最近 ピアノを弾いていて
前よりもずっと
集中できている
感じがします
ちょっと 嬉しい
頭が重いのは
低気圧が近づいているせい?
なんとなく まぶたが下がりがち
眠いのとは 似てるけどちょっと違う
考えも 滅入りがち
お仕事してる時は
あまり感じなかった
することがあると 気持ちの張りが
違うからかもしれない
でも 自分が感じていることが
置き去りになっている ということかも?
どちらが 良い悪いと
決めるためではなく
物事の特徴を生かすために
いろんな視点で
考えて みたい
ひとは それぞれ
(例えば 子どもは 子どもなりの)
(大人は 大人なりの)
自分の課題に
懸命に
取り組んでいる
そこに 課題の難易度(?)の
差なんて ない
課題から 逃げているように
見えるひとだって
本当は 逃げ切れてなんか
いない
自分がした・していることを
完全に忘れ去ることなんて
本当には できはしない
逃げているひとは
後ろめたい気持ちを
いつも どこかに 感じてる
(たとえ 無意識でも)
(自分は「そんな程度の人間なんだ」と)
(思っている)
(無意識でも 思っていることには)
(影響されるものだ)
がんばっていないひとなんて
いない
世の中には
こころを震わせるものが
たくさんある
音楽とか 絵画とか
ひとの優しさや あたたかい笑顔とか
青い空や 白い雲
川の流れや 緑の葉っぱとか
おいしいご飯や 丁寧な手仕事とか
挙げ出したら きりがない
なにが 自分のこころに触れるかは
ひとそれぞれ だけど
こころを震わせるものに
触れるとき
生きている しあわせを
感じる
でも 本当は
生きて ここに在ること
そのものが
なににも 勝るほどの
びっくりするくらいの奇跡で
こころを ぶるんぶるんと震わせる
幸せなこと ありがたいこと
なんだけど
・・・う〜ん うまく言えないなぁ・・・
努力に 貴賎の差は ない
子どもの努力が 重く
大人の努力が 軽いわけではない
障碍者の努力が 重く
健常者の努力が 軽いわけではない
逆に 一部の発達障害のひと達は
集中することに長けている分
努力する才能に恵まれている かも?
努力の重さは
努力したひとの属性で
量れるものではない
そのひとが
いろんな側面から見て
どれだけがんばったか
ってこと だけなのだ
私は どれだけ
がんばってる かな?
嫌なことに 自分を使うのは
もったいないから
今する必要のない 心配ごとや
もう済んでる 腹の立つことよりも
楽しいことや 好きなことに
自分を使おう
つらいことも
くやしいことも
しんぱいなことも
毎日 いろいろあるけれど
あたたかくて おいしい
お茶をのんでいる この3分間だけは
いいことも わるいことも
ぜんぶ 頭から追い出して
からだも すっかりゆるめて
ぼんやりと 過ごそう
ありがとう のことばは
国によって 少しずつ違う
thank you なら
あなたのおかげです
という意味が強いし
merci なら
かたじけない(慈悲)
という意味が強くなる
日本語の ありがとう は
有り難い・在り難い という
めったにないこと・奇跡
という意味を多く含む
日本の国(日本語を使う国)は
奇跡に満ちあふれている
BSプレミアムの番組で
「PTAグランパ!」と
「アイアングランマ」という
ドラマがあります
どちらも面白く観ているのですが
おじいちゃんは
PTAに行くだけでも
それがドラマになるくらい
非日常のことだけど
おばあちゃんは
国家秘密工作員
くらいにならないと
非日常にならないんだなぁ
と ふと思い
苦笑してしまいました
グランパとグランマが
入れ替わってしまったら
インパクト減ったと感じるもんね
日本はまだまだ
男女差があるようです