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K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

いらしてくださってありがとうございます。
晩ご飯に作った料理・道端に咲いているお花の写真などのブログです。

釈迦佛陀本紀

2012-01-12 01:09:37 | インド思想
2012年1月11日(水)晴



昼間は暖かかったのですが、夕方から乾いた冷たい強い風おおサム


今晩は第二水曜なので東神奈川の勉強会です。
何をしているか書かなきゃ、と、思うのですが、、、なかなか書けないんですよね。
今日はちょっと書いてみます。
冨永半次郎先生の著「釈迦佛陀本紀」を読んでいます。
これは大般涅槃経の和訳です。このお教は釈迦が死ぬ1年ほど前に釈迦が弟子たちとガンジス川流域から、釈迦の故郷、現在のネパールへ向かって旅をしている様子です。大般涅槃経の和訳で一般的なものは中村元さんの「釈迦最後の旅」です。言語に関して天才の中村元さんはパーリ語の大般涅槃経を忠実に訳しています。しかし、経典は時を経るうちに、釈迦の偉大さを強調するかのように、もともとはないとおもわれる装飾する部分が増大したのではないかと疑問を持った冨永先生は、装飾部分を捨てて、釈迦の本来の姿に迫りました。その著が「釈迦佛陀本紀」です。これはパーリー語からの意訳です。釈迦は35歳で悟りました。しかし、80歳になっても何か不安な部分があります。アーナンダをはじめとする弟子たちも理解していないようです。現在の仏教界は35歳で釈迦が悟りを開き、その後に不安を持ったと気付いていません。・・・今日はここまで、次回は2月の第2水曜日です。


2次会はJR東神奈川駅近くのアリランです。

盛り上がりました

今日はアリランから一人に2袋の韓国海苔をいただきました。ありがとうございます。

そして、JR東神奈川改札口前の神戸屋さんで閉店前の30パーセント引きのパンを買いこみ、東白楽まで歩いて東横線と副都心線、そして、丸の内線で帰宅。午後11時を過ぎていました。



釈迦最後の旅2(大般涅槃経)

2006-12-03 23:08:56 | インド思想
2006年12月3日(日曜日)曇りのち晴れ

大般涅槃経の続きを書きます。
前回2006年10月1日を読んでくださると続きがわかります←クリック
前回の最後の部分をコピーします。
アンバパーリーのマンゴ園で釈迦と比丘らは気持ちよくお食事をして、宿泊しました。アンバパーリーは釈迦と比丘らにマンゴ園を寄進したいと申し上げると、釈迦は受け取りました。
この続きを11月5日と本日12月3日に読みました。
釈迦はアンバパーリーのところに心行くまで滞在したあとで、アーナンダに「ベールヴァ村に行こう」といわれました。アーナンダは「はい」とお答えしました。そこで、釈迦は比丘らとヴェーサリーからベールヴァ村へ出発しました。やがて、ベールヴァ村に到着しました。
そこで、釈迦は比丘らに「比丘らよ、ヴェーサリーの周辺の親友、友人、知人を頼って雨安居に入りなさい。私は此処ベールヴァ村で雨安居にはいる」比丘らは釈迦に「はい」とお答えして、ヴェーサリーの周辺の親友、友人、知人を頼って雨安居に入りました。釈迦はベールヴァ村で雨安居にはいりました。
釈迦は雨安居中に瀕死の重症になりました。釈迦はじっと静に病の原因や経過を見つめてたえました。その時釈迦は考えました。「比丘らに別れを告げずに般涅槃することは適切ではない。病を退治し、生命力で過ごそう」
こうして病は去りました。

※雨安居
安居とは元々、サンスクリット語の雨期を日本語に訳したものである。
本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて一カ所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事である。後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)
※涅槃は悟りを開いた釈迦の死をいう。輪廻転生から解脱した理想の境地。


釈迦最後の旅

2006-10-01 23:58:02 | インド思想
2006年10月1日昼から降り出す、本降りとなる

毎月第一日曜日の午後は勉強会があります。

内容が難しいのでいつもは頭の中を通りぬけてしまいますが、今日は

さほど重要な部分でなかったので、とても面白く、頭に残っているので

書き留めておきます。

大般涅槃経の一節をローマ字化したパーリー語で読みました。パーリー

語を読めるわけありません。パラフレーズしたものの日本語の部分を読

みました。大般涅槃経は釈迦の最後の1年間の旅の様子を書いてあり

す。釈迦が35歳で悟りをひらいてからの詳しい活動の場所は分かってお

りませんが、ガンジス川流域で活動していたということは確かだと思い

ます。ところが、死の1年前になると生まれ故郷のネパールに向かって

歩き出しました。今日読んだところはヴェーサーリーというところに釈迦

と比丘らが到着した話でした。この時は釈迦の死の約半年前でした。

この土地の高級接客婦人のアンバパーリーが立派な馬車に乗って、

釈迦を訪ねてきて、法話を聞ききました。感動したアンバパーリーは釈

迦と比丘らを明日のお食事に招待しました。釈迦は同意しましたが、

言葉を発することはありませんでした。同じ時に、高貴なリッチャヴィ人

も釈迦を招待しようと、立派な馬車に乗り、ある者はお供ともども青い

装いで、ある者はお供ともども赤い装いで、ある者はお供ともども黄色

い装いで、ある者はお供ともども白い装いで、釈迦のところに出発しま

した。ところが途中で、アンバパーリーの馬車とぶつかってしまいまし

た。リッチャヴィ人はなんてことだと怒りましたが、アンバパーリーは私

は釈迦を明日お招きしてますので、関わっていられませんと、先を急ご

うとすると、リッチャヴィ人は釈迦のご招待を譲れと迫りました。アンバ

パーリーはどんなにたくさんお金をもらっても譲れませんとお断りしまし

た。

リッチャヴィ人は釈迦のところに向かいました。釈迦はリッチャヴィたちの

馬車の行列を遥かに眺めて、比丘たちに、33の天を見たことがなかったら、

リッチャヴィたちをそれと見るがいいといいました。

リッチャヴィ人は釈迦のところに到着すると、明日の食事を招待しました。

すると釈迦は明日はアンバパーリーのところにいきますと、答えました。

アンバパーリーのマンゴ園で釈迦と比丘らは気持ちよくお食事をして、

宿泊しました。アンバパーリーは釈迦と比丘らにマンゴ園を寄進したいと

申し上げると、釈迦は受け取りました。



私たちにとって祇園精舎の寄進はよく知られていますが、このマンゴー園も

それに劣らないほどの立派なもののようです。

青・赤・黄色・白の衣装のいでたちのリッチャヴィ人と33の天とは何のことだ

ろうと思われるでしょう。インドの世界観は須弥山の周りに4つの峰があり、

それぞれに8人の天が住んでいると思われていました。そこで、8×4で

32天、そして一番中心の天、すなわちインドラ=梵天で33天となります。