ナタリー・パレという女性がいます。
ロマノフ王朝には時としてびっくりするほどの美女が登場しますが、
その中でも際立って美しく、悲しく、運命に翻弄された悲劇のプリンセス。
そういうお話がダイスキな日本でなんでこの方が無名なのか、
残念に思っているひゃらりです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/de/178c4761e67b086ff847b9e6d3a39d0e.jpg)
ナタリー・パレ、
ロシア語での正式な名前はナターリヤ・パヴロヴナ・パーレィ公爵令嬢は1905年にパリで生まれました。
父はロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル、
母はハンガリー系移民の一族出身で平民のオリガ・カルノヴィチ。
パーヴェルとオリガが恋に落ちたとき、
身分違いな上にオリガは有夫の身でしたので(パーヴェルは数年前に妻を亡くしていました)、
宮廷とロシア教会から攻撃されました。
オリガは苦労して離婚を勝ち取った後、逃げるように国外へ移住します。
そしてイタリアで2人は合流し、
当時の皇帝であったパーヴェルの甥、ニコライ2世の許しを得ないまま結婚。
皇帝の怒りを買った夫妻は国外追放処分の憂き目に合います。
ロシアに戻れない二人はパリに新居を構え、
3人の子宝に恵まれました。
ナタリーはその末子です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/f0/4345d51cd37e1470464f67ac39a4cfa0.jpg)
ほら、身分違いの恋、やんごとなき血筋、駆け落ち、国外追放。
もう出自からしてロマンティック、少女マンガ要素てんこもり。
こちらがパーヴェル大公一家の家族写真です。
パリ在住の頃と推察されます。
その後第一次世界大戦の勃発に伴い、
皇室の結束の必要性を感じたニコライ2世によって一家はロシアへの帰国が許され、
また母オリガにはパーレィ公妃の称号を与えられることになりました。
これによりナタリーら子供達も、父パーヴェルの嫡出子としての立場が認められることになったのでした。
しかし喜びもつかの間、
ナタリーにとって、いや、皇室にとって最悪の事態が起こります。
ロシア革命です。
父パーヴェル、兄ウラジーミルは皇帝一家と同様にボリシェビキによって殺害され、ナタリーは母と姉イリーナと3人、命からがら国外に脱出し、フィンランド経由で生まれ育ったフランスに亡命しました。
革命に関する一連の記憶はこの後長年に亘ってナタリーを苦しめることになりますが、とりわけ若くして惨殺された兄ウラジーミルへの想いは特別だったようです。
ウラジーミルは若手士官として勲功を立てる一方、
10代の頃から詩集や戯曲を著したり、フランス語劇をロシア語に翻訳したりと文才を発揮していました。
また2人の妹達には優しい兄でもありました。
こちらがそのウラジーミルです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/4e/44033e28abad20fd093651a42cf2529b.jpg)
ナタリーが人生において愛した男性達の多くが芸術家と呼ばれる人たちであったことなどを考えると、
彼女は終生男性の中に兄の姿を追い求めていたのかなとも思えます。
亡命先のパリで美しく成長したナタリーは、その美貌を生かしてモデルとして活躍します。
そして18歳の若さでデザイナーのリュシアン・ルロンと結婚します。
ルロンはかのクリスチャン・ディオールの師匠であり、当時トップデザイナーとしてパリファッション界を席巻していました。
ナタリーは夫の影響力のもとトップモデルに上り詰めます。Vogue誌の表紙を何度も飾っていたのもちょうどこの頃。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/38/f2ce2634ff0ac558c2461ed18f155211.jpg)
しかしそんな中、ナタリーは作家のジャン・コクトーと出逢います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e6/88b642d8ff8c5ca83c41f8f498bdd8dc.jpg)
このコクトーという人、ほんとに多情でめんどくさくて身勝手で、
私にはどーしよーもないオトコにしか見えないんですが。
バイセクシャルで男女問わず多くの相手と関係を持ち、
関係するに至らない崇拝者の気持ちも惹きつけておかずには気が済まず、
自分の恋人たちや崇拝者たちを支配下に置きたがり、
また彼ら彼女らが仲良くすることを求める、という。。。。
しかしこういう恋愛モンスターのような人、実際に出逢ってしまうとたまらなく魅力的なんでしょうね。
夫リュシアンとの関係もとうに冷え切っていたナタリーもまた、その魅力にとらわれます。
コクトーのほうも、多くの恋人の中でもナタリーを特別な存在と思っていたようです。
後にコクトーの大姪であるドミニクはこう語っています。
公女(ナタリー)はジャン・マレーと並んでコクトーが最も愛した存在で、唯一の、変え難い地位を占めていました。
しかし、2人の関係はナタリーの妊娠をきっかけに崩壊します。
ナタリーはスイスに渡り堕胎。
ナタリーの自発的なものとも、コクトーに強要されてのこととも、様々伝えられていますが事実は判りません。
ただコクトーの情人である詩人、ジャン・デボルト(一時期ナタリー本人とも関係があったと言われています)と「兄妹のように」打ち解けることを求められたり、
ずっとコクトーに恋心を持っていた共通の友人、マリー=ロールから陰湿ないじめを受けたり、
このときのナタリーは疲弊しきっていたのだと思われます。
それが堕胎をきっかけに、修復しようのない決裂に結実してしまったのではないでしょうか。
どこまでいっても哀しい影が付きまとうナタリー、
その美貌ゆえにいっそう哀しさが胸に迫ります。
コクトーとの別離したからといってリュシアンとの仲が戻るはずもなく、
籍は入れたまま別居。
ナタリーが再婚を決意する5年後まで、仮面夫婦を続けることになります。
女優として何本かの映画に出演するうちにブロードウェイのプロデューサー、ジョン・チャップマン・ウィルソンと知り合ったナタリーはそのプロポーズを受け、
リュシアンとの離婚成立後に再婚。
アメリカに居を移します。
流転を重ねたナタリーでしたが、NYでの暮らしは比較的平穏だったようです。
オートクチュールメーカーの広報部に所属し、時として自らモデルも務めました。
穏やかな後半生において、ナタリーは自分の人生を語ることはほとんどしませんでした。
それは母オリガが回想録を著し、姉イリーナがジャーナリストのインタビューにたびたび応じているのとは対照的です。
しかしその沈黙によって彼女の生涯はよりいっそう不思議で哀しいものとして、
私たち後世の人間の興味をかきたてるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/6a/46a2994ccd367b1722abd81e1b4df1ef.jpg)
そして1981年、ナタリーはニューヨークでその生涯を閉じます。
ロシア正教の保護者であるロマノフ家のプリンセスであったそのひとは、ニュージャージー州の長老派教会に葬られました。
参考文献:
『ロマノフ家の最期』アンソニー・ サマーズ、トム・マンゴールド著 高橋正訳 中央公論社
『コクトーが愛した美女たち』 ドミニク・マルニィ著 高橋洋一訳 講談社
(*コクトーの大姪、ドミニクによる著書)
日本語版/英語版/ロシア語版 wikipedia
ウェブサイト『ALEXANDRE PALACE TIME MACHINE』より、”Memories of Russia”
http://www.alexanderpalace.org/memoriesrussia/
(*ナタリーの母、オリガ公妃の回顧録のウェブ版)
ロマノフ王朝には時としてびっくりするほどの美女が登場しますが、
その中でも際立って美しく、悲しく、運命に翻弄された悲劇のプリンセス。
そういうお話がダイスキな日本でなんでこの方が無名なのか、
残念に思っているひゃらりです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/de/178c4761e67b086ff847b9e6d3a39d0e.jpg)
ナタリー・パレ、
ロシア語での正式な名前はナターリヤ・パヴロヴナ・パーレィ公爵令嬢は1905年にパリで生まれました。
父はロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル、
母はハンガリー系移民の一族出身で平民のオリガ・カルノヴィチ。
パーヴェルとオリガが恋に落ちたとき、
身分違いな上にオリガは有夫の身でしたので(パーヴェルは数年前に妻を亡くしていました)、
宮廷とロシア教会から攻撃されました。
オリガは苦労して離婚を勝ち取った後、逃げるように国外へ移住します。
そしてイタリアで2人は合流し、
当時の皇帝であったパーヴェルの甥、ニコライ2世の許しを得ないまま結婚。
皇帝の怒りを買った夫妻は国外追放処分の憂き目に合います。
ロシアに戻れない二人はパリに新居を構え、
3人の子宝に恵まれました。
ナタリーはその末子です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/f0/4345d51cd37e1470464f67ac39a4cfa0.jpg)
ほら、身分違いの恋、やんごとなき血筋、駆け落ち、国外追放。
もう出自からしてロマンティック、少女マンガ要素てんこもり。
こちらがパーヴェル大公一家の家族写真です。
パリ在住の頃と推察されます。
その後第一次世界大戦の勃発に伴い、
皇室の結束の必要性を感じたニコライ2世によって一家はロシアへの帰国が許され、
また母オリガにはパーレィ公妃の称号を与えられることになりました。
これによりナタリーら子供達も、父パーヴェルの嫡出子としての立場が認められることになったのでした。
しかし喜びもつかの間、
ナタリーにとって、いや、皇室にとって最悪の事態が起こります。
ロシア革命です。
父パーヴェル、兄ウラジーミルは皇帝一家と同様にボリシェビキによって殺害され、ナタリーは母と姉イリーナと3人、命からがら国外に脱出し、フィンランド経由で生まれ育ったフランスに亡命しました。
革命に関する一連の記憶はこの後長年に亘ってナタリーを苦しめることになりますが、とりわけ若くして惨殺された兄ウラジーミルへの想いは特別だったようです。
ウラジーミルは若手士官として勲功を立てる一方、
10代の頃から詩集や戯曲を著したり、フランス語劇をロシア語に翻訳したりと文才を発揮していました。
また2人の妹達には優しい兄でもありました。
こちらがそのウラジーミルです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/4e/44033e28abad20fd093651a42cf2529b.jpg)
ナタリーが人生において愛した男性達の多くが芸術家と呼ばれる人たちであったことなどを考えると、
彼女は終生男性の中に兄の姿を追い求めていたのかなとも思えます。
亡命先のパリで美しく成長したナタリーは、その美貌を生かしてモデルとして活躍します。
そして18歳の若さでデザイナーのリュシアン・ルロンと結婚します。
ルロンはかのクリスチャン・ディオールの師匠であり、当時トップデザイナーとしてパリファッション界を席巻していました。
ナタリーは夫の影響力のもとトップモデルに上り詰めます。Vogue誌の表紙を何度も飾っていたのもちょうどこの頃。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/38/f2ce2634ff0ac558c2461ed18f155211.jpg)
しかしそんな中、ナタリーは作家のジャン・コクトーと出逢います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e6/88b642d8ff8c5ca83c41f8f498bdd8dc.jpg)
このコクトーという人、ほんとに多情でめんどくさくて身勝手で、
私にはどーしよーもないオトコにしか見えないんですが。
バイセクシャルで男女問わず多くの相手と関係を持ち、
関係するに至らない崇拝者の気持ちも惹きつけておかずには気が済まず、
自分の恋人たちや崇拝者たちを支配下に置きたがり、
また彼ら彼女らが仲良くすることを求める、という。。。。
しかしこういう恋愛モンスターのような人、実際に出逢ってしまうとたまらなく魅力的なんでしょうね。
夫リュシアンとの関係もとうに冷え切っていたナタリーもまた、その魅力にとらわれます。
コクトーのほうも、多くの恋人の中でもナタリーを特別な存在と思っていたようです。
後にコクトーの大姪であるドミニクはこう語っています。
公女(ナタリー)はジャン・マレーと並んでコクトーが最も愛した存在で、唯一の、変え難い地位を占めていました。
しかし、2人の関係はナタリーの妊娠をきっかけに崩壊します。
ナタリーはスイスに渡り堕胎。
ナタリーの自発的なものとも、コクトーに強要されてのこととも、様々伝えられていますが事実は判りません。
ただコクトーの情人である詩人、ジャン・デボルト(一時期ナタリー本人とも関係があったと言われています)と「兄妹のように」打ち解けることを求められたり、
ずっとコクトーに恋心を持っていた共通の友人、マリー=ロールから陰湿ないじめを受けたり、
このときのナタリーは疲弊しきっていたのだと思われます。
それが堕胎をきっかけに、修復しようのない決裂に結実してしまったのではないでしょうか。
どこまでいっても哀しい影が付きまとうナタリー、
その美貌ゆえにいっそう哀しさが胸に迫ります。
コクトーとの別離したからといってリュシアンとの仲が戻るはずもなく、
籍は入れたまま別居。
ナタリーが再婚を決意する5年後まで、仮面夫婦を続けることになります。
女優として何本かの映画に出演するうちにブロードウェイのプロデューサー、ジョン・チャップマン・ウィルソンと知り合ったナタリーはそのプロポーズを受け、
リュシアンとの離婚成立後に再婚。
アメリカに居を移します。
流転を重ねたナタリーでしたが、NYでの暮らしは比較的平穏だったようです。
オートクチュールメーカーの広報部に所属し、時として自らモデルも務めました。
穏やかな後半生において、ナタリーは自分の人生を語ることはほとんどしませんでした。
それは母オリガが回想録を著し、姉イリーナがジャーナリストのインタビューにたびたび応じているのとは対照的です。
しかしその沈黙によって彼女の生涯はよりいっそう不思議で哀しいものとして、
私たち後世の人間の興味をかきたてるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/6a/46a2994ccd367b1722abd81e1b4df1ef.jpg)
そして1981年、ナタリーはニューヨークでその生涯を閉じます。
ロシア正教の保護者であるロマノフ家のプリンセスであったそのひとは、ニュージャージー州の長老派教会に葬られました。
参考文献:
『ロマノフ家の最期』アンソニー・ サマーズ、トム・マンゴールド著 高橋正訳 中央公論社
『コクトーが愛した美女たち』 ドミニク・マルニィ著 高橋洋一訳 講談社
(*コクトーの大姪、ドミニクによる著書)
日本語版/英語版/ロシア語版 wikipedia
ウェブサイト『ALEXANDRE PALACE TIME MACHINE』より、”Memories of Russia”
http://www.alexanderpalace.org/memoriesrussia/
(*ナタリーの母、オリガ公妃の回顧録のウェブ版)
プリンセス・ナタリーのエピソードを『興味深い』と言ってくださってうれしいです!
わたしはナタリーはかのオーストリア皇妃エリザベートやアルゼンチンのファーストレディだったエビータ・ペロンなみに劇的なキャラクターだと思っているのです。
だれかミュージカルにでもしてくれたらいいのに(笑)
ラスプーチンは帝政末期の大有名人ですよね!
あの時代はなかなか面白い人物が多いので、ひゃらりはダイスキです。