野において化熊が出現し,天皇の軍を惑乱させてしまう。時に土豪,高倉下が一口(ひとふり)の横刀(たち)を神武に献ずると,天皇は覚醒しその刀をもって荒ぶる神(化熊)を切り倒したという。刀の由来をたずねたところ,高倉下の夢に天照大神(あまてらすおおかみ)と高木神があらわれ,葦原中国の混乱を平定するため,建御雷神(武甕槌(たけみかづち)神)の代りとして刀を下すとあり,翌朝その倉を見るとこの刀があった。

****

どうも、天香山命(高倉下命)が、韴靈剣を持っていた。とも、取れる。

そして、さらに、ややこしいのが、

布都御魂(ふつのみたま)は、記紀神話に現れる霊剣。韴霊剣布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも言う。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言う。この表記の内、佐士布都神の「さじ(佐士)」は「さひ(佐比=刀の古語)」の誤記と見られている。名称にある「ふつ」とは、「断ち切る様」をいう

これが、2種類?あるということ。

 

石上神宮

布都御魂はやがて配電の裏手の禁足地に埋められるが、明治7年(1874年)に当時の大宮司の菅政友によって発掘され、本殿内陣に奉安され、ご神体として祭られている。その際、刀鍛冶師の月山貞一(初代)が作刀した布都御魂剣の複製2振が本殿中陣に奉安された。

菅政友によって発掘された物は、形状は内反り(通常の日本刀とは逆に刃の方に湾曲)の片刃の鉄刀。柄頭に環頭が付いている。全長は記録によって微妙に異なるが、85cm位である。

石上神宮にはともに天羽々斬(布都斯魂剣)も奉安されている。

鹿島神宮

一方、鹿島神宮にも布都御魂剣または韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代末期から平安初期の制作とされる。国宝に指定されており、鹿島神宮の宝物館にて展示されている。

布都御魂は神武天皇に下される前は鹿島神宮の主神であるタケミカヅチのものであり、布都御魂が石上神宮に安置され鹿島に戻らなかったために作られた二代目が、現在鹿島に伝わる布都御魂剣であるという

& 

 

経津主神

『日本書紀』の神話などに登場する,刀剣の神格化された神。別名斎主神,斎之大人。イザナミノミコトがカグツチを斬ったとき,流れた血から生じた神のひとつ。血が五百箇磐石(多くの岩)になり,それがこの神の祖だとも,血に染まった五百箇磐石から,磐裂神と根裂神が生まれ,その子の磐筒男命と磐箇女命 が,父母だともいう。建御雷神と共に,高天原からの最後の使者として出雲(島根県)に派遣されて,大国主命に国譲りを承知させたとされる。千葉県佐原市の蚊取神宮や,奈良市の春日大社本殿の第二殿などに祭られている。
************
彌彦神社の御創建について、社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。
よって彌彦神社は御創建から二千四百年以上の歴史を有する神社です。
********
いろいろ、引っ張ってきてみているが、
結局のところ、
ウガヤフキアエズ王朝73代でなく
日向3代に換えてしまっているところで、
どうしてもつじつまが合わない。
*********
消し去られた王朝・王として思うところは、
伊弉諾王朝 (始祖?)
国常立王朝(上古7代?)
出雲王朝
猿田彦(王?)
ウガヤフキアエズ王朝(73代)
あたりがあるが、この分を考えに入れてみると、
どれも、当てはまってこない。
が、ウガヤフキアエズ王朝実在論さまの記事
隼人による「背乗り疑惑」が浮上! - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)
が、一番、納得できるのである。
それとは、別に
福井県若狭地方に残る「王の舞」
今回、色んな地区で残る「王の舞」の「王」が
全てではないが
ウガヤフキアエズ
猿田彦
国常立
神功皇后関連(再度調べなおす)
など、
消し去られた王朝の王といえるのではないかと思える。
気比神宮は、宇気比(誓約ーうけい)神宮であろうという思いがどうしても抜けない。
宇はウガヤフキアエズ王朝の「宇」である気配はする。
ー一時期、「宇」というだけでも、弾圧?されたとかー
改めて、最初に戻ってみるしかないか・・・
と、思える。
ー混乱したままなので、申し訳ない文書になっている。ー

 

 

 

 

 

 

 


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