歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪谷崎潤一郎の『文章読本』≫

2021-05-09 17:52:43 | 文章について
≪谷崎潤一郎の『文章読本』≫
(2021年5月9日投稿)


【はじめに】


 今回のブログでは、谷崎潤一郎の『文章読本』について紹介してみたい。とりわけ、和文調と漢文調、漢字の使い方が文体に及ぼす影響、日本語と翻訳について考えてみる。
 そして、谷崎潤一郎にとっての名文とは何だったのかについて、述べておこう。



【谷崎潤一郎『文章読本』はこちらから】

文章読本 (中公文庫)



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・谷崎潤一郎の『文章読本』について
・和文調と漢文調
・漢字の使い方が文体に及ぼす影響について
・日本語と翻訳について
・谷崎潤一郎にとっての名文について







谷崎潤一郎の『文章読本』について


文豪谷崎潤一郎は、いみじくも、その『文章読本』(中公文庫、1975年[1992年版])の中で、文章の肝要な点として、
「文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにある」と昭和9年(1934年)に述べている(谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、1975年[1992年版]、20頁)。
昔は「華を去り実に就く」のが、文章の本旨だとされた。つまり、余計な飾り気を除いて実際に必要な言葉だけで書くということである。そうしてみれば、最も実用的なものが、最もすぐれた文章であることになる(谷崎、1975年[1992年版]、20頁~21頁)。
ところで漢語について、『太平記』後醍醐天皇崩御のくだりの一節を名文として、谷崎潤一郎は愛誦していたという。たとえば、「土墳数尺の草、一径涙(なんだ)尽きて愁(うれひ)未尽きず。舊臣后妃泣く泣く鼎湖(ていこ)の雲を瞻望(せんぼう)して」といった具合である。しかし現代の人間には、装飾が勝ちすぎて自分の思想や感情を表現するのに不便であると付言している(谷崎、1975年[1992年版]、22頁~23頁)。

さて日本語の欠点の一つとして、谷崎潤一郎は『文章読本』において、言葉の数が少ない点を挙げている。たとえば、独楽(こま)や水車が転るのも、地球が太陽の周囲を廻るのも、等しく「まわる」もしくは「めぐる」と言う。しかし、前者は物それ自身が「まわる」のであり、後者は一物が他物の周りを「まわる」のであり、両者は明らかに違うのに、日本語にはこの区別がないというのである。
しかし、英語はもちろん、「支那語」(漢語)でも区別している。漢語では、転、旋、繞、環、巡、周、運、回、循などであり、皆少しずつ意味が違う。独楽や水車の「まわる」は旋と転であり、繞は物の周りを離れず纏いめぐること、環は環(たまき)のように取り囲むこと、巡は巡回して視察すること、周はグルリと一まわりすること、運は移り変って行くこと、回は渦巻き流れること、循は物について行くことで、細かい区別があると解説している
また桜の花の咲いている花やかな感じをいうにも、日本語では「花やかな」(ママ)という形容詞しか思いつかないが、漢語では、爛漫、燦爛、燦然、繚乱などがあるという。そしてこれらの漢語に「な」や「たる」や「として」を結びつけて、「爛漫な」「爛漫たる」「爛漫として」のように、形容詞や副詞を作り、日本語の語彙の乏しいのを補ってきた。この点で、日本語は漢語に負うところは多大であったと説く(谷崎、1975年[1992年版]、45頁~46頁)。

谷崎潤一郎も指摘するように、国語というものは国民性と切っても切れない関係にある。古来、中国や西洋には雄弁を以て聞えた偉人があるが、日本の歴史にはまず見当らない。その反対に、日本人は昔から能弁の人を軽蔑する風があったといわれる。実際に、第一流の人物に寡言沈黙の人が多く、能弁家となると、二流三流に下る場合が多いとされる。日本においては、国民の価値観によって、言葉数と人物評とは厄介な関係にある。日本人が弁舌の効果を信用しない原因の一つとして、日本人が正直なせいで、実行するところを見てもらえば、分かる人は分かってくれ、別にくどくどと言い訳したり、吹聴したりするには及ばないという気風がある点に谷崎潤一郎は求めている。孔子は「巧言令色鮮矣仁」といったが、君子は言葉を慎むことを美徳の一つにしたが、日本人にはこの美徳を守ってきたということであろうか(谷崎、1975年[1992年版]、47頁~48頁)。

和文調と漢文調


古典文学の文語文にも、和文調と漢文調の2つの種類があることを川端康成も指摘している。『土佐日記』『源氏物語』は前者であり、『保元物語』『平治物語』は後者である(川端康成『新文章読本』新潮文庫、1954年[1977年版]、25頁~26頁)。
この点、谷崎潤一郎は川端よりもいち早く、文章道において、和文脈を好む人と、漢文脈を好む人とに大別されると明言している。そこが『源氏物語』の評価の分れる所であるというのである。この区別は、今日の口語体の文学にも存在する。卑近な例でいえば、同じ酒好きの仲間でも、甘口を好む者と、辛口を好む者とがあるようなものだという。
言文一致の文章といえども、和文のやさしさを伝えるものと、漢文のカッチリした味を伝えているものとがある。たとえば、泉鏡花、上田敏、鈴木三重吉、里見弴、久保田万太郎、宇野浩二は前者に属し、夏目漱石、志賀直哉、菊池寛、直木三十五は後者に属するとする。
もっとも、和文のうちにも、大鏡や、神皇正統記や、折焚く柴の記のような簡潔雄健な系統があるので、朦朧派と明晰派ともいえるし、だらだら派とテキパキ派とも、流麗派と質実派、女性派と男性派、情緒派と理性派とも呼べるという。
「一番手ッ取り早く申せば、源氏物語派と、非源氏物語派になるのであります。」と。
たとえば、森鷗外は大文豪で、しかも学者であったが、『源氏物語』の文章にはあまり感服していなかった。与謝野夫妻の口訳源氏物語の序文にも、源氏物語の文章を読むたびに、困難を覚え、頭にすらすらと入りにくく、果たして名文であろうかという意味のことを婉曲に述べた。国文学の聖典とも目すべき『源氏物語』に、鷗外は、このような冒瀆の言をなした。
鷗外に限らず、『源氏物語』に悪評を下す人は、和文趣味より漢文趣味を好み、流麗な文体よりは簡潔な文体を愛する傾向があるといわれる。これは感覚の相違というよりは、体質的な原因が潜んでいると谷崎潤一郎はみている。それでは、谷崎潤一郎は自らをどちらとみなしたのであろうか。この点について、自ら述べている。すなわち、
「かく申す私なども、酒は辛口を好みますが、文章は甘口、まず源氏物語派の方でありまして、若い時分には漢文風な書き方にも興味を感じましたものの、だんだん年を取って自分の本質をはっきり自覚するに従い、次第に偏り方が極端になって行くのを、如何とも為し難いのであります。」という(谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、1975年[1992年版]、79頁~81頁)。
谷崎は源氏物語派であった。このことは代表作『細雪』『春琴抄』を読めば、十分にうなづけるであろう。

ところで谷崎潤一郎は、漢文の素読の効果について述べていたが、川端康成も音読が自らの文章に最も多く影響しているらしいことを、『新文章読本』(新潮文庫、1954年[1977年版]、3頁~4頁)のまえがきで記している。

【川端康成の『文章読本』はこちらから】

新文章読本

少年時代に川端は『源氏物語』や『枕草子』を、意味も分からないまま、ただ言葉の響きと文章の調べを読んでいたようだ。つまり意味のない歌を歌っているように、音読していた、その調べが、ものを書く時の川端の心に聞えて来ると述懐している。
文章それ自身が、一つの生命を持って生きているという。川端自らの文章の秘密もそこにあるかと思っている。
そして1950年において、次のように述べている。
「文章は、人と共に変り、時と共に移る。一つが消えれば、一つがあらわれる。文体の古び方の早さは思いの外である。つねに新しい文章を知ることは、それ自身小説の秘密を知ることである。同時にまた、新しい文章を知ることは、古い文章を正しく理解することであるかも知れぬ。明日の正しい文章を……生きている、生命ある文章を考えることは、私たちに課せられた、栄光ある宿命でもあろう。」と。
ところで、吉行淳之介の解説にもあるように、谷崎潤一郎の『文章読本』は始めから終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いていると要約できる。谷崎の『陰翳礼讃』という著書の中でも日本の美は陰翳にあることを述べている。谷崎にとって、エロティシズムについても、仄暗く隠すところに値打ちがあるというような意見である。つまり、含蓄という発想が、谷崎の『文章読本』の根底にも流れている(谷崎、1975年[1992年版]、187頁~188頁)。

漢字の使い方が文体に及ぼす影響について


文豪と呼ばれる作家は、漢字の使い方にも細心の注意を払いながら、その小説に見合った文体で綴っていることが、谷崎潤一郎の『文章読本』を読むとわかる。たとえば、次のように述べている。
①『盲目物語』について
「かつて私は「盲目物語」と云う小説を書きました時、なるべく漢字を使わないようにしまして、大部分を平仮名で綴ったのでありますが、これは戦国時代の盲目の按摩が年老いてから自分の過去を物語る体裁になっておりますので、上に述べましたような視覚的効果を狙いましたのと、なおもう一つは、全体の文章のテンポを緩くする目的、即ち音楽的効果を考えたのでありました。つまり、老人がおぼろげな記憶を辿りながら、皺嗄れた、聞き取りにくい声で、ぽつりぽつり語るのでありますから、そのたどたどしい語調を読者に伝えますために、仮名を多くして、いくらか読みづらいようにしたのでありました。」
(谷崎、1975年[1992年版]、147頁~148頁)。
このように、谷崎は『盲目物語』という小説では、なるべく漢字を使わないように心がけ、盲目の老人がぽつりぽつり語り、たどたどしい語調を伝えるために、仮名を多くしたというのである。

②視覚的効果について
「まず視覚的効果の方から申しますならば、「アサガオ」の宛て字は「朝顔」と「牽牛花」と二た通りありますが、日本風の柔かい感じを現わしたい時は「朝顔」と書き、支那風の固い感じを現わしたい時は「牽牛花」と書く。「タナバタ」の宛て字は普通「七夕」か「棚機」でありますが、内容が支那の物語であったら、「乞巧奠」の文字を宛てても差支えない。「ランボウ」「ジョサイナイ」の宛て字は、今では「乱暴」「如才ない」と書きますけれども、戦国時代には「濫妨」「如在ない」と書きましたから、歴史小説の時には後者に従う」
(谷崎、1975年[1992年版]、147頁)。

③漱石の『我輩は猫である』を例に、文字・漢字の使い方が一種独特である点を指摘している。そして文字の使い方においても、鷗外と漱石は好対照であるというのである。
「しかし、翻って考えますのに、鷗外の文字使いの正確さも、あの森厳で端正な学者肌の文章の視覚的効果なのであって、もし内容が熱情的なものであったら、ああ云う透徹した使い方は或は妨げをしたかも知れない。そう云えば、漱石の「我輩は猫である」の文字使いは一種独特でありまして、「ゾンザイ」を「存在」、「ヤカマシイ」を「矢釜しい」などと書き、中にはちょっと判読に苦しむ奇妙な宛て字もありますが、それらにもルビが施してない。その無頓着で出鱈目なことは鷗外と好き対照をなすのでありますが、それがあの飄逸な内容にしっくり当て嵌まって、俳味と禅味とを補っていたことを、今に覚えているのであります」(谷崎、1975年[1992年版]、148頁~149頁)。

日本語と翻訳について


河盛好蔵は、その「翻訳論」の中で、翻訳家としての鷗外の態度を高く評価している。つまり、翻訳家の第一の責務は、自国の文学に不足するものを補い、以て自国の文学を世界文学の水準まで高め、豊富にすることにある点からみて、鷗外は翻訳家としても最も願わしい態度であったというのである。
また、ジイドは、「よき翻訳者は、原著者の国語に通達していなければならぬだけではなく、なおそれ以上に彼自身の国語に通達していなければならぬ」と語ったが、この点でも、鷗外は名訳家であった。鷗外でも二葉亭四迷でも、立派なドイツ文やロシア文を綴れた人は、日本語にも通達していた。河盛によれば、鷗外の翻訳(とくに後期の口語訳)は、「ほとんど日本語を意識させない」もので、翻訳の極致と考えられる名訳であるという。直接に原作に接する思いをさせてくれる翻訳の名手が鷗外であるというのである(河盛好蔵『現代日本文学大系74 河盛好蔵集』筑摩書房、1972年、102頁~103頁、106頁~107頁)。

【『現代日本文学大系74 河盛好蔵集』筑摩書房はこちらから】

中島健蔵・中野好夫・河盛好蔵・桑原武夫集 現代日本文学大系 74

また、菊池寛が、文学志願者への忠告として、「これから小説でも書こうとする人々は、少なくとも外国語を修得せよ」と述べたことに対して、小林秀雄は実に簡明的確な忠告だと感心したという(新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年所収「作家志願者への助言」より、37頁)。
【『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

そういえば、文豪は外国語に精通していた。夏目漱石は英語に、森鷗外はドイツ語にといった具合である。

別に小説家を志さなくても、外国語を修得することは、日本語を考え直すきっかけとなる。谷崎潤一郎の『文章読本』は、『源氏物語』のアーサー・ウェーリー(Arthur David Waley、1889~1966、The Tale of Genji)の英訳「須磨の巻」の一節を抜粋して、日本語の特性について考察している(谷崎、1975年[1992年版]、53頁~60頁)。
 同じことを書いても、英語にするといかに言葉数が多くなるのかという実例として、その英訳を載せている。日本語の原文で、4行のものが、英文では8行に伸びている。そして英文には原文にない言葉が沢山補ってある。つまり「古里覚束なかるべきを」といっているのが、「the prospect of being separated from all those whose society he liked best (彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れることになるのは)」となっている。

このように、英文の方が原文よりも精密であって、意味の不鮮明なところがないと谷崎は解説している。すなわち、原文の方は、いわないでも分っていることはなるべくいわないですませるようにしているのに対して、英文の方は、分り切っていることでもなお一層分らせるようにしている。そして、谷崎によれば、英文のようにいってしまっては、文意がはっきりするが、意味が限られて、浅いものになると付言している。つまり、「彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れること」といってしまうと、都を遠く離れて行く源氏の君の悲しみがこの人々と別れることばかりに限られてしまい、「古里覚束なかるべし」に込められた、いろいろの心細さ、淋しさ、遣る瀬なさが感じられなくなってしまうという。
原文では、それらの取り集めた心持を、「古里覚束なかるべし」の一語に籠めたのであると谷崎は理解している。

さらに、谷崎は、古典の文章には一語一語に月の暈(かさ)のような蔭があり、裏があるという。つまり、わずかな言葉が暗示となって読者の想像力が働き出し、足りないところを読者自らが補うようにさせ、作者の筆は、ただその読者の想像を誘い出すようにするだけであるというのが、古典文の精神であると谷崎は力説している。
それに対して、西洋の書き方は、出来るだけ意味を狭く細かく限ってゆき、少しでも蔭のあることを許さず、読者に想像の余地を剰さないという。
日本人からみれば、「彼が最も好んだ社交界の云々」では極まり切ってしまって、余情がなさすぎるけれども、西洋人からみれば、「古里覚束なかるべし」では何のことか分らない。なぜ覚束ないのであるかその理由を明示しなければ、得心がゆかないと解説している。
さすがに『源氏物語』を現代語訳した谷崎潤一郎だけあって、その読みの深さに敬服する。

谷崎潤一郎にとっての名文について


谷崎は、「名文とはいかなるものぞ」という質問に対して、
①長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの
②何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るものと一応答えている。
文書の味を味わうには、感覚によるところが多大で、その感覚というものは、生まれつき鋭い人と鈍い人とがいるが、心がけと修養次第で、生まれつき鈍い感覚をも鋭く研くことが出来るとする。
感覚を研くのには、
①出来るだけ多くのものを繰り返して読むこと
②実際に自分で作ってみることを挙げている。
昔の寺小屋式の教授法である、講釈をせずに、繰り返し音読させるか、あるいは暗誦させるという方法は、何よりも有効であると力説している(谷崎、1975年[1992年版]、69頁、73頁~75頁)。
『文章読本』を書いた作家は数多くいたが、谷崎ほど、こうした実践的アドバイスをしている人はいないようである。丸谷才一にしても、せいぜい名文を多く読むように勧めているにすぎない。

西鶴の「都のつれ夫婦」は西鶴であるから名文といいえるのであって一歩を誤れば悪文となりかねないといい、西鶴の文を朦朧派と谷崎は規定した。それに対して、徳川時代の貝原益軒の『養生訓』や新井白石の『折りたく柴の記』、明治時代の森鷗外の『即興詩人』の文を、隅から隅まで行き届いていて、一点曖昧なところがなく、文字の使い方も正確である平明派と規定している(谷崎、1975年[1992年版]、70頁~72頁)。
また、志賀直哉の「城の崎にて」を芥川龍之介は志賀の作品中の最もすぐれたものの一つに数えている。その作品は、温泉へ湯治に来ている人間が、宿の二階から蜂の死骸を見ている気持ちと、その死骸の様子とが描かれている。一匹の蜂の動作を仔細に観察して見た通りを細かいところまで写し取っている(谷崎、1975年[1992年版]、24頁~25頁)。





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