
母が病床にあって入院中、この世の最後に読んでいたのだろうと思われるのが『わたしの脇役人生』(沢村貞子)だった。
そして、同じく病院での身辺に置かれてあった文庫本の『私の台所』と、使いさしのテレホンカード1枚とを、母亡きあと私はもらい受けた。

「…そろそろ寝ようか、おばあさん そろそろ寝ましょか、おじいさん …二人は八十歳」。
私たちも残りの日々をこんなふうに穏やかに暮らしたい、と綴られて終わっている。父にも母にもそういう時間を過ごしてほしかった、と思ってはみるが、人生がもう一度繰り返されることがあろうはずもない。二人の間に生を得た今日。母を思いながら何年ぶりかでこの本を手に取った。
激しい雨が降ったり止んだりの一日だった。雨上りの夕刻、ほんの短い時間だったが驚くほど空が一面に朱く染まった。
椿の実が色づいてきている。明日からまた一歩ずつ、本文にあった「悠々不休」という言葉をいただいて踏み出そうか。