アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

佐藤継・忠信塚碑,佐藤嗣信・忠信墓,佐藤文褒翁碑

2015年09月09日 07時45分50秒 | 石碑

 

 佐藤の碑

この碑および佐藤継・忠信塚碑,佐藤嗣信・忠信墓,佐藤文褒翁碑の4基の碑は,

いずれも佐藤政養(さとう・せいよう)という幕末から明治初期の技術官僚に関係するものです。
 佐藤政養(1821~77)は出羽国飽海郡升川村(現山形県遊佐町)に生まれ,地元で蘭学を学び,江戸へ出て勝海舟の門に入った。海舟の従者として長崎の幕府海軍伝習所に学び,のち海軍伝習所翻訳方にとりたてられた。 以後海舟の代理者として活動した。  明治維新後は新政府に用いられ,鉄道(現東海道線)敷設の調査にあたり,以来日本の鉄道建設を技術面で支えた。 4基の碑が立つこの地には,もともと平安時代末の武士佐藤継信・忠信の墓と伝える2基の十三重石塔があった。継信・忠信兄弟は奥州藤原氏の家臣だったが,藤原秀衡の命で源義経につき従い平家と戦った。この石塔はそのひとつに永仁3年(1295)の銘があり,それからしても継信・忠信の墓とは考えられない。しかし,承応3年刊「新板平安城東西南北町并洛外之図」に「たゝのふつきのふ石たう」と記されるのをはじめとして,江戸時代の刊行京都地図にはかならず記載がある。また『都名所図会』『花洛名勝図会』には詳細な図で描かれ,洛東の名所として知られていた。しかし戦後すぐにこの地から撤去され,現在は京都国立博物館庭園に並び立っている。 佐藤政養は継信・忠信兄弟を自分の先祖としてこの地を買い取り,明治6年,十三重石塔の横に佐藤嗣信・忠を建て,さらに同9年に父文褒の功績を顕彰した佐藤文褒褒翁碑を建立した。
 明治10年に政養が没したあと,翌年遺族により本碑が建てられた。さらに昭和2年に佐藤政治郎により,十三重石塔および政養招魂碑の所在を示す佐藤継信・忠信塚が建てられ現在に至る 

                                   継信                     正六位

                   佐藤                  之塚         政養之碑

                                   忠信

 

            昭和弐年参月   佐藤政治郎   建之

佐藤政養招魂之碑  (勝海舟が書いたもの)

佐藤政養(1821~1877)は、勝海舟門下の逸材として、卓抜した土木、測量の技術をもって、

近代日本の建設に大きく貢献した人物です。

文政4年(1821)出羽国(山形県飽海郡遊佐町)に生まれ、通称を与之助といい、

安政元年(1854)勝海舟に入門、翌年には勝海舟に従い長崎海軍伝習所で

操船、測量、砲術などを学びました。この間、江戸湾内の測量や開港地としての横浜の発展性を

予見、神奈川台場の築造などとともに文久元年(1861)には、地図の模範といわれる

「新刊輿地全図」を公刊し、その名を高めました。その後、政養は海舟とともに神戸海軍操練所の創設

や西宮、和田岬など摂津、兵庫の台場築造に関わります。

神戸海軍操練所では教授方を、勝海軍塾では塾頭を務め、海舟門下の

坂本龍馬、近藤昶次郎(ちょうじろう)など土佐浪士たちにとっては良き兄弟子でした。

維新後、政養は新政府に出仕、明治2年(1869)から東海道線敷設のため地理検分を命ぜられ、

新橋・横浜間の鉄道敷設に尽力しました。その後、鉄道掛京都出張所事務管理者となり、

初代鉄道助として日本の鉄道の基礎を築きました。

同時期に、測量学な土木学を教授する私塾を開き、鉄道技術者の育成に努めました。

こうした功績から政養は、「日本鉄道の父」といわれるようになりました。

 

 

明治9年(1876)、病により職を辞する直前、

自らの先祖と伝承されていた佐藤嗣信(継信)・忠信兄弟の墓と伝わる2基の十三重石塔があった

この土地を購入し、佐藤嗣信・忠信の墓碑と父文褒(与兵衛)の顕彰碑を建立しています。

その後、東京に戻った政養は、明治10年(1877)に没し、東京青山墓地に葬られますが、

妻岸子の願いにより、所縁のあるこの地に佐藤政養招魂之碑が建立されました。

篆額(てんがく)は勝海舟によるもので、招魂之碑の周囲にある玉垣は、

政養の塾で学んだ門弟たちから寄進されたものです。

ここにあった十三重石塔は、現在京都国立博物館に移設・保存されています。

平成25年7月

佐藤文褒翁碑 碑文の大意

亡父は名を文褒、字(あざな)を不及、通称を与兵衛という。出羽国飽海郡升川の生まれである。

最初の妻は池田氏で六男四女があり、継室阿部氏には三女があった。

亡父は文久二年八月二十九日に亡くなった。享年六十六。

遺言により開墾した若林の地に葬り、門人たちが墓所を作り碑を建てた。


 亡父は若いころから開墾のことに専念し、土地の良否や水利を検討し、

岩をくだき草木を払い、大きな成果をあげた。

開墾をこばむ人があれば亡父はしんぼう強く説得した。

人々の利益になることを自らのモットーとし、開拓した田地は数十町にのぼった。

人々はこの恩恵を受けたのである。

子であるわたし政養は亡父を追懐し、ここにその功績を記した碑を建てる。

以後子孫の者は亡父の志を忘れず、けっして怠けることがあってはならない。

考名文褒字不及称與兵衛羽州飽海郡升川之人也元妣曰池田氏生六男四女継室阿部氏有三女孝以文」久二壬戌歳閏八月廿九日逝矣享年六十有六遺命葬於開墾地若林並門生相與戮志封土建碑焉考自壮」年致霊脳於開墾之事相地宜測水利断切嶄巌斬伐蓁莽将大有為也人或拒之考百折不撓惟以興民利自」 任遂拓田畝凡数十町民皆便焉不孝子政養聊追誌其功美以建碑于茲矣子孫咸服膺考之志勿敢或怠也」海石邨田寿書丹

 

明治九丙子二月               正六位鉄道助佐藤政養頓首百拝謹誌

 

政養   久蔵   竹野   亀野   五郎   阿芳   阿美野

政治   朋平   直治                        合拝建

阿宇野   磯野   美代野

 

ちょうど 補修中 でした

 

こちらは 佐藤兄弟のお墓

ここに 建っていた 十三重の石塔2基は 京都国立博物館に移転保存されています

 

関連記事 ➡  京都国立博物館 野外展示 石造物の12点  十三重石塔を追加

 



最新の画像もっと見る