笛吹きひゃらりのひゃらひゃら日記

器用貧乏系OLひゃらりが平穏な日常の中でフルート吹いたり歴史に夢中になったりしている日記です。

ナタリー・パレ【お気に入り人物伝】

2010-10-28 01:42:30 | ロシア史なお話
ナタリー・パレという女性がいます。
ロマノフ王朝には時としてびっくりするほどの美女が登場しますが、
その中でも際立って美しく、悲しく、運命に翻弄された悲劇のプリンセス。
そういうお話がダイスキな日本でなんでこの方が無名なのか、
残念に思っているひゃらりです。


ナタリー・パレ、
ロシア語での正式な名前はナターリヤ・パヴロヴナ・パーレィ公爵令嬢は1905年にパリで生まれました。
父はロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル、
母はハンガリー系移民の一族出身で平民のオリガ・カルノヴィチ。
パーヴェルとオリガが恋に落ちたとき、
身分違いな上にオリガは有夫の身でしたので(パーヴェルは数年前に妻を亡くしていました)、
宮廷とロシア教会から攻撃されました。
オリガは苦労して離婚を勝ち取った後、逃げるように国外へ移住します。
そしてイタリアで2人は合流し、
当時の皇帝であったパーヴェルの甥、ニコライ2世の許しを得ないまま結婚。
皇帝の怒りを買った夫妻は国外追放処分の憂き目に合います。
ロシアに戻れない二人はパリに新居を構え、
3人の子宝に恵まれました。
ナタリーはその末子です。


ほら、身分違いの恋、やんごとなき血筋、駆け落ち、国外追放。
もう出自からしてロマンティック、少女マンガ要素てんこもり。
こちらがパーヴェル大公一家の家族写真です。
パリ在住の頃と推察されます。

その後第一次世界大戦の勃発に伴い、
皇室の結束の必要性を感じたニコライ2世によって一家はロシアへの帰国が許され、
また母オリガにはパーレィ公妃の称号を与えられることになりました。
これによりナタリーら子供達も、父パーヴェルの嫡出子としての立場が認められることになったのでした。

しかし喜びもつかの間、
ナタリーにとって、いや、皇室にとって最悪の事態が起こります。
ロシア革命です。
父パーヴェル、兄ウラジーミルは皇帝一家と同様にボリシェビキによって殺害され、ナタリーは母と姉イリーナと3人、命からがら国外に脱出し、フィンランド経由で生まれ育ったフランスに亡命しました。
革命に関する一連の記憶はこの後長年に亘ってナタリーを苦しめることになりますが、とりわけ若くして惨殺された兄ウラジーミルへの想いは特別だったようです。
ウラジーミルは若手士官として勲功を立てる一方、
10代の頃から詩集や戯曲を著したり、フランス語劇をロシア語に翻訳したりと文才を発揮していました。
また2人の妹達には優しい兄でもありました。
こちらがそのウラジーミルです。

ナタリーが人生において愛した男性達の多くが芸術家と呼ばれる人たちであったことなどを考えると、
彼女は終生男性の中に兄の姿を追い求めていたのかなとも思えます。

亡命先のパリで美しく成長したナタリーは、その美貌を生かしてモデルとして活躍します。
そして18歳の若さでデザイナーのリュシアン・ルロンと結婚します。
ルロンはかのクリスチャン・ディオールの師匠であり、当時トップデザイナーとしてパリファッション界を席巻していました。
ナタリーは夫の影響力のもとトップモデルに上り詰めます。Vogue誌の表紙を何度も飾っていたのもちょうどこの頃。


しかしそんな中、ナタリーは作家のジャン・コクトーと出逢います。


このコクトーという人、ほんとに多情でめんどくさくて身勝手で、
私にはどーしよーもないオトコにしか見えないんですが。
バイセクシャルで男女問わず多くの相手と関係を持ち、
関係するに至らない崇拝者の気持ちも惹きつけておかずには気が済まず、
自分の恋人たちや崇拝者たちを支配下に置きたがり、
また彼ら彼女らが仲良くすることを求める、という。。。。
しかしこういう恋愛モンスターのような人、実際に出逢ってしまうとたまらなく魅力的なんでしょうね。
夫リュシアンとの関係もとうに冷え切っていたナタリーもまた、その魅力にとらわれます。
コクトーのほうも、多くの恋人の中でもナタリーを特別な存在と思っていたようです。
後にコクトーの大姪であるドミニクはこう語っています。

公女(ナタリー)はジャン・マレーと並んでコクトーが最も愛した存在で、唯一の、変え難い地位を占めていました。

しかし、2人の関係はナタリーの妊娠をきっかけに崩壊します。
ナタリーはスイスに渡り堕胎。
ナタリーの自発的なものとも、コクトーに強要されてのこととも、様々伝えられていますが事実は判りません。
ただコクトーの情人である詩人、ジャン・デボルト(一時期ナタリー本人とも関係があったと言われています)と「兄妹のように」打ち解けることを求められたり、
ずっとコクトーに恋心を持っていた共通の友人、マリー=ロールから陰湿ないじめを受けたり、
このときのナタリーは疲弊しきっていたのだと思われます。
それが堕胎をきっかけに、修復しようのない決裂に結実してしまったのではないでしょうか。
どこまでいっても哀しい影が付きまとうナタリー、
その美貌ゆえにいっそう哀しさが胸に迫ります。

コクトーとの別離したからといってリュシアンとの仲が戻るはずもなく、
籍は入れたまま別居。
ナタリーが再婚を決意する5年後まで、仮面夫婦を続けることになります。
女優として何本かの映画に出演するうちにブロードウェイのプロデューサー、ジョン・チャップマン・ウィルソンと知り合ったナタリーはそのプロポーズを受け、
リュシアンとの離婚成立後に再婚。
アメリカに居を移します。
流転を重ねたナタリーでしたが、NYでの暮らしは比較的平穏だったようです。
オートクチュールメーカーの広報部に所属し、時として自らモデルも務めました。

穏やかな後半生において、ナタリーは自分の人生を語ることはほとんどしませんでした。
それは母オリガが回想録を著し、姉イリーナがジャーナリストのインタビューにたびたび応じているのとは対照的です。
しかしその沈黙によって彼女の生涯はよりいっそう不思議で哀しいものとして、
私たち後世の人間の興味をかきたてるのです。


そして1981年、ナタリーはニューヨークでその生涯を閉じます。
ロシア正教の保護者であるロマノフ家のプリンセスであったそのひとは、ニュージャージー州の長老派教会に葬られました。

参考文献:
『ロマノフ家の最期』アンソニー・ サマーズ、トム・マンゴールド著 高橋正訳 中央公論社
『コクトーが愛した美女たち』 ドミニク・マルニィ著 高橋洋一訳 講談社
(*コクトーの大姪、ドミニクによる著書)
日本語版/英語版/ロシア語版 wikipedia
ウェブサイト『ALEXANDRE PALACE TIME MACHINE』より、”Memories of Russia”
http://www.alexanderpalace.org/memoriesrussia/
(*ナタリーの母、オリガ公妃の回顧録のウェブ版)

偽ドミトリーという存在③【お気に入り人物伝】

2010-08-09 23:52:27 | ロシア史なお話
 さてさて。
 
『殺害されたはずのドミトリー皇帝は生きていた!』というウワサがまたもロシアを駆け巡ったわけですが、これについてちょっと詳しく調べてみたいと思います。
この人、偽ドミトリー2世と呼ばれています。
ちなみに先代の偽者(偽者に先代って…)のことは偽ドミトリー1世という呼び名がついています。
こちらがその偽ドミトリー2世。ワイルド。
もともとは辺境の地で教師をしていたとも、流れユダヤ人であったとも言われています。
 ロシアとポーランドの国境あたりで出現した彼は先代の側近(というか先代の反乱軍の黒幕)に擁立されてモスクワに進軍、
モスクワ近郊のトゥシノに本陣を置きました。
側近はご丁寧にも偽ドミトリー1世の妃であるマリーナ(逮捕後、祖国ポーランドに強制送還されてました)を呼び寄せ、
『感動の再会』を演出します。
(マリーナはなんとこの後、偽2世と子供まで作ってしまうんですよ!)
うまいこと民衆達たちは偽2世に心を奪われ始めて、
皇帝ヴァシーリーは危機感を覚えます。
あんなに丁寧に殺したはずなのにね、おかしいね?
そしてあせったヴァシーリーは、さらに民意を失う愚挙に出てしまいます。
ポーランドとはまた違う隣国であるスウェーデンに特使を送り、
「ロシア領土をあげるから味方して!軍出して!」と要請。
為政者にとって、勝手な国土の割譲ほどキケンな政策はありません。
人心が離れるに決まってます。
スウェーデンにしてみればこんなオイシイ話はないので、
ヴァシーリーに恩を着せながらモスクワに援軍を出し、偽2世軍を攻撃。
偽2世軍はみるみるうちに弱体化していくのです。
そうすると偽2世に加担していたポーランド勢は「やーめたっ」と離脱して本国軍と合流するわ、
宮廷じゃ反ヴァシーリー派がクーデター起こすわ、
ロシア、ポーランド、スウェーデンが3つ巴の争いを繰り広げるわ、
ポーランドの王子がモスクワに乗り込んできて貴族の一部が皇帝に推挙するわ、
その王子が実家の親父さん(ポーランド国王ですな)と仲間割れするわ、
 
…ひっちゃかめっちゃかじゃありませんか。
 
こんな状態のさなか、
四面楚歌の偽2世はポーランドに見限られたことを察知して逃亡します。
そして落ち延びる最中に手下と仲間割れを起こし、刺殺されてしまいます。ぐさーっ。
 
 
これで終わりかと思いきや、間髪入れずにまた出てくるんですよ。
…何がって? 
 
『実は実は、ドミトリー皇帝は、生きていた!』
 
1号、2号、そんでもって3人目。
仮面ライダー的にはV3です。
V3は1世や2世に比べてけっこう地味。
肖像画も、探したけど見つかりませんでした…、
支持者も少なかったし話し方やら存在感やらの説得力にも欠けたようで、
名乗りを上げた翌年には逮捕されて処刑されています。
こういうキャラが後になればなるほど小粒になっちゃうのは、いたしかたないですなぁ。
 
V3が亡くなったころから、なんとなくロシアの動乱は収束へ向かっていきます。
国民による義勇軍が結成されてモスクワで蜂起してポーランド勢から首都を奪還し、
全国会議を召集して新しい皇帝を選出したのでした。
その人こそ、ミハイル・ロマノフ。
ここからおよそ300年、ロマノフ王朝が続くこととなるのです…。
 
ここまで3部構成で動乱時代における『偽ドミトリー』という特異な存在に関して追ってみました。
内乱期に数多の勢力が戦国模様を繰り広げるのは世の常ではありますが、
やはりロシアは他国に比べてカラーが強いような気がします。
それがかの国の魅力と言えばそうなんですが…

参考文献:
『ボリス・ゴドノフと偽のドミトリー-「動乱」時代のロシア』 栗生沢武生 山川出版社
『ロシアとソ連邦』 外川継男著 講談社学術文庫
『イヴァン雷帝』 アンリ・トロワイヤ著 工藤庸子訳 中公文庫
Wikipedeia 英語版/ロシア語版

偽ドミトリーという存在②【お気に入り人物伝】

2010-08-08 21:40:42 | ロシア史なお話
てなわけで。
 
『実は殺された皇子が生きていたらしい!』
というショッキングなウワサが流れたロシアなんですが、
これ、ちょっと無理があるんですよ。
なにしろドミトリー皇子、ノドを刃物でグサー、ですから。
調査団も作られて死亡を確かめましたから。
 
けれどドミトリーを自称する若者はどんどんと味方を増やしていきます。
ボリス帝は敵が多かったから、彼らに利用されたといってもいいかもしれません。
反皇帝派の大貴族や混乱まっさかりのロシアを狙う外国勢力、
ロシア正教の代わりに勢力を拡大したいカトリックなどが偽ドミトリーのバックにつきました。
この僭称者の青年ですが、大貴族の家内で召使をしたあと修道院に入った脱走修道士のグレゴリー・オトレピエフだと言われています。
さてこの偽ドミトリー、
いつの間にかひそかに敵国ポーランドに渡ったそうです。
そして彼の地でカトリックに改宗したりポーランド国王に謁見したりポーランド貴族女性のマリーナと婚約したり、
帝位簒奪のためにいろいろ地固めをしたのでした。
こちらが婚約者のマリーナ。
ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』では偽ドミトリー以上の野心家として描かれている、
ポーランドを代表する肉食系女子(?)です。
どうしても王妃様になりたいんだってー。
ポーランドの威信をかけて戦いたいんだってー。
 
で、満を持してロシアに進軍した偽ドミトリー軍。
けれどボリスは前回も言いましたが戦争上手でございまして、
偽ドミトリー軍を見事全滅寸前まで追い詰めます。
さすがです。
しかししかし、ここでまさかの事態。
 
ボリス・ゴドゥノフ帝、崩御。
 
帝位はボリスの長男フョードルが継承したもののまだ若干16歳。
親玉を失った軍は総崩れ、
皇帝派の貴族達も偽ドミトリー派に寝返るものが続出しました。
そしてロシアお決まりのクーデターが起き、新帝フョードルは処刑されてしまいます。
その後偽ドミトリーは悠然と帝都モスクワに入城、戴冠。ドミトリー2世と称します。
こうして僭称者が晴れて簒奪を成し遂げてしまったのでした。
 
さて、実はこの時、ドミトリーの(ほんもののドミトリー皇子ね)の母親、
イヴァン雷帝の妻であったマリーヤはまだ存命だったりします。
というわけで偽ドミトリーはマリーヤの暮らす修道院に訪問し、
息子だと認めさせます。
(そりゃ、認めなかったら殺されちゃってもモンク言えないしね)
 
てなわけで鮮烈なデビューを飾った偽ドミトリーでしたが、
やはりその親ポーランド、親カトリックな政策は反感を買うわけです。
「都にいるポーランド軍が狼藉を働いても皇帝はなにも言わない!」
「新しい皇妃はポーランド娘らしいぞ!」
「つーかロシアに来たくせにロシア正教に改宗もしないでカトリックの流儀を持ち込むなんて、どういう了見だ!」
「ってか皇帝自身がカトリックに改宗したとかいうウワサもあるぞ!」
偽ドミトリー、ピンチでございます。
こうなったらロシア史的にどうなるか。
…はい、クーデターですね。
ほんとにロシア人はクーデター好きだなぁ。
大貴族ヴァシーリー・シュイスキー公(ちなみにこの人、ドミトリー皇子死亡調査団の人です)を中心に反皇帝派は挙兵、偽ドミトリーは逮捕のうえ殺害されました。
宮殿の窓から逃げようとしたら足を骨折しちゃって、身動きが取れなくなったところで、銃でずどん。
こちらは逃げようとしてる偽ドミトリーの絵です。
(カール・ベニングの『最後の数分間』という作品。タイトルのつけ方が秀逸です)
さて、殺された偽ドミトリーの遺体は赤の広場で見せしめにされた上に焼却処分されました。
遺灰は大砲に詰めてポーランド方面にどかーん。
今回の反乱軍は仕事が丁寧です。
そりゃそうだね!また偽者が出てきたらいけないものね!
 
けど、出ちゃうのよ。
だってロシアなんだもん。
 
クーデターの立役者であるシュイスキー公が即位を宣言してヴァシーリー4世と称してまもなく、
ロシア中をあのウワサが駆け巡ることになります。
 
『実は、ドミトリー皇帝は、生きていた!』
 
うわぁ。
まただぁ。
 
 
参考文献:
ボリス・ゴドノフと偽のドミトリー―「動乱」時代のロシア』 栗生沢武生 山川出版社
『ロシアとソ連邦』 外川継男著 講談社学術文庫
『イヴァン雷帝』 アンリ・トロワイヤ著 工藤庸子訳 中公文庫
Wikipedeia 英語版/ロシア語版

偽ドミトリーという存在①【お気に入り人物伝】

2010-08-07 22:31:24 | ロシア史なお話
『実は生きていた!』

古くは源義経から最近では韓流ドラマに至るまで世間一般に広く好まれるシチュエーションですが、
普通なら伝説とか娯楽レベルで済まされる話ですよね。
しかしロシアは違う。
ロシアはこんな情報に踊らされて20年近くも国が内戦状態に陥ってしまったのです。
この時代は『スムータ(動乱)』と呼ばれています。
まんまやないけ。
日本で言うと16世紀末~17世紀初頭、ちょうど安土桃山時代から江戸時代に移行するころの話ですね。
ことの起こりはイヴァン4世(雷帝)の後継者問題です。
余談ですがイヴァンが雷帝って呼ばれるの、おかしいなぁって思うのです。
ピョートル大帝が始めてロシアにおいて皇帝という名乗りを上げたのは、イヴァンの治世より150年くらいあとのことです。
けどまぁ、ごちゃごちゃすると分かりにくいので今は皇帝ってことにしておこう。

こちらイヴァン4世。肖像のフチが花柄でかわいい。

イヴァン4世はその通り名からも分かるように苛烈な性格であったといわれており、
当時皇太子であった次男(長男は早逝)を口論の末誤って杖で撲殺したという過去がありました。
こちら、イリヤ・レーピンによる『イヴァン雷帝とその息子』という絵です。

ズームしてみましょう。

激情に駆られて息子を打ったものの、
我に返ったイヴァンが「自分はなんということをしてしまったんだ!」とショックを受けているシーンですが、
鬼気迫る表現力と言わざるを得ません。
ともあれ、皇太子を失ったイヴァン4世にはふたりの息子が残されました。
1人は、皇太子の同母弟にあたるフョードル。生まれつき病弱、かつ知的障がいがあったと言われています。
もう1人は、教会に正式に認められていない妻が産んだ(つまり庶子扱いとなる)ドミトリー。
このとき、まだ幼児です。
イヴァンの死後、とりあえず順当に兄のフョードルが帝位につきますが、
彼は傀儡にしか過ぎません。
数多の政敵を押しのけて最終的に実権を握ったのは、フョードルの妃の兄、ボリス・ゴドゥノフでした。

ボリスはけっこう英邁な摂政だったようです。
もとが下級貴族なので大貴族たちの特権を制限したし、
外交上手の戦争上手で国土の拡大に努めました。
しかしながらここで勇み足。
田舎の領地に押し込められていた皇弟ドミトリーが謎の死を遂げます。享年8歳。
これに関しては、ボリスの密命により暗殺されたという説が有力です。
しかしながら公式には事故死と発表されました。
こちらがかわいそうなドミトリー。 8歳のわりにおとなっぽいイメージです。


さらに時を置かずして病弱だったフョードルが実子を残さず他界。
すると、リューリク朝に繋がる血脈の人間やその他の有力貴族はいるものの、
なかなか後継者が決まらないという事態に陥ります。
そしてなんと、それを受けて集められた全国会議(貴族だけじゃなく、聖職者や商人・町人階級も召集されました)でボリスが皇帝に選出されます。
その出自や政策の明解さから、民衆を味方につけたのが吉と出たんでしょうね。
というわけで晴れて帝位についたボリスでしたが、なってみるとけっこうタイヘン。
当然ながら大貴族の反発は潜在的だし、
彼の治世はけっこう飢饉やら天災やらが多かったらしく、
最初は支持母体だった民衆を味方につけるのもだんだん難しくなってきました。
おまけに、
その、
なんというか…
スネに傷持つ身だし…
そんなときにロシアを席巻したのが、冒頭のウワサだったのでした。

『実は、ドミトリー皇子は、生きていた!』

つづく。

参考文献:
『ボリス・ゴドノフと偽のドミトリー-「動乱」時代のロシア』 栗生沢武生 山川出版社
『ロシアとソ連邦』 外川継男著 講談社学術文庫
『イヴァン雷帝』 アンリ・トロワイヤ著 工藤庸子訳 中公文庫
Wikipedeia 英語版/ロシア語版

グリゴリー・ポチョムキン【お気に入り人物伝】

2010-08-03 01:25:58 | ロシア史なお話
ダーシュコヴァ公爵夫人の生涯を追ったついでに、
せっかくなのでその盟友ポチョムキン公爵についても勉強し直してみたくなりました。
グリゴリー・ポチョムキン(1739-1791)は女帝エカチェリーナ2世の愛人として知られています。
エカチェリーナ2世は多くの愛人をとっかえひっかえしていたとされ、
孫のニコライ1世に『玉座の上の娼婦』と酷評されたほどでしたが、
ポチョムキンは数多の情夫たちとは一線を画した存在であったと言われています。
その政治的・軍事的センスや女帝への献身はエカチェリーナにとってはかけがえのないもので、
ふたりの間には互いに「夫」「妻」と手紙の中で呼びかけあうほどの強い絆がありました。
 
ポチョムキンは地方都市スモレンスク近郊で下級貴族の家に生まれました。
ポチョムキンの先祖はロシア・ポーランド戦争で活躍した有能な軍人で宮廷への直参も許されていましたが、
彼が生まれたころにはすでに没落していました。
長じてモスクワ大学に学び近衛連隊に入隊したころ、皇妃エカチェリーナを奉る一派による軍事クーデターが起こります。
まだ23歳だったポチョムキンも、青年将校の一員として参加。
このときのふたりの関係はまだ、皇妃と一介の軍人に過ぎません。
こちら、若かりし日のエカチェリーナです。
 
それから12年後、ポチョムキンは10歳年上の女帝の恋人として歴史の表舞台に登場します。
それも、生涯において数多の男性と浮名を流したエカチェリーナの男性遍歴の中でも特別な存在として。
エカチェリーナの情夫たちはあまり有能なタイプは多くなかったと言われていますが、彼は文武に長けた軍人であり、
それゆえに私生活のみならず、政務や軍務においても女帝をサポートすることになります。
精神的な結びつきも深く、たくさんの恋文が残されていたり秘密結婚をしていたという説があったりします。
エカチェリーナは立場上ポチョムキンからの手紙をほとんど燃やしてしまいましたが、
ポチョムキンはエカチェリーナからの手紙をずっと大切に持っていました。
この恋文がちょっとすごいです。
 
私は放埓を好む女ではなく、
もし若いときに愛することの出来る夫に恵まれていたなら
その人に貞淑だったろうと思います。
ただ困ったことに私の心は
一刻も愛なしにいることを望まないのです。
こんな愛のありようはやはり善良というよりは
罪深いものなのでしょうか。

 
という、ふたりの関係が始まったばかりのころの魂の告白。
 
いとしい人、わたしの魂、愛するあなた、
わたしは今日、気がへんになっています。恋、恋のせいね。
心で、頭で、魂で、体で、わたしはあなたに夢中。
五感のありったけであなたを愛してるの。
そして未来永劫に愛し続けるでしょう。
だからお願い、あなたのわたしを愛してくださいな、
ね、きっとよ・・・・・・。
 
という情熱的な文面や、
 
わたしは、心の底から愛しているときは、とてつもなく優しいのよ。
わたしの魂はあなたに会いたくて、会いたくて、たまらない。

こんにちは、あなた。みんな、お元気かしら。
わたしは元気であなたのことが好きです。

 
という優しい、あたたかな愛情を感じる呼びかけ。
 
やっぱり知的な女性は、ラブレターもステキだなぁと思ってしまいます。
ふたりの間には一女エリザヴェータ・チョームキナも生まれました。
 
1774年、プガチョフの乱を鎮圧。
1775年、ザポロージャ・コサックのシーチ(本拠地)を廃止。
軍人として辣腕を振るうポチョムキンは、
1776年、女帝に命じられて帝都から遠く離れた南部ロシア地方の総督として現地に赴任します。
そうなると女帝の傍らにはいられない…
ここでポチョムキンは、普通の男性では考えられない行動に出ます。
 
自分の代わりとなる愛人の手配。
 
女帝の好みを知り尽くしたポチョムキンは、
自分の息がかかっていておツムがあまりよろしくない(つまり自分の存在を脅かさない)美青年を次々に女帝にあてがいます。
なんという策士。
この話を知ったとき、私が真っ先に思い出したのはフランスのポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌでした。
ルイ15世の寵姫だった彼女は、自分が現役を引退した後もルイのもとにどんどん美しい女性を送り込んでその影響力を持続したわけですが、
ポチョムキンはその男女逆転バージョン。
ポンパドゥール侯爵夫人のほうが若干時代が早いので、
もしかしたら先人の知恵に倣ったんでしょうか。
そうだとしたらすごすぎる。
 
男女の関係がなくなっても、遠く離れて暮らしていても、ふたりの間には確固たる信頼がありました。
ポチョムキンは愛するエカチェリーナのために、ばりばり仕事に取り組みます。
領土を増やし、そこを平定し、開発していきます。
また1784年には陸軍元帥と海軍元帥を兼ね、軍事参事会議長としてロシア全軍のトップに立ちます。
これはそのころの姿でしょうか。
そろそろおじさんぽくなって、ちょっとプヨッとした感じ。
 
かつて女帝と物別れに終わってしまったその親友、エカチェリーナ・ダーシュコヴァ公爵夫人を再び宮中に戻すきっかけを作ったのもこの頃。
ともに女帝を支えるという明確な目標を持っていたポチョムキンとダーシュコヴァは盟友とも言える関係を築きます。
また、ダーシュコヴァの愛息パーヴェルはスコットランド留学を終えた後、ポチョムキンの副官として南方に赴任。片腕として活躍することになります。
 
彼にとって人生最高の晴れ舞台は、
1787年に行われた女帝の南方視察だったといわれています。
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世や外国大使などを伴った一行は、はるばる陸路と河川を伝って黒海まで南下。
ポチョムキンはその途上にことごとく宿営のための施設を設け、娯楽を提供し、新領土の発展を強烈に印象づけました。
反ポチョムキン派はこれを「張りぼてだ!」「見せ掛けだ!」と主張し、
現在も『ポチョムキン村』(=人目に着くところだけを美しく整備すること)というあまりいい意味ではない故事成語として残ってしまっていますが、
これはちょっとかわいそうな気がします…
 
さて、女帝のクリミア行幸以降、
ポチョムキンの人生は次第に寂しげなものになっていきます。
遠く離れて暮らす女帝との文通は続いていたしサンクト=ペテルブルグにも頻繁に帰京してはいたけれど、
老境に入り始めた女帝はかつてのような明晰さを失っていきます。
反ポチョムキン派が手配した愛人、プラトン・ズーボフが女帝の寵愛とポチョムキンの不在をいいことに専横を振るう宮中は、
彼にとってもはや帰る場所ではなかったのかもしれません。
1971年、ペテルブルグから任地に戻る道中で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。52歳でした。
 
ポチョムキンの絶筆は、
エカチェリーナに宛てて書いた最後の恋文です。
 
なつかしいおっ母さま、
もう僕は生きられない。
君に会えないのだもの。
 
これを書き上げて愛する人に送ることは叶いませんでした。
 
さても驚くべきは、ふたりの信頼関係です。
ポチョムキンは15年もの間ロシアの4分の1にも及ぶ領土と軍事における最高権力を手にしていたにもかかわらず、
一度たりとも女帝エカチェリーナに反逆の不安を抱かせたことはありませんでした。
裏切り、裏切られて生きてきた彼女は決して猜疑心が薄いほうではない(むしろ強いほうだと言える)はずであり、
それを考えるとポチョムキンという男性の非凡さがより浮かび上がってくるような気がするのです。
 
ふたりの間に生まれた娘、エリザヴェータはポチョムキンの妹マリーヤの手で養育され、
ギリシャ系貴族のカラゲオルギ将軍に嫁ぎました。
旦那さんのお国にあわせたのか、肖像画の衣装もちょっとギリシャ風ですね。
 
参考文献:
『女帝エカテリーナ 上・下』 アンリ・トロワイヤ著 工藤庸子訳 中公文庫
『ロシアとソ連邦』 外川継男著 講談社学術文庫
『女帝のロシア』 小野理子著 講談社
『不思議な恋文 女帝エカテリーナとポチョムキンの往復書簡』 小野理子著 東洋書店
『恋文 女帝エカテリーナ二世 発見された千百六十二通の手紙』 小野理子、山口智子著 アーティストハウス
Wikipedeia 英語版/ロシア語版