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名所江戸百景290 第96景 堀江ねこざね 河原の渡しと江戸川放水路

2016-11-18 12:25:12 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 今回は、江戸川の渡しの中で、江戸川区・東篠崎(ひがししのざき)と市川市・行徳(ぎょうとく)の河原(かわら)地区の間にあった「河原の渡し」と江戸川放水路の話です。
 明治13年の測量で作成されたフランス式彩色図の中にある「河原村渡船場」の挿絵です。

 明治13年には、すでに蒸気船が運行していたのですね!

 下の写真は、市川アイ・リンクタウン展望施設から眺めた、旧江戸川と江戸川放水路の分岐点です。東京湾の向こうには、遠くの京浜工業地帯(神奈川方面)から三浦半島まで良く見える日でした。

 右に分岐する流れが昔からの江戸川(江戸時代の利根川)にあたる旧江戸川です。分岐点のすぐ先に、水門と閘門(こうもん)の両方が並ぶ江戸川水閘門(えどがわすいこうもん)があります。左に分岐する流れが江戸川放水路です。こちらも分岐点の先に行徳可動堰(ぎょうとくかどうぜき)があります。
 その先には行徳・南行徳・浦安(うらやす)の街並みが続いています。

 上の写真だけは、名所江戸百景「くまドン版」を撮影していた頃の写真です。
 ここから先は、今年・平成28年4月に撮影した写真が中心です。今年の春に2回だけ撮影した内の1回です。

 「河原の渡し」の付近の江戸川の流路の変化と江戸川放水路の開削を地図を見ながら追ってみます。
(1)まず、明治13年の測量で作成されたフランス式彩色図の「河原の渡し」付近の地図です。迅速測図(じんそくそくず、簡易地図)のですが、彩色が美しい地図です。
 現在の江戸川水閘門のある付近は、現在は江戸川区・東篠崎ですが、当時は東京府・南葛飾郡(みなみかつしかぐん)の「伊勢屋村」でした。対岸は千葉県の東葛飾郡(ひがしかつしかぐん)・行徳町の「河原村」です。

 当時の「河原の渡し」付近の江戸川は、現在より東(右)側を流れていました。

 今度は、江戸川区の東篠崎(ひがししのざき)から見た旧江戸川と江戸川水閘門の風景です。手前の水門が閘門(こうもん)の一部、その先が水門になっています。昭和11年(西暦1936年)に着工して、戦時中の昭和18年(西暦1943年)に完成です。

 さらに、その左奥には、行徳可動堰が見えています。

 江戸川区側から行くと、まず閘門(こうもん)を歩いて渡ることになりますが、水位差のある所で舟の通行に使用する二重式水門(パナマ運河の水門と同じような仕組みです)ですから、下流側の水路を見ると、下の写真のように、もう一つの水門があります。
(絵画調)

 ちょうど、桜の季節だったのですが、やや遅く、桜の花が半分散っている状態です。

(2)以前のブログで、明治43年(西暦1910年)に発生した大きな洪水被害により、荒川放水路の計画が建てられた事を話しましたが、同時に明治44年に江戸川の改修も計画されます。
 この計画により、江戸川放水路が、大正5年(西暦1916年)に着工され、大正8年(西暦1919年)に完成します。
 下は大正8年(西暦1919年)11月発行の地図です。
 (現在の国土地理院の前身にあたる「大日本帝國陸地測量部」が発行した地図です。)

 江戸川放水路開削中に測量したように見えますが、放水路より上流部の川幅も、広げているのが分かります。これより下流部は民家が多く、川幅の拡張が難しかったので、現在の江戸川放水路の流路となったそうです。洪水前の明治33年の利根川改修計画の江戸川の流下量が(970立方m/秒)に対して、明治43年洪水後の利根川改修計画では、2,230立方m/秒の流化能力を江戸川放水路へ流す計画を建ています。利根川の流下能力の約1/3を担当することになります。なお、この時の旧江戸川への流下量は0です!ほぼ、洪水の水は江戸川放水路に流す計画だったようです。
 そして、明治13年の地図に比べて、江戸川の流路は、西(左)寄りに変更されていて、旧江戸川の真中に「伊勢屋村」の地名があります。要するに、江戸川閘水門付近は伊勢屋村の真中に江戸川の流れるようになり、伊勢屋村の東西両端がの江戸川閘水門の両岸となった分けです。

 旧江戸川と江戸川放水路の分岐点から、江戸川水門を見た写真です。撮影している付近も、昔の「伊勢屋村」のあった所です。現在は「江戸川区・東篠崎」となっています。

 この日は釣り人の多い日で、水門の付近に沢山いました。

 春の雪解け時期ですので、水量が豊富で、勢いよく水門から放水をしています。
(絵画調)

 水の勢いを見ても分かりますが、水位差があります。江戸川の上流には金町上水場(かなまちじょうすいじょう、葛飾区)や栗山浄水場(くりやまじょうすいじょう、千葉県・松戸市)があり、淡水の供給が必要となりますので、江戸川の淡水(たんすい)と気水(きすい)の境界が、この場所となります。
 水門のできる前は、さらに上流の千葉県・流山橋(ながれやまばし)まで海水の影響があったと言われていたそうです。

 撮影している時に、ニゴイが釣れましたので、釣り人に頼んで撮影させていただきました。自転車の車輪と比較しても結構な大きさです!


(3)続いて、昭和22年(西暦1947年)発行の地図です。
 (現在の国土地理院の前身にあたる「地理調査所」が発行した地図です。)
 この地図を見ると、江戸川放水路がつながっていないに見えますが、最初に江戸川放水路に造られた堰(せき)は、行徳床固(行徳堰、石張りの床固、大正9年完成)と呼ばれる固定堰でした。普段、堰の上は水位が低いので、人間が渡っていたそうです。

 旧江戸川(左の流路)にも、昭和18年完成の江戸川閘水門が記入されています。
 この地図で「河原の渡し」は、どこか?と言うと、東(右)側の旧流路の跡にあたる旧江戸川の入江みたいな場所(現在の船だまり)の所です。
 下の写真は、現在の江戸川閘水門のすぐ下流で、江戸川区側から、旧江戸川対岸の行徳方面を撮影した写真ですが、写真の真中に水門が見えますが、この水門の向こう側に行徳の船だまりがあります。
(絵画調)

 したがって、明治時代までの江戸川は、この水門の向こう側を流れて、下流に流れていた事になりますね。
 水門の裏側を撮影する為に、先月の10月に行徳に行ってきました。
 下の写真が水門の裏側にある船だまりです。写真の左上が水門です。
(絵画調)

 明治代までは、この船だまりのある所が、江戸川の流路で、河原の渡し場のあった所となります。
 西側と南側が水路と鉄柵で囲まれているので、近づけませんでしたが、すでに流路は塞がれていて、周囲の木々が当時の雰囲気を伝えているようです。


 下の写真は千葉県・市川市にある行徳可動堰です。この可動堰は、昭和25年(1950年)に着工して、昭和32年(1957年)に完成しています。


(4)最初の行徳堰は固定式の堰であったため、台風などの洪水時の流下量増大に対処する事ができなかった為、昭和22年(西暦1947年)のカスリーン台風(キャサリン台風)による洪水の経験から、江戸川放水路の流下能力増大を目的として、行徳可動堰が計画されます。船の通行はできません。
(絵画調)

 可動堰の上流部は淡水で、完成から50年経った現在では絶滅危惧種であるヒヌマイトトンボの生息地となっています。下流側は船着き場であると同時に、海水が入り込みますので、干潟があります。可動堰は昭和32年(西暦1958年)竣工してから、50年以上過ぎている事から、現在の170m上流に改修計画があるのですが、ヒヌマイトトンボの生息地や干潟などをどう保全していくかが改修の論点になっています。昔の環境を全く考えない時代に比べれば、まともと言えますが、東日本大震災以降、防災を理由に各地で環境を無視した建設計画が進められている現在の風潮(ふうちょう)に懸念(けねん)を感じています。

(5)最後に、昭和42年(西暦1967年、昭和40年改測)発行した地図です。(国土地理院発行の地図です。)

 昭和32年完成の行徳可動堰の上部に行徳橋(ぎょうとくばし)がありますので、行徳橋の所が可動堰のある所です。江戸川も現在の流路となっています。なお、行徳橋の少し下流にバイパスとして造られた「新行徳橋」は昭和47年完成ですので、この地図には記入されていません。

 地図には「境界は昭和41年3月現在」と書かれています。旧江戸川の流路が変更になった事により、旧流路と現在の流路の中間領域(中洲となった領域)が、県境の未定地になっているようです。
 この為、この場所では、江戸川区・東篠崎という地名と市川市の河原番外地と言う地名が二つ混在しています。
 番外地(ばんがいち)と聞くと、とんでもない辺境というイメージがありますが、実は、番地のない「無番地」地区のことです。現在は、水門を管理する河川事務所は江戸川区側、河川敷の公園(野球場)は市川市側の管理となっているようです。
 河川流路変更の影響がわかる県境としては、荒川放水路上流にある岩淵水門(いわぶちすいもん)付近の東京都・埼玉県の県境が、江戸時代からの荒川の蛇行の跡をはっきり残しています。こちらは県境が確定しています。

 河原の渡しの近くにあった行徳の稲荷(いなり)神社の写真です。

 行徳の河原町の南隣にある下新宿(しもしんしゅく)の鎮守神(ちんじゅがみ、土地を護る為に祀られた神)です。

 今までの話を含めて、公共事業などの変な形で利用されないように、先に申し上げておきます。「くまドン」は治水・利水の歴史に興味があり、よく調べたり、見たりしますが、同時に自然保護に対する考えの方が強い方です。自然を壊す事無く、治水・利水を行って欲しいと思うとともに、東日本大震災や洪水被害を利用して、過去のダム計画再開や過大な防潮堤工事を始めとする公共事業、道路工事などのコンクリート行政を強行していく姿勢に嫌悪感(けんおかん)すらいだいています。

 戦後(昭和20年以降)から平成26年3月までの70年近い江戸川区の洪水の歴史資料を調べてみると、以下の通りとなります。
 発生年    :風水害名(浸水原因)   :浸水戸数   :被災者数
昭和22年9月 :カスリーン台風(利根川決壊)  :30,506戸 :132,991人
昭和24年8月 :キティ台風(高潮)   :12,545戸 :62,324人
昭和32年 江戸川放水路の行徳可動堰が完成する。
昭和33年7月 :台風第11号(内水氾濫) :6,599戸 :28,312人
昭和33年9月 :狩野川台風(内水氾濫) :41,683世帯 :185,046人
昭和36年10月 :台風第24号(内水氾濫) :23,844世帯 :94,496人
昭和38年 新中川の放水路が完成する。
昭和41年6月 :台風第4号(内水氾濫) :4,064世帯 :10,200人
昭和46年8月から9月 :台風第23-25号(内水氾濫) :1,973世帯 :約8,000人
昭和56年10月 :台風第24号(内水氾濫) :10,289世帯 :31,383人

(1)海抜ゼロメートル地帯の江戸川区の基本的な治水対策は、堤防(洪水対策)と防潮堤(高潮対策)の整備ですが、昭和20年代の被害の経験から、昭和30年代頃に進められたようです。
 (結果的に江戸川区を含めて、東京東部の堤防の多くは、コンクリート3面張りの堤防となってしまいました。最近のスーパー堤防計画で、芝の堤防が復活しているのは、「歴史の皮肉」のような感じです。)

(2)関東全体の治水としては東京湾に近い下流側は、流下能力の増大が目的になります。カスリーン台風の経験から江戸川放水路の行徳可動堰や新中川の放水路が造られ、東京湾への流下能力が強化しています。

(3)昭和30年以降の江戸川区の浸水原因を見ると、大きな河川(荒川・江戸川・中川)の洪水は無くなり、「内水氾濫(ないすいはんらん)」だけとなりました。
 江戸川区における内水氾濫は、水門で大河川との間が締め切られていますので、堤防内側に大雨が振り、側溝・下水道や排水路だけでは降った雨を流しきれなくなったり、ポンプの排水能力の不足が原因の都市型洪水です。

(4)内水氾濫対策として、内水を本流(大河川)側に排水する排水(排水溝とポンプ)能力を増強することになります。
 その対策の結果、年を追うごとに洪水の被害は減少して行きます。
 ここで、内水を本流(大河川)に排水する排水能力を増大していくと、今度は排水した本流側の水量が増大してしまうという結果となり、問題が振り出しに戻ってしまします。この問題は河口近くの江戸川区だけでは無く、大きな河川の中下流部においては共通する問題となっています。

(5)この堂々巡り(どうどうめぐり)の問題を解決する為には、
 単純に水を流すだけでなく、水を遊水(ゆうすい)する遊水地(調節池)の考えが必要となります。こうして造られたのが、荒川第一調節池や各河川にある調節池になります。
 (技術力の低かった江戸時代初期の関東流と呼ばれる治水方法は、越流堤(えつりゅうてい)や水を遊水させることにより、洪水の被害を低減していました。技術の進歩した現代の遊水させる方法とは根本的に使い方が異なるのですが、同じ越流堤や遊水の考え方を使用しているので、初期の考えに戻ったようで興味深いです。)

(以下の青字追記です)
 ただ、調節池の計画でも、政治(官僚)は、ろくでもない問題を発生させています。
 平成初期のバブル時代のリゾート法は、公共事業目当ての見積もりの甘い過大な計画の結果、地方自治体に多きな財政赤字を発生させ、多くの疲弊(ひへい)と負担を発生させました。このようなバカな計画の再来はお断りです。それだけでなく、リゾート開発による乱開発で山の森林を大量に伐採した結果、山の保水能力が少なくなり、大量の水が川に流れ込み洪水が発生する事件も発生させました。森林の伐採が原因なのですが、当時の「建設省」は、この被害を理由に、さらに山麓側で大きな面積の森林を伐採して、コンクリートで固めた調節池を造ろうと計画するという、ろくでもない有様でした。当時は、バブルが崩壊した後で、自然保護運動もしっかりしていて、政治も公共事業の問題に取り上げていたので、計画は中止になった記憶があります。
 (ついでに、現在の「カジノ法案を含むIR(リゾート)法」も反対します!)


 東京の武蔵野台地で試みられている大地への雨水の浸透増加による地下水への供給努力も、地面のコンクリート化・アスファルト化が原因で生じる大量の水が川へ流れ込むのを防止する為の解法の一つと考える事ができます。

(6)ここまで、上流側のダム建設について触れませんでした。それは、以下の理由からです。
 現在において、ダム建設需要が時代遅れとなっていたり、自然保護を含むダム建設に伴う色々な問題が原因で、ダム建設が行われていなかった「長期化ダム」と呼ばれるダムがあります。自然保護やダム不要論の声が強く、高度成長期に作成した過大な水需要に基づく計画は中止する方向に向かっていました。
 ところが、東日本大震災以後は特にひどくなり、政治家や国土建設省は、防災を理由に、長期建設が凍結になっているダム建設を再開するのが当たり前の様な行動にでています。(一部は建設を始めています)。ダム建設に伴う自然保護や景観の破壊など色々な問題が原因で、問題があり長期化しているダム建設には反対します!
 (以前、「くまドン」は、色々とスタンプラリーをやっていた時期もありましたが、ダム建設に利用される可能性があったので、ダムカードだけは無視して、行かないようにしていました。)
 ダム建設の是非が問われている、熊本を流れる白川(しらかわ)の立野ダム(たてのダム)も、本ダム建設地直下に活断層が存在する可能性指摘されていて、。熊本地震で熊本にあったダムの水がいつのまにか抜けていたような被害があったにも関わらず、国土建設省は、相変わらず、ダムを建設しようとしています。地震の被災や災害の被災者が、公共事業を行う為に利用されないことを願います。
 このような事を書くと、ブログ作成に手間がかかり、時間がかかり、「くまドン旅日記」を見たい人にとっては、余計な事なのかもしれませんが、「くまドン」は、利権にまみれ、政治の金や票集めに利用されるのお断りですから、このようなことを書くことにしています。



 以前の治水・利水関連のブログは、なぜか?「水紀行」カテゴリーに固まっています。
 「水紀行004 治水の問題点 関東も30年ぶりに破堤の被害」
の続きの部分や、今年の過剰な放水で利根川水系の貯水率が激減したことについても、書く事があるのですが、またの機会とさせていただきます。


 稲荷神社の社殿の彫物もキツネ(狐)です。


 今回の「河原の渡し」と以前作成した「今井の渡し」との間には、
三太の渡し(行徳町本行徳)、湊の渡し(南行徳村湊)などの渡しがあったようです。
 さらに、「今井の渡し」の下流側には、 
薪屋の渡し(南行徳村欠真間)、浦安の渡し(浦安町堀江)がありましたが、
 次回は、江戸川閘水門の話が続きますが、
江戸川の渡しの話は、今回は調べに行く時間もありませんので、また別の機会とさせていただきます。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第96景 堀江ねこざね」(秋景)です。


(1)前回までの「逆井の渡し」「平井の渡し」「にい宿の渡し」「小岩・市川の渡し」「今井の渡し」「矢切の渡し」「松戸の渡し」のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史」
 「名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し」
 「名所江戸百景281 第71景 利根川ばらばらまつ 今井の渡し」
 「名所江戸百景282 第67景 逆井のわたし 旧中川のシラサギ」
 「名所江戸百景283 第67景 逆井のわたし 旧中川のふれあい橋」
 「名所江戸百景030 第93景 にい宿のわたし 矢切の渡し」
 「名所江戸百景031 第93景 にい宿のわたし 柴又帝釈天」
 「名所江戸百景284 第93景 にい宿のわたし 「松戸の渡し」金町関所」
 「名所江戸百景285 第93景 にい宿のわたし 旧松戸徳川家・戸定邸(国重要文化財)」

(2)行徳の話は、以下のブログです。
 「名所江戸百景148 第96景 堀江ねこざね(1) 行徳の野鳥病院」
 「名所江戸百景149 第96景 堀江ねこざね(2) 行徳の野鳥病院」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 やっと、「河原の渡し」の話ができました・・・・・土建事業を始めとする公共事業などの利権の話が絡むと、途端にブログ作成の速度が落ちてしまいます。本来ならば、「写真」「旅行」「歴史」のブログを作りたくて始めましたので、あまり政治には関わりたくないのですが、変な形で利用されたくない為、こうるさいことを書かなければならないのが残念です。
 (もっとも、民主主義では、国民は政治を監視して、世論や選挙などで、利権がらみの政治を正して、正常化させる方向に向けて行く義務がある事は事実です。)

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