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くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

旅日記012 山陰海岸(2) 居組・諸寄の漁港

2014年08月04日 07時55分53秒 | 旅日記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回からは、4月の山陰海岸の続きで、鳥取県から兵庫県側の山陰海岸に話は変わります。
 前回、山陰海岸に来た時は、国道のバイパスを建設中でした。すでに8~9年経っていますので、鳥取市から兵庫県の浜坂までの海岸線の道路が国道から外れ、生活用道路になっていることも多いです。
 通行する車(ほとんど地元車)も少なく、のんびりとした雰囲気でいられます。
 下の写真は、兵庫県西端にある居組(いぐみ)の集落の近くにある「七坂八峠」と呼ばれる場所です。
 ここは、竹田城(百名城)のブログで有名なkainaka-2さんの撮影ポイントです。

 砂浜に打ち寄せる波も静かで、いかにも雰囲気の良い漁港という感じです。

 下の写真は、kainaka-2さんのブログにあった写真を見て、マネして撮影した写真です。
 (kainaka-2さんに、写真をブログに載せる許可を快諾してもらいました。ありがとうございます。)

 前回の浦富海岸で夕景撮影した後に、宿に戻る途中で撮影した写真なので、空は真っ暗でした。
 この国道178号線(旧道)は「但馬漁火ライン」とも呼ばれ、夜の海に浮かぶ漁火(いさりび)は、山陰海岸の風物詩(ふうぶつし)となっています。たまたま偶然、車が1台通りかかりました。

 宿は海岸沿いの浜坂温泉宿でしたので、お風呂に入って、ぐっすり眠れました。
 そして、翌日の朝は寝坊しました・・・・・(汗)
 この時期は朝の写真を撮影しようとすると、朝4時起きになるので、起きるのが大変です。
 宿の朝食まで1時間程ありましたので、宿のすぐ近くにある城山公園に行ってみる事にしました。
 城山公園の駐車場から眺めたも諸寄(もろよせ)港と千束断崖(諸寄西海岸)の風景です。

 諸寄港は、江戸時代から明治時代にかけて日本海を北前船(きたまえぶね)の「風待ち湊」として賑わった港です。

 城山公園と呼ばれる名前からわかるようにこの場所は、海上交通を確保する為の海城・芦屋城でした。戦国時代に塩治(えんや)周防守が居城していた城です。安土桃山時代の天正8年(西暦1580年)の羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)の但馬(たじま)攻めで落城しました。秀吉が山陰方面を但馬から鳥取城に攻め進んでいく過程の話です。
 下の写真の山の頂上に芦屋城跡(標高175.7m)があります。

 朝食まで少し時間があるので、時間のある範囲で先端の矢城が鼻灯台まで歩いてみる事にしました。
 ほぼ横水平に進む楽な道です。

 最後は、車で城山公園に向かう途中に撮影したトビ(トンビ)です。トリミング(画像切り取り)ありです。

 山陰海岸は、漁港が多いので、あちこちに飛んでいるトンビの小群を見かけました。

 城山公園の遊歩道の写真の続きは、次回とさせていただきます。

(1)前回のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
 「旅日記011 山陰海岸(1) 浦富海岸の夕景」
 (ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 暑い日が続いていますが、外に出かける時は熱射病などにお気をつけください。

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旅日記011 山陰海岸(1) 浦富海岸の夕景

2014年08月03日 09時30分30秒 | 旅日記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回からは、4月の鳥取県の日本海を東へと移動して、山陰海岸が中心の話になります。第一回は鳥取県・岩美町(いわみちょう)の浦富海岸(うらどめかいがん)の夕景からです。

 この場所で夕日を撮影するのは2度目ですが、多分8~9年ぶりぐらいで、懐かしいです。
 浦富海岸は、山陰海岸国立公園を代表するリアス式海岸で、鳥取砂丘とは観光セットになることが多い場所です。
 日本百景(にほんひゃっけい)を含めた百選に何度も選ばれています。

 浦富海岸はリアス式海岸ですが、海岸の東側は海水浴場になっていますので、夏も賑わいます。

 夕暮れの中、水平線に漁火(いさりび)が、一つ、また一つと灯り始めます。

 この日の宿は兵庫県の浜坂温泉でした。魚料理が自慢で温泉のある宿でしたが、当然のごとく、夕日の時間帯と夕食が重なり、残念ながら夕飯無しとなりました。
 (ここから先は、エビ(海老)の写真がありますので、エビを見るのも苦手な方は、ご遠慮ください。)

 浜坂の宿にチェックインを先に済ませ、浦富海岸近くまで戻り、この日は遅くまで撮影予定でしたので、先に夕食を済ませることにしました。たまたま国道からの東側入口付近に着いて、食堂がありました。
 メニューを見ると、モサエビ定食(?)という定食がありました。「モサエビ」という名は初めてなので、店の方に聞くと、なんと、浦富海岸の地元でとれたエビ(海老)で、あまり一般の市場には出回らないエビだそうです。値段は少しお高めでも、これを食べるしかないなと思いました!

【クロザコエビ(鳥取県ではモサエビ、丹後地方ではツチエビ、北陸地方ではドロエビ)】
 頭の形がゴツゴツと荒々しく、猛者(もさ)のように見えることからモサエビ、シロエビと鳥取県では呼ばれています。

 鮮度劣化が早いため都心などへの出荷は難しく、地元で味わうのが一番のエビです。
 見栄えの悪さに反比例して、甘エビより甘味旨味が良いのが売りです。
 漁期は9月~5月で、カニシーズンと重なるので、地元では隠れた名物となっています。

サシミ、天ぷら、塩焼きと次から次へと出てきて、大喜びです♪

 とても、モサエビは美味しく、量もたっぷりでした。残念な事は、夕日の時間に間に合わせる為に、この量を30分以内に食べなければならないことが最大の問題でした・・・・・。もっと、ゆっくり味わいたかったです。
 結局、完食して、夕景の撮影ポイントに到着したら、先頭の写真のように夕日が落ちて行き、ぎりぎりセーフでした。
 この店で一番人気のあるのは海鮮丼だそうです。宿もやっているので、浦富海岸の撮影には向いているかも。

 次回は、兵庫県側の山陰海岸の話に進みます。
 浜坂に向かう途中に撮影した写真です。たしか兵庫県側で撮影したと思いました。

 なお、前回の鳥取市・白兎神社から浦富海岸への途中にある鳥取砂丘(とっとりさきゅう)や鳥取城は時間がなくなり、今回は通過となりました。

(1)前回のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
 「旅日記010 蒜山高原と大山の風景(10) 大山から日本海へ」
 (ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)
(2)今回は、鳥取県の鳥取砂丘と鳥取城を見学する時間は無かったので、以下のブログ参照ください。
 「城002 鳥取城と鳥取砂丘(1) (鳥取県・百名城63番)」
 「城002 鳥取城と鳥取砂丘(2) (鳥取県・百名城63番」

 今回は、これで終了とさせていただきます。次回は兵庫県側の山陰海岸に進みます。
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旅日記009 蒜山高原と大山の風景(9) 大山寺・阿弥陀堂

2014年07月31日 07時55分37秒 | 旅日記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、4月の鳥取県の大山(だいせん)中腹にある大山寺(だいせんじ)の阿弥陀堂(あみだどう)です。
 阿弥陀堂は、大山寺の横を流れる佐陀川の対岸にありますが、雪解けの増水中ですので、大山寺橋を渡って、阿弥陀堂に向かうことになります。
 下の写真は、阿弥陀堂へ向かう道ですが、江戸時代には周囲に僧坊が数多くあったので、整地してあります。

 百名城の城跡を見てきた為、こういう石垣の並びを見ると城跡と錯覚(さっかく)してしまいます。
 下の写真も道の脇にある僧坊の入口です。

 僧坊跡は、こんな感じなのですが、きれいに整地されていて、武家屋敷跡と似ているな思ったりします。
 (間取りや出土品は、全く違うのでしょうが・・・・・、別の場所ですが、大山寺には僧兵が住んだエリアもあります。)

 阿弥陀堂に向かう途中の階段には、「宝永」と刻まれた石碑がありました。

 下の写真が阿弥陀堂(国重要文化財)ですが、大山寺では最古の建物です。
 阿弥陀堂は、平安時代の藤原時代に建造されたらしいのですが、大洪水で破損した為、天文21年(西暦1552年)に古材を利用して再建された建物だそうで、柱などは鎌倉時代のものと推定されている古さがあります。

 阿弥陀堂から戻り、大山寺の宿坊・洞明院(どうみょういん)の近くには、このようなポストがありました。

 考えてみると、鳥取県西部の境港市(さかいみなとし)には、マンガ「ゲゲゲの鬼太郎」の作者・水木 しげるの出身地でしたね。
 大山寺付近は、参道や町を少し外れると、小鳥が多く見かけました。

 ただし、前にも話しましたように、野鳥撮影は素人(しろうと)ですから、警戒心が強く、小柄な鳥に全く歯が立ちませんでした。やっと撮影できたのが、下のカシラダカ(冬鳥)です。でも、写真はブレ・ボケで、これ以上拡大できません。

 蒜山高原でも、カシラダカの写真を一枚載せましたが、冠羽が寝ていましたので、一応載せておきます。

 最後は大山の名物「大山そば」です。

 大山寺付近の食事処は早じまいする店が多く、この時期の夕日の時間が午後6時半ごろの為、宿兼食堂の夕食を頼まなかったのは失敗でした。

 やっと、大山寺が終わりましたので、大山から日本海に向かう事になります。
 続きは、また次回とさせていただきます。

 過去のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
 「旅日記001 蒜山高原と大山の風景(1) 鬼女台から見た大山」
 「旅日記002 蒜山高原と大山の風景(2) 茅部神社の桜並木」
 「旅日記003 蒜山高原と大山の風景(3) 蒜山高原の自然」
 「旅日記004 蒜山高原と大山の風景(4) 大山南壁」
 「旅日記005 蒜山高原と大山の風景(5) 大山からの夕景」
 「旅日記006 蒜山高原と大山の風景(6) 大山寺」
 「旅日記007 蒜山高原と大山の風景(7) 大神山神社・奥宮」
 「旅日記008 蒜山高原と大山の風景(8) 大山寺・寂静山」
 (ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 7月後半は、ブログを作成している時間がなかったので、前回のブログからかなり時間が空いてしまいました。
 なんとか、ブログを作る時間ができそうなので、少しずつ作っていこうと思います。
 考えてみると、大山は「旅日記」ですから、あまり、ごちゃごちゃ書く必要が無いと思いますので、
 今後の「旅日記」は写真中心で、説明は最小限にして、速度を上げます。

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旅日記008 蒜山高原と大山の風景(8) 大山寺・寂静山

2014年07月30日 07時55分06秒 | 旅日記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、4月の鳥取県の大山(だいせん)中腹にある大山寺(だいせんじ)と大神山神社(おおがみやまじんじゃ)を参拝した後に、寂静山と呼ばれる見学コースがあるので、行ってみる事にしました。
 この寂静山コースは、大神山神社のから左に回り込むコースなのですが、下の写真のように4月頃は、大神山神社付近は、下の写真のように、かなり雪が残っているので、通行不能でした。

 石畳参道を戻る途中に銅鳥居(天明2年健立)があり、さらに下った所に寂静山へ登っていくルートがあり、こちらは通行可能でした。
(絵画調)

 寂静山は、大山寺の開祖・金連上人が寂静(じゃくじょう)したという伝説の場所だそうです。
 (寂静とは、煩悩(ぼんのう)を離れ、苦しみを去った解脱(げだつ)の境地だそうです)

 開山の伝説の残る場所ですから、中世の頃は、寂静山の周囲に堂社や僧坊が、かなりの数あったそうです。
 現在は、樹木と草に埋もれる静かな場所となっています。途中で、ヤマドリかキジ(雉)のメスのどちらか分かりませんが、「くまドン」の前の細い山道を、いきなり出てきて、慌てて横切って行ったのには、驚きました。もっとも、参道から外れたルートですから、他の人は一人も来ませんでしたから・・・・・

 この時間帯になると、晴れてきたので、寂静山からの大山・北壁の展望は良かったです。

 下の展望図に登山ルートが書いてありました。

 寂静山から裏側のスキー場に降りる道がありますが、雪が深いので、元の道を引き返す事にしました。

 続きは、また次回とさせていただきます。

 過去のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
 「旅日記001 蒜山高原と大山の風景(1) 鬼女台から見た大山」
 「旅日記002 蒜山高原と大山の風景(2) 茅部神社の桜並木」
 「旅日記003 蒜山高原と大山の風景(3) 蒜山高原の自然」
 「旅日記004 蒜山高原と大山の風景(4) 大山南壁」
 「旅日記005 蒜山高原と大山の風景(5) 大山からの夕景」
 「旅日記006 蒜山高原と大山の風景(6) 大山寺」
 「旅日記007 蒜山高原と大山の風景(7) 大神山神社・奥宮」

 (ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
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 7月後半は、ブログを作成している時間がなかったので、前回のブログからかなり時間が空いてしまいました。
 なんとか、ブログを作る時間ができそうなので、少しずつ作っていこうと思います。
 考えてみると、大山は「旅日記」ですから、あまり、ごちゃごちゃ書く必要が無いと思いますので、
 今後の「旅日記」は写真中心で、説明は最小限にして、速度を上げます。

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旅日記006 蒜山高原と大山の風景(6) 大山寺

2014年07月19日 12時55分45秒 | 旅日記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、4月の鳥取県・伯耆(ほうき、鳥取県西部)にある大山(だいせん)からの風景の続きで、大山北西側の中腹にある大山寺(だいせんじ)です。
 最初は、大山の北壁の写真からです。最高峰の剣ヶ峰(標高1,729m)を含めたいくつかの峰からなる山で、南壁と共に、山の険しい表情を見せています。百名山の一つとしても知られています。

 山陰地方の歴史は古く、日本最古の書物「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」に書かれた出雲(いずも、現在の島根県)のスサノオのヤマタノオロチ(八岐大蛇)伝説や、因幡(いなば、現在の鳥取県・東部)の白兎(しろうさぎ)で有名な大国主(おおくにぬし)の伝説で知られ、大和王権(やまとおうけん)誕生前の日本神話の時代まで遡る(さかのぼる)ことになります。
 この山陰地方から望むことができる大山(だいせん)は、仏教到来以前の古くから信仰の山として栄えてきました。
 奈良時代初期の養老年間に山岳信仰の山として開かれ、奈良時代末期に編纂(へんさん)された「出雲国風土記(いずものくにふどき、奈良時代の島根県の地誌)」によれば古くは「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、「大いなる神の在ます山」とあがめてきました。
 「出雲富士(いずもふじ)」や「伯耆富士(ほうきふじ)」と呼ばれ、西から見ると富士山のような秀麗な姿を見せる大山も、北から見ると北壁と呼ばれる斜面が並び、山岳信仰の厳しさを現す一面を見せています。

 下の写真は、大山寺・入り口にある山門です、

【大山寺(だいせんじ)】 天台宗(てんだいしゅう、平安時代の僧・最澄(さいちょう)が開祖)
 大山寺は奈良時代に始まる山岳信仰の霊場の一つ。
(1)本尊(ほんぞん)は地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)で、奈良時代・初期の養老年間に金蓮上人(依道)が草庵をむすび地蔵菩薩を祀ったことが起源と伝わります。

 下の写真は大山北壁の写真ですが、谷に残る残雪と岩が、今も人を寄せ付けない山の厳しさを感じさせます。

 大山寺も元々は、奈良時代に成立した山岳信仰の霊場でした。
 「大山寺縁起」によると、出雲の猟師であった依道(よりみち)が海より出てきた金色の狼(おおかみ)を追って大山に入り弓矢を放った所、矢の前に地蔵菩薩が現れ、信心が起き、弓矢を捨てる。
 かの狼はいつの間にか老尼となりて、依道に話しかけ、仏の道を説きます。そして、依道は出家して、金蓮上人となって修練や修行を続けたという話が残ります。

 山岳信仰が盛んになる中、昔は徒歩で大山に登りますので、大山の四方には登山ルートの古道が発達していきます。


 大山(だいせん)の参拝者は、古くから牛馬を連れて参拝していたそうです。
 その習慣は、平安時代の基好上人が「大山寺の地蔵菩薩は牛馬守護の仏である」と唱えて、牛馬安全の守護札を施与した事が始まりと伝えられています。この札を受ける為に、参拝者は牛馬に荷物を乗せて、大山寺を参拝するようになり、いつしか互いの牛や馬を比べて交換するようになったことから牛馬市へ繋がっていったとされます。
 下の絵は、江戸時代に鳥取県・大山町で開かれていた牛馬市・博労座(ばくろうざ)の絵です。

 江戸時代の享保年間(8代将軍・徳川吉宗の時代)頃に組織的に発展し、福島の「白河馬市」、広島の「久井牛市」と並んで日本三大牛馬市の一つとなるほどにぎわいました。
 古代から近世までの農耕社会であった日本においては、牛馬は田畑を耕す大事な生産力として扱われていた事を示す話とも言えます。
 下の写真は、大山寺の山門前にある牛霊碑です。

 この大山の牛馬市は1年に数回開催されて、一度に3000~4000頭の取引があったとされています。
 博労座の牛馬市は、昭和12年まで続き、大山が国立公園になる時に、その長い歴史に幕を閉じました。
 下の写真は大山寺の境内にあった宝牛(たからうし、撫牛(なでうし))です。

 現代でも、大山寺の近くにある「大山情報館」周辺の駐車場の一部を博労座駐車場と呼ぶこともあるそうです。

 山岳信仰の流れは、いつしか伝説上の生き物であった天狗(てんぐ)と結びつき、天狗が山の神として、民間信仰の対象となっていきます。
 下の写真は、大山寺への参道登り坂にある建物(店?)にあった八天狗・大山の伯耆坊の像です。

 (大山の伯耆坊については、「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」の後半に書きましたので、省略します。)

(2)平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の大きな拠点となります。
 下の写真は、大山寺・本堂の脇にある天台密教による護摩供を行う護摩堂(ごまどう)です。

 「伯耆の大山」は、「僧坊百六十坊」、「僧兵三千人」の言葉のように、その勢力の大きさを伝えています。
 中国地方一帯の信者に対する影響力から、尼子氏・毛利氏などの戦国大名や国人領主は、お寺の造営・修理や寄進などにより関係を深めて、領国の安定を図ってきたようです。

(お詫び)急いで作成した為、本坊と本堂を混同いたしましたので、以下の文を訂正しました。
(3)その後の戦乱の世の中にあって、大山寺は衰退していきましたが、
 江戸時代の慶長年間に、豪円僧正が二代将軍・徳川秀忠(ひでただ)から寺領3,000石を認められることになり、大山寺は復興の時代を迎える事になります。この当時は西楽院(さいらくいん)が寺の政務をおこなう場所でした。
 下の写真が現在の本坊西楽院跡(ほんぼうさいらくいいんあと)にある本坊です。


(4)江戸時代までは、大山寺の中に大神山神社がありました。明治時代になると、時代が変わります。お寺より神社の方が重要視されるようになり、明治8年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、大神山神社として扱われ、大山寺との号が廃止となります。
 大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿(現在の大神山神社奥宮)を大神山神社に引き渡し、大日堂に移ることになります。
 これにより大山寺は急激に衰退することになります。時代が進むと、廃仏毀釈の行動が行き過ぎとして認識されるようになり、明治36年になると、「大山寺」の号が復活することになります。
 当時の仮本堂も昭和3年の火災で焼失してしまい、昭和26年になって、下の写真の現在の大山寺の本堂が再建されたそうです。


 大山寺の話が続くのですが、前回のブログと日数が空きましたので、前半を先に更新して、話の続きを作ります。


 過去のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
 「旅日記001 蒜山高原と大山の風景(1) 鬼女台から見た大山」
 「旅日記002 蒜山高原と大山の風景(2) 茅部神社の桜並木」
 「旅日記003 蒜山高原と大山の風景(3) 蒜山高原の自然」
 「旅日記004 蒜山高原と大山の風景(4) 大山南壁」
 「旅日記005 蒜山高原と大山の風景(5) 大山からの夕景」
 (ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)

(2)大山の伯耆坊については、下のブログの中間にあります。
 「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
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 しばらく、コメントの記入は不可にしていましたが、解除して、書きこみ可能になりました。

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