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まち歩き中1659 京の通り・高倉通り 北へ NO55 石碑

2021年04月03日 17時39分35秒 | まち歩き

 

高倉小学校開校記念碑

立誠・生祥・日彰・明倫・本能・初音・城巽の各校のいずれも我々の先人が明治2年、

自らの力で番組小学校として創設(初音・城巽両校は後に中学校となる)。

以来、120有余年にわたり幾多の優れた人材を輩出するとともに、

地域のシンボルとして愛され親しまれてきた。

しかし、都心部における児童数減少の中、子供達により良い教育環境を与えたいとの思いの上に、

21世紀人づくりをめざして5校の統合を決意、ここに高倉小学校として開校することとなった。

開校に当り5校の輝かしい歴史を進めた七学区区民の英知溢れる決断を後世に伝えるため、

これを記念碑として残すものである。平成7年4月1日  (1995)

日彰学区の沿革

ここは和久屋町(元日彰学区)です。六角通から南は蛸薬師通に至る、天正時代に豊臣秀吉が町界を定めたとされる、

両側町となっています。

寛永18年(1641)前平安城町並図では、高倉通の西側(元日彰小学校、現高倉小学校の地)に、

徳川家康の異父弟久松定勝を祖とする伊予松山藩(現愛媛県)の京屋敷があり、

人家が東側に集中し「かたはら町」と称されたこともありました。

東隣の甲屋町には、京の商人に大きな影響を与えたとされる心学を創設した石田梅岩(1685~1744)の自宅があり、

当時ここで、今でいうゼミナールが開かれていました。

近年では、洋画家で美学・美術史学者でもあった有名な須田国太郎(1891~1961)が住まいしていました。

日彰自治連合会

日彰校記念之碑

明治2年(1869)6月20日 開校

平成5年(1993)3月31日 閉校

関連記事 ⇒ 番組小学校下京第4番組小学校  日彰小学校 

       まとめ041 番組小学校

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まち歩き中1658 京の通り・高倉通り 北へ NO54 高倉小学校

2021年04月03日 13時20分26秒 | まち歩き

独特な形をした校舎だ

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まち歩き中1657 京の通り・高倉通り 北へ NO53 店・和菓子屋

2021年04月03日 06時54分12秒 | まち歩き

 

銘菓「したたり」で知られる 亀廣永。

したたりは、かつて洛中名水の一といわれた「菊水の井戸」にゆかりの深い菊水鉾に

献上する菓子として生まれました。

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