2010年3月4日(木)曇 寒い
カティンの森を観てから2週間も経ってしまいました。すごい映画を見たあとは、なかなか書けません。「善き人のためのソナタ」をみたあとも、書きたいと思いながら書けずしまいでした。今回もそうならないようにメモしておかなければ、、、と、
2月19日に「カティンの森」の最終日ということで、あわてて時間をつくって18日に岩波ホールへ行ってきました。
第二次世界大戦中ポーランドは西からドイツ軍の侵攻、東からソ連軍の侵攻で痛めつけられました。戦争が始まった1939年9月、東西からソ連・ドイツ軍に挟撃され、ポーランド人将校や民間人はソ連軍の捕虜となりました、が、間もなく、ソ連から釈放されたとの報道がありました。ところが、しばらくしてポーランド人将校・民間人、合わせて25万人もの人の消息不明が判明しました。ポーランド亡命政府(大戦開始後まもなくポーランドは独ソに分割統治されたのでポーランドはフランスに亡命政府を作りました。その後、フランスのパリもドイツに占領されたので、ポーランド亡命政府はロンドンへ移りました)は不明者の消息をソ連に問い合わせるとソ連のスターリンは「確かに釈放した」と回答しました。しかし、1943年2月27日、ドイツ軍がポーランドのカティン近くの森『山羊ヶ丘』でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見、調査の結果「カティン虐殺事件」と命名しソ連軍の仕業と発表しました。これに対しソ連はナチスドイツの虐殺と主張しました。
ソ連はポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニアなどの東欧諸国をナチスドイツの侵略から解放して第二次世界大戦が終わったので、東欧諸国は選択の余地なく社会主義国となってソ連の指導の下に生きていかねばならなかったのです。そのため、ポーランド人はカティンの森での事件はソ連が起こしたということを知っていましたが、口を開くことは出来ませんでした。
この映画の監督アンジェン・ワイダのお父様・ポーランド将校はカティンの森で犠牲になりました。ワイダ監督はカティンの森事件の映画化の構想を長年月熟考に熟考を重ねたようです。映画「カティン森」はソ連軍の捕虜となったアンジェイ大尉が手帳に書き残していた日記をストーリーの軸に、捕虜として逮捕され連行されたアンジェイ大尉の安否を気遣う母・妻・子どもたちの恐怖の日々を綴っています。ドアのノックの音のたびに妻は夫ではと、、、戦争が終わっても待ち続ける妻、、、。
映画の冒頭はソ連がポーランド侵攻開始の1939年9月17日、ポーランド東部ブク川の橋の西にはドイツ軍、東にはソ連軍。追い詰められるポーランド軍人と民間人のシーンは大国に挟まれたポーランドを象徴する映像でした。最後のカティンの森の虐殺シーンはイデオロギーが他者を排除するすさまじさの象徴のように観ました。
この映画を観て、戦後生まれの私は父を兄弟を友人を恋人を夫を戦場に送ることのない幸せを思いました。
平和ということばは誰でも大切に感じるのは当然ですが、平和ってどのような状態を維持することなのか。平和の状態のひとつは父を兄弟を友人を恋人を夫を戦場ヘ送らなくてもいい生活の持続なのだと映画は迫っているようでした。
最後に、「カティンの森虐殺事件」をソ連が認め、謝罪したのは冷戦終結の(1989年12月、米ブッシュ大統領・ソ連ゴルバチョフのマルタ会談)のち、1990年、ゴルバチョフ大統領でした。
カティンの森を観てから2週間も経ってしまいました。すごい映画を見たあとは、なかなか書けません。「善き人のためのソナタ」をみたあとも、書きたいと思いながら書けずしまいでした。今回もそうならないようにメモしておかなければ、、、と、
2月19日に「カティンの森」の最終日ということで、あわてて時間をつくって18日に岩波ホールへ行ってきました。
第二次世界大戦中ポーランドは西からドイツ軍の侵攻、東からソ連軍の侵攻で痛めつけられました。戦争が始まった1939年9月、東西からソ連・ドイツ軍に挟撃され、ポーランド人将校や民間人はソ連軍の捕虜となりました、が、間もなく、ソ連から釈放されたとの報道がありました。ところが、しばらくしてポーランド人将校・民間人、合わせて25万人もの人の消息不明が判明しました。ポーランド亡命政府(大戦開始後まもなくポーランドは独ソに分割統治されたのでポーランドはフランスに亡命政府を作りました。その後、フランスのパリもドイツに占領されたので、ポーランド亡命政府はロンドンへ移りました)は不明者の消息をソ連に問い合わせるとソ連のスターリンは「確かに釈放した」と回答しました。しかし、1943年2月27日、ドイツ軍がポーランドのカティン近くの森『山羊ヶ丘』でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見、調査の結果「カティン虐殺事件」と命名しソ連軍の仕業と発表しました。これに対しソ連はナチスドイツの虐殺と主張しました。
ソ連はポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニアなどの東欧諸国をナチスドイツの侵略から解放して第二次世界大戦が終わったので、東欧諸国は選択の余地なく社会主義国となってソ連の指導の下に生きていかねばならなかったのです。そのため、ポーランド人はカティンの森での事件はソ連が起こしたということを知っていましたが、口を開くことは出来ませんでした。
この映画の監督アンジェン・ワイダのお父様・ポーランド将校はカティンの森で犠牲になりました。ワイダ監督はカティンの森事件の映画化の構想を長年月熟考に熟考を重ねたようです。映画「カティン森」はソ連軍の捕虜となったアンジェイ大尉が手帳に書き残していた日記をストーリーの軸に、捕虜として逮捕され連行されたアンジェイ大尉の安否を気遣う母・妻・子どもたちの恐怖の日々を綴っています。ドアのノックの音のたびに妻は夫ではと、、、戦争が終わっても待ち続ける妻、、、。
映画の冒頭はソ連がポーランド侵攻開始の1939年9月17日、ポーランド東部ブク川の橋の西にはドイツ軍、東にはソ連軍。追い詰められるポーランド軍人と民間人のシーンは大国に挟まれたポーランドを象徴する映像でした。最後のカティンの森の虐殺シーンはイデオロギーが他者を排除するすさまじさの象徴のように観ました。
この映画を観て、戦後生まれの私は父を兄弟を友人を恋人を夫を戦場に送ることのない幸せを思いました。
平和ということばは誰でも大切に感じるのは当然ですが、平和ってどのような状態を維持することなのか。平和の状態のひとつは父を兄弟を友人を恋人を夫を戦場ヘ送らなくてもいい生活の持続なのだと映画は迫っているようでした。
最後に、「カティンの森虐殺事件」をソ連が認め、謝罪したのは冷戦終結の(1989年12月、米ブッシュ大統領・ソ連ゴルバチョフのマルタ会談)のち、1990年、ゴルバチョフ大統領でした。