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K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

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晩ご飯に作った料理・道端に咲いているお花の写真などのブログです。

白バラの祈り2

2006-02-09 20:47:04 | 映画
2006年2月9日晴れ

本日、言論弾圧「横浜事件」の再審の判決が出ました。横浜地裁は有罪か無罪か判断せずに裁判を打ち切る「免訴」を言い渡しました。この事件は42年から終戦直前にかけ言論、出版関係者約60人が「共産主義を宣伝した」などとして治安維持法違反容疑で逮捕され、拷問で4人が獄死し、終戦直後の1945年8~9月に、約30人が有罪判決を受けました。裁判長は「免訴」によって、元被告の名誉は回復されたと説明していますが、遺族の期待する無罪判決をなぜ出せなかったのかと憤ります。また、裁判長は「訴訟記録が廃棄され、確定判決が残っていない事態もあってかなりの時間を要し、被告らが死亡して再審裁判を受けることができなかったのは誠に残念」と述べていますが、このような記録の廃棄は証拠隠滅の行為のような気がします。

さて、昨日の『白バラ・・』を続けます。戦後、ゾフィーらを裁いた民族裁判は無効とされ、無罪となり名誉を回復したそうです。
毎年2月にミュンヒェン大学で刑死したゾフィーたちを追想する催しが行われているとのことです。1993年の催しでヴァイツゼッカー大統領(当時)が「心にまとう無関心のマントを破り捨てよ。手遅れにならないうちに決断せよ」と<白バラ>のビラからの引用で演説が始められ、独裁に対する抵抗運動として<白バラ>を高く評価しました。
ナチス(Ntionalsozialistische Deusche Arbeiterpartei)だからゾフィーたちが刑死となったのではなく、戦争が悲劇を生んだのではないでしょうか。
最後に、ゾフィー兄妹が1943年2月18日に大胆な行動に出た理由は謎のようです。
シャンテシネで「白バラの祈りの」は現在上映中です。

悲劇が繰り返されないように、日本国憲法の基本的人権、平和主義について各条文制定の背景を見直してみたいです。良心の自由が何故制定されたか。第9条の条文がなぜできたのかと。







白バラの祈り

2006-02-08 22:45:06 | 映画
2006年2月8日晴れ
『白バラの祈り ゾフィー最期の日々』を日比谷のシャンテシネで観て来ました。
白バラとは、第二次世界大戦中、ドイツで作られた反戦のビラのことです。第1号から6号まで謄写版で刷られました。その文面は大変アカデミックなもので、シラーやゲーテの作品を引用していて、過激なものではありませんでした。第6号が刷り上った1943年2月17日晩に『白バラ』グループのミュンヒェン大学生ハンスとゾフィー兄妹らがビラを、今までやってきた郵送配布ではなく大学構内に配布しようと決めました。翌日、人気のない廊下に兄弟はビラを積み重ねて配置しました。最後に残った束を吹き抜け校舎の三階の手すりに置き終えると、授業終了のブザーがなり、廊下は学生であふれました。その瞬間、ゾフィーは三階のビラを階下にばら撒まいたので、学生の手に渡り始めました。兄妹は人ごみを急いで逃げ去ろうとしましたが、目撃した用務員の通報でゲシュタポに連行されてしまいました。ゾフィーは尋問当初、全身全霊で、自分はノンポリだ。関係がないと言い張りましたが、証拠を突きつけられると、「私は誇りに思う」と、尋問官と《言葉の闘争》を始めました。この場面はこの映画の圧巻でした。尋問官は偽の調書にサインをすれば助かると指示しましたが、ゾフィーは良心に従がう決意で立ち向かったため、起訴、人民法廷で死刑判決、即刻斬首となりました。ゾフィーに続き、兄のハンス、友人が斬首となりました。当時、死刑執行日まで99日の猶予があったので、即刻斬首は異例のことだったようです。死刑執行の1943年2月22日はドイツ軍のスターリングラード陥落の直後だったので、ナチス内部の動揺が即刻処刑となったのかもしれません。映画の最後は、ミュンヒェン上空から連合国軍占領のビラがマリエンプラッツ(広場)やペーターズキルヘ(教会)へ舞い落ちる光景でした。『ゾフィー、死は無駄ではなかったよ』と、やさしく語っているようでした。
東西統一の後、旧東ドイツに保管されていたゾフィーの尋問書を処刑60年の命日に公開することを新聞記事で読んだ、マルク・ローテムント監督が熟読して、「ゾフィーの最期の5日間」に絞っての映画化でした。
続きますが文字数制限で明日にします。