京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

金戒光明寺山門で

2019年11月17日 | こんなところ訪ねて

比叡山を下りた法然が草庵を結んだことが始まりとされる黒谷の地にある金戒光明寺。山門の特別拝観が行われているので出かけてみることにした。
36段ほどの階段はチラッと上をみたら「こわっ!」となる急階段で、ロープを握り足元だけを見て一段一段上がっていく。

南に開け、東よりに南禅寺の三門が見え、正面に知恩院の三門、八坂の塔、その横に祇園祭の山鉾に似た形で祇園閣がそびえるのがわかり、ぐっと手前には平安神宮の朱の鳥居が低く見える。少しずつ右手に目を移せば大阪湾に流れ込む淀川の方面まで、となると伏見、そして天下分け目の戦いとなった山崎の合戦場だし、あべのハルカスのビルもうっすらと目に入り、京都御所、左大文字も見えた。素晴らしい眺望が開けていた。
この山門は応仁の乱で消失後、1860年に再建されたものだという。天井には極楽図ではなく浄土宗には珍しい龍の絵が描かれ、外陣の四方を飾る花の木彫りの細工も美しい。

幕末の文久2(1862)年、京都守護職に就任した会津藩主松平容保はここ金戒光明寺に本陣を置いたのだ。広く見渡せる立地の良さ、塔頭が多く、多くの兵士を交代に住まわすことに適していたという。会津藩預りという形で始まった新撰組を配下に、京の治安維持にあたるようになっていく。藩主容保公もここから、更に良い展望で景色を目にされた…。

    童門冬二氏の歴史小説が好きで読み続けていた時期があった。池田屋事件の前…。、
「長い石段上の、それも東山の中腹に溶け込むように建てられたこの寺〈金戒光明寺〉は、深い樹々の重なりの中にあって、静寂そのものである」
「会津藩主容保は、幽鬼のように痩せほそっていた。もともと丈夫ではないのに、入洛以来の精神的緊張が溜り、容保の神経を極度に消耗させた」ほとんど食欲がなく、「夜もほとんど眠れず、どんな小さな音にも敏感に反応した」鳥が啼く、獣も走る。落ち葉のカラカラとした音。動悸を早め、心臓も弱っていた。
「容保は純粋である。潔癖だ。人間の不正や邪心をことごとくきらう」。守護の責任を四六時中考え、ついにからだをそこない、神経まで痛めてしまっていた。…などと描かれる






(極楽橋を渡り、三重塔への石段を上がる途中で左に進むと会津藩墓地へ。途中視界が開ける)

小説だ。しかも私自身がこの時代に詳しいこともない。ずいぶん前に読んで忘れている。だが、それをパラパラとページをめくり返してさらうだけでも、あの時代にここで…、と思いを馳せるには十分だ。極めて自己満足の範疇だけど…。

池田屋騒動、禁門の変を経て、戦死、戦病死した会津藩士に仲間小者など237霊が葬られ、鳥羽・伏見の戦いで戦死した藩士115霊も合祀されていると記されていた。
コメント (2)
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