2014年10月26日(日)曇
晴れ間が時々出たりしましたが、ほんの1~2分、音を立てて雨が
お洗濯物濡らしちゃいました
そのあと、晴れたのに、ついてないな。
ボブママは予定日が近づいているので医者から東京に帰ってきた方がいいと、言われたので、火曜にボブちゃんを連れて里帰り
タヌキと私は帰ってくるのはうれしいけれど、受け入れ態勢にバタバタな1日でしたあ~受け入れ準備と言えば、昨日はホームセンターでメリーズの新生児用の紙おむつを買いたかったのですがあ~~生産が間に合わないとのことで買えませんでした。店頭に出しても中国の人が買い占めてしまうそうです。
夜は同じ町内で長いこと親しくしている方のご主人が亡くなったので、お通夜に行ってきました。住まいから2K先のお寺でした。乗り物の便が悪いので歩いていきました。行きはタヌキと一緒だったけど、帰りは一足先に一人で帰ってきたので、道を間違えて、遠回りをしてしまいましたあ~~ああ疲れたあ~~~暗くって曲がるところが分からなかったので


住まいに近づくと、消防の自動車数台とパトカー数台がピカピカしていました。

火事だと思ってきたそうですが、そうじゃなかったとか…なんでしょ

さて、昨日の続きです。
私、珍しく、トーハク内の売店でお土産物を買ってしまいました。

このボールペンです。バックをゴソゴソやってボールペンを見つけてもナイナイナイ トーハク土産の買っちゃいましたトーハクrボールペン
見たのに○をつけたかったので。
(会場で自由にいただける読売新聞)

この紙面の中央にある涅槃図は和歌山県の金剛峯寺にある有名なものだそうです。上の画像をクリックしてくださると拡大して横なっている釈迦の姿がよくわかります。この情景は釈迦が沙羅双樹の下で涅槃に入った姿です。涅槃は小乗仏教で最高の世界です。大般涅槃経では
『ブッダ最後のたびー大バリニパーナ経』中村元訳 岩波文庫
(注)大バリニパーナ経を漢訳すると大般涅槃経
第五章〔18、病い重し〕
一 さて、尊師は若き人アーナンダに告げた。
「さあ、アーナンダよ。ヒラニヤヴァティー河の河岸にあるクシナーラーのマッラ族の
ウパヴァッタナに赴こう」と。
「かしこまりました。尊い方よ」と、若き人アーナンダは尊師に答えた。
そこで尊師は多くの修行僧たちとともにヒラニヤヴァティー河の河岸にあるクシナーラーの、
マッラ族のウパヴァッタナに赴いた。そこに赴いて、アーナンダーに告げて言った。
「さあ、アーナンダよ。わたくしのために、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、
頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい」と。
「かしこまりました」と。尊師に答えて、アーナンダはサーラの双樹の間に、頭を北に向け
て床を敷いた。そこで尊師は右脇を下につけて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、
正しく念い、正しく心をとどめていた。
二 さて、そのとき沙羅双樹が、時ならぬのに花が咲き、満開となった。それらの花は、修行完
成者供養するために、修行完成者の体にふるかかり、降り注ぎ、散り注いだ。マンダーラヴァ華
虚空から降って来て、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、
散り注いだ。天の楽器は、修行完成者に供養するために、虚空に奏でられた。天の合唱は、
修行完成者に供養するために、虚空に起こった。
・・・・ ・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(その後修行僧たちが尊師のもとに、集まってくる)・・・・省略・・・・・・・・。
第六章(二三 臨終のことば)
・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・
七 そこで尊師は修行僧たちに告げた。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ること
なく修行を完成しなさい』と。」 これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。
上記の引用中には釈迦臨終の姿は右わきを下にして、足の上に足を重ねとあります。インドや東南アジアの涅槃の彫刻や絵画はこの絵のようではなく経典通りに足を重ねています。 金剛峯寺にある涅槃図ですからかなりの人物の手によると思いますが、経典をどこまで理解して書いたのかなあ~~~なんて思って見ちゃいました。
最後に今回の鑑賞で今まで見過ごしていて初めて気が付いた玉虫厨子について書きます。
私は長いこと法隆寺に行っていないので今回の第一印象は玉虫厨子の大きさに、こんなに大きかったんだあ~だいぶいたんでいるなあ~~
学生時代、史蹟を見学するサークルでした。2年生の時、飛鳥文化をテーマに文化祭で研究発表をしました。絵画班だった私は玉虫の厨子の模型作りに参加して、側面の「捨身飼虎図」と「施身聞偈図」を書きました。この二つの絵画は釈迦が前世で善い行いをした話です。そのでこの2つの前世物語しか注目してこなかったのですが、今回は正面下の舎利供養図を見て、このお厨子のテーマはこれだ
なんで気が付かなかったのだろうか
よく見ると実に面白いイメージで画かれていると思いました。お釈迦様は火葬にされ、その骨を仏舎利と言います。そして、仏舎利はお墓に納められます。インドでは半円形に土を盛り上げ(のち石を張り付けるように土を覆っています)ストゥーパと呼ばれます。これがシルクロードを東へと伝わり、日本では三重塔や五重塔になりました。法華経の中に釈迦が説法すると地面から塔が涌きだし、宙に持ちあがり、「釈迦の教えは正しい」「正しい」と声がでる場面があります。さらに、宮殿部背面(霊鷲山図) の霊鷲山は釈迦が法華経を説いたところです。そうなると、このお厨子は法華経の世界を熟知している人物が想像力豊かな構図で画いたのだ
と、気づきました。まあ、大学2年の時に気付くのは無理なことだ思います。
そうなると、玉虫厨子の制作年代を7世紀中ごろは怪しいのではないかとの疑問が出てきました。釈迦が説いたいた経の中で法華経を最も重要としたのは中国・隋(6世紀末~7世紀初頭)の時代に出来た天台宗です。天台宗を日本にもたらしたのは最澄で、805年にその経典を中国から持ち帰って、日本天台宗を比叡山に開きました。9世紀の作品とは思えないので、おそらく7世紀には法華経の解釈本が日本に伝えられのではと思いましので、7世紀末ころでしょうか。
かなり雑な書き方なので、のちにもっときちんと書いてみたいです。
晴れ間が時々出たりしましたが、ほんの1~2分、音を立てて雨が



ボブママは予定日が近づいているので医者から東京に帰ってきた方がいいと、言われたので、火曜にボブちゃんを連れて里帰り

夜は同じ町内で長いこと親しくしている方のご主人が亡くなったので、お通夜に行ってきました。住まいから2K先のお寺でした。乗り物の便が悪いので歩いていきました。行きはタヌキと一緒だったけど、帰りは一足先に一人で帰ってきたので、道を間違えて、遠回りをしてしまいましたあ~~ああ疲れたあ~~~暗くって曲がるところが分からなかったので



住まいに近づくと、消防の自動車数台とパトカー数台がピカピカしていました。

火事だと思ってきたそうですが、そうじゃなかったとか…なんでしょ


さて、昨日の続きです。
私、珍しく、トーハク内の売店でお土産物を買ってしまいました。

このボールペンです。バックをゴソゴソやってボールペンを見つけてもナイナイナイ トーハク土産の買っちゃいましたトーハクrボールペン

(会場で自由にいただける読売新聞)

この紙面の中央にある涅槃図は和歌山県の金剛峯寺にある有名なものだそうです。上の画像をクリックしてくださると拡大して横なっている釈迦の姿がよくわかります。この情景は釈迦が沙羅双樹の下で涅槃に入った姿です。涅槃は小乗仏教で最高の世界です。大般涅槃経では
『ブッダ最後のたびー大バリニパーナ経』中村元訳 岩波文庫
(注)大バリニパーナ経を漢訳すると大般涅槃経
第五章〔18、病い重し〕
一 さて、尊師は若き人アーナンダに告げた。
「さあ、アーナンダよ。ヒラニヤヴァティー河の河岸にあるクシナーラーのマッラ族の
ウパヴァッタナに赴こう」と。
「かしこまりました。尊い方よ」と、若き人アーナンダは尊師に答えた。
そこで尊師は多くの修行僧たちとともにヒラニヤヴァティー河の河岸にあるクシナーラーの、
マッラ族のウパヴァッタナに赴いた。そこに赴いて、アーナンダーに告げて言った。
「さあ、アーナンダよ。わたくしのために、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、
頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい」と。
「かしこまりました」と。尊師に答えて、アーナンダはサーラの双樹の間に、頭を北に向け
て床を敷いた。そこで尊師は右脇を下につけて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、
正しく念い、正しく心をとどめていた。
二 さて、そのとき沙羅双樹が、時ならぬのに花が咲き、満開となった。それらの花は、修行完
成者供養するために、修行完成者の体にふるかかり、降り注ぎ、散り注いだ。マンダーラヴァ華
虚空から降って来て、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、
散り注いだ。天の楽器は、修行完成者に供養するために、虚空に奏でられた。天の合唱は、
修行完成者に供養するために、虚空に起こった。
・・・・ ・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(その後修行僧たちが尊師のもとに、集まってくる)・・・・省略・・・・・・・・。
第六章(二三 臨終のことば)
・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・
七 そこで尊師は修行僧たちに告げた。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ること
なく修行を完成しなさい』と。」 これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。
上記の引用中には釈迦臨終の姿は右わきを下にして、足の上に足を重ねとあります。インドや東南アジアの涅槃の彫刻や絵画はこの絵のようではなく経典通りに足を重ねています。 金剛峯寺にある涅槃図ですからかなりの人物の手によると思いますが、経典をどこまで理解して書いたのかなあ~~~なんて思って見ちゃいました。
最後に今回の鑑賞で今まで見過ごしていて初めて気が付いた玉虫厨子について書きます。
私は長いこと法隆寺に行っていないので今回の第一印象は玉虫厨子の大きさに、こんなに大きかったんだあ~だいぶいたんでいるなあ~~
学生時代、史蹟を見学するサークルでした。2年生の時、飛鳥文化をテーマに文化祭で研究発表をしました。絵画班だった私は玉虫の厨子の模型作りに参加して、側面の「捨身飼虎図」と「施身聞偈図」を書きました。この二つの絵画は釈迦が前世で善い行いをした話です。そのでこの2つの前世物語しか注目してこなかったのですが、今回は正面下の舎利供養図を見て、このお厨子のテーマはこれだ



そうなると、玉虫厨子の制作年代を7世紀中ごろは怪しいのではないかとの疑問が出てきました。釈迦が説いたいた経の中で法華経を最も重要としたのは中国・隋(6世紀末~7世紀初頭)の時代に出来た天台宗です。天台宗を日本にもたらしたのは最澄で、805年にその経典を中国から持ち帰って、日本天台宗を比叡山に開きました。9世紀の作品とは思えないので、おそらく7世紀には法華経の解釈本が日本に伝えられのではと思いましので、7世紀末ころでしょうか。
かなり雑な書き方なので、のちにもっときちんと書いてみたいです。
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