こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、隅田川に架かる大橋の話です。
徳川家康の江戸入府時に、「千住大橋」(せんじゅおおはし、文禄、1594年架橋)が架けられた後、江戸時代の初期においては、江戸城の防衛の為、隅田川には、それ以外の橋は架けられていませんでした。
隅田川を江戸城の外側にある、もう一つの堀とする考え方です。
下の橋は、現在の千住大橋です。(昭和2年竣工)
時代は進み、4代家綱(いえつな)の頃には江戸幕府の体制も安定してきました。
明暦の大火(1657年)で橋が無く、多数の江戸市民が死傷したことにより、2番目の橋、「両国橋」(りょうごくばし)が架けられました(1659年と1661年の架橋の2説あり)。
両国橋の少し下流に離れた小道に、旧両国橋のあった場所と、広小路の説明板がありました。
江戸時代は、火災が多く、「明暦の大火」の後に、幕府は火災の延焼を防ぐために、江戸町内に多くの広い通りを造りました。火災の時の火除け地として使用されていました。
結果として、本所・深川方面の幹線道路として、この地区(現在の墨田区・江東区)の開発が進むことになり、「亀戸天神」が造られたことは、「名所江戸百景016 亀戸天神境内」に書いた通りです。
現在の亀戸天神です。(絵画調)
5代綱吉(つなよし)の元禄時代(1694年)には、橋が少なくて不便との理由により、3番目の橋として「新大橋」(しんおおはし)が架けられました。
これは、現在の「新大橋」(昭和52年竣工)のライトアップです。撮影場所は、江東区の「深川・芭蕉記念館」裏手にある隅田川の岸辺です。
これは、同じ場所から撮影した現在の「清洲橋」(きよすばし、昭和3年竣工、重要文化財)のライトアップです。
江戸時代の「新大橋」は、現在の「新大橋」と「清洲橋」の中間付近にあり、ちょうど、撮影した芭蕉記念館付近に「新大橋」はありました。
俳句で有名な松尾芭蕉(まつおばしょう)も元禄文化の代表者です。
新大橋を架橋していた頃に深川の芭蕉庵(ばしょうあん)を構えていた時ですので、橋のできる様子を
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
と俳句に詠んでいます。
下の絵は、名所江戸百景「第58景 大はしあけたの夕立」です。
絵は、写真とは逆に、日本橋(中央区)側から対岸を望んだ構図です。
夏景です。猛烈な勢いで降り始めた突然の夕立ちと、慌てて橋を渡ろうとする江戸の人達の姿が描かれています。
橋の傾きと共に、夕立ちで霞んだ対岸を斜めにし、画面に不安定感を与え、道を急ぐ人達も前向きに斜めになっており、夕立ちの慌ただしい雰囲気を出しています。
墨田川を流れる筏(いかだ)は、新大橋のすぐ下流にある小名木川(こなきがわ)を経由して、深川木場(きば)に運ぶ木材でしょうか?それとも別の場所に運ぶのでしょうか?
広重が名所江戸百景を描く2年前には安政江戸地震が発生しており、江戸の建造物は大きな被害を被りました。江戸の町の復旧が進められており、木材需要は多かったはずです。
広重の「東海道五十三次」において、雨の絵は江戸時代の摺り師の腕が高く評価されていますが、
この絵も19世紀にヨーロッパの画家ゴッホが模写したことで知られる作品です。
【新大橋】
江戸時代において、隅田川に架けられた橋は全て「大橋」と呼ばれたそうです。「大はし」だけでは、場所の特定ができません。
「あたけ」という言葉は、この新大橋の河岸に幕府の巨大な御座船(ござぶね=将軍専用の船)安宅丸(あたけまる)が接岸されたままになっていたことから、新大橋付近がそう呼ばれていました。二層の天守までもった巨大な軍艦であった為、江戸の名所扱いになっていたそうです。
これは、現在、東京湾を航行する東京観光汽船の御座船「安宅丸」です。(絵画調)
竹芝~晴海(はるみ)青海(あおみ)の30分コースと晴海青海~有明(ありあけ)の60分コースがあるようです。
(発着場の地名に誤りがありましたことをお詫びいたします。)
詳しくは、インターネットの検索で御調べください。
長くなりましたので、今回は終了です。ありがとうございました。
次回は、大橋の話の続きです。
日本プログ村に参加してみました。よかったら、どれか一つ「ポチッ」と押してください。
にほんブログ村
今回は、隅田川に架かる大橋の話です。
徳川家康の江戸入府時に、「千住大橋」(せんじゅおおはし、文禄、1594年架橋)が架けられた後、江戸時代の初期においては、江戸城の防衛の為、隅田川には、それ以外の橋は架けられていませんでした。
隅田川を江戸城の外側にある、もう一つの堀とする考え方です。
下の橋は、現在の千住大橋です。(昭和2年竣工)
時代は進み、4代家綱(いえつな)の頃には江戸幕府の体制も安定してきました。
明暦の大火(1657年)で橋が無く、多数の江戸市民が死傷したことにより、2番目の橋、「両国橋」(りょうごくばし)が架けられました(1659年と1661年の架橋の2説あり)。
両国橋の少し下流に離れた小道に、旧両国橋のあった場所と、広小路の説明板がありました。
江戸時代は、火災が多く、「明暦の大火」の後に、幕府は火災の延焼を防ぐために、江戸町内に多くの広い通りを造りました。火災の時の火除け地として使用されていました。
結果として、本所・深川方面の幹線道路として、この地区(現在の墨田区・江東区)の開発が進むことになり、「亀戸天神」が造られたことは、「名所江戸百景016 亀戸天神境内」に書いた通りです。
現在の亀戸天神です。(絵画調)
5代綱吉(つなよし)の元禄時代(1694年)には、橋が少なくて不便との理由により、3番目の橋として「新大橋」(しんおおはし)が架けられました。
これは、現在の「新大橋」(昭和52年竣工)のライトアップです。撮影場所は、江東区の「深川・芭蕉記念館」裏手にある隅田川の岸辺です。
これは、同じ場所から撮影した現在の「清洲橋」(きよすばし、昭和3年竣工、重要文化財)のライトアップです。
江戸時代の「新大橋」は、現在の「新大橋」と「清洲橋」の中間付近にあり、ちょうど、撮影した芭蕉記念館付近に「新大橋」はありました。
俳句で有名な松尾芭蕉(まつおばしょう)も元禄文化の代表者です。
新大橋を架橋していた頃に深川の芭蕉庵(ばしょうあん)を構えていた時ですので、橋のできる様子を
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
と俳句に詠んでいます。
下の絵は、名所江戸百景「第58景 大はしあけたの夕立」です。
絵は、写真とは逆に、日本橋(中央区)側から対岸を望んだ構図です。
夏景です。猛烈な勢いで降り始めた突然の夕立ちと、慌てて橋を渡ろうとする江戸の人達の姿が描かれています。
橋の傾きと共に、夕立ちで霞んだ対岸を斜めにし、画面に不安定感を与え、道を急ぐ人達も前向きに斜めになっており、夕立ちの慌ただしい雰囲気を出しています。
墨田川を流れる筏(いかだ)は、新大橋のすぐ下流にある小名木川(こなきがわ)を経由して、深川木場(きば)に運ぶ木材でしょうか?それとも別の場所に運ぶのでしょうか?
広重が名所江戸百景を描く2年前には安政江戸地震が発生しており、江戸の建造物は大きな被害を被りました。江戸の町の復旧が進められており、木材需要は多かったはずです。
広重の「東海道五十三次」において、雨の絵は江戸時代の摺り師の腕が高く評価されていますが、
この絵も19世紀にヨーロッパの画家ゴッホが模写したことで知られる作品です。
【新大橋】
江戸時代において、隅田川に架けられた橋は全て「大橋」と呼ばれたそうです。「大はし」だけでは、場所の特定ができません。
「あたけ」という言葉は、この新大橋の河岸に幕府の巨大な御座船(ござぶね=将軍専用の船)安宅丸(あたけまる)が接岸されたままになっていたことから、新大橋付近がそう呼ばれていました。二層の天守までもった巨大な軍艦であった為、江戸の名所扱いになっていたそうです。
これは、現在、東京湾を航行する東京観光汽船の御座船「安宅丸」です。(絵画調)
竹芝~
(発着場の地名に誤りがありましたことをお詫びいたします。)
詳しくは、インターネットの検索で御調べください。
長くなりましたので、今回は終了です。ありがとうございました。
次回は、大橋の話の続きです。
日本プログ村に参加してみました。よかったら、どれか一つ「ポチッ」と押してください。
にほんブログ村