こんにちわ。「くまドン」です。
今回は、江戸時代の「平井の渡し」から続く行徳街道(ぎょうとくかいどう)の先にある「今井の渡し(いまいのわたし)」と、その周辺についてです。現在の今井橋の少し北側にあり、東京都・江戸川区(えどがわく)と千葉県・市川市(いちかわし)の境界に当たります。
写真は、過去に5月と9月に今井に撮影に行った時の写真が中心です。
近くの親水緑道にヒガンバナ(彼岸花)が咲いていましたので、枯れている花まで写っていますが、季節的に一枚入れておきます。
下の写真は江戸川の写真ですが、市川市の南行徳(みなみぎょうとく)側から、江戸川区の今井(江戸川3丁目)方向を眺めた風景です。この付近は船宿も多く、川岸に多くの船が停泊しています。
(絵画調)
前回乗せました元佐倉道の説明図の地図ですが、
中川の「平井の渡し」からの道は、行徳道(浅草道)として南東方向に進み、江戸川(江戸時代の利根川)に行きあたった所が、「今井の渡し」です。
江戸川の千葉県側に「今井の渡し」旧跡の説明板があります。
説明板に書いてある様に、「今井の渡し」は、室町時代の永正6年(西暦1509年)には、当時の連歌師・柴屋軒・宗長(さいおくけん・そうちょう)が訪れ、宗長の連歌(れんが)を載せた紀行文「東土産」の中で、今井にあった浄興寺を訪れる時に、浅草(あさくさ)から船に乗り、今井の渡し場で下船したという「東路の津登(あづまじのわたしば)」として紹介したのが、歴史上の文献に出てくる最初となります。
次は、江戸川区側から、現在の今井橋と行徳側を眺めた写真です。
(絵画調)
今井の渡しは、現在の今井橋より、少し北(上流)側にありましたので、写真を撮影している所が、今井の渡しのあった付近です。
いつのまにか、江戸川内に河川敷ができていましたので、少し驚きました!昔は下の写真のようにコンクリート堤防のすぐ下は江戸川でした。
さらに、江戸川上流側に向きを変えました。この付近は船宿(釣船、屋形船)も多い所です。
今井橋の下流側に目を向けると、行徳側の対岸でも、堤防の強化(耐震?)が進んでいるようです。
江戸時代初期においては、前回の話にあった「小岩・市川の渡し」が江戸幕府の公認の渡し場であり、「今井の渡し」は地元の農業関係の移動に使用されている程度でした。
3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寛永年間に渡し場としての許可を得ていますが、江戸からの客は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていた一方通行の渡し場だったようです。
5代将軍・綱吉(つなよし)の元禄時代になると、歌舞伎(かぶき)役者で人気者でありました初代・市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が、「成田不動明王山」を演じて、大当たり(大人気)となりました。それ以後、江戸の町から成田詣り(なりたまいり、成田不動への参拝)が盛んになると、「今井の渡し」を渡って、成田へ参拝(さんぱい)に行く旅行客が増加していくことになります。
下の古地図(右が北)では、右上の「中川の渡し」から道がありますが、元佐倉道の途中から行徳道に向きを変え、図の下を流れる江戸川(利根川)の「今井の渡し」に到着してしまいます・・・
左の川は「小名木川」から「新川」に至る流路で、行徳からの塩の運送経路でした。江戸川(利根川)戸の交差部には、広重の名所江戸百景「第71景 利根川ばらばらまつ」の場所と推測されている「妙見島(みょうけんじま」の地名も見えます。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第71景 利根川ばらばらまつ」(夏景)です。
下の写真は、今井(江戸川区江戸川3丁目)の竜亀山・浄興寺(りゅうきざん・じょうこうじ)の山門です。
12代将軍・家斉(いえなり)の天保年間に刊行された名所江戸図会(めいしょえどずえ、地誌紀行図鑑)には、挿絵の「今井(いまゐ)の津頭(わたしば)」の中でも、柴屋軒・宗長(さいおくけん・そうちょう)の話が紹介されています。抜粋すると、
永正六年の紀行『東土産(あつまのつと)』に、「隅田川の河舟にて葛西(かさい)の府のうちを半日ばかり葭(ヨシ、葦)・芦(アシ)をしのぎ、今井といふ津(わたり)より下りて、浄土門の寺・浄興寺に立ち寄りて」とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり。
さらに、浄興寺の席にて、発句所望あり、「富士の根は 遠からぬ雪の 千里かな (宗長)」の句を残しています。
下は明治代後半の地図ですが、紫色の○印が「今井の渡し」のあった所です。地図の左上(西北)から行徳道(現在の今井通り)が続いていますが、現在の今井橋より、少し上流にありました。
黄色の線の所に浄興寺(じょうこうじ)の文字が見えます。
名所江戸百景の中では、浄興寺の位置は、「上今井の渡しより西北に二丁(約200m)」とありますので、混乱気味です。
下の写真は、竜亀山・浄興寺の本殿です。
(絵画調)
下の絵は、江戸名所図会に描かれていた絵です。今井(文中では葛西)の竜亀山・浄興寺(りゅうきざん・じょうこうじ)に、戦国大名(せんごくだいみょう)の北条氏康(ほうじょう うじやす)が、武蔵野(現在の東京都・埼玉県)の小鷹狩りの時に一夜の宿を求めた情景を表現した絵です。
挿し絵に書きこまれている文字を抜粋すると、
天文十五年の秋、小田原の北条左京太夫氏康、むさし野小鷹狩りのとき、葛西の浄興寺一夜のやどりをもとめられ、「松風入琴(しょうふうことに入る)」といふ和歌を題にて詠ぜられしこと、『武蔵野紀行』に見えたり。
「松風の 吹くこゑ(音)きけば よもすがら しらべことなる 音(ね)こそかはらね (北条氏康)」
これより後、境内にあった松を「琴弾き松」と号するようになったと書かれています。
昔は、大きな松があったそうですが、現在では枯れて無くなっていますので、代わりに境内の松を撮影です。
北条氏康は、小田原城(おだわらじょう)を拠点とする後北条氏の3代目当主で、初代・北条早雲(ほうじょうそううん)の孫です。天文15年(西暦1546年)は戦国時代の真中で、関東に勢力を伸ばしてきた小田原(おだわら)の後北条氏が、関東公方(かんとうくぼう)や、房総(ぼうそう、現在の千葉県)を拠点とする里見(さとみ)氏と江戸川を挟んだ国府台合戦(こうのだいかっせん)が繰り広げられた時期にあたります。
天文7年(西暦1538年)、第一次国府台合戦の後に、江戸川国府台は北条氏に従った千葉(ちば)氏の所領となった為、この付近一帯が北条領となっていた時代でした。
時代は変わり、江戸時代において、この寺の住職は、寺子屋(てらこや)を開き、郷里の人の教育に務めていたそうです。長卵形の石塔が筆子塚(ふでこづか)です。
「筆子塚」は、江戸時代(明治時代の場合もある)の寺子屋などで教育を受けた教え子が、師匠が死んだ際に、その遺徳(いとく、死んでも残る功績)を偲んで、教え子が費用を出し合って建てた塚や墓、供養塔などです。
大正元年(=明治45年、西暦1912年)に初代の今井橋が架けられて、その役割を終えました。
現在の今井橋は、初代の今井橋の少し下流(南)側にあります。
「今井の渡し」に話を進めてきたのは、たまたま、この近くにある「今井交通公園」の撮影がきっかけでした。写真が多いので、次回にします。(本来は9月末までに、この話する予定でしたが、のびのびとなっています・・・・)
最後に秋の花を、もう一枚の入れておきます。
(絵画調)
(1)「今井の渡し」の付近の以前のブログは以下の通りです。
「名所江戸百景148 第96景 堀江ねこざね(1) 行徳の野鳥病院」
「名所江戸百景149 第96景 堀江ねこざね(2) 行徳の野鳥病院」
「名所江戸百景153 第71景 利根川ばらばらまつ 葛西臨海公園(1)」
(2)前回までの「逆井の渡し」「平井の渡し」「にい宿の渡し」「小岩・市川の渡し」のブログは以下の通りです。
「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
「名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史」
「名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し」
今回は、これで終わりとさせていただきます。
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今回は、江戸時代の「平井の渡し」から続く行徳街道(ぎょうとくかいどう)の先にある「今井の渡し(いまいのわたし)」と、その周辺についてです。現在の今井橋の少し北側にあり、東京都・江戸川区(えどがわく)と千葉県・市川市(いちかわし)の境界に当たります。
写真は、過去に5月と9月に今井に撮影に行った時の写真が中心です。
近くの親水緑道にヒガンバナ(彼岸花)が咲いていましたので、枯れている花まで写っていますが、季節的に一枚入れておきます。
下の写真は江戸川の写真ですが、市川市の南行徳(みなみぎょうとく)側から、江戸川区の今井(江戸川3丁目)方向を眺めた風景です。この付近は船宿も多く、川岸に多くの船が停泊しています。
(絵画調)
前回乗せました元佐倉道の説明図の地図ですが、
中川の「平井の渡し」からの道は、行徳道(浅草道)として南東方向に進み、江戸川(江戸時代の利根川)に行きあたった所が、「今井の渡し」です。
江戸川の千葉県側に「今井の渡し」旧跡の説明板があります。
説明板に書いてある様に、「今井の渡し」は、室町時代の永正6年(西暦1509年)には、当時の連歌師・柴屋軒・宗長(さいおくけん・そうちょう)が訪れ、宗長の連歌(れんが)を載せた紀行文「東土産」の中で、今井にあった浄興寺を訪れる時に、浅草(あさくさ)から船に乗り、今井の渡し場で下船したという「東路の津登(あづまじのわたしば)」として紹介したのが、歴史上の文献に出てくる最初となります。
次は、江戸川区側から、現在の今井橋と行徳側を眺めた写真です。
(絵画調)
今井の渡しは、現在の今井橋より、少し北(上流)側にありましたので、写真を撮影している所が、今井の渡しのあった付近です。
いつのまにか、江戸川内に河川敷ができていましたので、少し驚きました!昔は下の写真のようにコンクリート堤防のすぐ下は江戸川でした。
さらに、江戸川上流側に向きを変えました。この付近は船宿(釣船、屋形船)も多い所です。
今井橋の下流側に目を向けると、行徳側の対岸でも、堤防の強化(耐震?)が進んでいるようです。
江戸時代初期においては、前回の話にあった「小岩・市川の渡し」が江戸幕府の公認の渡し場であり、「今井の渡し」は地元の農業関係の移動に使用されている程度でした。
3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寛永年間に渡し場としての許可を得ていますが、江戸からの客は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていた一方通行の渡し場だったようです。
5代将軍・綱吉(つなよし)の元禄時代になると、歌舞伎(かぶき)役者で人気者でありました初代・市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が、「成田不動明王山」を演じて、大当たり(大人気)となりました。それ以後、江戸の町から成田詣り(なりたまいり、成田不動への参拝)が盛んになると、「今井の渡し」を渡って、成田へ参拝(さんぱい)に行く旅行客が増加していくことになります。
下の古地図(右が北)では、右上の「中川の渡し」から道がありますが、元佐倉道の途中から行徳道に向きを変え、図の下を流れる江戸川(利根川)の「今井の渡し」に到着してしまいます・・・
左の川は「小名木川」から「新川」に至る流路で、行徳からの塩の運送経路でした。江戸川(利根川)戸の交差部には、広重の名所江戸百景「第71景 利根川ばらばらまつ」の場所と推測されている「妙見島(みょうけんじま」の地名も見えます。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第71景 利根川ばらばらまつ」(夏景)です。
下の写真は、今井(江戸川区江戸川3丁目)の竜亀山・浄興寺(りゅうきざん・じょうこうじ)の山門です。
12代将軍・家斉(いえなり)の天保年間に刊行された名所江戸図会(めいしょえどずえ、地誌紀行図鑑)には、挿絵の「今井(いまゐ)の津頭(わたしば)」の中でも、柴屋軒・宗長(さいおくけん・そうちょう)の話が紹介されています。抜粋すると、
永正六年の紀行『東土産(あつまのつと)』に、「隅田川の河舟にて葛西(かさい)の府のうちを半日ばかり葭(ヨシ、葦)・芦(アシ)をしのぎ、今井といふ津(わたり)より下りて、浄土門の寺・浄興寺に立ち寄りて」とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり。
さらに、浄興寺の席にて、発句所望あり、「富士の根は 遠からぬ雪の 千里かな (宗長)」の句を残しています。
下は明治代後半の地図ですが、紫色の○印が「今井の渡し」のあった所です。地図の左上(西北)から行徳道(現在の今井通り)が続いていますが、現在の今井橋より、少し上流にありました。
黄色の線の所に浄興寺(じょうこうじ)の文字が見えます。
名所江戸百景の中では、浄興寺の位置は、「上今井の渡しより西北に二丁(約200m)」とありますので、混乱気味です。
下の写真は、竜亀山・浄興寺の本殿です。
(絵画調)
下の絵は、江戸名所図会に描かれていた絵です。今井(文中では葛西)の竜亀山・浄興寺(りゅうきざん・じょうこうじ)に、戦国大名(せんごくだいみょう)の北条氏康(ほうじょう うじやす)が、武蔵野(現在の東京都・埼玉県)の小鷹狩りの時に一夜の宿を求めた情景を表現した絵です。
挿し絵に書きこまれている文字を抜粋すると、
天文十五年の秋、小田原の北条左京太夫氏康、むさし野小鷹狩りのとき、葛西の浄興寺一夜のやどりをもとめられ、「松風入琴(しょうふうことに入る)」といふ和歌を題にて詠ぜられしこと、『武蔵野紀行』に見えたり。
「松風の 吹くこゑ(音)きけば よもすがら しらべことなる 音(ね)こそかはらね (北条氏康)」
これより後、境内にあった松を「琴弾き松」と号するようになったと書かれています。
昔は、大きな松があったそうですが、現在では枯れて無くなっていますので、代わりに境内の松を撮影です。
北条氏康は、小田原城(おだわらじょう)を拠点とする後北条氏の3代目当主で、初代・北条早雲(ほうじょうそううん)の孫です。天文15年(西暦1546年)は戦国時代の真中で、関東に勢力を伸ばしてきた小田原(おだわら)の後北条氏が、関東公方(かんとうくぼう)や、房総(ぼうそう、現在の千葉県)を拠点とする里見(さとみ)氏と江戸川を挟んだ国府台合戦(こうのだいかっせん)が繰り広げられた時期にあたります。
天文7年(西暦1538年)、第一次国府台合戦の後に、江戸川国府台は北条氏に従った千葉(ちば)氏の所領となった為、この付近一帯が北条領となっていた時代でした。
時代は変わり、江戸時代において、この寺の住職は、寺子屋(てらこや)を開き、郷里の人の教育に務めていたそうです。長卵形の石塔が筆子塚(ふでこづか)です。
「筆子塚」は、江戸時代(明治時代の場合もある)の寺子屋などで教育を受けた教え子が、師匠が死んだ際に、その遺徳(いとく、死んでも残る功績)を偲んで、教え子が費用を出し合って建てた塚や墓、供養塔などです。
大正元年(=明治45年、西暦1912年)に初代の今井橋が架けられて、その役割を終えました。
現在の今井橋は、初代の今井橋の少し下流(南)側にあります。
「今井の渡し」に話を進めてきたのは、たまたま、この近くにある「今井交通公園」の撮影がきっかけでした。写真が多いので、次回にします。(本来は9月末までに、この話する予定でしたが、のびのびとなっています・・・・)
最後に秋の花を、もう一枚の入れておきます。
(絵画調)
(1)「今井の渡し」の付近の以前のブログは以下の通りです。
「名所江戸百景148 第96景 堀江ねこざね(1) 行徳の野鳥病院」
「名所江戸百景149 第96景 堀江ねこざね(2) 行徳の野鳥病院」
「名所江戸百景153 第71景 利根川ばらばらまつ 葛西臨海公園(1)」
(2)前回までの「逆井の渡し」「平井の渡し」「にい宿の渡し」「小岩・市川の渡し」のブログは以下の通りです。
「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
「名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史」
「名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し」
今回は、これで終わりとさせていただきます。
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