電影フリークス ~映画のブログ~

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餓虎狂龍その一

2010-01-28 01:29:10 | 呉思遠と思遠影業
木曜日は電影フリークス特設コーナー。
簡単にご紹介すると最近は思遠影業や倉田さんに関するネタを取り上げております。
今回は72年に製作された呉思遠の『餓虎狂龍』です。やっと見ることが出来ました。

陳星が前作『蕩寇灘』に続いて主役の、そしてまた待ちに待った倉田保昭を起用して呉思遠の念願が叶った作品として、「よーし、もう一回やるぞ~」という声のトーンも上がりっぱなしのメガホンの声が聞こえてきそうなそんな映画なのである。

この映画を製作した富国影業は台湾電影筆記によれば朱煥然(真ん中の”カン”は携帯では表示されないかも。。)との共同設立だという。この頃に設立した会社数はかなり多いようなのだが多すぎて把握するのはとても難しい(解明はまだまだ先の話になるが…)。富国のように誰が設立したかが分かるだけでもありがたい。他の会社とかならそんな情報すらないので。
それにしても富国のオープニングロゴというものは映像には含まれない事が多くて研究者泣かせですね。。(いろいろチェックしても未だ発見はできない)はじめから無かったとは考えづらいけど、そう思うことにしようか(爆。

さて、国内ではエンパイア・シネマと呼ばれたこともあった富国影業だが
その製作された作品をリストアップしてみると、
『蕩寇灘』
「危うしタイガー」
『石破天驚』
『狼狽為奸』
『黒色星期五』
と今回の『餓虎狂龍』と合わせてもたったこれだけしかない。これでも多い方なのかも知れないが資金が尽きてしまったのだろうか?関連会社に帝国影業という会社もあってこちらは呉思遠とは何ら関係は無い模様だが、こっちはこっちで未公開作品のオンパレード会社なのである。そもそもエンパイアを直訳すれば帝国となるので本来は帝国の方がエンパイアシネマでいい気もするがなぜか富国がエンパイア、帝国がエンペラーになっているようだ。まぁどうでもいい話であるけれども。

ちなみに最後の『黒色~』はジミー王羽主演作なのだ。さすがジミーさん、突如としてこっち方面にも現れるんですね(笑。(いやいやジミーさんを忘れちゃいけませんね。)富国とジミーさんの関係なんて想像するとおかしくなってしまうのですがやっぱり頼りにされてたんだなぁと思いますね。
『黒色星期五』より

上記リストを眺めていると殆どの作品において于洋が出演していたのが分かる。彼をどう使おうかといった姿勢も見られるのがポイントであろうか。
例えばこういう見方はできないだろうか?
呉思遠が会社を変更し富国を抜けようとする頃、会社は于洋をスターに仕立てようと主演映画を撮りはじめてゆく。それが『石破』や帝国の『除霸』という作品だった。ジャッキーやあのジョン・ウーでさえ在籍していたことのあったこの会社。
しかしこの于洋主演映画を作ろうとした選択は成功であったのか?首を傾げてしまう。


『除霸』Fist of the double Kより(US公開Ver)

于洋に関しては「カラテ愚連隊」での私のお気に入りキャラとなった健を演じた事で色々思うこと、考える事がいっぱいある、というか出てきてしまう。
于洋と言えば彼が出演した刑事ドラマがあったと以前いつだったか忘れてしまったがブログ記事を書いた記憶がある。『餓虎』にも出演した黄元申のドラマ『CID』のことだ。この香港のドラマが日本で数話だけ放送されたときには残念ながら彼が出演した放送は無かったのだ。(張午郎や李家鼎の顔は見られた)いま思えばかなり悔やまれる話である。あったとしても果たしてアクションシーンがあったのか不明だがゲスト出演ということで犯人つまり悪役であったことは予想出来る。悪役の于洋も是非見てみたいものである。

話を元に戻せば会社設立にも関わっていたという呉思遠が監督したのは初期の数本のみであり、その後は恒生や思遠影業に変わってゆく。多くの会社が設立して間もなく消えていく中で3、4年の存続だから初期に築いた富もかなりのものだったのでしょうね。(ヒット作は呉思遠がいた間だけという事実も。)

そういえば『蕩寇灘』が公開され大ヒットした後、倉田さんが頻りに悔しがって当時を振り返っていたんですよね。倉田さんご本人が撮影中にオファーがあったと懐述していることからこれは恐らく本当なのでしょう。

しかし、具体的にどの映画だったのかまでは定かではなかったのだ。本当に撮影中もしくは契約上不可能な状況だったのですかねぇ?

倉田さんによると”チャンテツ”(これは倉田さん独特の張徹の呼び方でした。)の作品に入っていたとの事。だとすると『悪客』か『四騎士』のどちらかになるのだろうか?

また呉思遠(私は”ゴシエン”と呼んだりしています^^)の倉田起用の決断はどのタイミングで下ったのか?『悪客』を実際に目にしてからかor『四騎士』なのか、それとももっと前の段階か?

ちなみに72年は『餓虎』の後、ほぼ同じメンバーで『猛虎下山』を続けて撮ることになったという。他にも『麒麟掌』などにも出演していたという倉田さん。この多忙で詳細についても不明なこの年にはいったいどの位の映画に出演であったか。

これらを整理して考察するには倉田さんが富国影業と契約した時期がいつだったのかが重要になってくると思う。
72年中である事は分かりそうであるが、その日がいつなのかが分からない。
これが分かればこんがらがった72年とさらに大量出演したとされる怒濤の73年についても紐解く足がかりにはなりそうだ。

そして、富国創業作『蕩寇灘』で倉田さんとの契約が出来なかったからといって決して諦めなかったゴシエン。うーん、どうしてそんなに倉田さんの映画を撮りたかったのでしょう??
そう思ったとき私は富国2作目の倉田さん登場で必ずや『蕩寇灘』ではやれなかった“何か”を取り入れているはずだと感じていた。実際のところはどうだったのか。
次回へつづく


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