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くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城011 次回の予告

2015年10月25日 22時55分11秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 前回のブログから、1カ月近くブログを更新しておりませんでした・・・・・・・・・・・

 来年・平成28年の大河ドラマは「真田丸」だそうで、真田幸村(さなだ ゆきむら)が主役ということです。
 「くまドン」は、流行を追うのも面白くありませんので、先に真田関連の城ブログを作る事にしました。
 これから、作成するので、写真1枚だけです。


 今回は、これで終了とさせていただきます。

 前回まで、脱線で政治がらみの話を造っていて、ブログ作るのが嫌気さして、1カ月近く過ぎても、作る気力が回復しません。(国内の政治だけでなく、中国や韓国の横暴・ワガママぶりにも腹が立ちますが、さすがに量が多くて、手に余る感じです。)
 とりあえず、本来の路線(写真・旅行・歴史)に戻って、ブログを作る気を取り戻そうと思います。

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城010 阿尾城 (富山県、山城) 前田慶次の城

2015年06月14日 23時15分06秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、富山県・氷見市(ひみし)の阿尾城(あおじょう)です。前田慶次(まえだけいじ、前田利益)のゆかりの城として知られている城です。「くまドン」が、たまたまテレビを見ていたら、前田慶次の米沢(よねざわ)での晩年を描いた「かぶき者 慶次」(NHK木曜時代劇)という番組をやっていました。昔は、マンガの「花の慶次」を見ていましたので、懐かしくも思いました。普段は流行を追わないマイペースの「くまドン」ですが、「かぶき者 慶次」の最終回が今週の6月18日のようで、それではということで、阿尾城の訪城記をつくることにしました。
 訪城日は平成24年4月下旬ごろです。

 阿尾城は富山湾の海に突き出した白い岩肌の断崖(だんがい)に造られた海城です。
(絵画調)


 「花の慶次 -雲のかなたに-」 作画は原 哲夫(はら てつお)、隆 慶一郎(りゅう けいいちろう)の歴史小説「一夢庵風流記」(いちむあんふうりゅうき)が原作で、週刊少年ジャンプで平成2年~平成5年(西暦1990年~1993年)に連載したマンガですが、こちらの阿尾城は、実際に前田慶次が城代(じょうだい、城の管理者)として治めたことのある城です。

 下の写真は、阿尾城の地図(MAP)です。小さいですが、標高は20m~40mもあり、本丸・二ノ丸・三の丸もある海城です。

ただし、現在の地形は、神社付近の地形が変わり、当時の地形とは異なるようです。
 下の写真は、阿尾城の二ノ丸付近と、氷見(ひみ)の海岸線沿いの街並みが見えます。


 三の丸付近には、榊葉乎布(さかきばおふ)神社があります。創建年は不明ですが、奈良時代の歌人・大伴家持(おおとものやかもち)が越中(えっちゅう、現在の富山県)国守として赴任した際に、勧請(かんじょう)したのが始まりと伝えられています。
 この付近には、大伴家持が景観の美しさを表現した歌がいくつも詠まれています。
 石の歌碑には、大友家持が阿尾の浦に行った日に作った歌一首が刻まれています。

 英遠(あを)の浦に 寄する白波 いや増しに 立ちしき寄せ来く 東風(あゆ)をいたみかも (大友家持)

 (訳文) 阿尾の浦にうち寄せる白波は、いよいよひどく、ひっきりなし立ってしきりに寄せて来る。
      これはやはり東風(あゆ)が強く吹くためだろうか。

(1)戦国時代は阿尾城の城主は、この土地の領主である菊池一族でした。上杉謙信(うえすぎけんしん)が越中に侵攻してくると、菊池氏は上杉家に従いました。

 本丸に向かう途中に白峰神社の石段があります。


(2)次に、謙信の死後、上杉家の跡目を巡る内乱に乗じて、織田信長(おだのぶなが)が越中に侵攻してくると、織田家に従う事になります。この時の越中方面の担当者である佐々成政(さっさなりまさ)の配下となります。

 阿尾城の神社は、透明なガラス(?)で覆われています。


(3)さらに、本能寺の変(ほんのうじのへん)で信長が死去すると、羽柴秀吉(はしばひでよし、豊臣秀吉)に従った前田利家(まえだとしいえ、加賀と能登が領地)と佐々成政(越中が領地)が対立することになります。

 遊歩道を歩いて行くと、本丸に到着です。本丸には櫓(やぐら)があり、富山湾を見下ろす見張り台で、富山側(佐々軍領地)と能登側(前田軍領地)と間の海上交通を抑える要所だったわけです。現在の本丸には展望台があります。


(4)当然、阿尾城は、能登(のと)と越中の境界に当たる為、戦略上の要所(最前線)となります。
 阿尾城主・菊池武勝(たけかつ)は前田家の誘いに応じて、佐々家から前田家に寝返ることにします。
 安土桃山時代の天正13年4月に、前田家の軍勢数千人が阿尾城に向かい、菊池武勝が城門を開き、前田家の軍勢を迎えるという事態になります。当然、戦闘も無く、無事に軍勢は場内に入ったのですが、この時軍勢の中の前田慶次は、前田利家のいる第五陣にいたようです。先陣は、村井長頼(むらいながより)だったそうです。
 佐々成政は、菊池武勝の裏切りを知り、阿尾城に攻め込もうとしますが、すでに前田家の数千の軍勢が入場していた為、無理攻めをせずに富山城に帰ります。

 阿尾城の北側を流れる阿尾川の桜並木も満開でした。前田慶次のいた時代には、桜の代表種であるソメイヨシノ(江戸時代の品種)はありませんでしたが、前田軍が阿尾城に向かう途中の山中には山桜が咲いている事もあったのでしょう。
(絵画調)


(5)前田利家は阿尾城から軍勢を金沢(かなざわ)に引き上げることになり、阿尾城の城代(城の管理者)として、前田慶次(利家の義理の甥)に任せることになります。前田慶次ゆかりの城の誕生です!
 同時に阿尾城の兵力は前田軍と元城主の菊池軍を合わせて合計約2000人に減ります。

 本丸から北側の眺めです。ここから北の能登半島の海岸線は、現代と違い道路はありませんので、海路を除けば、山越えの道となります。


(6)天正13年6月になると、佐々成政は好機と見たのか、神保(じんぼう)軍約5000人で阿尾城を攻めさせます。
 ここに、阿尾城の合戦が始まるのですが、なんと、前田軍の2倍以上も多い神保軍と野戦で迎撃することになります。
 阿尾城は断崖で堅城そうですが、2000人で守るには不利だったのか、兵量に問題でもあったのでしょうか?
 もっとも、守備する武将は、前田慶次を始めとして、片山延高、高畠定良など前田家の猛者(もさ)ばかりで、数に勝る軍勢相手におとなしく護城して援軍を待っているようなメンバーでもなさそうです・・・・
 元城主の菊池軍の方も佐々家を裏切っていますから、戦となれば負けるわけにはいかず必死です。
 戦闘の前半は双方一進一退の大激戦になります。しかし、徐々に数に勝る神保軍が有利になってきた所で、前線の巡視に来た前田軍の村井長頼(この人も前田家の猛者)の300の兵が加勢した所で形成が逆転し、神保勢が負けて後退するという結果になりました。
 加勢した人数を含めても、2倍以上の兵力に勝利した結果になります。阿尾城・城代としての前田慶次の勇名は上がったことでしょう。
 この戦から5年後の天正18年、養父・前田利久(まえだとしひさ)も亡くなり、前田家との縁を切るかように前田慶次は前田家を出奔して、京へと向かうことになります。

 前田慶次については、不明な所が多く、その奇抜な行動から多くの人の想像を生み出し、伝説や逸話にもつながっていきます。
 もっとも、織田信長や前田利家も、若い時は十分な傾奇者(かぶきもの、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者)でしたが・・・・

 そして、現在もテレビドラマの「かぶき者 慶次」でも、新たな前田慶次のイメージが作られようとしています。
 前田慶次の晩年の話ですから、俳優が藤竜也(ふじたつや、73歳)、天徳和尚が伊武雅刀(いぶまさとう、66歳)というもの凄い渋い対決と、20代俳優のラブコメの組み合わせという展開に、「くまどん」は・・・・・・(黙秘)です。
 脚本は、大河ドラマ「天地人(主人公は直江兼続(なおえかねつぐ)」担当の小松江里子(こまつえりこ)さんです。
 でも、藩主・上杉景勝(うえすぎかげかつ)も、直江兼続も出番はなさそうですね。この二人を出したら、あっさり家中の問題は終わりですしね。

 今回は、これで終了とさせていただきます。

 5月頃から東京オリンピックの新国立競技場のムダ使いについて書こうかと思っていたのですが、元々「くまドン旅日記」は、好きな写真撮影でブログを作るのが目的でしたから、あまり政治の話は作る気が湧きませんでした。
 (それでも、国民の税金の使い方や増税に腹を立てて、何回か脱線もしていましたが・・・)
 今回、前田慶次のゆかりの城にしたのも、もやもやした気持ちを吹き飛ばしたかったのです。

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城009 備中松山城(4) 備中国分寺ライトアップ

2015年01月17日 09時30分28秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回も、岡山県の備中松山城の帰りに立ち寄った岡山県・総社市(そうじゃし)にある備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)の風景からです。
 正月明けに名所江戸百景の続きを作ろうと思いましたが、正月からの急がしさと、政治がらみの話が続くので作る気が湧かず、かなり間が空いてしまいましたので、間に入れさせていただきます。

 備中国分寺は、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山県の西部)に建てられた国分寺です。

 奈良時代の天平年間は災害が多発し、天然痘(てんねんとう)が流行して多くの死者が出ていました。
 国分寺(こくぶんじ)は、この時代に仏教に対する信心が厚かった聖武天皇(しょうむてんのう)が、国家安泰を願い、それぞれの国ごとに建てられたお寺です。
 時代が進むと、律令制度(りつりょうせいど)が崩壊していき、国から支援がなくなり、次第に衰退していきます。
 備中国分寺も廃寺になっていましたが、江戸時代の宝永年間(5代・徳川綱吉(つなよし)、6代・家宣(いえのぶ)の頃)に再建されています。

 現在は真言宗(しんごんしゅう、空海が開祖)のお寺とのことです。山号は日照山。本尊は薬師如来。

 備中国分寺のシンボルは下の写真の五重塔(国の重要文化財)です。

 奈良時代は別の位置に七重塔がありましたが焼失したそうです。
 江戸時代の12代・家慶(いえよし)の弘化年間に五重塔として再建されました。
 この日は五重塔が18:00からライトアップされると聞き、夜まで待つ事にしました。

 ライトアップ初日だったので、放送局や一般の撮影者が多数いました。
 今冬は平成27年3月31日(18:00~22:00)までライトアップしているそうです。

 たまたま、ライトアップ初日で運が良かったのですが、逆に一日早いと、ライトアップはやっていなかった分けです。

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。
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 名所江戸百景の続きを作らなければならないのですが、なかなか進みません・・・・・(汗)

 気が進みませんが、どの道、この後に政治に関して不満を言う事になりますので、政治不満の一言を入れておきます。
 ライトアップまでに時間があったので、近くにある道の駅に行った所、本日はここで点灯式があるとの事で、ついでに撮影してきました。右下の机の上にある光っているボタンを押したタイミングで、ライトアップが始まりました。

 点灯式には地元の人が参加して、実行委員の方やお寺の住職(じゅうしょく)さんだけでなく、市議の方もいました。
 (ちょうど、2014年の衆議院選挙の最中でした。)
 市議の方の挨拶(あいさつ)でこのような言葉が「くまドン」の耳に残りました。(特に後ろの言葉)
 「ライトアップにはお寺のこ理解だけでなく、地元の方々のご理解も必要です」という話と、
 「市の財政も立ち直り、このようなイベントもできる財政の余裕ができました。」という話です。

 バブルとその崩壊後に国や地方自治体の財政を悪化させた原因は、過大な公共事業を含む財政支出・放漫経営であり、その責任は、過大な支出を正当化しようとしてきた政治家・官僚・産業界などにあります。
 現在のバブル時代のような過大な公共事業支出や、国民に負担を押しつけ、経済界に対する減税ばかり考えている政治が重なります。またバブル時代のろくでもない連中の同類がはびこって、バラマキでごまかしているような状態が重なります。
 このようなムダに国民の税金が使われる事を拒否して、財政が悪化させないで、ムダ(無駄)をなくして財政を立ち直らせるしっかりとした政治を再現して欲しいものです。(悪化した財政を立て直すのに平成10年代に国や各自治体は相当な苦労をしてきました。悪化する前にろくでもない連中を排除して健全化して欲しいものです。)
 その為には政治家の甘い考えやバラマキ政治と、裏での利益獲得行動を排除して、消費税増税などを認めない厳しい姿勢が国民の側にも必要になりますね。


城009 備中松山城(3) コゲラ

2015年01月07日 12時25分44秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回も、岡山県の備中松山城の帰りに、岡山県岡山市北区の足守(あしもり)に立ち寄った時の写真からです。
 観光で立ち寄ったお寺の境内で、柿(カキ)の木があり、シジュウカラの群れがいたので、撮影した所、
 何かシジュウカラと違う鳥が写っていました。頭の部分が気に隠れて良く見えません・・・・・・・・・???

 (野鳥の写真は小さくしか写らないので、今回も縮小率を抑えて、トリミング(画面の切取)です。
 何枚か撮影していると、下の写真のように頭の部部が見える写真が撮影できました!

 コゲラでした! 初めて見ました! 初めて撮影成功です!
 キツツキというと、木の中にいる虫を食べる鳥というイメージがあり、柿の実の所にいるのが不思議でした?
 調べてみたら、コゲラは雑食で、昆虫が主食ですが、木の実を食べることもあるそうです。
 このコゲラは、柿の実を食べているのでしょうか?それとも、柿の実にいる昆虫を食べているのでしょうか?
 この時は、同じ木の枝につかまって、動かずに盛んにエサを探していました。

【コゲラ(小啄木鳥、留鳥)】
 スズメくらいの大きさ(全長15cm程)で、日本のキツツキとしては最小の大きさです。
 灰褐色と白のまだら模様の羽色で、足には前指2本と後指2本がある。
 オス(♂)は後頭部にある赤い斑がありますが、野外で見える事は珍しいので、オス・メスの区別は難しいです。
 本来の生息地は平地から山地の林ですが、冬は都市部の公園や街路樹の樹木にも見られるようになり、
 1980年代以降は、東京などの都市部で繁殖が確認されるようになるなど、都市部に適応してきた種類です。
 繁殖期はつがいで広範囲のなわばりを作るが、冬はシジュウカラなどのカラ類と昆群を形成することがある。

 コゲラの腹側の写真です。前指が2本なのが分かります。

 今回は、シジュウカラの群れの中に混じっていたので、撮影できたのは、偶然でした。
 そして、シジュウカラの写真というと、下の写真のように枝の方にオートフォーカス(ピント)が合い、ダメでした。

 木の枝の中にいる野鳥を撮影すると、ピントが滅多に合いません。コゲラの時だけなぜかピントが合いました?
 「くまドン」は野鳥に関しては、ほとんど素人(しろうと)なので、コゲラを撮影できたのは幸運(ラッキー)でした。
 そもそも、「くまドン」は木の中にいる鳥を探せる力はありませんので、コゲラを発見できた事自体、驚きなのですが・・・

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 名所江戸百景の続きを作成している時間がありませんでしたので、間が空きますので、代わりに簡単に作りました。

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城009 備中松山城(2) 岡山県・豪渓

2015年01月04日 09時30分12秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、前回の岡山県の備中松山城の帰りに立ち寄った岡山県・総社市(そうじゃし)の豪渓(ごうけい)の写真です。今年の正月は元旦以外は忙しい日が続きましたので、名所江戸百景の続きを作成している時間がありませんでしたので、間が空きますので、代わりに簡単に作りました。

 豪渓は、備中松山城の近くを流れる高梁川(たかはしがわ)の支流である槙谷川(まきだにがわ)上流の渓谷です。
(絵画調)

 短いながらも、紅葉の美しい渓谷と花崗岩(かこうがん)の奇岩・奇峰が並ぶ名勝地(大正12年に国指定)です。

 紅葉は11月後半が見頃らしく、「くまドン」が行った12月中頃でしたので、すでに落葉していました。
(絵画調)

 下の写真が天柱山です。


 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 プログの順番整理の為、10月・11月に作成したブログの内、以下のブログを前の方に移動させました。
(1)名所江戸百景の残分(秋景3景と春景1景とモズ)を番号整理の為、昨年・2013円11月末頃と今年・2024年2月頃に移動させました。
(2)亀戸天神の例大祭のブログを番号整理のため、今年・2014年8月下旬に移動させました。

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