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K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

いらしてくださってありがとうございます。
晩ご飯に作った料理・道端に咲いているお花の写真などのブログです。

福岡のうまいもの

2012-01-13 23:01:17 | 九州
2012年1月13日(金)



昨日今日寒かったですね。
今日の仕事の準備が十分じゃなかったので、朝、6時前に起きたら、東京の気温0度でした。


みらパパさんのブログは毎日毎日奥さまの充実した食卓が素晴らしいんですよ。
種類が多くって、作るの大変だうな、我が家の何日分かな、とか、楽しんでます。
しかも、みらパパさんが美味しい美味しい、と。素敵なご夫妻です、
その献立で白菜と薄揚げの煮たものとか、白菜のミルク煮だとか、白菜を上手に料理していらっしゃるので、
私もミルク煮を作ってみようかな。と






白菜のミルク煮


[難易度]


★☆☆☆☆




[調理時間]

20分







[[ 材料と分量 ]]・・・2人分



  • 白菜

  • 200gくらい



  • ベーコン

  • 20gくらい



  • 茹でた大豆

  • 1/4カップくらい



  • オリーブオイル

  • 大さじ1



  • コンソメスープの素

  • 5g



  • 胡椒

  • 少々



  • 牛乳

  • 300ml



  • 片栗粉

  • 小さじ2





[[ 手順 ]]

下準備



1 )
白菜の白い部分をそぎ切りにする。柔らかい部分をざく切りにする。



2 )
水溶片栗粉をつくる。



作り方



1 )
小さめのフライパンにオリーブオイルを引いて、ベーコンを炒め、白菜を加え、しんなりするまで炒める。



2 )
1)に、牛乳・コンソメ・大豆を加えて、とろ火で煮込み、仕上げに水溶片栗粉を加えて、かき混ぜて出来上がり。










クリックしてね。

おいしかったです。白菜を1個買うと使い切るのに四苦八苦なので、体も温まるし、定番にしましょ。



昨日はボブちゃんの所に行ってきました。
この連休にボブパパのの実家にボブちゃん一家は帰省したので、いろいろお土産を貰ってきました。

その1つからし明太子です。



これは大牟田の地元のお店屋さんのものだと思います。
福岡空港のお土産用より、おいしいですよ。


手巻きずしにしてみました。


手巻き寿司ってあまりやらないので、うまく巻けないあすリベンジだ!!

この海苔もお土産です。柳川産です。
昔ながらの自分で焼く海苔です。
一味違いますね。とっても美味しい海苔です。
10帖もいただきましたので、冷凍庫で保存しています。




福岡 3日目 祝い膳

2009-08-30 23:54:21 | 九州
福岡 3日目 (2009年8日8日)


大牟田の料亭『一里』の祝い膳によばれました。

東京では見られない食材の九州のお料理に感激

前菜の彩りがはっとするきれいさでした。お味もおいしいです


う~~ん種類は?東京では見たことがありません。


土瓶蒸
とってもいいお味でした。実は土瓶蒸初めていただきました。


器もいいですね。


タレは海草系です


大きい鮑です。やわらかく美味しかったです




もくもくいただきました。





最後はデザートのフルーツでした。


豪華なご馳走(o^。^o)  ごちそうさま



東京へ帰宅





福岡 2日目⑥  博多石焼 大阪屋

2009-08-30 17:32:57 | 九州
福岡 2日目(2009年8月7日)



博多で大阪屋とはいかに?
お店を創業した方が大阪出身とのことでした。

昨日から福岡でいただくお魚のおいしさにうれしくて、うれしくて・・・
大阪屋さんではその極みに達するほどの活魚でした。

写真の掲載が10枚までなのが残念ですが・・・


前菜 
いちじく つぶがい  海老を透明のゼリーで巻いたもの
写真を掲載できなくて残念ですが、きれいでした


イカの活造り
ぴくぴく・・・あまいし やわらかいし・・・うまい

ゲソは味付けから揚げにしてもらいました。これまた旨い



石焼 海鮮と有機野菜

   活烏賊・活鮑・活うちわ海老・鯛・活蛸・伊万里牛

石焼のたれ

うにのみそダレは絶品でした。

石焼

うちわ海老
うちわ海老は長崎周辺でとれ、養殖をしていないので、毎日入荷できるとは限らないそうです。
うちわを広げたようなかたちからうちわ海老といわれるそうです。おいしかったです。


この鮑のおいしさ、どのように表現したらいいかな、口の中でふわっと、ジューシー
鮑は硬いものだと思っていましたが、やわらかい



焼き物
茄子田楽柚子味噌焼・鰻巻・胡瓜味塩漬け・トマト



酢の物  浅利沼田和之


食事   明太おにぎり  止椀   貝汁香の物  ちょい干し大根   この大根もおいしいのです


デザート マンゴー入り梅酒の二重コンポート
う~~凝ってます。


贅沢なお食事でした。ごちそうさま



福岡 2日目⑤ 九州国立博物館

2009-08-30 15:50:33 | 九州
福岡 2日目(2009年8月7日)

九州に4つめの国立博物館ができたニュースは知っていましたが、、
今回の旅行の計画には入れていませんでした。というのも『阿修羅展』開催中とのことで、コッコーはすでに上野の東京国立博物館で鑑賞していました。
しかし、地元九州ではかなりご自慢の施設らしく二三の方から薦められていましたので、太宰府まで来ているのだからと、、、観世音寺前から「コミュニティバスまほろば号」(一回乗車100円)で、西鉄太宰府駅へ行きました。
1時間に1本のバスがやって来ます。  まほろば号

太宰府天満宮の参道をしばらく歩き、参道から離れて矢印のように博物館方面へ




途中 神護山 光明禅寺の石庭


山頂に体育館のような青い屋根が見えてきました。


九州国立博物館は山の頂上にあります。

7月から8月上旬に九州は豪雨に襲われ、この辺りもがけ崩れがあったようです。

わー、きつそうな階段

九州国立博物館は木をふんだんに使ったみごとな内装でした。


エントランスホールに源平の壇ノ浦の戦いのオブジェ


太宰府天満宮の東南の山を開発して九州国立博物館を建て、両地をエスカレーターと動く歩道でつなげていました。九州国立博物館を出ると自動的に太宰府天満宮に着きます。
逆に歩いたら簡単に博物館に登ってこれたのだな~~~
なんと昨日今日で3万歩いていました。

博物館と天満宮をつなぐ動く歩道

博物館と天満宮をつなぐエスカレーター

親しいお嬢さんたちの大学合格を天満宮にお祈りして「合格鉛筆」を買いました。

太宰府天満宮は午後2時ごろでしたが、夜は親しい方のご招待の会食がありますので、見学を切り上げて西鉄大牟田線太宰府から西鉄福岡天神へ戻りました。
天神からホテルは徒歩でも帰れますが、今晩の待ち合わせが地下鉄空港線中州川端2番出口なので、地下鉄の「おとなりきっぶ」100円を利用して下見をしてホテルでシャワーを使って休息して夜に備えることにしました。

※謀反の疑いをかけられ左遷された菅原道真は大宰府の長官として着任後2年で亡くなりました。
都から道真を追っ払った藤原時平は39歳の若さでで亡くなりました。さらに都でさまざまな天災がおきるので、道真の怨霊とうわさされるようになりました。そこで、道真の魂をしずめるために太宰府天満宮に神として祀り上げました。
道真は博識豊かな人物だったので、現在は学問の神として合格祈願で有名な神社となりました。
まあ、ここが合格祈願の本店と考えれば、湯島天神はその東京支店でしょうね。



福岡 2日目④ 観世音寺

2009-08-30 13:56:31 | 九州
福岡 2日目(2009年8月7日)


大宰府政庁跡の向かいの三十三茶屋(みとみちゃや)のおもてなしに癒されたタヌキとコッコーは、再び炎天下を歩き始めました。

まず、学校院跡




次は観世音寺境内の戒壇院(日本三戒壇の1つ西戒壇)



平安時代に学校院と観世音寺はお隣さんで境界争いをしたようです。といっても学校院あとから観世音寺へ距離はありま~~す。

戒壇院



本尊をトリミングします。  木造盧舎那仏坐像 平安時代


堂内には入れないので、正面扉の金網越しに撮りました。
国風文化の彫刻の影響かな?静かなイイ感じでした。

鑑真が持ってきた菩提樹と説明がありましたが、、、命がけの航海で持ち込めたのかな?


この菩提樹の木の向こうに観世音寺があります。
観世音寺の境内に入って振り向くと、その門は西戒壇の門でした。


観世音寺

日本三戒壇とは?
奈良時代につくられた奈良・東大寺、下野薬師寺(東戒壇)と筑紫観世音寺(西戒壇)

戒壇院とは?
仏教の僧侶として守らなければならない戒律を授戒する場所。正式な僧侶となる儀式です。

仏教の戒律とは?
先ず5戒にはじまります。
生き物を殺してはいけません。(この戒律からお肉を食べません)
ウソをついてはいけません。
夫は妻、妻は夫以外の人と関係を持ってはいけません。
盗みをしてはいけません。
その後戒律は増えて250あるとか。
(モーセの十戒(ユダヤ教・キリスト教共通)・イスラム教(四人の妻をもてますが)・ヒンズー教と共通点が多いですね)


仏教は6世紀に日本に伝来したのに戒壇院ができたのは200年後です。仏教伝来からの期間が長すぎるのでは?
その一
仏教が日本に伝来したのは『日本書紀』によると「552年、百済の聖明王が釈迦仏の金銅像と経論他を献上」とあります。または、『上宮聖徳法王帝説』では538年に伝来と書かれています。(どちらが正しいかとの定説はありません)
仏教が伝わると、当時力があった豪族の蘇我氏は仏教推進派、物部氏は仏教反対派として対立しました。蘇我馬子は厩戸王と組んで物部氏を倒して政治の実権を握り、推古天皇・馬子・厩戸王(聖徳太子)の三人体制で、6世紀末から7世紀初頭にわたり30年余り政治を安定させました。日本最古の仏教文化、飛鳥文化が誕生します。その後。蘇我蝦夷・入鹿の権勢を伸ばした時代から蘇我氏の没落の大化の改新を経て、天智天皇、天武天皇・・と歴史は経過します。天武天皇と妻の持統天皇の時期は白鳳文化とよばれ仏教文化ますます進展しました。奈良薬師寺の創建もこの時期です。その後、710年の平城京遷都から奈良時代になります。この時代は仏教を国が保護し、東大寺などの大寺院が「鎮護国家」を祈願(国の平安を祈る)するために建造されました。東大寺などの僧侶は今流に言えば国家公務員にあたり、その活動を国家が統制していました。
 このように奈良時代、8世紀は日本で仏教が興隆しましたが、お経はほんの少ししか伝来していませんでした。奈良の大寺院は釈迦の教え=経典の研究ではなく、その頃までに伝来していたお経の解釈書を勉強していました。さらに、日本には「授戒の制度」も伝わっていませんでした。
その二
奈良地代になると、授戒者(正式な僧侶としての資格を与える者)を求めて日本の僧栄叡と普照が中国に行きました。しかし、何人もの中国の僧は渡日を嫌いましたが鑑真はその求めに応じました。鑑真は日本への渡航を試みましたが、五回も船の難破のために失敗しました。その疲労か海水のためにか、盲目になってしまいました。皇帝玄宗は高僧鑑真が渡日のために命を落としてはと、鑑真の渡日を禁じました。しかし、その掟を破って、753年の遣唐使の帰り船に乗船しました。玄宗皇帝が鑑真の渡日を禁じたので遣唐使の大使藤原清河は乗船を拒否しましたが、副使の配慮により副使の船に乗船し渡日を成しとげました。は官吏となり35年間中国に滞在し玄宗皇帝にも信頼された阿倍仲麻呂は帰国のため大使の船に乗船していましたら、この遣唐使船は難破して、清河も仲麻呂も帰国を果たすことがず、長安に戻り中国の土となりました。副使の遣唐使船は風雨を何とか持ちこたえ753年12月鹿児島に上陸することができました。鑑真は鹿児島から陸路?大宰府に向かい、何日か観世音寺に滞在したようです。その時、観世音寺で日本初の授戒をしたとのことです。翌年、754年に鑑真は平城京に入り、東大寺に戒壇を築き聖武太上天皇をはじめ光明皇太后、孝謙天皇や奈良の僧侶らに授戒をしました。そして、761年に西国の僧侶の授戒の場所としてその観世音寺、東国の僧の授戒のために下野の薬師寺に戒壇を築きました。東大寺を含め三戒壇ができ日本の戒律制度が急速に整備されました。(下野薬師寺を東戒壇、観世音寺を西戒壇)

観世音寺の西戒壇は忘れ去られた存在
平安時代初期、最澄は804年に唐に渡り、翌年天台宗の経典を持ち帰り、朝廷の許可を得て比叡山に日本天台宗を開きました。鑑真も経典を日本にもたらしたと思いますが、その数はわずかだったと思います。日本に本格的に経典をもたらし、本格的な経典の勉強を始めたのは最澄でした。最澄の念願は比叡山に大乗戒壇を設けることでした。当時、東大寺の戒壇院、下野薬師寺・観世音寺の東西戒壇でしか授戒できませんでした。しかも、その戒壇は小乗の戒壇でした。最澄は朝廷に大乗戒壇を作ることを願い出ていましたが、南都(奈良)寺院の猛反対で実現できませんでした。822年、最澄の死後7日目に朝廷から許可が下り、比叡山に大乗戒壇が設けられることになりました。これ以降の僧侶はほとんど比叡山で授戒しています。たとえば、法然・親鸞・日蓮・・・・そのため、三戒壇、その中でも観世音寺の戒壇院は忘れ去られた存在となり、創建当初からの記録もないようです。現在の観世音寺の戒壇院は江戸時代に福岡藩(黒田家)の家臣が17世紀後半に復興しました。
平安時代に僧侶となることを志すものは比叡山を登ったのはこのようなわけがあったからです。しかし、平安末から鎌倉時代には浄土宗(法然)浄土真宗(親鸞)日蓮宗(日蓮)などが成立すると比叡山の大乗戒壇も天台宗の僧侶のみの授戒地になり、さほど日本国としての授戒地の意味もなくなり、政権との関連もなくなります。

さいごに
土を盛り上げたところで授戒式がおこなわれるようですが、釈迦の最初の弟子の五比丘は授戒式はなかったし、戒律もなかったと思われます。釈迦の死後、釈迦の教えの解釈の違いによりサンガ分裂が行われ多数のサンガ(サンスクリット語で仏教教団の意)が誕生しました。さらに、釈迦への尊敬の念から釈迦を褒め称える装飾がお経に盛り込まれました。サンガの維持のためかは分かりませんが、戒律の増加もありました。どうやら釈迦の教えの本質から離れたところで戒律、授戒制度が成立したようです。奈良時代、国家仏教の下で僧侶の統制のために授戒制度は整備されたとみてもいいでしょう。法然から始まる鎌倉仏教は個人救済を目的とするので、従来の授戒という語句も重要性を失ったと思われます。そこで、日本の戒壇は奈良時代という時代を背景としての重要施設だったようで、いつごろかから単なる史蹟としての存在となったのでしょうね。
私にとって、東大寺の戒壇院は天平時代を代表する塑像・四天王がいらっしゃるという記憶が鮮明で、授戒式の場所という印象はない所以もそのようなことかしらとも改めて思うのです。今回の大宰府跡から太宰府天満宮の中間点に観世音寺があったので立ち寄ったという次第で、福岡旅行を計画中には西戒壇について気がつきませんでした。

このブログの場をかりて、日本の仏教史をつまみ食いしてみました。
長々と私の歴史の復習にお付き合いしてくださって有難うございます。