高倉小学校開校記念碑
立誠・生祥・日彰・明倫・本能・初音・城巽の各校のいずれも我々の先人が明治2年、
自らの力で番組小学校として創設(初音・城巽両校は後に中学校となる)。
以来、120有余年にわたり幾多の優れた人材を輩出するとともに、
地域のシンボルとして愛され親しまれてきた。
しかし、都心部における児童数減少の中、子供達により良い教育環境を与えたいとの思いの上に、
21世紀人づくりをめざして5校の統合を決意、ここに高倉小学校として開校することとなった。
開校に当り5校の輝かしい歴史を進めた七学区区民の英知溢れる決断を後世に伝えるため、
これを記念碑として残すものである。平成7年4月1日 (1995)
日彰学区の沿革
ここは和久屋町(元日彰学区)です。六角通から南は蛸薬師通に至る、天正時代に豊臣秀吉が町界を定めたとされる、
両側町となっています。
寛永18年(1641)前平安城町並図では、高倉通の西側(元日彰小学校、現高倉小学校の地)に、
徳川家康の異父弟久松定勝を祖とする伊予松山藩(現愛媛県)の京屋敷があり、
人家が東側に集中し「かたはら町」と称されたこともありました。
東隣の甲屋町には、京の商人に大きな影響を与えたとされる心学を創設した石田梅岩(1685~1744)の自宅があり、
当時ここで、今でいうゼミナールが開かれていました。
近年では、洋画家で美学・美術史学者でもあった有名な須田国太郎(1891~1961)が住まいしていました。
日彰自治連合会
日彰校記念之碑
明治2年(1869)6月20日 開校
平成5年(1993)3月31日 閉校
関連記事 ⇒ 番組小学校下京第4番組小学校 日彰小学校
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