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歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪谷崎潤一郎の『文章読本』≫

2021-05-09 17:52:43 | 文章について
≪谷崎潤一郎の『文章読本』≫
(2021年5月9日投稿)


【はじめに】


 今回のブログでは、谷崎潤一郎の『文章読本』について紹介してみたい。とりわけ、和文調と漢文調、漢字の使い方が文体に及ぼす影響、日本語と翻訳について考えてみる。
 そして、谷崎潤一郎にとっての名文とは何だったのかについて、述べておこう。



【谷崎潤一郎『文章読本』はこちらから】

文章読本 (中公文庫)



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・谷崎潤一郎の『文章読本』について
・和文調と漢文調
・漢字の使い方が文体に及ぼす影響について
・日本語と翻訳について
・谷崎潤一郎にとっての名文について







谷崎潤一郎の『文章読本』について


文豪谷崎潤一郎は、いみじくも、その『文章読本』(中公文庫、1975年[1992年版])の中で、文章の肝要な点として、
「文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにある」と昭和9年(1934年)に述べている(谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、1975年[1992年版]、20頁)。
昔は「華を去り実に就く」のが、文章の本旨だとされた。つまり、余計な飾り気を除いて実際に必要な言葉だけで書くということである。そうしてみれば、最も実用的なものが、最もすぐれた文章であることになる(谷崎、1975年[1992年版]、20頁~21頁)。
ところで漢語について、『太平記』後醍醐天皇崩御のくだりの一節を名文として、谷崎潤一郎は愛誦していたという。たとえば、「土墳数尺の草、一径涙(なんだ)尽きて愁(うれひ)未尽きず。舊臣后妃泣く泣く鼎湖(ていこ)の雲を瞻望(せんぼう)して」といった具合である。しかし現代の人間には、装飾が勝ちすぎて自分の思想や感情を表現するのに不便であると付言している(谷崎、1975年[1992年版]、22頁~23頁)。

さて日本語の欠点の一つとして、谷崎潤一郎は『文章読本』において、言葉の数が少ない点を挙げている。たとえば、独楽(こま)や水車が転るのも、地球が太陽の周囲を廻るのも、等しく「まわる」もしくは「めぐる」と言う。しかし、前者は物それ自身が「まわる」のであり、後者は一物が他物の周りを「まわる」のであり、両者は明らかに違うのに、日本語にはこの区別がないというのである。
しかし、英語はもちろん、「支那語」(漢語)でも区別している。漢語では、転、旋、繞、環、巡、周、運、回、循などであり、皆少しずつ意味が違う。独楽や水車の「まわる」は旋と転であり、繞は物の周りを離れず纏いめぐること、環は環(たまき)のように取り囲むこと、巡は巡回して視察すること、周はグルリと一まわりすること、運は移り変って行くこと、回は渦巻き流れること、循は物について行くことで、細かい区別があると解説している
また桜の花の咲いている花やかな感じをいうにも、日本語では「花やかな」(ママ)という形容詞しか思いつかないが、漢語では、爛漫、燦爛、燦然、繚乱などがあるという。そしてこれらの漢語に「な」や「たる」や「として」を結びつけて、「爛漫な」「爛漫たる」「爛漫として」のように、形容詞や副詞を作り、日本語の語彙の乏しいのを補ってきた。この点で、日本語は漢語に負うところは多大であったと説く(谷崎、1975年[1992年版]、45頁~46頁)。

谷崎潤一郎も指摘するように、国語というものは国民性と切っても切れない関係にある。古来、中国や西洋には雄弁を以て聞えた偉人があるが、日本の歴史にはまず見当らない。その反対に、日本人は昔から能弁の人を軽蔑する風があったといわれる。実際に、第一流の人物に寡言沈黙の人が多く、能弁家となると、二流三流に下る場合が多いとされる。日本においては、国民の価値観によって、言葉数と人物評とは厄介な関係にある。日本人が弁舌の効果を信用しない原因の一つとして、日本人が正直なせいで、実行するところを見てもらえば、分かる人は分かってくれ、別にくどくどと言い訳したり、吹聴したりするには及ばないという気風がある点に谷崎潤一郎は求めている。孔子は「巧言令色鮮矣仁」といったが、君子は言葉を慎むことを美徳の一つにしたが、日本人にはこの美徳を守ってきたということであろうか(谷崎、1975年[1992年版]、47頁~48頁)。

和文調と漢文調


古典文学の文語文にも、和文調と漢文調の2つの種類があることを川端康成も指摘している。『土佐日記』『源氏物語』は前者であり、『保元物語』『平治物語』は後者である(川端康成『新文章読本』新潮文庫、1954年[1977年版]、25頁~26頁)。
この点、谷崎潤一郎は川端よりもいち早く、文章道において、和文脈を好む人と、漢文脈を好む人とに大別されると明言している。そこが『源氏物語』の評価の分れる所であるというのである。この区別は、今日の口語体の文学にも存在する。卑近な例でいえば、同じ酒好きの仲間でも、甘口を好む者と、辛口を好む者とがあるようなものだという。
言文一致の文章といえども、和文のやさしさを伝えるものと、漢文のカッチリした味を伝えているものとがある。たとえば、泉鏡花、上田敏、鈴木三重吉、里見弴、久保田万太郎、宇野浩二は前者に属し、夏目漱石、志賀直哉、菊池寛、直木三十五は後者に属するとする。
もっとも、和文のうちにも、大鏡や、神皇正統記や、折焚く柴の記のような簡潔雄健な系統があるので、朦朧派と明晰派ともいえるし、だらだら派とテキパキ派とも、流麗派と質実派、女性派と男性派、情緒派と理性派とも呼べるという。
「一番手ッ取り早く申せば、源氏物語派と、非源氏物語派になるのであります。」と。
たとえば、森鷗外は大文豪で、しかも学者であったが、『源氏物語』の文章にはあまり感服していなかった。与謝野夫妻の口訳源氏物語の序文にも、源氏物語の文章を読むたびに、困難を覚え、頭にすらすらと入りにくく、果たして名文であろうかという意味のことを婉曲に述べた。国文学の聖典とも目すべき『源氏物語』に、鷗外は、このような冒瀆の言をなした。
鷗外に限らず、『源氏物語』に悪評を下す人は、和文趣味より漢文趣味を好み、流麗な文体よりは簡潔な文体を愛する傾向があるといわれる。これは感覚の相違というよりは、体質的な原因が潜んでいると谷崎潤一郎はみている。それでは、谷崎潤一郎は自らをどちらとみなしたのであろうか。この点について、自ら述べている。すなわち、
「かく申す私なども、酒は辛口を好みますが、文章は甘口、まず源氏物語派の方でありまして、若い時分には漢文風な書き方にも興味を感じましたものの、だんだん年を取って自分の本質をはっきり自覚するに従い、次第に偏り方が極端になって行くのを、如何とも為し難いのであります。」という(谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、1975年[1992年版]、79頁~81頁)。
谷崎は源氏物語派であった。このことは代表作『細雪』『春琴抄』を読めば、十分にうなづけるであろう。

ところで谷崎潤一郎は、漢文の素読の効果について述べていたが、川端康成も音読が自らの文章に最も多く影響しているらしいことを、『新文章読本』(新潮文庫、1954年[1977年版]、3頁~4頁)のまえがきで記している。

【川端康成の『文章読本』はこちらから】

新文章読本

少年時代に川端は『源氏物語』や『枕草子』を、意味も分からないまま、ただ言葉の響きと文章の調べを読んでいたようだ。つまり意味のない歌を歌っているように、音読していた、その調べが、ものを書く時の川端の心に聞えて来ると述懐している。
文章それ自身が、一つの生命を持って生きているという。川端自らの文章の秘密もそこにあるかと思っている。
そして1950年において、次のように述べている。
「文章は、人と共に変り、時と共に移る。一つが消えれば、一つがあらわれる。文体の古び方の早さは思いの外である。つねに新しい文章を知ることは、それ自身小説の秘密を知ることである。同時にまた、新しい文章を知ることは、古い文章を正しく理解することであるかも知れぬ。明日の正しい文章を……生きている、生命ある文章を考えることは、私たちに課せられた、栄光ある宿命でもあろう。」と。
ところで、吉行淳之介の解説にもあるように、谷崎潤一郎の『文章読本』は始めから終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いていると要約できる。谷崎の『陰翳礼讃』という著書の中でも日本の美は陰翳にあることを述べている。谷崎にとって、エロティシズムについても、仄暗く隠すところに値打ちがあるというような意見である。つまり、含蓄という発想が、谷崎の『文章読本』の根底にも流れている(谷崎、1975年[1992年版]、187頁~188頁)。

漢字の使い方が文体に及ぼす影響について


文豪と呼ばれる作家は、漢字の使い方にも細心の注意を払いながら、その小説に見合った文体で綴っていることが、谷崎潤一郎の『文章読本』を読むとわかる。たとえば、次のように述べている。
①『盲目物語』について
「かつて私は「盲目物語」と云う小説を書きました時、なるべく漢字を使わないようにしまして、大部分を平仮名で綴ったのでありますが、これは戦国時代の盲目の按摩が年老いてから自分の過去を物語る体裁になっておりますので、上に述べましたような視覚的効果を狙いましたのと、なおもう一つは、全体の文章のテンポを緩くする目的、即ち音楽的効果を考えたのでありました。つまり、老人がおぼろげな記憶を辿りながら、皺嗄れた、聞き取りにくい声で、ぽつりぽつり語るのでありますから、そのたどたどしい語調を読者に伝えますために、仮名を多くして、いくらか読みづらいようにしたのでありました。」
(谷崎、1975年[1992年版]、147頁~148頁)。
このように、谷崎は『盲目物語』という小説では、なるべく漢字を使わないように心がけ、盲目の老人がぽつりぽつり語り、たどたどしい語調を伝えるために、仮名を多くしたというのである。

②視覚的効果について
「まず視覚的効果の方から申しますならば、「アサガオ」の宛て字は「朝顔」と「牽牛花」と二た通りありますが、日本風の柔かい感じを現わしたい時は「朝顔」と書き、支那風の固い感じを現わしたい時は「牽牛花」と書く。「タナバタ」の宛て字は普通「七夕」か「棚機」でありますが、内容が支那の物語であったら、「乞巧奠」の文字を宛てても差支えない。「ランボウ」「ジョサイナイ」の宛て字は、今では「乱暴」「如才ない」と書きますけれども、戦国時代には「濫妨」「如在ない」と書きましたから、歴史小説の時には後者に従う」
(谷崎、1975年[1992年版]、147頁)。

③漱石の『我輩は猫である』を例に、文字・漢字の使い方が一種独特である点を指摘している。そして文字の使い方においても、鷗外と漱石は好対照であるというのである。
「しかし、翻って考えますのに、鷗外の文字使いの正確さも、あの森厳で端正な学者肌の文章の視覚的効果なのであって、もし内容が熱情的なものであったら、ああ云う透徹した使い方は或は妨げをしたかも知れない。そう云えば、漱石の「我輩は猫である」の文字使いは一種独特でありまして、「ゾンザイ」を「存在」、「ヤカマシイ」を「矢釜しい」などと書き、中にはちょっと判読に苦しむ奇妙な宛て字もありますが、それらにもルビが施してない。その無頓着で出鱈目なことは鷗外と好き対照をなすのでありますが、それがあの飄逸な内容にしっくり当て嵌まって、俳味と禅味とを補っていたことを、今に覚えているのであります」(谷崎、1975年[1992年版]、148頁~149頁)。

日本語と翻訳について


河盛好蔵は、その「翻訳論」の中で、翻訳家としての鷗外の態度を高く評価している。つまり、翻訳家の第一の責務は、自国の文学に不足するものを補い、以て自国の文学を世界文学の水準まで高め、豊富にすることにある点からみて、鷗外は翻訳家としても最も願わしい態度であったというのである。
また、ジイドは、「よき翻訳者は、原著者の国語に通達していなければならぬだけではなく、なおそれ以上に彼自身の国語に通達していなければならぬ」と語ったが、この点でも、鷗外は名訳家であった。鷗外でも二葉亭四迷でも、立派なドイツ文やロシア文を綴れた人は、日本語にも通達していた。河盛によれば、鷗外の翻訳(とくに後期の口語訳)は、「ほとんど日本語を意識させない」もので、翻訳の極致と考えられる名訳であるという。直接に原作に接する思いをさせてくれる翻訳の名手が鷗外であるというのである(河盛好蔵『現代日本文学大系74 河盛好蔵集』筑摩書房、1972年、102頁~103頁、106頁~107頁)。

【『現代日本文学大系74 河盛好蔵集』筑摩書房はこちらから】

中島健蔵・中野好夫・河盛好蔵・桑原武夫集 現代日本文学大系 74

また、菊池寛が、文学志願者への忠告として、「これから小説でも書こうとする人々は、少なくとも外国語を修得せよ」と述べたことに対して、小林秀雄は実に簡明的確な忠告だと感心したという(新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年所収「作家志願者への助言」より、37頁)。
【『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

そういえば、文豪は外国語に精通していた。夏目漱石は英語に、森鷗外はドイツ語にといった具合である。

別に小説家を志さなくても、外国語を修得することは、日本語を考え直すきっかけとなる。谷崎潤一郎の『文章読本』は、『源氏物語』のアーサー・ウェーリー(Arthur David Waley、1889~1966、The Tale of Genji)の英訳「須磨の巻」の一節を抜粋して、日本語の特性について考察している(谷崎、1975年[1992年版]、53頁~60頁)。
 同じことを書いても、英語にするといかに言葉数が多くなるのかという実例として、その英訳を載せている。日本語の原文で、4行のものが、英文では8行に伸びている。そして英文には原文にない言葉が沢山補ってある。つまり「古里覚束なかるべきを」といっているのが、「the prospect of being separated from all those whose society he liked best (彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れることになるのは)」となっている。

このように、英文の方が原文よりも精密であって、意味の不鮮明なところがないと谷崎は解説している。すなわち、原文の方は、いわないでも分っていることはなるべくいわないですませるようにしているのに対して、英文の方は、分り切っていることでもなお一層分らせるようにしている。そして、谷崎によれば、英文のようにいってしまっては、文意がはっきりするが、意味が限られて、浅いものになると付言している。つまり、「彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れること」といってしまうと、都を遠く離れて行く源氏の君の悲しみがこの人々と別れることばかりに限られてしまい、「古里覚束なかるべし」に込められた、いろいろの心細さ、淋しさ、遣る瀬なさが感じられなくなってしまうという。
原文では、それらの取り集めた心持を、「古里覚束なかるべし」の一語に籠めたのであると谷崎は理解している。

さらに、谷崎は、古典の文章には一語一語に月の暈(かさ)のような蔭があり、裏があるという。つまり、わずかな言葉が暗示となって読者の想像力が働き出し、足りないところを読者自らが補うようにさせ、作者の筆は、ただその読者の想像を誘い出すようにするだけであるというのが、古典文の精神であると谷崎は力説している。
それに対して、西洋の書き方は、出来るだけ意味を狭く細かく限ってゆき、少しでも蔭のあることを許さず、読者に想像の余地を剰さないという。
日本人からみれば、「彼が最も好んだ社交界の云々」では極まり切ってしまって、余情がなさすぎるけれども、西洋人からみれば、「古里覚束なかるべし」では何のことか分らない。なぜ覚束ないのであるかその理由を明示しなければ、得心がゆかないと解説している。
さすがに『源氏物語』を現代語訳した谷崎潤一郎だけあって、その読みの深さに敬服する。

谷崎潤一郎にとっての名文について


谷崎は、「名文とはいかなるものぞ」という質問に対して、
①長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの
②何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るものと一応答えている。
文書の味を味わうには、感覚によるところが多大で、その感覚というものは、生まれつき鋭い人と鈍い人とがいるが、心がけと修養次第で、生まれつき鈍い感覚をも鋭く研くことが出来るとする。
感覚を研くのには、
①出来るだけ多くのものを繰り返して読むこと
②実際に自分で作ってみることを挙げている。
昔の寺小屋式の教授法である、講釈をせずに、繰り返し音読させるか、あるいは暗誦させるという方法は、何よりも有効であると力説している(谷崎、1975年[1992年版]、69頁、73頁~75頁)。
『文章読本』を書いた作家は数多くいたが、谷崎ほど、こうした実践的アドバイスをしている人はいないようである。丸谷才一にしても、せいぜい名文を多く読むように勧めているにすぎない。

西鶴の「都のつれ夫婦」は西鶴であるから名文といいえるのであって一歩を誤れば悪文となりかねないといい、西鶴の文を朦朧派と谷崎は規定した。それに対して、徳川時代の貝原益軒の『養生訓』や新井白石の『折りたく柴の記』、明治時代の森鷗外の『即興詩人』の文を、隅から隅まで行き届いていて、一点曖昧なところがなく、文字の使い方も正確である平明派と規定している(谷崎、1975年[1992年版]、70頁~72頁)。
また、志賀直哉の「城の崎にて」を芥川龍之介は志賀の作品中の最もすぐれたものの一つに数えている。その作品は、温泉へ湯治に来ている人間が、宿の二階から蜂の死骸を見ている気持ちと、その死骸の様子とが描かれている。一匹の蜂の動作を仔細に観察して見た通りを細かいところまで写し取っている(谷崎、1975年[1992年版]、24頁~25頁)。




≪作家の文章読本≫

2021-05-09 17:31:18 | 文章について
ブログ原稿≪作家の文章読本≫
(2021年5月9日投稿)


【はじめに】


 今回から、作家の文章読本について紹介してみようと思う。
かつて「歴史だより」の冨田健次先生の著作に読後の感想とコメントを付した際の記事に加筆したものである。
 参考文献などにリンクを貼っておいたので、参照していただきたい。




作家の『文章読本』について


ことばを集めて紡ぎ出す文章についても考えてみたいと思う。いわゆる『文章読本』を書いた作家は数多くいる。
竹西寛子は、作家による『文章読本』として、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、中村真一郎、丸谷才一のそれを挙げている(中村真一郎『文章読本』新潮文庫、1982年、217頁)。
私はこれに井上ひさし、向井敏、中村明の『文章読本』を加えたい。
①谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、1975年[1992年版]
②三島由紀夫『文章読本』中公文庫、1973年[1992年版]
③川端康成 『新文章読本』新潮文庫、1954年[1977年版]
④中村真一郎『文章読本』新潮文庫、1982年
⑤井上ひさし『自家製 文章読本』新潮文庫、1987年
⑥向井敏  『文章読本』文春文庫、1991年
⑦中村明  『名文』ちくま学芸文庫、1993年
⑧丸谷才一 『文章読本』中央公論社、1977年

作家の『文章読本』の内容を紹介しつつ、日本語の特質および名文について考察を進めてみたい。
最初に、中でも谷崎潤一郎、三島由紀夫、井上ひさしや向井敏の『文章読本』などを参照しながら、名文について考えてみたい。


【谷崎潤一郎『文章読本』はこちらから】

文章読本 (中公文庫)

【三島由紀夫の『文章読本』はこちらから】

文章読本 (中公文庫)

【川端康成の『文章読本』はこちらから】

新文章読本



【中村真一郎『文章読本』はこちらから】

文章読本(新潮文庫)

【丸谷才一の『文章読本』はこちらから】

文章読本 (中公文庫)

【井上ひさしの『自家製 文章読本』はこちらから】

自家製 文章読本

【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】

名文 (ちくま学芸文庫)


≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根』≫

2021-05-03 19:14:19 | 私のブック・レポート
≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根』≫
(2021年5月3日投稿)



【はじめに】


この度、榧野尚先生から『反り棟屋根』という御高著をご恵贈いただいた。ここに記して深く感謝申し上げます。
先生とお知り合いになったのは、私が1994年から約6年間、短大の非常勤講師を勤めていた時に遡る。だから、かれこれ四半世紀をこえることになる。
 当時1990年代には、榧野尚(かやのたかし)先生は島根大学理学部助教授で、専門は数学で、極大フロー、調和境界、ロイデン境界などを研究しておられた。短大には、コンピューターのプログラミング関係の講義をなさっておられたように記憶している。
 学問分野は異なったが、先生のお人柄の温かさと教養の広さにより、話を合わせていただき、懇意にさせていただいている。
榧野先生には、専門の数学の分野以外にも、次のような出版物もある。
〇榧野尚、阿比留美帆『みなしごの白い子ラクダ』古今社、2005年
(モンゴルの民話にもとづいた絵本。母親を金持ちの商人に捕まえられ、王さまのところにつれていかれ、ひとりぼっちになった白い子どものラクダの悲しみを描いたもの)

 今回のブログでは、榧野尚先生の『反り棟屋根』(高浜印刷、2021年1月25日発行、190頁、定価2750円)を紹介してみたい。

巻末には、本書は「公益財団法人いづも財団」の助成を受けて出版しました、とある。
先生のお手紙には、「いづも財団の選定意見」が添付されており、次のようにある。
「これまで45年間にわたる調査研究に敬意を表します。まとめられた冊子を拝見いたしますと、写真撮影の年月日がきちんと表記され、出雲地方のみならず全国、海外の反り棟屋根の写真が掲載されています。これは文化財の保存継承の観点からみても、大変貴重な資料です。
 今回の申請内容は、「文化の探求」分野の趣旨に合致していますので、採択いたします」

この選定意見にあるように、次の点が注目される。
・45年間にわたる反り棟屋根に関する調査研究
・写真撮影の年月日が表記されている
・出雲地方のみならず全国、海外の反り棟屋根の写真が掲載されている
⇒これは文化財の保存継承の観点からも貴重な資料

 ご高著の問い合わせは、高浜印刷(〒690-0133松江市東長江町902-57 TEL.0852-36-9100)
にしていただければよいのではないかと思う。
 ISBN 978-4-925122-69-6である。





榧野尚先生の『反り棟屋根』の目次は次のようになっている。
【目次】
はじめに
民家の屋根について
第1部 出雲地方の反り棟屋根
第1章 出雲市の反り棟屋根
     第1節 出雲市 大社町、日下町、平田町
第2節 出雲市 西林木町、口宇賀町、三津町
     第3節 出雲市 万田町、灘分町
     第4節 出雲市 鹿園寺町、島村町
     第5節 出雲市 斐川町
     第6節 出雲市 馬木町、稗原町、乙立町、西谷町、久多見町
第2章 松江市の反り棟屋根
     第7節 松江市 大野町、大垣町、西長江町、東長江町
     第8節 松江市 鹿島町、島根町
     第9節 松江市 法吉町
     第10節 松江市 西川津町、西持田町
     第11節 松江市 朝酌町、本庄町、上宇部尾町、八束町、手角町
第12節 松江市 玉湯町
     第13節 松江市 西忌部町、東忌部町、八雲町
     第14節 松江市 大庭町、東出雲町
第3章 安来市の反り棟屋根
     第15節 安来市 荒島町、利弘町、安来町
     第16節 安来市 広瀬町
     第17節 安来市 門生町、清瀬町
第4章 雲南市、奥出雲町の反り棟屋根
     第18節 雲南市、奥出雲町
第5章 隠岐郡の反り棟屋根
     第19節 隠岐郡 隠岐の島町

第2部 その他の地方の反り棟屋根
第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方
     第20節 鳥取県
第21節 兵庫県、京都府、滋賀県、福井県
第22節 石川県
     第23節 富山県
第7章 中部地方、関東地方、東北地方県
     第24節 長野県、東京都、埼玉県、山梨県、岩手県
第8章 九州地方
     第25節 福岡県、佐賀県
     第26節 沖縄県

第3部 反り棟寺院
第9章 近畿地方、その他の地方の反り棟寺院
     第27節 奈良県の反り棟寺院
     第28節 京都府、滋賀県、兵庫県の反り棟寺院
     第29節 富山県、東京都、大分県、反り棟寺院

第4部 反り棟屋根の旅
第10章 反り棟屋根の誕生
     第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生
第31節 哈尼族のマッシュルームハウス
第11章 貴州省福建省から山東省までの旅
     第32節 貴州省、福建省
     第33節 金門島、台湾、ベトナム
     第34節 浙江省、江蘇省、上海市
     第35節 河南省、山東省
第12章 韓国、朝鮮、中国東北地方、モンゴル
     第36節 韓国
     第37節 朝鮮、中国東北地方、モンゴル
第13章 再び出雲地方へ
お礼の言葉




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ
・本書の構成 と先生の関心事
・出雲地方の民家の屋根と棟の作り方の分類
・反り棟屋根について
・第1部 出雲地方の反り棟屋根 第1章~第5章
・第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方
・第8章第25節 福岡県、佐賀県
・第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生
・第10章第31節 哈尼族のマッシュルームハウス
・第11章第32節 貴州省、福建省
・第11章第33節 金門島、台湾、ベトナム
・第11章第35節 河南省、山東省
・第13章 再び出雲地方へ
・出版の動機 と今後の構想
・読後の感想とコメント




榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ


数学者として高名な榧野先生が、なぜ反り棟屋根にご興味を抱かれたのか?
「はじめに」によれば、先生が反り棟屋根の記録写真を撮り始めるようになられたのには、あるきっかけがあった。それは、1975年8月、先生のご子息(当時小6)の夏休みの自由研究のテーマとして、東は米子市から西は大田市まで走り回り、約100枚の反り棟屋根の記録写真を撮られたことであるようだ。
それ以後、最近まで、出雲地方は勿論、東北地方から九州、沖縄まで、更に中国雲南から中国各地、台湾、ベトナム、韓国など、反り棟民家を訪ねて走り回られたそうだ。

反り棟民家のみならず、世界中の民家に興味を持たれた。
例えば、
・イランのカスピ海沿岸の稲作地帯の校倉[高床式米倉](1999/12/21、先生が撮影された年月日を示す)
・ネパールの草葺の屋根の農家(1998/12/22)
・ガーナの土壁丸い家(1997/7/21)
・モンゴル草原のゲル(2006/9/11)
 ※モンゴル語のゲルは建物を意味するだけでなく、家族、家庭も意味する。日本語の“家”が家族や家庭を意味するのと同じである。
・インドネシアの船型民家(1980)
その他には、次のものがある。
・イングランドのthatched house(写真未掲載)
・ジャバのロングハウス(写真未掲載)
・アメリカンネイティブのテント住居ティピ(写真未掲載)

このように、1975年から出雲地方の反り棟屋根の写真を撮り始められ、世界を股にかけて、民家の写真を撮り続けられた。先生の探求心の深さと視野の広さとフットワークの良さには、ただただ敬服するばかりである。(榧野、2021年、4~5頁)

本書の構成 と先生の関心事


さて、目次をみてもわかるように、「第1部 出雲地方の反り棟屋根」では、出雲地方の反り棟屋根を写真とともに解説しておられる。
ここでいう「出雲地方」とは、出雲市から松江市、安来市、雲南市、奥出雲町、飯南町をさす。この地方には、棟が反っている独特の反り棟茅葺き民家が残る。出雲地方の農家は、そのほとんどがこの反り棟茅葺き民家であった。

茅葺きのお家では、竈(かまど)で薪を燃やしてご飯を炊き、囲炉裏で暖を取り、お茶を沸かした。囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていた。10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われた。

しかし、生活様式が変わった。
炊飯器でご飯を炊き、ガラス戸で家を締め切り、エアコン暖房するようになった。その結果、茅葺き家屋がもたなくなった。さらに、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった。こうして、茅葺民家が無くなっていったそうだ。
残念ながら、今や現存するほとんどの茅葺家屋は特別に保存された家屋だけになってしまった。
伝統的な民家が無くなっていくのは、全世界的な現象である。(4~5頁)

出雲地方の民家の屋根と棟の作り方の分類


出雲地方の民家は、入母屋、寄棟、切妻に分かれるようだ。
屋根の斜面を“ひら”と言う。
メインの大きい斜面を“おおひら”、煙出しのある部分を“つま”、つま部分のひらを“こひら”と言う。
入母屋、寄棟、切妻は次のようになる。
①入母屋~煙出しがあり、おおひらとこひらがある屋根
②寄棟 ~煙出しがなく、おおひらとこひらが棟に直接つながっている屋根
③切妻(あるいは合掌造)~こひらがない屋根

棟の作り方は、A型、B型、C型、箱棟と分類できる。
①A型~横に細い竹で棟を抑えている
②B型~太めの木または竹で棟を抑えている
③C型~縦、横に木または竹で棟を抑えている。中には縦横の間に竹や木で文様が入っているものもある。家の紋の場合もある。
④箱棟~瓦葺も萱葺もある。瓦の下の竹細工を袴(はかま)と言う。(7頁)

反り棟屋根について


出雲地方には反り棟屋根の伝統があったが、何時頃からこうした反り棟家屋が作られたかは不詳とのことである。
この冊子では、島根県出雲地方を中心に、1975年以来撮り貯めた反り棟屋根の記録を残しておきたいとのことである。
ところで、中国雲南省の昆明、麗江、大理付近には数多くの瓦であるが、反り棟がある。
鳥越憲三郎氏の『古代中国と倭族』(中公新書)には、祭祀場面桶形貯貝器(晋寧石塞山遺跡、前漢時代晩期)、人物屋宇銅飾り(同、前漢時代中期)の中にある家屋は反り棟で、鳥越氏はこの家屋は茅葺きであると断定している。当時この地方には、倭族の一王国滇(てん)国があった。BC100年頃のことである。

反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられる。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(6頁)

第1部 出雲地方の反り棟屋根 第1章~第5章


第1章 出雲市の反り棟屋根


出雲地方の屋根は反り棟で特徴づけられていた。出雲地方のほとんどの農家は反り棟であった。
出雲大社近く、出雲市遙堪(ようかん)から始まって平田地方、平田から松江をつなぐ湖北道路(国道431号)の沿線、松江市内の各地、宍道湖の南側、39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡や358本の銅剣や銅鐸、銅矛が出土した荒神谷遺跡のある斐川町から玉造、忌部を通り、奥出雲、安来市の各地に、反り棟茅葺の農家が連なっていた。
しかし、出雲地方の西、浜田市、益田市、大田市、山口県には、反り棟屋根を全く見ることが出来なかったそうだ。
そして東は鳥取県、兵庫県、京都府、滋賀県、石川県、富山県と反り棟屋根(もしくはその痕跡)が続いた。(12頁)

第1節 出雲市 大社町、日下町、平田町


〇【写真】出雲市大社町遙堪 入母屋 A型(1978/5/8)
〇【写真】出雲市大社町菱根 入母屋 C型(2015/8/16)
・2019年3月29日 国の登録有形文化財に登録された。反り棟の茅葺き屋根も評価の一つである。(13頁)

第2節 出雲市 西林木町、口宇賀町、三津町


〇【写真】出雲市西林木町 鳶ケ巣城の近く 入母屋 C型(1999/11/25)
・実に素晴らしかったが、現在は無い。
・一度、広島の屋根職人が葺き直したことがあったが、屋根の感じが変わったようだ。
・鳶ケ巣城を越えた鰐淵寺の門前街に、この建築に似た荘重な反り棟屋根があったそうだが、今はない。(15頁)

〇【写真】出雲市口宇賀町 稲はぜ置き場 切妻 A型(1979/5/18)
・農機具あるいは収穫物置き場納屋が反り棟の切妻であった。(16頁)

第3節 出雲市 万田町、灘分町


〇【写真】出雲市万田町 瓦屋根(2018/2/24)
・出雲地方にはこのような反り棟瓦屋根があちらこちらに存在している。かつての反り棟茅葺き屋根の名残りである。(18頁)

〇【写真】出雲市灘分町 寄棟 箱棟 C型(1978/6/19)
・出雲市の斐川町、灘分町、島村町、出島町、平田町、岡田町、多久町、鹿園寺町にかけて、築地松に囲まれた箱棟反り棟の家が並んでいた。(19頁)
    

第5節 出雲市 斐川町


〇【写真】出雲市斐川町 前方切妻、後方入母屋 千木を置く棟、雪割あり(2014/11/21)
・湯の川温泉「松園」の宿泊棟。千木のある棟飾りは出雲地方では特例であるようだ。千木の上、棟をとおして連なっている一本の木を雪割と言う。(28頁)

〇【写真】出雲市斐川町 常松家 国登録有形文化財 1874年(明治7年)建築 瓦棟入母屋(31頁)

〇【写真】出雲弥生の森博物館 出雲市大津町 出雲地方の反り棟屋根を模して作られた。
★向井潤吉画伯の“斐川平野の家”(島根県出雲市郊外)の中に反りのある箱棟寄棟が描かれているそうだ。(31頁)

第2章 松江市の反り棟屋根


第8節 松江市 鹿島町、島根町


〇【写真】松江市島根町 寄棟(1980/6/1)
・この1980年時点でかなりの解体中の家屋を見かけられたそうだ。(46頁)

〇【写真】松江市島根町 入母屋 C型(1980/6/1)
・木の枠の間に模様(家の紋だそうだ)がある。(48頁)

第10節 松江市 西川津町、西持田町


〇【写真】松江市西川津町 入母屋 A型(1975/8/13)(51頁)
(※先生がご子息と夏休みの自由研究のテーマとして反り棟屋根の記録写真を撮られた時の1975年8月の写真である。カラー写真でなく、白黒写真であることも歴史を感じさせる)

第11節 松江市 朝酌町、本庄町、上宇部尾町、八束町、手角町


〇【写真】松江市手角町 切妻 B型(1979/6/1)
・中海に面した船小屋、かすかに反りがある。(59頁)

第13節 松江市 西忌部町、東忌部町、八雲町


〇【写真】松江市八雲町 熊野大社鑚火殿 切妻 C型(熊野大社提供)
・正月古式に則って火をおこし、その火を出雲大社に奉納する。火をおこすことを火を鑚(き)ると言う。寄棟である。(68頁)

第3章 安来市の反り棟屋根


第15節 安来市 荒島町、利弘町、安来町


〇【写真】安来市荒島町 入母屋(2軒はC型、1軒はB型)(1975/8/29)(72頁)
(※これも1975年8月の撮影で、白黒写真である)

第17節 安来市 門生町、清瀬町


〇【写真】安来市清瀬町天の前橋 入母屋 C型(1996/4/28)
・島根県の東端、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなる。(78頁)

第4章 雲南市、奥出雲町の反り棟屋根


第18節 雲南市、奥出雲町


〇【写真】雲南市大東町須賀 入母屋 C型(2015/10/25)
・神楽の宿、神楽の上演。古来神楽の舞われていた茅葺屋根の民家を再現したもの。(85頁)

〇【写真】奥出雲町亀嵩 入母屋 A型(2015/10/25)
★映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくる。(86頁)

第5章 隠岐郡の反り棟屋根


第19節 隠岐郡 隠岐の島町


〇【写真】隠岐郡隠岐の島町 入母屋 C型(2015/8/9)
・千木を置く棟 国の重要文化財億岐家住宅 享和元年(1801)の建築 隠岐の島に残存している反り棟茅葺き屋根はこれだけであるそうだ。(87頁)

〇【写真】広瀬貫川画伯「後醍醐天皇行在所」島根県隠岐郡西ノ島町観光協会蔵 入母屋 C型(2015/8/7)
・次のような注釈がある。
「この歴史絵は増鏡、太平記を資料として、広瀬貫川画伯によって画かれた。「黒木御所」は急造の粗末なものであったとおもわれます。寄贈者 五条覚 澄」(88頁)

第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方


「第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方」では、出雲地方から離れて、“反り棟屋根”の旅をしておられる。まずは、伯耆の国(鳥取県西部)、因幡の国(鳥取県東部)、兵庫県、京都府、滋賀県、福井県、石川県、富山県へと旅を続けておられる。(90頁)

第20節 鳥取県


伯耆の国(鳥取県西部)には、大国主命が兄弟に忌み嫌われ、赤猪(焼けた石)で怪我させられた伝説のある手間の山本(現手間町)がある。
20世紀梨の産地である。20世紀梨の貯蔵倉庫に反り棟屋根があったそうだ(現在はなし)。

反り棟が現れるのは、鳥取県の中ほどにある東郷池付近からと鳥取市にかけて点々とある瓦葺の反り棟屋根である。
(かつては、茅葺きの反り棟屋根であったであろう)(90頁)

鳥取市は、大国主命と白兎の伝説の地である。
〇【写真】鳥取市千代川東詰 入母屋(2016/6/21)
鳥取県中部の東郷池から鳥取市まで反り棟屋根が点々とある。
(茅葺き反り棟から瓦屋根に改築するとき、かつての反り棟への思いから、瓦屋根になっても反り棟屋根にするのであろう)(90頁)

〇【写真】鳥取市八東町用呂 矢部家住宅 国指定重要文化財 千木を置く棟、雪割あり(2015/11/8)
鳥取市から少し山手に入った八東町用呂の矢部家住宅がある(91頁)

第21節 兵庫県、京都府、滋賀県、福井県


山陰に続いて、兵庫、京都、滋賀、福井を回っておられる。
この地方では、屋根の棟に千木を並べ一本の柱をのせている。この柱を雪割りと呼ぶ。雪国だから、反り棟で雪割りのある萱葺き屋根が多くあるそうだ。
萱葺き屋根を瓦屋根にしても、雪割りが忘れられないためか、瓦で作った変わった形の雪割りもある。

〇【写真】兵庫県篠山市 入母屋 C型 千木を置く棟、雪割あり(2015/9/23)(91頁)

第22節 石川県


・石川県や次節の富山県には、たくさんの反り棟の家屋が存在していたそうだ。
・神代の時代、大国主命が高志の国へ行き、沼河比賣(ぬなかわひめ)に求婚された。その時、多くの供を引き連れ、その供のために反り棟の家を運ばれたと推測されている。
(この地方にたくさんの反り棟家屋が存在しているのは事実である)(98頁)

〇【写真】石川県能登町 入母屋 C型(1977/3/11)(101頁)
〇【写真】石川県輪島市町野町 上時国家 国指定重要文化財(建物) 入母屋 瓦棟(2016/8/6)(99頁)

第8章第25節 福岡県、佐賀県


〇【写真】福岡県柳川市龍神社 入母屋 C型 千木を置く棟、雪割あり(1980/6/6)
・神社で萱葺き反り棟は、非常に珍しい例である
・しかし、2015年4月15日に先生が再訪された時には、建て替えられ、瓦屋根になっていたそうだ。(107頁)

〇【写真】佐賀県小城市 増田羊羹本舗 くど造り 丸瓦棟(2015/4/15)
・台所の“かまど”を“くど”と呼んでいた。棟が“コ”の字形なので、くど造りと称していた。佐賀県では一般的な屋根型であった。(109頁)
〇【写真】佐賀県多久市 川打家 くど造り 丸瓦棟(2015/4/14)(109頁)

〇【写真】佐賀県川副町大詫間 じょうご谷屋根 丸瓦棟(2015/10/19)(112頁)
・「じょうご谷」とか「四方谷」とか言われている。上から見ると“口”の形をしている。
・肥後川と早津江川に挟まれた中島で、よく洪水にあったらしい。洪水の時、じょうご谷家屋はバランスよく浮き上がるようにできているらしい。佐賀県川副町には今でも、じょうご谷家屋が存在している。(112頁)

第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生


中国・雲南省近辺には、瓦屋根ではあるが、数多くの反り棟屋根がある。
また、雲南省博物館には、反り棟屋根の資料が保存されている。中でも銅製貯貝器の蓋の反り棟屋根に、榧野先生は注目しておられる。(128頁)

〇【写真】中国雲南省博物館戦国時代室 銅製貯貝器の蓋の反り棟屋根(2016/7/6)
・これは昆明市近く滇池(てんち)のほとりに在った滇王国(BC400~AD100くらい)の地から出土した貯貝器の蓋の文様である。
貯貝器の蓋には、家畜、馬に乗っている騎士、家畜を食べる猛獣、奴隷を生贄として斬殺している像、そして反り棟の家といった文様が載っている。(128頁)

・鳥越憲三郎「古代中国と倭国 黄河・長江文明を検証する」(中公新書)に“屋根の茅”という記述がある。
・さらに中国雲南省博物館戦国時代室には、藁で葺かれた反り棟の民家が復元展示されている。
〇【写真】中国雲南省博物館戦国時代室 復元稲葺き反り棟家屋と後方の反り棟家屋の絵(2016/7/6)
・なお、滇からは伊都国の金印と同様な金印が出土していることで有名である。滇王国はBC400年頃、国が出来た。人々はそれ以前から生活し、家を建てていた。
(現在、昆明、大理、麗江等々に瓦葺反り棟民居が密集している)
⇒榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる。(128~129頁)



「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(126~127頁)という地図には、反り棟屋根の誕生の地である雲南から、日本にいたる流布経路が示されている。
●:著者の榧野尚先生が現地で反り棟屋根を確認された場所は次のものである。
・雲南省の昆明、元陽、大理、麗江、曲靖
・貴州省の凱里
・福建省の泉州、漳州、金門島
・台湾の斗六、草屯
・浙江省の嘉興
・上海市
・江蘇省の蘇州
・河南省の平頂山
・山東省の威海
・吉林省の図們
・黒龍江省の寧安
・韓国の龍仁、安東、全州、蔚山、梁山、釜山
・日本の出雲地方、隠岐諸島、佐賀地方、その他

■:毎日グラフの写真(157~186頁)あるいは現地の方が撮影した写真で反り棟屋根を確認された場所は、次のものである。
・山東省の煙台
・遼寧省の瀋陽
・北朝鮮の平壌、開城、会寧
・韓国のソウル、仁川、水原、論山、慶州、済州島

≪毎日グラフの引用書名≫
〇毎日グラフ『一億人の昭和史 日本の戦史1 日清・日露戦争』毎日新聞社、1979/2/25
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史1 朝鮮』毎日新聞社、1978/7/1
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史2 満州』毎日新聞社、1978/8/1
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史4 満州』毎日新聞社、1978/8/1
(157頁)




第10章第31節 哈尼族のマッシュルームハウス


雲南には、26の少数民族が住み分けている。
反り棟ではないが、哈尼(はに)族の草葺丸屋根(マッシュルームハウス)に注目しておられる。
哈尼族の人は草葺(主に稲葺)屋根にしか住むことができなかった。しかし、差別はいけないこととして、マッシュルームハウスを改装したという。
(現在では稲藁葺のマッシュルームハウスをほとんど見ることができない)(134頁)

〇【写真】中国雲南省羅平市哈尼族のマッシュルームハウス(2015/2/23)
〇【写真】中国雲南省元陽市 改造された哈尼族の住(2016/3/19)
1年の間に稲藁葺のマッシュルームハウスは改造されて、昔の面影はなかったそうだ
(134頁)

第11章第32節 貴州省、福建省


〇【写真】中国貴州省黔東南苗族侗族自治州丹寨県楊武郷苗族村寨(2017/4/24)
・なお、この写真は浜田憲さんの提供されたものとの注記がある。浜田憲さんは中国民居の研究家で、いろいろ中国民居の資料を提供されたとのこと。また浜田さんは山東省に行って資料収集にあたられたそうだ(135頁、189頁)

〇【写真】中国福建省 承啓楼(土楼の内部)(2015/11/26)
・祖先を祭る祖堂とその門の屋根が反り棟になっている
・“福建の土塁”は世界遺産に登録されている。この土楼の中にも反り棟を持つ建物がある。福建省には、厚い土壁の円形あるいは方形の集合住宅“土楼”が数多く分布している。
・古代中国の時代、戦乱を逃れるため南へ移動した客家(はっか)と呼ばれる人たちが住んでいる。大きな土楼になると、200を超える部屋がある。この承啓楼の中に反り棟を持つ建物・祖堂がある。(141頁)

第11章第33節 金門島、台湾、ベトナム


〇【写真】金門島 三合院(2015/8/24)
金門島、台湾には三合院と言われる“コ”の字型をした反り棟屋根がある。(143頁)

〇【写真】ベトナム中部の街ホイアン市 福建會館(2016/2/15)
ホイアンは交易で栄えた町である。中国の各地から華僑がやってきて、それぞれの出身地の會館をたてた。
例えば、①福建會館、②瓊府(けいふ)會館(中国海南島出身者の會館)、③潮州會館(中国広西チワン自治区桂林市出身者の會館)(147~149頁)

第11章第35節 河南省、山東省


★河南省に開封市と言う町がある。北宋(960年-1127年)の首都であった。
北宋末期にこの街を描いた『清明上河図』と言う絵が残っている。この『清明上河図』中に描かれた街の中に、反り棟瓦屋根民居が点在している。(157頁)

“反り棟の旅”は開封市から東へ山東省に向かう。
★中国山東省徳州市魯北平原にも土坏屋反り棟がある(“山東伝統民居村落”による)

〇【写真】中国山東省烟台(えんたい)市龍口(1905/9/2)
烟台市は山東半島のつけ根・渤海湾に臨む町である。
(出典:毎日グラフ『一億人の昭和史 日本の戦史1 日清・日露戦争』毎日新聞社、1979/2/25より引用)(157頁)

〇【写真】中国山東省威海市栄成市寧津所 アマモ(海草)葺き反り棟屋根の家
(アマモは藻ではなくて草の一種であるという)
・栄成市の道路は、基本的に縦方向と横方向の道路が交差する整然とした村落構成となっている。縦横の道路で区切られた区画は、横長の長方形となる。
・民居(中国では民家を民居と呼ぶ)の平面構成は、北の正房・東(または西)の廂房・南の門房(倒座房)で構成される“コ”字形三合院、あるいは正房・廂房・大門で構成される“L”字形両合院がほとんどである。(158頁)

第12章 韓国、朝鮮、中国東北地方、モンゴル


第36節 韓国


〇【写真】韓国京畿道竜仁市 韓国民俗村 両班の住宅および使用人の住宅(2016/3/30)(161頁)

第37節 朝鮮、中国東北地方、モンゴル


〇【写真】朝鮮平壌市宣化堂 入母屋瓦葺(1894当時)
(出典:毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史1 朝鮮』毎日新聞社、1978/7/1より引用)(180頁)

〇【写真】モンゴル ジンギスカンの宮殿のカラコルム Golden Stupa付属の建物 瓦切妻(2016/9/4)
モンゴルで見つけた唯一の反り棟屋根だそうだ(186頁)

第13章 再び出雲地方へ


反り棟が誕生したと思われる中国雲南地方には、“倭人”という言葉が数多く残されているそうだ。この倭人が反り棟を運んだのではないかと推定されている。つまり雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へやって来た。

・韓国の新羅本記(ママ)の冒頭部分に、BC50年に倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があると聞き、すぐに帰ってしまった。その後、倭人が何回となく新羅の辺境を侵しては、引き返すという記述がある。
倭人たちが新羅の周辺にやって来たのは、縄文時代晩期(およそBC1400年~BC700年)ではないかとされる。そして、倭人たちは再び海を越えて、出雲に来たのであろう。それまで住んでいた茅葺きの反り棟屋根の民家とともに。

ところで不思議な事実がある。福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで、反り棟屋根がないという事実である。
この点、反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと、榧野先生はみておられる。
つまり、河下(旧平田市)から出雲へ、あるいは恵曇(島根町)付近から西川津や法吉に来たのではないかといわれる。
(宍道湖畔でも旧平田市、西川津、法吉は反りの度合いが大変強いが、中間地点では反りは若干緩やかになるようだ)
ともあれ、出雲地方の人々は、長い間、茅葺き反り棟屋根の家に住んできたのである。
(187頁)

出版の動機 と今後の構想


出雲地方の茅葺き反り棟屋根の家に入ると、まず土間があり、家の中心には大きな大黒柱がある。そして、真ん中に囲炉裏(いろり)があり、天井から茶瓶がつるされている。
(正月15日のとんどさん[氏神さんで正月飾を焼く行事]の火を正月飾りの松の枝に移し、家に持ち帰り、囲炉裏にその火を入れ、その火は次の正月まで絶やすことがない)
囲炉裏の煙は天井を回り、天井の茅を乾燥させ、天井にいる虫を殺し、それで屋根をもたせたとされる。

・こうした茅葺き反り棟屋根の家が人の心から心へ愛着をもって伝わっていた。だからこそ、反り棟屋根が長い間保ち続けてきた。
このことを榧野先生は「心の化石」と呼んでおられる。
残念ながら、この化石が無くなり、人々の暮らしの息吹を伝える茅葺き反り棟屋根の家も無くなってきた。
⇒だからこそ、茅葺き反り棟屋根の、このような写真集で人々の生活の息吹を残したいと思いたったと、出版の動機をしるしておられる。(187頁)

ところで、榧野先生が、日本各地および世界を股にかけて旅をされて、反り棟屋根の研究を成し遂げられたのは、多くの人々の協力の賜物でもあった。
このことは、「お礼の言葉」(189頁)からもわかる。
中国民居の研究家である浜田憲さんには本文にも言及されていた。今回の出版を薦めて下さり、挿入された地図を作製して下さったのは、山内靖喜さん(島根大学名誉教授)であったそうだ。また、台湾、金門島、韓国を案内されたのは井上梓さん、昆明博物館への依頼の手紙を翻訳されたのは佐藤智照さん(島根大学准教授)、雲南省博物館に折衝されたのは杜雨萌さん(中華人民共和国駐大阪領事館)だった。その他、出雲弥生の森博物館、富山県民俗民芸村民俗館などの方から、ご教示を受けられた旨が記してある。(189頁)

45年間の長きにわたり、幅広い豊かな人脈を活かされて、日本各地および世界を飛び回られた研究の集大成が、先生のご高著となったことがわかるのである。

そして、先生のお手紙には、次のような構想が記してあった(身体的に叶うかどうかとも)。
①出雲地方の反り棟屋根の写真はまだ残っているそうで、第2号“反り棟屋根 出雲地方特集篇”を作りたいとのこと。
②日本の都道府県中、北海道と高知県へは行っていないので、コロナが収まったら行ってみたいそうだ。
③モンゴル草原にも長い間行っておられないようで、モンゴルの孤児院の子供たち、ボランティアのバーターに再会したいとのこと。

是非ともこうした構想を実現していただきたいと、心から思います。

読後の感想とコメント


私の個人的感想


茅葺き反り棟屋根の民家には、郷愁を感じる。先生の写真集を拝見して真っ先に抱いた私の感想であった。実は昭和47年(1972)に祖父と父が瓦葺屋根の家を新築するまでは、私も茅葺き家屋に住んでいたからである。
さすがに囲炉裏はもうなかったが、幼少の頃、母が土間の竈で薪を燃やして、ご飯を炊いていた記憶はある。だから、「松江市玉湯町 入母屋 C型」(62頁)の写真を見た時など、まるで昔の我が家が写っているのではないかと錯覚したほどである。

今回、榧野先生の写真集を拝見して、いろいろなことを学ばせていただいた。例えば、次のような点が印象に深く残った。
〇茅葺きの家では、囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていたこと(5頁、187頁)
〇10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われたこと(5頁)
〇茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなったことが挙げられること(5頁)
〇映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくること!(86頁)
〇映画“用心棒(東宝、1961年)”の甲斐の国(山梨県)に反り棟の民家が出てくること(106頁)
〇映画“嵐に咲く花(東宝、1940年)”のワンカットに瓦屋根の反り棟水車小屋切妻(岩手県)が出てくること。福島県二本松市の戊辰戦争がその舞台であるそうだ(106頁)
〇北宋(960年-1127年)の末期に開封という街を描いた『清明上河図』と言う絵には、反り棟瓦屋根民居が点在していること(157頁)
〇出雲地方の人々は長い間、茅葺き反り棟屋根の民家に住んできたこと。
・不思議なことには、福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで反り棟屋根がないこと(187頁)
・島根県の東端(安来市清瀬町天の前橋)、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなること(78頁)
・反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと推測されること(187頁)
〇何よりも、反り棟屋根は中国雲南地方(滇池)で誕生したと考えられる点には、大変に興味を覚えた。
・その経路は、雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へ、それから日本へ広がったのではないかと想定できること(6頁、126~133頁、187頁)

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照葉樹林文化論に関連して


榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる点について、私は照葉樹林文化論を想起した(榧野、2021年、128~129頁)。

例えば、佐々木高明氏は、『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』(NHKブックス、1982年[1991年版])において、照葉樹林文化について、次のように述べている。

照葉樹林文化は、日本を含めた東アジアの暖温帯地域の生活文化の共通のルーツをなすという立場に立ち、日本をとりまく西南中国から東南アジア北部、それにアッサムやブータンなどの照葉樹林地域で得られた多くの事例をとりあげて論じられた。
それは、稲作以前にまで視野をひろげて、日本文化のルーツを探究することでもあった。つまり、比較民族学、文化生態学、民俗学をとりこんで、日本文化起源論に新しい視点を提示した。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、16頁)

【佐々木高明『照葉樹林文化の道』NHKブックスはこちらから】

照葉樹林文化の道―ブータン・雲南から日本へ (NHKブックス (422))

≪照葉樹林文化論の特色≫
〇中尾佐助氏が、『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店、1966年)のなかではじめて「照葉樹林文化論」を提唱した。それは、植物生態学や作物学と民族学の成果を総合した新しい学説である。弥生時代=稲作文化の枠にこだわらないユニークな日本文化起源論として位置づけられた。

〇ヒマラヤ山脈の南麓部(高度1500~2500メートル)に日本のそれとよく似た常緑のカシ類を主体とした森林がある。そこからこの森林は、アッサム、東南アジア北部の山地、雲南高地、さらに揚子江の南側(江南地方)の山地をへて日本の西南部に至る、東アジアの暖温帯の地帯にひろがっている。
⇒この森林を構成する樹種は、カシやシイ、クスやツバキなどを主としたものである。
いずれも常緑で樹葉の表面がツバキの葉のように光っているので、「照葉樹林」とよばれる。

〇この照葉樹林帯の生活文化のなかには、共通の文化要素が存在する。
・ワラビ、クズなどの野生のイモ類やカシなどの堅果類の水さらしによるアク抜き技法
・茶の葉を加工して飲用する慣行
・マユから糸をひいて絹をつくる
・ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて、漆器をつくる方法
・柑橘とシソ類の栽培とその利用
・麹(コウジ)を用いて酒を醸造すること
(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店、1966年。上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年)
・サトイモ、ナガイモなどのイモ類のほか、アワ、ヒエ、シコクビエ、モロコシ、オカボなどの雑穀類を栽培する焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたこと
・これらの雑穀類やイネのなかからモチ性の品種を開発したこと。そしてモチという粘性に富む特殊な食品を、この地帯にひろく流布させたこと。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年)

※このような物質文化、食事文化のレベルにおける共通性が、文化生態学的な視点から追究されてきた

【中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店はこちらから】

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

【上山春平編『照葉樹林文化』中公新書はこちらから】

照葉樹林文化―日本文化の深層 (中公新書 (201))

〇この地帯には、比較民族学の立場から、神話や儀礼の面においても、共通の文化要素が存在していることが知られている。
・『記紀』の神話のなかにある、オオゲツヒメやウケモチガミの死体からアワをはじめとする五穀が生れたとする、いわゆる死体化生神話
・イザナキ、イザナミ両神の神婚神話のなかにその残片がみとめられる洪水神話
・春秋の月の夜に若い男女が山や丘の上にのぼり、歌を唱い交わして求婚する、いわゆる歌垣の慣行
・人生は山に由来し、死者の魂は死後再び山に帰っていくという山上他界の観念
(大林太良『稲作の神話』弘文堂、1973年)

このように、中国西南部から東南アジア北部をへてヒマラヤ南麓に至る東アジアの照葉樹林地帯にみられる民族文化の特色と、日本の伝統的文化の間には、強い文化の共通性と類似性が見出せる。
日本の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡を刻み込んでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツをもつことがわかってきた。

こうして「照葉樹林文化論」は、有力な日本文化起源論の一つとみなされた。
東アジアの照葉樹林帯の文化を特色づける特徴の一つは、雑穀やイモ類を主作物とする焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたことである。
水田稲作は、この雑穀類を主作物とする焼畑農耕の伝統のなかから、後の時期になって生み出されたと考えられるようだ。
照葉樹林文化は水田稲作に先行する文化である。それは水田稲作を生み出し、稲作文化をつくり出す際のいわば母体になった文化であるとされる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、13~17頁)

このような照葉樹林文化論を考慮に入れると、今回、反り棟屋根の誕生の地を中国雲南省と想定しておられる、榧野先生の仮説は大変に興味深い。
(「第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生」(128~133頁)および「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(126~127頁)を参照のこと)

照葉樹林文化論と東亜半月弧


上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年[1992年版])において、照葉樹林文化のセンターとして、「東亜半月弧」という名称を提唱している。それは、南シナの雲南省あたりを中心として、西はインドのアッサムから東は中国の湖南省におよぶ半月形の地域をいう。

この名称は、西アジアの「豊かな三日月地帯」(Fertile Crescent)を意識して名づけられた。この有名な三日月地帯は、これまで世界農耕文化の一元的なセンターのように考えられがちだった。しかし、それは、ユーラシア西部の暖温帯、つまり地中海周辺を本来の分布圏とする地中海農耕文化のセンターとして相対化されるという。
(たとえば、「西亜半月弧」とでも呼びかえた方がふさわしい)

二つの半月弧の特質について、次のように要約している。
【西亜半月弧】
①沙漠地帯が森林に接するあたりの乾燥地帯のどまんなかに位置する
②地中海農耕文化のセンターをなしている
③この地中海農耕文化はムギを主穀とする
④農・牧混合の農耕方式をとる
⑤コーカソイド系の民族(白色人種)を主なる担い手としている。

【東亜半月弧】
①照葉樹林帯が熱帯林に接するあたりの湿潤地帯のどまんなかに位置する
②照葉樹林農耕文化のセンターをなしている
③この照葉樹林農耕文化は、初めはミレット(雑穀)を、後にイネ(ジャポニカ・ライス)を主穀とする
④牧畜をともなわない農耕方式をとる
⑤モンゴロイド(黄色人種)を主たる担い手としている。

農耕の成立は、人類史のプロセスを未開と文明に両分する大きなエポックを意味している。農耕の特質のうちに、農耕を基盤とする文明の特質がはらまれているにちがいない。そうだとすれば、ユーラシア大陸の西と東に展開された文明の特質を対比するためには、それぞれの文明が基盤としている農耕の特質を対比することが避けられない課題となってくるようだ。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、5~7頁)

照葉樹林文化のさまざまな要素として、日本人としても、ナットウ(納豆)、茶は身近なものである。
『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年)の中でも紹介されている。
照葉樹林文化の農耕が、巨視的にみて、焼畑農耕の形でスタートしたことは、共通の前提とみられている。
ダイズが焼畑の重要な作物である(のちにダイズは水田にアゼマメとして植えられる)。
ナットウ(納豆)の流布経路も、仮説センターから、日本のナットウ以外にも、ジャワのテンペ、ネパールのキネマといった形で伝わったそうだ(「ナットウの大三角形」と称されている)。
塩をたくさん与えて発酵させたナットウは、製法のプロセスの類型でいくと、ミソに接近してくる。ミソがはっきり出てくるのは、華北から日本であるという。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、128~130頁)

また、お茶というのは、照葉樹林文化における固い木の葉を食べる食べ方から出てきているとされる。いわゆる中国産の茶の原産地は雲南あたりを中心とした中国南部と考えられている。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、133~141頁)

【上山春平ほか『続・照葉樹林文化』中公新書はこちらから】

照葉樹林文化 続 (中公新書 438)

なお、ミソ状やモロミ状をしたもの、その他の大豆の発酵食品は、今日でも雲南省から貴州省をへて湖南省に至るいわゆる≪東亜半月弧≫の地域には豊富に存在している。例えば、雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)に「豆司」という大豆の発酵食品がある。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、127~131頁)

アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センター


また、雲南といえば、アジアの栽培イネの起源の場所として注目されている。
アジアの栽培イネ(オリザ・サチバ)の起源の場所については、従来はインド中・東部の低湿地とされ、その際、インディカ型のイネがまず栽培され、後にそのなかからジャポニカ型のイネがつくり出されたと一般に考えられてきた。
ところが、戦後、インド亜大陸のなかでも辺境のアッサムやヒマラヤ地方、あるいは東南アジアや中国の僻地の調査が進められると、従来の「定説」とは異なる新しい説が出された。
そのなかで、渡部忠世氏は、アジアの栽培イネがアッサムから雲南に至る高地地域で起源したという学説を提唱した。

古い時代のイネを調べるのに、次のような面白い方法を用いたそうだ。
一般にインドや東南アジアでは、古建築に用いられる煉瓦は、泥にイネワラやモミを混入して焼かれることが多い。したがって、古い煉瓦のなかからイネモミを集め、その建物の年代と照合すると、そのイネモミの年代を知ることができるという。
このような方法によって、インドでは紀元前5、6世紀、東南アジアでは紀元後1、2世紀にまで遡る多量のイネモミを集め、それを計測して系統的な分類をすすめたそうだ。

すると、アジアのなかで、最も多くの種類のイネが集中しているのは、インド東北部のアッサム地方とそこから中国の雲南地方にかけての地域であることが明らかになった。
また、古代のイネの資料から古いイネの伝播経路を推定すると、その「稲の道」はいずれも、このアッサム・雲南の地域へ収斂することを見出した。
こうした事実にふまえて、「アジア栽培稲が、アッサム・雲南というひとつの地域に起源したという仮説」を提唱した。
そして渡辺忠世『稲の道』(日本放送出版協会、1977年)の「東・西“ライスロード考”」というエッセーのなかで、

「アジア大陸の稲伝播の道を追ってみると、すべての道が結局のところ、アッサム・雲南の山岳地帯へ回帰してくる。従来の常識とは異なって、インディカも、ジャポニカも、すべての稲がこの地帯に起源したという結論が導かれてくる」という。

そして「雲南もまた、アッサムと非常によく似たところが多い。複雑な地形といい、多様な種類の稲の分布といい、このふたつの丘陵地帯は古くから同質的な稲作圏を成立させてきた。両地域を結ぶきずなとなるのがブラマプトラ川である。この大河はアッサムを貫流してベンガル湾にそそぐが、その上流の一部は雲南省境に達している。
ブラマプトラ川のみでなく、メコン、イラワジの諸川、さらに紅河(ソンコイ川)や揚子江もまた、すべて雲南の山地に発している。ここに出発して、アジアの栽培稲は南へ、西へ、東へと伝播する。雲南と古くに稲作同質圏を形成していたアッサムは、西への伝播の関門であったのだ。アジアにおける稲の経路は、このようにして、大陸を縦横に走る複雑な流れであった」

【渡辺忠世『稲の道』日本放送出版協会はこちらから】

稲の道 (NHKブックス 304)

このように、渡部氏は、アッサム・雲南センターの特色を描き出している。このアッサム・雲南センターの地域は、照葉樹林文化の中心地域として設定した≪東亜半月弧≫の中核部と一致するのである。つまり、この地域は、照葉樹林文化を構成するさまざまな文化要素が起源し、それが交流した核心部に当る地域である。アジアの栽培イネも、そこに収斂する文化要素の一つであったとみることができる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、215~217頁)

反り棟屋根も、建築分野からみた照葉樹林の文化要素の一つであろうか? 今後の検証がまたれるところである。
反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられた。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(6頁)

また、アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センターの問題に関して、この稲作との関連でいえば、茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった点を榧野先生が挙げられること(5頁)は、大変に示唆的であった。

≪参考文献≫
〇上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年[1992年版]
〇上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]
〇佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]



≪ピケティ『21世紀の資本』にみえるバルザックの『ゴリオ爺さん』 その3≫

2021-05-01 19:36:27 | フランス語
≪ピケティ『21世紀の資本』にみえるバルザックの『ゴリオ爺さん』 その3≫
(2021年5月1日投稿)




【はじめに】


 前回のブログでは、バルザックの『ゴリオ爺さん』に登場するヴォートランのお説教を主にテーマに取り上げた。この主題は、トマ・ピケティ氏の『21世紀の資本』全体を貫くテーマでもある。ピケティ氏の『21世紀の資本』には、その時代の社会経済的状況を物語る小説が随所に登場する。バルザックとオースティンの小説は、19世紀という時代と社会を映し出す鏡のような存在である。
 今回のブログでも、『21世紀の資本』にみえるバルザックの『ゴリオ爺さん』を考えてみたい。ヴォートランのお説教の主題は、要するに、労働所得(勉強、勤労、能力)と相続財産との“せめぎ合い”である。
 ピケティ氏は、その“せめぎ合い”の歴史を19世紀から21世紀にかけて、どのように捉えているのか。この点に焦点をしぼって、『21世紀の資本』の内容を紹介してみたい。
 なお、重要な箇所はフランス語の原文を併記することにした。



【トマ・ピケティ(山形ほか訳)『21世紀の資本』みすず書房はこちらから】

21世紀の資本


【Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Seuilはこちらから】

Le Capital au XXIe siècle (Les Livres du nouveau monde) (French Edition)



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・富の性質――文学から現実へ(第3章)
・公的債務で得をするのは誰か(第3章)
・歴史的に見た資本収益率(第6章)
・20世紀の大きなイノベーション(第7章)
・長期的な相続フロー(第11章)
・ラスティニャックのジレンマ(第11章)
・不労所得生活者と経営者の基本計算(第11章)
・古典文学に見るお金の意味(第2章)






富の性質――文学から現実へ (第3章)


「第3章 資本の変化 富の性質――文学から現実へ」において、次のようなことが述べてある。

文学は、イギリスとフランスでの富を語る導入部として、うってつけである。

オノレ・ド・バルザックやジェイン・オースティンが小説を書いた19世紀はじめ、富の性質は、あらゆる読者にとって、かなり明確だった。
富はレントを生み出すものだった。
(レントとは、資産の所有者があてにできる定期的な支払いのことである。多くの場合、その資産とは、土地あるいは国債だった)

ゴリオ爺さんが所有していたのは国債、ラスティニャック家のささやかな財産は土地であった。
『分別と多感』の登場人物のジョン・ダッシュウッドが相続する遺産も、ノーランドの広大な農地である。
ほどなくジョンに追い出された義妹のエリナーとマリアンは、父親が遺したわずかな資本である国債の利息でやりくりしなければならない。

19世紀の古典的小説には富が頻出する。資本の大小や所有者はさまざまだが、たいへいは土地か国債のどちらかである。

原文には次のようにある。
Chapitre 3. Les métamorphoses du capital
La nature de la fortune : de la littérature à la réalité

Quand Balzac ou Jane Austen écrivent leurs romans, au
début du XIXe siècle, la nature des patrimoines en jeu est a
priori relativement claire pour tout le monde. Le patrimoine
semble être là pour produire des rentes, c’est-à-dire des
revenus sûrs et réguliers pour son détenteur, et pour cela
il prend notamment la forme de propriétés terriennes et de
titres de dette publique. Le père Goriot possède des rentes
sur l’État, et le petit domaine des Rastignac est constitué de
terres agricoles. Il en va de même de l’immense domaine
de Norland dont hérite John Dashwood dans le Cœur et la
Raison (Sense and Sensibility), et dont il ne va pas tarder à
expulser ses demi-sœurs, Elinor et Marianne, qui devront
alors se contenter des intérêts produits par le petit capital
laissé par leur père sous forme de rentes sur l’État. Dans le
roman classique du XIXe siècle, le patrimoine est partout, et
quels que soient sa taille et son détenteur il prend le plus
souvent ces deux formes : terres ou dette publique.
(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, p.184.)


21世紀の視点からとらえると、土地や国債といった資産は古めかしく感じられる。資本がもっと「動的」といわれる現代の経済、社会の実情とは無関係と考えたくもなる。
たしかに、19世紀の小説の登場人物は、民主主義と能力主義の現代社会では、いかがわしい存在とされる、不労所得生活者の見本に思われることが多い。
でも、あてにできる安定した収入を生み出す資本資産を求めるのは、至極自然なことである。
(経済学者が定義する「完全」資本市場の目標である)

よく見ると、19世紀と20世紀というのは、一見したほどちがうわけではないようだ。
まず、この2種類の資本資産(土地と国債)は、それぞれまったくちがう問題を提起するので、19世紀の小説家たちが物語の都合上やったように、ぞんざいにまとめるべきではない。

つきつめれば、国債とは、国民のある一部(利息を受け取る人たち)が、別の一部(納税者)に対して持つ請求権にすぎない。
だから国富から除外して、民間財産のみに含めるべきだとする。

政府債務と、それに関連した富の性質との複雑な問題は、現在でも1800年当時と変わらず重要である。
現在、公的債務は、フランスをはじめさまざまな国で、ほぼ歴史的な最高記録に達している。おそらく、これがナポレオンの時代と同じく、多くの混乱のもとになっている。
金融仲介のプロセス(個人が銀行に預金し、銀行がそれをどこかに投資)は複雑化していて、誰が何を所有しているのか、よくわからないこともしばしばである。
(19世紀当時、公債からの利益で生活していた不労所得生活者ははっきりわかった。それはいまも変わらないのだろうか。この謎は解明する必要がある)

もうひとつ、もっと重要なややこしさがある。
当時の古典小説だけでなく実際の社会でも、さまざまな形の資本が存在し、不可欠な役割を担っていた。
ゴリオ爺さんは、パスタ作りと穀物の商取引で一財産を築いた。一連の革命戦争とナポレオン台頭の時代、かれはすぐれた小麦粉を見分けるずば抜けてすぐれた目と、パスタ作りの腕を活かし、流通網と倉庫を築いて、適切な製品を適切なところへ、適切な時期に届けられるようにした。
起業家として富を成してから、かれは事業を売りに出した。
(21世紀の創業者がストック・オプションを行使して、キャピタル・ゲインを手にするのとほぼ同じである)
そしてかれは、売却益をもっと安全な資産に投資した。必ず利益が支払われる永久公債である。
この資本のおかげで、かれは娘たちに良縁を見つけ、これでふたりはパリの上流社会において輝かしい位置を確保できた。
1821年、ゴリオは死の床にあり、娘のデルフィーヌとアナスタジーからは見捨てられていたのに、なおオデッサのパスタ製造業への投資で儲けようと夢見ていた。

このゴリオ爺さんの資本形成について、原文には、次のようにある。
Chapitre 3. Les métamorphoses du capital
La nature de la fortune : de la littérature à la réalité

Autre complication, plus importante encore : bien d’autres
formes de capital, souvent fort « dynamiques », jouent un
rôle essentiel dans le roman classique et dans le monde de
1800. Après avoir débuté comme ouvrier vermicellier, le père
Goriot a fait fortune comme fabricant de pâtes et marchand
de grains. Pendant les guerres révolutionnaires et napoléo-
niennes, il a su mieux que personne dénicher les meilleures
farines, perfectionner les techniques de production de pâtes,
organiser les réseaux de distribution et les entrepôts, de
façon que les bons produits soient livrés au bon endroit au
bon moment. Ce n’est qu’après avoir fait fortune comme
entrepreneur qu’il a vendu ses parts dans ses affaires, à la
manière d’un fondateur de start-up du XXIe siècle exerçant
ses stock-options et empochant sa plus-value, et qu’il a tout
réinvesti dans des placements plus sûrs, en l’occurrence des
titres publics de rente perpétuelle ― c’est ce capital qui lui
permettra de marier ses filles dans la meilleure société pari-
sienne de l’époque. Sur son lit de mort, en 1821, abandonné
par Delphine et Anastasie, le père Goriot rêve encore de
juteux investissements dans le commerce de pâtes à Odessa.
(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, p.185-186.)


バルザックの別の作品に登場するセザール・ビロトーは、香水で儲けた。
ビロトーは独創的な発明家で、かれが生み出した美容品(髭剃りクリーム、駈風薬など)は、第一帝政後期および復古王政のフランスで大流行していた。
でもそれだけでは、ビロトーは不満足だった。
隠居する歳になって、かれは1820年代当時急速に開発が進んでいたマドレーヌ近郊の不動産に大胆に投機して、資本を3倍にしようと試みた。チノン近郊のよい農地と国債に投資するようすすめた妻の賢明な助言をはねつけて、ビロトーは破滅してしまう。

一方、ジェイン・オースティンの作品に登場する主人公たちは、バルザックの作品の登場人物よりも田舎風である。
裕福な地主ばかりだが、バルザックの登場人物より利口そうなのはうわべのみだ。
『マンスフィールド・パーク』のファニーの叔父、トマス・バートラム卿は、運営管理と投資のために長男を連れて西インド諸島へ渡らなければならない。
マンスフィールドに戻ってからも、再び何ヵ月も西インド諸島に滞在することを余儀なくされる。
(1800年代前半、何千キロも離れた農園を管理するのは容易ではなかった。富に気を配るのは、地代を回収したり、国債の利息を手に入れたりするような、穏やかな仕事ではすまなかった)

では、どっちだろうか。穏やかな資本か、リスクのある投資か。
西暦1800年から、実は何も変わっていないと結論づけて差し支えないだろうか。
18世紀から、資本構造は実際にどう変わったのだろうか。

ゴリオ爺さんのパスタは、スティーブ・ジョブズのタブレットに変わったかもしれないし、1800年の西インド諸島への投資は、2010年の中国や南アフリカへの投資に変わったかもしれないが、資本の深層構造は本当に変化しただろうかと、ピケティ氏は問いかけている。

資本は決して穏やかではない。
常にリスク志向で、少なくともはじめのうちは起業精神にあふれているが、十分に蓄積すると、必ずレントに変わろうとする。
それが資本の天命である。それが論理的な目標である。

では、現在の社会的格差はバルザックやオースティンの時代とまったくちがうという漠然とした印象は、どこから生まれるのだろうか。
これは何の現実的根拠もない無内容なおしゃべりにすぎないのだろうか。それとも、現代の資本が昔よりずっと「動的」になり、「レント・シーキング」は減ったと見なす根拠となる客観的要素は見つかるだろうかと、問いかけている。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、119頁~122頁)

公的債務で得をするのは誰か(第3章)


歴史的記録は重要だ。
第一に、マルクスをはじめとする19世紀の社会主義者たちが公的債務を警戒していた理由がわかる。かれらは公的債務が民間資本の手駒だと見ていた。

当時、イギリスだけでなく、フランスなど他の多くの国々でも、公債に投資していた人々が見返りをたっぷり手にしていただけに、なおさら懸念は大きかった。
1797年の革命による破産は繰り返されず、バルザックの小説に登場する不労所得生活者たちは、ジェイン・オースティンの著作と同じく、国債についてまるで心配していないようだ。

実際、1815-1914年のフランスのインフレ率は、イギリスと同じく低かった。そして国債の利息は必ず期日通りに支払われた。
19世紀を通じて、フランスのソブリン債はよい投資だった。投資家たちはイギリス同様、その利益で儲けた。
フランスの公的債務の累積額は1815年の時点では、ごくわずかだったが、それから数十年間、特に復古王政と七月王政(1815-1848年)の期間に増えた。
この期間、選挙権は財産証明をもとに与えられていた。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、138頁)

歴史的に見た資本収益率(第6章)


第6章の「歴史的に見た資本収益率」「人的資本はまぼろし?」という節において、次のようなことを述べている。

〇フランス、イギリスともに、18世紀から21世紀にかけて、純粋資本収益率は、中央値にして年間4-5パーセント(一般的には年間3-6パーセント)の間にあった。
顕著な長期的上昇/下降トレンドはない。
この長期にわたる純粋資本収益率の事実上の安定(あるいは18世紀、19世紀の4-5パーセントから現在の3-4パーセントへのわずかな低下というほうがいいだろうか)は、この研究において重要な意味を持つ事実である。

これらの数値についての感覚を得るため、まず18世紀、19世紀に資本から地代への伝統的な換算率は、最も普遍的でリスクが少ない形の資本(主に土地、国債)については、おおむね年5パーセントだった。
資本資産の価値は、その資産がもたらす年間所得20年分に匹敵すると試算されていた。
(ときには25年分に増加したこともある。年間4パーセントの収益に相当)

バルザックやジェイン・オースティンなど、19世紀前半の古典小説では、資本とその5パーセントの地代が等価であることは、当然と見なされていた。小説家たちは、それがどんな資本か言及しないことも多く、たいていは土地と国債がほぼ完璧な代替品であるように扱い、地代による収益としか言わない。
たとえば、主人公の受け取る地代は5万フラン、あるいは2000英国ポンドと書かれてはいても、それが土地によるものか、国債によるものか語られない。(どちらでもよかったのだ)
いずれにしても、所得は確実で安定しており、確固とした生活様式を守り、社会的地位を世代を超えて受け継いでいくには、十分だった。同様に、オースティンもバルザックも、ある額の資本を年間地代に変換する収益率など明記するまでもないと思っていた。
(その投資が国債であろうと、土地であろうと、何かまったくちがうものであろうと、年間5万フランの地代を生み出すには約100万フランの資本[あるいは年間2000ポンドの所得を生むには4万ポンドの資本]が必要と、読者の誰もがよく知っていたからだ。)

19世紀の小説家と読者たちにとって、財産と年間地代が等価であることは明白だった。一方の指標から他方に転換するのは容易で、両者が同義語であるかのようだった。

また、ある種の投資には十分な個人的関与が求められることも、小説家と読者たちはよく知っていた。
それがゴリオ爺さんのパスタ工場であろうと、『マンスフィールド・パーク』のトマス・バートラム卿の西インド諸島の農園であろうと。
そのうえ、このような投資の収益率は当然ながら高く、一般的にはおよそ7-8パーセントであった。
(セザル・ビロトーが香水を扱って成功した後、パリのマドレーヌ地区の不動産への投資で狙ったように、特によい商談がまとまった場合は、もっと高くなった。
でも、このような仕事をまとめるためにつぎこんだ時間とエネルギーが利益から差し引かれた。トマス・バートラム卿が西インド諸島に何ヵ月も滞在しなければならなかったことを思い出してほしい)
最終的に手に入る純粋収益は、土地や国債への投資で入手できる4-5パーセントとあまり変わらないことも明らかだった。つまり、追加分の収益率は、主に仕事にささげられた労働所得に対する報酬で、資本による純粋収益(リスク・プレミアムを含む)は、たいてい4-5パーセントより、あまり増えなかった。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、214~216頁)

≪第6章 人的資本はまぼろし?≫
過去2世紀で技術水準は著しく上昇した。だが、産業、金融、不動産資本のストックも多いに増加している。
資本は重要性を失い、人類は資本、遺産、血縁を基盤とする文明から、人的資本と才能を基盤とする文明に魔法のように移行したと考える人たちもいる。金持ちの株主は、もっぱら技術の変化のおかげで、才能ある経営者に取って代られたといわれる。
(この問題には、第III部で所得と富の分配における個々の格差の研究に取り組むときに、再び立ち戻るという。)

でもすでに、こうした愚かな楽観主義への警告になるものは、ピケティ氏は示してきたと批判している。
ピケティ氏の見解はこうである。
資本は消え去っていないし、それは資本がいまも役に立つからである。おそらくその有用性は、バルザックやオースティンの時代に劣らないし、それは今後も変わらないだろうとする。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、232~233頁)

20世紀の大きなイノベーション(第7章)


資産を持つ中流階級の台頭に伴って、上位百分位の富の占有率は半分以下に急減した。
20世紀初頭は50パーセント以上あったものが、21世紀の初めには20-25パーセントにまで減少した。

年間の賃貸料で安楽に暮らせるほど大きな財産の数が減ったという意味で、ヴォートランのお説教はこれでいくぶん説得力を失った。
若きラスティニャックはもはやヴィクトリーヌ嬢と結婚しても、法律を勉強するより、いい生活はできない。
これは歴史的に重要なことだ。
なぜなら、1900年前後のヨーロッパにおける富の極端な集中は、実は19世紀すべてを通じて見られた特質だったからだ。

この規模感(富の90パーセントをトップ十分位が所有し、トップ百分位が少なくとも50パーセントを所有する)は、アンシャン・レジーム期のフランスや18世紀イギリスの。伝統的農村社会の特徴でもあった。
実はこのような資本集中は、オースティンやバルザックの小説に描かれているような、蓄積し相続された財産に基づく社会の存続、繁栄の必要条件であるとされる。
だから、ピケティ氏のこの本の目的のひとつは、そのような富の集中が出現、存続、消滅し、そして再出現しそうな条件を理解することにある。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、272頁)

フランス語の原文には、次のようにある。
Chapitre 7. Inégalités et concentration : premiers repères
L’innovation majeure du XXe siècle : la classe moyenne patrimoniale

Nous verrons que cela a largement contribué à modifier les termes
du discours de Vautrin, dans le sens où cela a fortement et
structurellement diminué le nombre de patrimoines suffi-
samment élevés pour que l’on puisse vivre confortablement
des rentes annuelles issues de ces patrimoines, c’est-à-dire le
nombre de cas où Rastignac pourrait vivre mieux en épousant
Mlle Victorine plutôt qu’en poursuivant ses études de droit.
Ce changement est d’autant plus important historiquement
que le niveau extrême de concentration des patrimoines que
l’on observe dans l’Europe de 1900-1910 se retrouve dans une
large mesure tout au long du XIXe siècle.

(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, p.412.)

Toutes les sources dont nous disposons indiquent que ces ordres de grandeur
― autour de 90 % du patrimoine pour le décile supérieur,
dont au moins 50 % pour le centile supérieur ― semblent
également caractériser les sociétés rurales traditionnelles, qu’il
s’agisse de l’Ancien Régime en France ou du XVIIIe siècle
anglais.

Nous verrons qu’une telle concentration du capital est
en réalité une condition indispensable pour que des sociétés
patrimoniales telles que celles décrites dans les romans de
Balzac et de Jane Austen, entièrement déterminées par le
patrimoine et l’héritage, puissent exister et prospérer. Tenter
de comprendre les conditions de l’émergence, du maintien,
de l’effondrement et du possible retour de tels niveaux de
concentration des patrimoines est par conséquent l’un de nos
principaux objectifs dans le cadre de ce livre.
(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, p.413.)

長期的な相続フロー(第11章)


どんな社会でも、富を蓄積する過程は主に二つある。労働と相続である。
この両者はそれぞれ富の階層のトップ十分位やトップ百分位でどのくらいの割合を占めているのだろう?
(これが鍵となる問題だ)

ヴォートランのラスティニャックへのお説教では、その答えは明快である。勉強と労働では、とうてい快適で優雅な生活は得られない。唯一の現実的戦略は、遺産を持つヴィクトリーヌ嬢と結婚することだった。
ピケティ氏のこの本の目的は、19世紀フランス社会がヴォートランの描く社会とどこまで似ているかを見極めることである。そしてなぜそんな社会がだんだん発達してきたのかを学ぶことである。
(このように、ヴォートランのお説教は、節の見出しになっているだけでなく、ピケティ氏の著作の全体にかかわる主題であることがわかる。)

フランス語の原文には次のようにある。
Chapitre 11. Mérite et héritage dans le long terme
L’évolution du flux successoral sur longue période

Dans le discours que Vautrin tient à Rastignac et que nous
avons évoqué dans le chapitre 7, la réponse ne fait aucun
doute : il est impossible par les études et le travail d’espérer
mener une vie confortable et élégante, et la seul stratégie
réaliste est d’épouser Mlle Victorine et son héritage. L’un de
mes tout premiers objectifs, dans cette recherche, a été de
savoir dans quelle mesure la structure des inégalités dans la
société française du XIXe siècle ressemble au monde que décrit
Vautrin, et surtout de comprendre pourquoi et comment ce
type de réalité évolue au cours de l’histoire.
(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, p.602.)


まず、相続の年間フロー、すなわち年間の遺産総額(それと生前の贈与)を国民所得比で示したものを、長期的に検証している。
この数値は、毎年相続された過去の富の額を、その年の総所得に対する比率として示すものである。
(労働所得は毎年国民所得のおおよそ3分の2を占めており、資本所得の一部は相続人に遺された資本からの収入であると、ピケティ氏は断っている)

まずはフランスの事例から検証している(長期データが最も揃っている)
そこでのパターンは、他のヨーロッパ諸国にもおおむね適用できる。
最終的には、全世界で見ると、何が言えるかを検討する。

【図11-1 年間相続フローの国民所得比:フランス 1820-2010年】(395頁)
フランスにおける1820年から2010年までの年間相続フローの動向を示したものである。

二つの事実が目につくという。
①19世紀には相続フローは年間所得の20-25パーセントを占めていたということ
(世紀の終わり近くになると、この比率は微増傾向を示した)
・これはとても大きなフローで、資本ストックのほぼすべてが相続に由来したことを示す
・相続した富が19世紀の小説に頻出するのは、作家、特に借金まみれだったバルザックがこだわっていたせいだけではないようだ
・それはなにより、19世紀社会では相続が構造的な中心を占めていたせいである。
経済フローとしても社会的な力としても、相続は中心的な存在だった。さらに時を経てもその重要性は減らなかった。
・それどころか、1900-1910年には、相続フローは、ヴォートラン、ラスティニャック、下宿屋ヴォケーの時代である1820年代に比べて、ちょっと高くなっている。
(国民所得の20パーセント強から25パーセントに上がった)
②その後、相続フローは、1910年から1950年の間に、著しく減少した(5パーセント以下)が、その後、じわじわと回復し、1980年代にはそれが加速した。
(2010年には約15パーセントまで持ち直した)

(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、394~395頁)


ラスティニャックのジレンマ(第11章)


相続財産の主要な特徴のひとつは、不平等な形が分配されることだ。
これまでの推定値に、一方で相続の格差、もう一方で労働所得の格差を導入することで、最終的にヴォートランの陰鬱なお説教が、さまざまな時期にどの程度当てはまるか、分析できるとする。

【図11-10】では、「1790-2030年に生まれたコーホートにとってのラスティニャックのジレンマ」と題したグラフが掲載されている。
このグラフは、19世紀には相続者トップ1パーセントが享受できる生活水準は、労働による稼ぎトップ1パーセントよりもずっと高かったことを示しているという。

これを見ると、ウージェーヌ・ド・ラスティニャックのコーホートを含む(バルザックはかれが1798年生まれと書いている)、18世紀末と19世紀中に生まれたコーホートは、あの前科者(ヴォートラン)が説いた極端なジレンマに直面していたことがわかる。
どうにかして相続財産を手に入れた者は、勉学と労働によって自分の道を切り開かなければならない者に比べ、ずっとよい暮らしができた。

≪グラフの特徴≫
・異なる資産水準を、具体的・直観的に説明するために、リソースを各時代の賃金が最も低い労働者50パーセントの平均賃金の倍数という形で示した
・この基準値は、当時一般的に国民所得の約半分を稼いでいた「下層階級」の生活水準と見ることもできる。
・これは社会の格差を判断する際の参照点としても有益であるとする。

≪グラフから得られた結果≫
・19世紀に最も裕福な相続人1パーセント(その世代のトップ1パーセントの遺産を相続する人々)が生涯通じて獲得できる資産は、下層階級の資産の25-30倍だった。別の言い方をすれば、親から、または配偶者を介して遺産を得た人は、25-30人の家事使用人を生涯にわたって雇える。

・これに対し、ヴォートランのお説教にあったように、判事、検事、弁護士といった職業に就いた労働所得トップ1パーセントの人が持つ資産は、下層階級の約10倍だった。
⇒馬鹿にした金額ではないが、明らかに生活水準としてはずっと低い。特にヴォートランも述べていたように、そのような職業に簡単には就けないことを考慮すればなおさらである。
(その1パーセントに入るには法学校でよい成績を修めるだけではダメで、多くの場合、多年にわたり権謀術策に励まねばならない。)

・こんな状況であれば、もしトップ百分位の遺産を入手できる機会が目の前に現れれば、それを見逃す手はない。

次に、1910-1920年生まれの世代について計算している。
・かれらが直面した人生の選択はちがっていたことがわかる。相続のトップ1パーセントは、下層階級の標準のどうにか5倍の資産を保有しているにすぎない。
(最も稼ぎのよい仕事に就いた1パーセントは基準値の10-12倍を稼いでいる。これは賃金階層百分位が総賃金の約6-7パーセントを長期にわたり、比較的安定して占めてきたという事実の結果である)

・歴史上初めて、トップ百分位の職業に就いたほうが、相続のトップ百分位よりも裕福に暮らせるようになった。
(勉学、勤労、そして才能のほうが、相続よりも実入りがよくなった)

・ベビーブーマーのコーホートにとっても、選択は同じくらい明白なものだった。
1940-1950年生まれのラスティニャックには、トップ百分位の仕事(下層階級の基準の10-12倍のリソースを持てる)を目指し、同時代のヴォートランたちを無視する正当な理由が存在した。
(なぜなら相続トップ百分位は、下層階級基準値の6-7倍しかもたらしてくれないから)
⇒これらすべての世代にとって、職業を通じた成功は、単に道徳的なだけでなく、収益性も高かったのだ。

≪結果が物語ること≫
具体的にこれらの結果は、次のことを物語っている。
・この期間ずっと、また1910年から1960年に生まれたすべてのコーホートにとって、所得階層のトップ百分位の大部分を占めていたのは、仕事を主な収入源とする人々だったということである。
これは、フランスでも、それ以上に他のヨーロッパ諸国でも前代未聞であった。トップ百分位はどの社会においても、重要なグループであるため、大きな変化でもあった。
トップ百分位は社会の経済的、政治的、象徴的構造の形成において中心的役割を演じる、かなり広いエリート層である。

・すべての伝統社会において、1789年に貴族が人口の1-2パーセントを占めていたことを思い出してほしい。そして実際にはベル・エポック期でも(フランス革命によって燃え上がった希望にもかかわらず)、このトップ1パーセント集団をほぼ支配していたのは、相続資本だった。

・だからこれが20世紀最初の半世紀に生まれたコーホートに当てはまらないという事実は一大事である。
社会進歩の不可逆性と古い社会秩序の終焉に対する空前の確信を促進した。

(たしかに、第二次世界大戦後の30年間に格差が根絶されたわけではないが、賃金格差という楽観的な観点からは、そのように見えた。
たしかに、ブルーカラー労働者、ホワイトカラー労働者、そして経営者の間には大きな差があったし、1950年代フランスでは、これらの格差は拡大傾向にあった。)
でも、この社会には基本的な一体性があった。そこではすべての人が労働信仰に加わり、能力主義的理想を賞賛した。
相続財産の専制的格差は過去のものになったと誰もが信じていた。

・1970年生まれのコーホートにとって(それより後に生まれた人々にとってはなおさら)、状況はまったくちがう。特に人生の選択はもっと複雑になった。トップ百分位の相続財産は、トップ百分位の職業とほぼ同等の価値があった。
(あるいは少し大きかった。相続が下層階級の生活水準の12-13倍だったのに対し、労働所得は10-11倍だった)

・でも今日の格差とトップ百分位の構造もまた、19世紀とはまったくちがうことに留意してほしい。なぜなら、今日の相続財産は過去よりも著しく集中が少ないから。

・今日のコーホートは、格差と社会構造の独特な組み合わせに直面している。それは、ある意味でヴォートランが皮肉を込めて描いた(相続が労働よりも優位な)世界と、(労働が相続よりも優位な)戦後数十年の魅惑の世界の間に位置している。

・今日のフランスにおける社会階層トップ百分位は、相続財産とかれら自身の労働の両方から、ほぼ同額の所得を得ている場合が多い。

(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、422~424頁)

不労所得生活者と経営者の基本計算(第11章)


第11章の「不労所得生活者と経営者の基本計算」では、「おさらいしよう」と記して、以下のことをピケティ氏はまとめている。

≪おさらい≫
社会階層の頂点で相続資本所得が労働所得よりも大きな割合を占める社会(すなわちバルザックやオースティンが描いたような社会)では、二つの条件を満たされている必要がある。

①資本ストックとその中の相続資本のシェアが大きいこと
資本/所得比率は約6、7倍でなければならず、資本ストックのほとんどが相続資本で構成されている必要がある。
・そのような社会では相続財産が各コーホート保有平均リソースの約4分の1を占め得る。
・これが18、19世紀や1914年までの状況である。
(この相続財産ストックに関する最初の条件は、現在再びほぼ満たされている)

②相続財産の極端な集中
・もしも相続財産が労働所得と同じような分配されていたら(相続と労働所得の両階層のトップ百分位、トップ十分位等で同一水準なら)、ヴォートランの世界は決して存在しなかったはずである。

〇集中効果が数量効果よりも優勢になるには、相続階層のトップ百分位自体が相続財産の大きなシェアを占めなければならない。
これは、18世紀と19世紀の状況である。
トップ百分位が総資産の50-60パーセントを(イギリスやベル・エポック期のパリでは70パーセントも)所有する。
・これは労働所得トップ百分位のシェア(約6-7パーセント)よりも10倍近く大きかった。
・この富と給与の集中の10対1という比率は、3対1という数量比率を相殺するのに十分だ。
・19世紀の世襲社会において、なぜトップ百分位の相続財産が、トップ百分位の仕事よりも、事実上3倍裕福な暮らしを可能にしたのかは、これで説明できる
(図11-10参照)

〇この不労所得生活者と経営者に関する基本計算は、なぜ現代のフランスで相続財産と労働所得のトップ百分位がほぼ均衡しているのかを理解するのにも役立つとする。
・富の集中は労働所得の集中よりもほぼ3倍大きかったため、トップ百分位が総資産の20パーセントを所有しているのに対し、稼ぎ手トップ百分位は総賃金の6-7パーセントしか得ていない。
・栄光の30年の間、なぜ経営者が相続人よりもかなり優勢だったかも理解できる。

格差の「自然」構造は、どちらかというと経営者よりも不労所得生活者の優勢を好むようだ。特に低成長で、資本収益率が成長率よりも高いときは、富が集中し、資本所得トップが労働所得トップよりも優勢になる。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、424~425頁)

古典文学に見るお金の意味(第2章)


文学好きのピケティ氏は、第2章の「古典文学に見るお金の意味」(112~113頁)において、文学とお金の関係について論じている。
ここでは、『21世紀の資本』の中から、両者の関係に言及した個所を抜き出して、ピケティ氏の著作をより深く理解してみたい。

〇1800-1810年にフランで測った物価は、1770-1780年の時期にリーヴルのトゥール硬貨で計測した物価とだいたい同じだったので、革命による通貨単位の変化は、お金の購買力をいささかも変えなかった。
19世紀初期の小説家たちは、バルザックを筆頭に所得や富を表現するときにはリーヴルとフランを絶えず行ったり来たりしている。
当時の読者にとって、フランのジェルミナル硬貨(または「金フラン」)とリーヴルのトゥール硬貨とはまったく同じものだった。
ゴリオ爺さんにとって、家賃「1200リーヴル」と「1200フラン」は、完全に等価で、それ以上の説明は不要だった。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、111頁)

〇地方社会における土地の平均収益率は、4-5パーセントくらいである。
ジェイン・オースティンやオノレ・ド・バルザックの小説では、土地が政府債のように投資資本額のおよそ5パーセントを稼ぐという事実(あるいは資本の額が年間地代のおよそ20年分にあたるという事実)は、あまりに当然のこととされているので、いちいち明記されないことも多い。

当時の読者は、年間の地代5万フランを生み出すには、資本100万フランくらいが必要というのを熟知していた。
19世紀の小説家とその読者にとって、資本と年間地代との関係は、自明のことなので、この二つの計測指標は交換可能な形で使われ、まったく同じことを別の言い方で言っている同義語のような扱いになっている。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、58頁)

〇<古典文学に見るお金の意味>
安定した金銭の参照はフランスの小説にも見られる。
フランスでは1810-1820年の平均所得は年400-500フランだった。これはバルザック『ゴリオ爺さん』の舞台となった時代だ。
リーヴルのトゥール硬貨で見た平均所得は、アンシャン・レジーム期のほうがちょっと低かった。

バルザックもオースティン同様、まともな生活を送るには、その20倍から30倍が必要な世界を描いている。年所得が1万から2万フランなければ、バルザックの主人公は自分が困窮生活をしていると感じただろう。

ここでも、この規模感は、19世紀を通じてきわめて緩慢にしか変わらなかったし、ベル・エポック期(19世紀末から第一次世界大戦勃発までの時期)に入っても、それは続いた。
ずいぶん後代の読者でも、その記述はあまり違和感がなかった。
こうした数量を使って、作家は簡潔に舞台を設定し、生活様式を匂わせ、ライバル関係を引き起こし、つまり一言で言えば文明を記述できた。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、112~113頁)

〇安定した通貨参照点が20世紀に失われたというのは、それまでの世紀からの大幅な逸脱である。
これは経済や政治の領域にとどまらず、社会、文化、文学問題でもそうである。
1914-1945年のショックのあとで、文学からはお金(少なくともその具体的な金額)がほぼ完全に消えた。
富や所得への具体的な言及は、1914年以前には、あらゆる国の文学に見られた。
しかし、そうした言及は、1914-1945年にだんだん姿を消し、二度と復活していない。

これはヨーロッパや米国の小説だけでなく、他の大陸の小説でも言える。ナジーブ・マフフーズの小説、少なくとも両大戦の間でインフレで物価が歪んでいないカイロを舞台にした小説では、登場人物の状況を示して、その心配事を描き出すために、所得や富にやたらに注意が向けられる。
(これはバルザックやオースティンの世界とあまり遠くはない)

社会構造はまるでちがうけれど、ものの見方や期待や上下関係を金銭的な言及との関連で描き出すことは、その頃も可能だった。

1970年代のイスタンブール、つまりインフレによりお金の意味がかなり前からあいまいになっていた都市を舞台にしたオルハン・パムクの小説には、具体的な金額の言及がまったくない。
そして『雪』でパムクは、主人公に、お金の話をしたり、去年の物価や所得について論じたりするほど、退屈なことはないと言わせている。
19世紀以来、世界は明らかに大幅に変わった。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、116頁)

〇昔と同じく今も、富の格差はそれぞれの年齢層内部にだって存在しており、相続財産は21世紀初頭でも、バルザック『ゴリオ爺さん』の時代に迫るくらいの決定的な要因となっているのだ。長期的に見ると、平等性拡大を後押しする主要な力は、知識と技能の普及だった。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、24頁)