( 椰子の木と白いベンチ ) ( 切妻屋根の日本式木造家屋 )
” 水交社 ” は
台南の WONDER WORLD だ!
台南市の南部には、
実際の地名とは関係なく、
ローカルの人が
” 水交社 ”
と、特別に呼んでいる地域がある。
この、” 水交社 ” の辺りは、
すごく独特な歴史を経ているんで、
町の風景が
他の台南の市街とは、
全然違ったものになってしまっている。
水交社に出かけて撮った左上の写真は、
なんか、シンガポールかどこかの 南国の景色みたいだが、
実は、
この椰子の木とベンチの後ろには、
右上の写真の様な 日本家屋 が建ち並んでいるんだ。
” 水交社 ”
と呼ばれる地域は、
大体、
健康路とその南側、南門路とその西側の辺りだ。
この地域は、
(1)明代~清代は、
” 桶盤浅 ” と呼ばれる大きな墓場だったが、
(2)日本統治時代に、
海軍が、数百の軍の官舎が並ぶ大居住区に改造した。
(3)戦後になると、
蒋介石の国民党空軍に接収され、
台湾空軍の官舎や、進駐米軍のクラブハウスがある地域になった。
(4)そして現在では、
米軍は台南機場から撤退し、
台湾空軍の家族も殆んど他所へ行ってしまったので、
少し寂しいが独特の雰囲気のある場所になっている。
( オレは、そいつが好きでよく散歩に行くのサ。 )
今回は、
” 水交社乃回憶 ( 前編 ) ”
で上の(1)と(2)の、明代~日本統治時代についてを、
” 水交社乃回憶 ( 後編 ) ”
で(3)と(4)の、戦後~現在を、
それぞれレポートする。
(1)明~清代
( すっかり夏草に隠れた水交社内の段墓 )
水交社の辺りは、
明~清代にかけては、
” 桶盤浅、トゥンバンチェン ”
と呼ばれる広大な墓場だった。
今では、
当時の墓は水交社の南側、
大成路から竹渓にかけての南下がりの斜面に
段墓としてしか残っていないし、
誰も手入れをしないので、
夏草に埋もれた墓石を見つけるのも
なかなか簡単なことじゃあない。
でもここには、
歴史的には重要な
台湾で最古と認識されている
明代、永暦年間 ( 1647~1683年 ) 頃の三つの墓がある。
その内二つが、
台湾を最初に独立させた、
延平郡王-鄭成功の
妻二人が合葬された墓 ( 藩府曽蔡二姫の墓 ) と、
子供二人が合葬された墓 ( 二鄭公子の墓 ) だ。
( 大成路の傾斜 ) ( 竹渓を覗き込んだ様子 )
台南市って言うのは、
全体にまっ平らで起伏が殆んどない。
わずかに隆起しているのは
前に書いた
”開元寺 ”
の周辺と、
上の方の地図の ” 桂仔山 ” を頂点とする
この水交社の辺りだけだ。
( 上2枚の写真を見ると、なんとなくそんな地形が判る )
それが理由になって、
ここらへんの地名は、
” 浅桶盤、チェントゥンバン - 浅いお盆の意味 ”
をひっくり返した形みたいだってことで、
語順をひっくり返して
”桶盤浅、トゥンバンチェン ”
って呼ばれていたんだ。
(2)日本統治時代
( 水交社内の大通り ) ( 典型的な水交社の家 )
1930年代に台南に進出してきた日本海軍は、
一年余りの時間をかけて
” 桶盤浅 ”
の墓場地帯に、
3列の大通りと、通りに沿って数百の日本式家屋を建造した。
そしてこの地域は、
終戦まで、日本海軍の軍人とその家族が暮らす
広大な居住区になった。
右上の写真は、
典型的な将校級の軍人の官舎で、
100坪程の敷地を外塀で囲み、
中に、寄棟式の家屋を建てている。
そして、
桶盤浅の辺りはは台南には珍しく傾斜があるので、
家は通りより高い位置になっている。
外塀の門の色がちょっと和風とは言えないが、
これは戦後、
中国式に赤く塗りかえられたものだ。
( 水交社の植物 ) ( 椰子の木と電線 )
そんな和式の家の外側には、
通りに沿って、背の高い椰子の木や、熱帯の植物が覆い茂り、
そのそばを見ると、
今でも電線が地中埋設されず
日本みたいな電信柱が立ち並んでいる。
こういうもの一つ一つの変てこなコンビネーションが、
水交社一帯の独特な景色を形作っているんだ。
- SORA NO AOSA NI CHUUMOKU SEYO !
( 一般の軍人の官舎 ) ( 水交社の百日紅 )
何故、もともとは
” 桶盤浅 ”
と言っていた場所が
” 水交社 ”
と呼ばれるようになったかって言うのは、
ここに、
海軍士官の交流団体のクラブハウス
” 水邊交誼社 ”
があったから、それを省略してみんなが
” 水交社 ”
と呼ぶようになった
- っていうのが理由だ。
この名前は言いやすかったみたいで、
戦後は、
” 空軍志開新村 ”
なんていう地名が正式につけられたが、
ローカルの人は、誰も新しい名前を使わないままで、
今でも、
” 水交社 ”
っていう、
日本統治時代のままの通称で
ここら辺のことを呼んでいる。
前編の最後に
水交社には
何も古いお墓や日本式家屋だけがあるわけじゃない。
興中路というメインストリートは商店街になっていて、
戦後すぐにできた
台湾とアメリカの空軍関係者向けのミセが並んでいる。
右上は、
レトロな外見の
” 興中西服店 ”。
旧式のミシンを見事に操り、
100%手作りで洋服を仕立ててくれる。
暑い最中、
ちょっと夢中になって水交社の写真を撮って歩いたオレは、
興中西服店の店先で、
” サトウキビ汁 ”
を売っているのを見つけて、
思わず1ビン買っちまった。
そしてその、
昔ながらの圧搾機でサトウキビの茎を搾っただけの汁は、
そんなに冷えていなかったけど、
なんともパンチが効かない、
でも、不思議と郷愁をかきたてる味がして、
「 来週もまた散歩に来よう・・・・・っと 」
なんて しみじみと、
オレに思わせてしまうのであった。
- ということで、この後は、
” 水交社之回憶 ( 後編 ) ” に続く !
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7月12日の練習 - 休み
7月13日の練習 - クロカンマシーン10kmとウェイト(ジム)
7月14日の練習 - 休み
7月15日の練習 - トレッドミル5kmとウェイト(ジム)
7月16日の練習 - トレッドミル5kmとウェイト(ジム)
今週は台風の影響で、余り外で走ることができませんでした。
前回の部長さん、え○こさんみたいだね( ̄皿 ̄)
で、でんでん虫は…
あと1ヶ月遅れのユリはい(・∀・)ノⅤ←ユリ
あまり知られたくなかったのに。
この3連休を利用して3ヶ月ぶりに台南に遊びに行ってきました。でも雨ばっかり・・・
ところで今回のテーマですが、実はσ(^^)も以前別のblogで調べたことがあります。
お父さんがココで働いていらしたそうですが、場所が分からないので誰か教えてください!という問い合わせで地図を探して写真を撮ってきました。
それをblog知合いの方に掲載していただきました。
http://homepage3.nifty.com/hero23mat-paradise/oke_tainan_sam.html
確かに今でもこの一角は周囲とはちょっと違った感じ・・・たぶん当時は田園調布?見たいな所だったんでしょうね(^_^;
先日送ったGIFファイルはWEBにアップロードすると
アニメーションになるもんだwo。
MIXIはせこいからコミュニティでないと、
JPEG以外はアップロードできないから、
BLOGか何かでアップしてみれ。
注文あったらつくりかえて差し上げる。
kool_tada
すみませんつい書かずにおれなかったもんで、
お詫びに、次回はもうちょっと気合入れてレポートしますので、
また是非お立ち寄りください。
では、失礼いたします。
お久しぶりです。
いかがお過ごしでしょうか。
taka さんの撮られた水交社の写真を拝見しました。
大変きれいに撮れていて良い感じですねー。
水交社については、次回に戦後のことを書くつもりなんですが、
ローカルのおじさん達に聞いた印象では、
何となく日本の ” 横須賀 ” とか ” 横田 ”
みたいな所じゃなかったかなーと考えています。
日本軍のいたところに、戦争が終わって米軍と大陸の人が来て、
「 フェンスの向こうに駐留軍のハウスが見えた。 」
・・・・みたいな。
まぁどんな内容になるかわかりませんが、また次回
よろしければ、お時間があるときにチェックしてみて下さい。
では、失礼いたします。
ところでこの場所をお尋ねになられた方は、お父様の遺灰を撒きたいとおっしゃられていたのですが、その後は何の音沙汰もなく・・・ちょっと残念でした。
私もう台南に住んでいますよ!!