歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪石川九楊『中国書史』を読んで その15≫

2023-04-23 18:00:06 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その15≫
(2023年4月23日投稿)
 

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、結論の次の各章の内容である。
●結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


結論
〇第1章 中国史の時代区分への一考察
・中国書史の概略
・書から見た中国史の時代区分の表
・中国の文字史について まとめ表

〇第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
・日本書史の特徴

〇第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察
・石川九楊氏の中国書史と日本書史の基本的理解について
・文字と歴史
・国字について
・両刃の剣としての漢字について
・『中国書史』後記より





結論 第1章 中国史の時代区分への一考察


中国書史の概略



この殷周代と秦代に挟まれる春秋戦国期に、孔子、孟子、老子等のいわゆる諸子百家が生まれる。その言説は、いかに古代宗教国家を脱け出んとするかのさまざまな思想運動である。このような背景から読み解けば、例えば、孔子の「怪力乱神を語らず」という句は、古代宗教国家からの脱出過程での言辞である。さらに孟子の革命説は、宗教国家から政治国家への革命の正当性を主張したといえる。

ここで西方に目を転じてみると、エジプトの場合、宗教国家から政治国家への転生、つまり象徴記号たる文字から字画文字への転生に失敗したようだ。
ギリシアの場合、字画文字に代わり音写文字(アルファベット)化した。西欧においては、この音写文字化によって、音声言語を根拠とし音声と音楽史を中核とする、西欧型の言葉の文化史を築くことになる。
(この点、東アジアにおける文字と書史と、異なる)
中国の書史は、ヨーロッパの音楽史と同様のものだと考えれば、書や書史への理解も深まることになろう。
ただ、中国の場合、この字画文字の誕生が、古代宗教国家を葬り去り、古代政治・文明国家をもたらした。

したがって、甲骨文の次なる頂点は、列国正書体金文を総括して生まれた最後の列国正書体・秦の小篆である、と石川氏は捉えている。
古代原基宗教性を払拭して字画を成立させ、垂直に伸び、国家を成立させた。(「泰山刻石」の前219年頃が一つの目安である)

秦始皇帝は、車輪幅、度量衡、貨幣制などを定めて、中国は政治と文明の国家へ突き進む。
(それゆえ、実印や印判の文字として2000年以上を経た現在も、篆書体を使用している)
この字画文字=政治文字の創出に至ったという意味では、秦代は、書に喩えれば、春秋戦国期の終筆であり、また漢代への起筆である。
(日本に中国語と文字が流入するのは、最も遡っても、この秦代と石川氏は推察している。それ以前の秘儀的条教文字が東海の孤島まで届くとは考えがたいとする。その意味で、字画文字秦代に中国人・徐福が倭へやってきたという伝説はありえない話ではない。)

字画文字が成立したとはいえ、篆書体の本質は、脱宗教国家宣言にあった。この篆書体をはみ出す、簡牘上の書字の運動は、さらに脱神話性を徹底しており、すでに、戦国期の木簡の文字は篆書体の枠をはみ出し、隷書化していた。
この意味において、隷書は秦の始皇帝時代に獄吏の程邈(ていばく)がつくったというのは、事実はともかく、時代としては十分に符合する。脱神話と正書体として登場するために、いささか無理に体裁を整えた小篆体は、政治国家への転生の象徴の役目をもって終わる。小篆体は、16年で亡んだ秦代と同様に、永続化しなかった。

さて、次なる正書体は、隷書体である。
漢の建国は、楚国の貴族出身の項羽を倒した安徽宿県・沛の農民出身の劉邦によって実現した。このことは、最底辺の「簡」の文字たる隷書体の正書体化とその字姿を暗示している。
隷書体は、横画に主律され、水平を基本ベクトルとしている。つまり、木簡の縦理(め)に抵抗する筆触の発見により造形されたものである。
隷書体の特徴として、次の点を指摘している。
①木簡の理(め)という対象の性状の発見による自己の性状の発見
②縦に伸長した篆書体の垂直体に代わる水平体の創製
古代原基的宗教国家を、垂直化した篆書体=字画文字がこれを無効化したが、その脱宗教化=政治化は引き続き、漢代に徹底されていった。
その脱宗教化の徹底の姿が、隷書体の水平・扁平体の姿に他ならない。その意味で、隷書体は文明文字の誕生である。

ちなみに、「文明」つまり「市民化(シビライゼーション)」とは、文の明らかなること、つまり文字の浸透を意味する。この隷書体が、現在の日本においても、紙幣の文字や新聞の題字として生きているのは、その文明化の末裔に位置しているからである。
おそらくこの紀元前202年から紀元後220年の前漢、新、後漢代臺官の隷書期に、この文明文字は、その担い手たる中国人を含めて、大量に倭の地方へも入り込んだはずである、と推測している。
ちなみに、福岡県志賀島から発見された金印に「漢の倭の地方の奴国王印」とあるように、倭は、大漢帝国の東海の後進地方であった。

ここまでが、東アジアにおける、ひとつの文明啓蒙(エンライトメント)・水平拡大期であった。この啓蒙時代の最終局面に、大秦王安敦(ローマ帝国のマルクス=アウレリウス=アントニヌス)の後漢の朝貢の逸話を想起したい。
いわば国家が徹底的に古代宗教性を払拭して、俗の国家、正真正銘の文明国家として、その頂点の姿を見せていた。たとえば、後漢代の書では、その水平体がその水平性の明証たる波磔を長く、堂々と輝かせ、極端な扁平体を見せている。「孔彪碑」(171年)や「曹全碑」(185年)がそうである。ここまでが、水平体・正視体時代であるとする。

次に、その水平体・正視体を脱し、草書体を書体として認知されるまでに高める。その時代が、東晋・王羲之の時代、おおよそ紀元350年頃である。
草書体の本格的誕生は、3つの点で、重大な歴史的転換を意味している、と石川氏は理解している。
①横画が右に上がる角度体を成立させることによって、文字が背景、つまり人間が自然的社会に貼りついていた段階から、それを浮き立たせ、表現の成立の基礎を整備したこと。
②隷書時代に胚胎した筆触を不動のものとし、字画文字から筆触文字への転生をはかり、現在とほぼ同様の書字を可能にしたということ。
それは、省略された文字と省略されていない文字とを、書きぶりたる筆触(筆順、速度、深度、力)の同一性によって等価交換しうるという方程式の成立をも意味するという。
③この筆触の誕生は、鑿の時代に代わる毛筆表現の時代の到来を意味する。

これらは、歴史を、宗教や政治という背景から剝がし、文明的人間を歴史の中に造形しはじめたということである。
通常の中国史で、六朝期の中世貴族制と言われるものの意味は、このような、政治の背景から、いくぶんか文明的人間の表現が垣間見られる時代になったということを意味する。
(むろんまだ十全のものではなく、書においてもその名の残るものは、東晋の王羲之、王献之父子と北魏の鄭道昭くらいのものであるはあるが)

こうして、草書体は、書史の起爆力となって、その後の歴史を造形した。
草書体が自らを正書体化しようとする運動が、初唐代までに至る書史である。草書体が正書体たらんとして姿を変えるのが、行書体であり、ついに正書体に行き着いた姿が楷書体である。

そして、北魏時代には、「牛橛造像記」(495年)、鄭道昭の「鄭羲下碑」(511年)などの行書体の石刻体が堂々たる姿を石の上に、また、摩崖の上に曝すことになる。
(しかし、それは外に刻蝕を露骨に曝しており、また内には行書体の連続性を失っていないという意味で、極限には至りえなかった)

そして、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書)
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている

649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分される、と石川氏は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成する、と石川氏は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという。
唐太宗時代の楷書体の成立によって、六朝時代に体裁を整えた草書体は、石の上に正書体として聳え立った。それは貴族つまり文明的人間政治の「正書体化」でもあった。
宋に至るまでの精神史上の激震の頂上は、張旭、顔真卿、懐素の8世紀にあった。それは、太宗の「貞観の治」に対する玄宗の「開元の治」の時代である。

【「盛唐」という呼称に対する疑問】
詩の上では、この時代を「盛唐」とよぶ。
ここで、石川氏は、「盛唐」という呼称に対する疑問を呈している。

歴史家も「この開元に続く天宝をあわせて43年間の玄宗の時代には、唐初からつちかわれてきた芽がおいのびて満開の花を咲かせた」(鈴木俊『中国史』)と書く。
しかし、書を見るかぎり、そうとは言い切れないという。
褚遂良の「雁塔聖教序」倒伏の太宗撰文の「序」と高宗撰文の「序記」との間には、後者に乱れが見られる。高宗時代に始まり、則天武后の周王朝を成立させ、やがては安史の乱へとつながる時代の下降の予兆が書き込まれているとする。
さらに、張旭や顔真卿、懐素の姿を見る時、「盛唐」という呼称は、いささかこの時代の姿を見誤らせるように思える、と石川氏は記す。
書が文学である以上、李白や杜甫の詩は、書における張旭、顔真卿、懐素の狂草と類似の表現であったと言える。
初唐代の詩人に虞世南が名を連ねていることを思えば、初唐期までの詩と、杜甫や李白の詩は、楷書と狂草ほどの巨大な差をもつ。

狂草はもはや太宗の草書とは似ても似つかず、顔真卿の楷書は初唐代の楷書と隔絶している。
石川氏は、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分されると考える。
ちなみに、「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に似ているという。
また、安史の乱に立ち向かった顔真卿が、王羲之と並んで書史に高く記されるのは、中国史における安史の乱と均田制の崩壊のもつ意味も含めて考える時に、重大な意味をもってくる。
確かに、唐は黄巣の乱等を経て907年に滅びるわけだが、その滅亡に向かう、すなわち新しく誕生する宋代へ向けての精神は、653年には始まり、その後史を象徴する狂気的姿が、いわゆる盛唐期に出現しているのである。
その点において、唐代を書に喩えれば、旧法の初唐までと、宋代につながる新法の初唐以降とを区別して考えるのがよい、と石川氏は考えている。



宋代、蘇軾・黄庭堅・米芾の「黄州寒食詩巻」(1082年)、「李白憶旧遊詩巻」(1094年以降)、「蜀素帖」(1088年)は、盛唐期に生まれた新法のひとつの帰結として、六朝期以降の筆触史を完全に終わらせ、新法・筆蝕の完全な定着と筆蝕史の新しいスタートを意味するものである。
二折法=筆触時代を完全に脱し、完全三折法=完全筆蝕時代として、筆蝕が角度を組織していく時代である。
(東アジア的「個」は宋代に生まれ、その「個」がいわゆる商品経済を加速する。むろん、それは西欧的、資本主義的近代や「個」とは異なるのだが)

唐代に2万6千字の字数をもつに至り、おそらく宋代には3万字にまで増殖した文字は、全文字が2字熟語形成可能であるとすれば、この時点で9億語という途方のない可能性をもつまでになった。この「言葉」が、西欧では「地理上の発見」時代に可能となる羅針盤、火薬、印刷術の発明などを宋代に発現させることになり、商品経済の発展をもたらした。
宋代に入ると、文字の災厄は、のっぴきならぬ段階に至った。ここに、その文字の抑圧を脱けんとして白話文や詞による口語体運動が始まり、文字を治めんとする皇帝と国家と、白話文や詞による口語体の文学運動とに二重化する。

蒙古族が元朝を樹てるからだろうか、その後の歩みはいささかのろい。
 しかし、「李白憶旧遊詩巻」をふまえて、15世紀後半から16世紀初頭に、祝允明(1460~1528)などの書に、文字が背景を飛び出す姿、つまり人間が背景を飛び出す姿が確認できるという。
(その姿に、宋元時代に始まり明代に活潑化する華僑の精神を重ねてもよいとする。明代から中国人は皇帝と国家の域から離脱し、いわば世界市民意識とも宇宙市民意識ともいうべきものを形成しはじめた。文字の宇宙化に裏づけられた中国の宇宙化という)
そして、17世紀半ば前後、明末清初を頂点とする筆蝕角度を垂直に立ち上げた筆蹟角度正書体とでも呼ぶべき長条幅連綿草が、またひとつの頂点を形成する。

【明末連綿草について】
明末の黄道周、倪元璐や王鐸、傅山等の際限なく文字が連続する型のいわゆる連綿草書体は、歴史的脈略を感じさせない清代の金農、鄭燮を筆頭とする碑学の書と、どのように関連しているだろうか。その解明を放置したまま、明末連綿草と清朝碑学の書の異質な落差を時代のせいにばかりしておくわけにはいかないだろうという。
なるほど副島種臣、中林梧竹、日下部鳴鶴、巌谷一六、西川春洞等、明治維新以後の日本の書の表現の頂上部分は中国の書にならい、それまでの和様、唐様の次元を超えて一変した。そのように、中国の王朝も明から清へ交替したのだから、日本の江戸時代から明治期のように書も一変したと考えられるかもしれない。そして、こと中国の文字や書については、近代以前には、変わらねばならない必然的な内在的な力に従って、自力で書は変わるしかなかったともいう。

さて、明末の連綿草と、蘇軾や黄庭堅、米芾等の宋代行草書との違いは、明末連綿草が一人一型と言ってもよいように、作者の筆蝕が型をもって現れてくるところにある。
①筆尖をこすりつけるような筆蝕の倪元璐
②筆毫をひらひらさせる筆蝕の傅山
③剃刀で剥削(けず)りとるような筆蝕の張瑞図
④速度はもつものの、こすりつけるような筆蝕の王鐸
⑤筆蝕と構成がひねりを孕む黄道周

まさに「狂」と呼ぶにふさわしい明末連綿草を通して書の表現は書史上何を実現していたのだろうかという問いに対して、明代に縦に長い、いわゆる長条幅=屏が生まれたということは、石が紙と化した唐代の位相(ステージ)に変わって、紙がそのまま石=碑に転じたことを意味すると石川氏は説明している。
「微分筆蝕」に自覚的でない間は、傅山のように、篆書体や金文を書いても、本質は行書や草書体にすぎなかったのである。(石川、1996年、第42章の369頁~372頁)

17世紀半ば前後、明末清初を頂点とする筆蝕角度を垂直に立ち上げた筆蝕角度正書体とでも呼ぶべきいわゆる長条幅連綿草が、またひとつの頂点を形成する。
長条幅連綿草は宋代以降の角度筆蝕による表現法の微細化であり、その総括である。角度や距離、展度などを駆使することによって、背景を飛び出していく文字を、いわば正書体として象徴化した姿である。
石川氏の考えでは、東アジア史の別名である中国史はここで終わる。この時代に中国史は総括され、西欧史との緊張と西欧史の吸収の中で新しい歩みを始める。この段階に至ったのは、1700年代半ば、乾隆帝の治政の半ば頃、金農(1687-1763)の無限折法がそれを証す。
この無限折法の成立はすべての書字を自己の微粒子を単位として構築すること、つまり文字も字画も筆触も筆蝕もすべては、自らが組織する以外にないという現代的な段階(ステージ)である。18世紀、清代康熙帝時代を経て乾隆帝時代前半期には中国史は少なくとも意識の上では、現代の段階に立ったのである。

乾隆帝後半時代の鄧石如(1743-1805)以降のいわゆる隷書や篆書さらには篆刻の復興は、中国的枠組みに自閉・擬態することによって自己組織化をはかった。壮年西欧が生んだ青年・アメリカや自らが生み出した幼児・日本のふるまいぶりを測定しているのである。ここに中国が諸外国=西欧近代に対して特異な角度をもつ理由があるという。
以上が、石川による中国史の素描である。これらの過程を歴史区分に結びつければ、次の表のように、630年~650年(おそらく649年)をもって前史と後史を分ける頂点とする六分法となるという。

乾隆帝後半時代の鄧石如(1743-1805)以降のいわゆる隷書や篆書さらには篆刻の復興は、中国的枠組みに自閉・擬態することによって自己組織化をはかった。壮年西欧が生んだ青年・アメリカや自らが生み出した幼児・日本のふるまいぶりを測定しているのである。ここに中国が諸外国=西欧近代に対して特異な角度をもつ理由があるという。

以上が、石川氏による中国史の素描である。これらの過程を歴史区分に結びつければ、次の表のように、630年~650年(おそらく649年)をもって前史と後史を分ける頂点とする六分法となるという。
(石川、1996年、401頁~405頁)。

<書から見た中国史の時代区分の表>


石川九楊氏は、上記のような中国書史の概略を記した後、次のような「書から見た中国史の時代区分の表を掲げている。

第一期――殷・周・春秋戦国(歴史発生時代)――古代
・古代原基宗教国家の疎外と脱宗教化
・文字の時代
第二期――秦・漢             ――古代
・古代政治国家の疎外と文明の疎外期
・字画の時代
第三期――六朝・初唐           ――中世前期
・貴族制と法の疎外期
・筆触の時代・刻蝕の時代
・二折法(折法の成立)
第四期――初唐・唐・五代         ――中世後期
・貴族制の解体と民衆の誕生期
・筆蝕の時代
・三折法
第五期――宋・元・明           ――近世
・商品経済の疎外期
・筆蝕の時代
・角度筆蝕の時代
第六期――清               ――近代
・自己組織化の不可避性の成立と成熟
・筆蝕の時代
・無限折法

<中国の文字史について まとめ表>
・古代原基的(一次的)宗教国家[中国・エジプト]  ――文字(原単位複合)
・秦 ~字画化(政治化)[政治の垂直化]      ――字画
・漢 ~書くこと(書き言葉の成立)       ――字画
・六朝~筆触化(文明化)            ――筆触
・初唐~三次元化                ――筆蝕
・北宋~四次元化                ――角度
・清 ~〃                   ――書字の微粒子的律動
(石川、1996年、405頁)

これらの表は、「第7章  書の七五0年――王羲之の「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで」において、要約した「六朝代から初唐代への転移の構造について」などを参照してもらえば、更にわかりやすいことと思う。(再説しておく)

六朝代から初唐代への転移の構造について図式的に言えば、六朝代の草書=王羲之=二折法=筆触=自然書法から、初唐代の楷書=三折法=筆蝕=基準書法へということになる、と石川氏はいう。

中国書史の750年、つまり六朝代から宋代までの書の歴史(350年頃から1100年頃まで)について、代表的な作品としては、次の8作品を挙げている。
1 王羲之の「喪乱帖」
2 智永の「真草千字文」
3 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
4 褚遂良の「雁塔聖教序」
5 孫過庭の「書譜」
6 張旭の「古詩四帖」(狂草)
7 顔真卿の「顔勤礼碑」
8 黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
とりわけ、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書)
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている

本書の「書からみた中国史の時代区分への一考察」(401頁~405頁)によれば、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分される、と石川氏は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成する、と石川氏は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという。

また、宋代以降の書史としては、
1100年頃 黄庭堅の「松風閣詩巻」
1650年頃 傳山の明末連綿草
1750年頃 金農の「昔邪之盧詩」を挙げて、
1650年頃に頂上を求めている

このように、楷書、行書、草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、西暦350年頃の中国六朝期から、宋代1100年頃までの750年くらいをかけてゆっくり出来上がったもの、と石川氏は考えている。350年頃から650年頃までが前期で、比喩的に名づければ、「王羲之の時代」である。650年頃から1100年頃までが後期で、「脱王羲之の時代」と名づけている。
350年頃から650年頃までが、いわゆる「古法」の時代である。「古法」とは王羲之書法と言ってもよい。書字について言えば、「トン」とおさえて「スー」と引くか、「スー」と入って「グー」とおさえる二折法である。この二折法が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)などによって、三折法へと変わる。つまり、「トン・スー・トン」という方式で、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいが構造的に変わる。唐代に入って、いわゆる「永字八法」が成立し、書法がやかましくなる。こうして「唐代の書は『法』である」と言われるようになる。
(石川、1996年、98頁~100頁)

第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学


「日本書史」については、別の機会に詳述したい。
ここでは、日本書史の特徴として、次の点を論じていることを指摘しておきたい。
一、書史の前提を欠く
二、楷書を中心とする楷・行・草の立体的構造に無知
三、三折法の理解が浅い
四、角度を知らぬ

たとえば、「一、書史の前提を欠く」については、次のように論じる。
日本の飛鳥、白鳳時代、つまり中国では隋唐代である。したがって、楷書体成立以降の書が日本の書のモデルとなっている。
このため、甲骨・金文・篆書はもとより、隷書に至るまでの「刻る書」という書史の前提を欠く。後の時代も近代に至るまで、書史の前提に思いを馳せ、この高みを輸入することはなかった。
つまり、本来、書とは鑿で「掻(か)く」あるいは「欠(か)く」ものであり、その姿を筆で「書(か)く」ことの中に写し込むことによって、毛筆書史に転じたという書史の深みを最初から見失っている、と石川氏は日本書史を捉えている。
すなわち、日本書史は、中国を厚みと高さと広がりとする書史という列車に楷行草の時代から途中乗車したというのである。そして、日本は東アジア諸国ではいち早く近代化を達成することによって、また、書史からいち早く途中下車もした。
(日本書史の水準では高峰にあると言えても、中国書史をも含めた東アジアの全体からながめた時には、空海や嵯峨天皇や橘逸勢の書は、おそらく、書史の大海の中のひとつの小波にすぎないともいう。)

一方、中国書史は、甲骨文、金文、篆書、隷書の前史を終えた後は、王羲之を象徴とする六朝書から初唐代楷書を経て、宋代の蘇軾、黄庭堅の時代までで一巡する。さらに、それを出発点とし、明末連綿草、清朝碑学を経て、鄧石如や趙之謙の書の本領が、石そのものを刻る篆刻と化した。このことに象徴されるように、二巡し、書は歴史的幕を閉じた。
 日本書史とは、何かと問われれば、中国を中心とする東アジア書史に途中乗車し、途中下車した歴史である、と石川氏は答えている。
(石川、1996年、414頁、420頁~423頁)

第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察


石川九楊氏の中国書史と日本書史の基本的理解について


石川九楊は中国書史をどのように理解しているのだろうか。一言で要約すれば、中国書史は、自律的に0(ゼロ)→一→二→三→多→無限という見事な論理、つまりリズム法(折法)をもって展開をとげた姿を描いていると捉えている。
これに対して、日本書史は、中国のような見事な展開の姿を見ないという。その理由を、日本語の特質に求めている。すなわち、
「その理由は、日本語が、政治的・思想的な中国語(漢語)を核として、古くからある再編、再構築された孤島語である和語・テニヲハをこれに添え、漢語(音)の裏に和語(訓)を貼付し、和語の裏に漢語を貼りつけた構造からなる二つの異なる中心をもつ二重複線言語であるからです。日本の書史は自律的に展開しようとしても、絶えず日本語の一方の部分である漢語の国、中国からの書(言葉)の流入によってその自律的な展開が阻(さまた)げられ、乱流します。」と。
このように、その理由について、日本語の二重複線言語という特質から、日本書史は自律的展開を、漢語の国である中国からの書の流入によって阻げられたのだというのである。
(石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年、421頁、426頁~448頁。石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、140頁、150頁)。

文字と歴史


「文字の誕生」によって書かれることが可能になり、言葉が記述性や記録性や保存性を獲得したというようなことではなく、それらの文字が言葉の中に還流し定着する構造が文明や文化の展開を担ったのである。
紀元前1400年頃に生じたという中国最古の文字「甲骨文」の数は約3000と言われる。この頃3000の文字が言葉に組み込まれた。文字を組み込んだ言葉は加速度的に増殖し、文字数だけでも漢代には9000字以上、六朝時代に18000字、唐代に26000字、明代に33000字、清代に42000字と驚異的に増殖する。
この文字増殖によって、厖大なめくるめく言葉の宇宙が生まれ、いささかこのエネルギーに現実の社会がふりまわされる「文字禍」=「言葉禍」を招くことにもなり、その整理と統御がいわば為政の中心となるのである。
(石川、1996年、429頁~430頁)

国字について


石川氏の中国書史を以上のように、振り返ってみると、日本文化史についても、鋭い見解を提示しているので、いくつか紹介しておこう。
言葉が文字をもつことによって累乗的に文化を高めるが、中国語の頂上と核心部分を採りいれることのなかった日本は、ついぞ言葉と文化の増殖を実現することはできなかった。
それは倭製中国語=国字が、「峠」や「凩」、「榊」や「畑」、「働」や「辿」などいわば寿司屋の湯呑み茶碗の魚偏の文字程度のものにすぎなかったことからも明らかだろう。それゆえ、日本は中国語の流入という言葉と文化生産のせっかくの機会を、「文字を教わった」という程度に、さしたる意味なく無為に過ごしてきたのであるという。
(石川、1996年、434頁)

両刃の剣としての漢字について


日本人が抽象的思考に極端に弱いのも、また中国人が巨大な文字宇宙をつくり上げたがゆえに、文字に苦しむのもそれゆえであろう。
文字と言葉との乖離という現象も起こすことがある。おそらく、中国史はそこに悩みぬいてきた歴史であると言えよう。そして文字は具体的、現実的な生産物であるから、漢字文化圏においては、文字自体が事物化するという傾向をももつ。声を重視する西欧とは異なり、世界を文字と見なす無自覚的な宇宙観も生まれている。
その意味で一対一・対応性の漢字は文字という枠組みで受けとめることによってきわめて高度な造語力をもつが、同時に悪しき災厄をももった両刃の剣とも言えるのだという。
また文字=書字中心文化圏は「見る」文化であり、中国には註釈と書法の文化があるのに対して、他方西欧の声中心型文化は「声を聞き」「声を読む」、「声」の文化と言ってもよいという。(石川、1996年、439頁)

文字と言葉という観点から中国史、日本人の思考様式などの特徴について鋭い指摘をしている。
そして西欧と中国との歴史を対比的に次のように述べている。
「文字史を欠いた西欧においては、声と音楽の周囲に絵画、彫刻、演劇などを引きつれて表現が展開した。声は浮動的であるがゆえに、歴史の歩みは遅いが、経験主義、実証主義、現実主義の功罪を生む。それに対して、文字史をもつ中国においては、文学と書を中心とする圧倒的な表現に他の表現が吸収された。文字は宇宙化するがゆえに歴史の速度は求心・遠心し、歴史主義、理念主義、幻想主義の功罪を生む」という。西欧近代を絶対視する観点を相対化して、言葉と文字を軸に、東アジアの書は西洋の音楽に相当するはずだという観点からこのような着想メモを石川氏は描いている。
(石川、1996年、405頁)

『中国書史』後記より


石川九楊『中国書史』の後記において、次のように記している。
本書がどれだけ書の評語を豊かにしえたかと問われれば、心許ない部分も多々あるが、と断りつつ、
①書自身をして書史を語らしめるという方法を貫いたこと
②およその書史の展開の構造を描きえたこと
③書の作品の解読を通じて、書の彼方に、わずかではあるが、作者や時代を垣間見たことについては触れている。

中国書史における王羲之のもつ意味の大きさについて、石川氏は次のように考えている。
むろん王羲之というのは毛筆という筆記具に適した二折法筆触の比喩であり、王羲之個人や具体的な王羲之の作品そのものではない。
毛筆に適した二折法(素朴率直)が、毛筆に適さない三折法(立体表現)を完璧に達成するまで、おおよそ350年から1100年頃までの750年を要している。
中国においては書が芸術表現と化すまでにおおよそ750年の歳月をかけていることになる。中国書史というのは二折法と三折法の争闘史であるという理解に達して、王羲之の書史上担う意味つまり二折法をめぐる謎もまた氷解するに至ったのであると石川氏はいう。
(石川、1996年、452頁~453頁)