アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

寺院山0493  山科別院長福寺 真宗大谷派

2018年08月10日 16時38分08秒 | 寺院

 

元文元年(1736)に建立された。山科は、蓮如上人が山科本願寺(1482~1532)を建立した地であり、上人の真宗再興が実現された場であった。

江戸時代のはじめ、本願寺は東西両派に分かれ、別々の道を歩むことになり、慶安3年(1650)には、本願寺が所有していた山科本願寺旧跡地の所属をめぐり相論が起こった。この相論は、ついには奉行所の裁決を仰ぐことになるが、東西どちらの所有も認められず、旧跡地は奉行所の預かりとなった。その後も数度の相論を重ねるも旧跡地が帰属することはなかった。そのため東西両派は、蓮如上人の山科本願寺旧跡を再興するかたちで、旧跡地に隣接する土地に御坊(別院)を建立することとなった。東本願寺は、享保17年(1732)に旧跡地の北側に位置する竹鼻村領を買い取り、御坊建立に取り掛かった。この時、当初入手した土地は現在地より南東に位置し、四宮川の西岸だったが、狭小だったためか今の土地に変更された。御坊建立の際、京都の東本願寺寺内にあった長福寺という寺院を移転し、山科御坊とした。その故に山科別院には、長福寺という寺号がつけられている。京都市

 

東御坊

昭和11年4月  京都 和谷悟平 建立

 

寺院 前回の記事 ➡ 寺院山0492  光照寺  浄土宗

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道標山0180  いまくまのミち   大つ道

2018年08月09日 06時00分40秒 | 道標

 

     東 六条                      すぐ  大つ道

             道

      今くま

いまくまのミち

道標 前回の記事 ➡ 道標左0179 右 くらまミち 享保12年 300年前のものだ 

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石碑山0172  山階寺跡(推定地)  五条別れで

2018年08月08日 05時21分26秒 | 石碑

 

山階寺は7世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院。中大兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた鎌足の「山階陶原家」附属の持仏堂が始まりと推定される。

奈良時代の興福寺に関する史料には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と記されている。

その所在地は大宅廃寺せつ中臣遺跡説もあるが、山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である。付近から有力な遺跡は見つかっていないが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田里にかけてが陶原であったらしい。鎌足の子の不比等が育った「山科の田辺史大隅らの家」も近くにあった。山階寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に平城京に移り興福寺となる。このため興福寺は山階寺とも呼ばれた。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山科と深い関係があったのである。

石碑 前回の記事 ➡ 石碑北0171  大田子屋敷

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まち歩き山0835  車石があった  旧東海道筋なのか

2018年08月07日 21時30分51秒 | まち歩き

 

 

関連記事 ➡ まとめ005 車石 のあるところ

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き山0834 この道  旧東海道

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道標山0180  右 明  二絛講 の文字がある

2018年08月04日 05時46分06秒 | 道標

右   明見

二絛講

下の方に 文字がある

 道

道標 前回の記事 ➡ 道標左0179 右 くらまミち 享保12年 300年前のものだ 

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まち歩き山0833 鬼門を構える家

2018年08月03日 06時11分20秒 | まち歩き

 

関連記事 ➡ 御所にも鬼門

         まち歩き上0531  京都御苑 御所の猿ケ辻

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まち歩き山0832  日ノ岡 旧東海道を歩く

2018年08月01日 06時38分23秒 | まち歩き

 

日ノ岡は三方を山にかこまれ、東から日をうけるのが早いところから、この名が生まれた。もとは険しい坂路であったが、延享年間(1744~48)、木食上人養阿が往来する旅人の難儀を救うため、道路の拡張につとめた。

修路碑、亀ノ水が残っている。

150年前の家と書かれています

まち歩き ➡ まち歩き左0831  叡電  岩倉駅 付近

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