8月15日です。終戦の日です。「終戦の日」とはうまく言ったものです。本当は「敗戦の日」なのだから。ちなみに、戦勝国アメリカでは、対日戦勝記念日だそうです。
私は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終了してかなりの年月が経ってから生まれてます。当然戦争体験などあるはずがありません。しかし、戦争体験者からいろいろと戦争体験を聞かされています。そのほとんどは、テレビなどで定番となってる体験記ばかり。しかし、中には他ではまったく聞かれない体験録もありました。その中から2つ、妙に記憶に残ってるものをちょっと書いてみようと思います。
それは、私がゼネコンで監督をやってたときのこと。その日の仕事が終わり、上司に飲み屋に連れてってもらうと、先客だったご老人と私の同期生だったやつが意気投合し、いろいろと話をしてくれました。
そのご老人は、戦時中は憲兵だったそうです。憲兵としてまず赴任した町は京城(現在のソウル)。今想像すれば、当時のソウルは毎日のように反日・抗日活動が繰り広げられていたように思えますが、元憲兵のそのご老人の話によると、彼がソウルに赴任してた間は、一度もそんな事件はなかったそうです。そればかりか、毎日地元の人と温かい目でふつーにあいさつを交わしてたとか。ともかく、当時のソウル市民の目には、日本人に対する敵意はまったく感じられなかったようです。
彼は次に満州のある町(名前失念)に赴任したようです。彼はそこでまず上官に「かならず2人で行動するように」と命令されたようです。なんでも、日本人の憲兵が1人でその町を歩いてると、路地からいきなり手がにゅーと伸びてきて、首根っこを捕まれ、そのまま行方不明に。翌日その憲兵は皮を剥がされた死体となって発見される。そんな事件が、彼が赴任する前に何度かあったようなのです。
ともかく、その町は本当に怖い町だったようです。行き交う人すべての人の目に敵意と殺意が感じられ、特に路地や怪しい店先にたむろってるゴロツキは、スキあらば狙おうと怖い視線をいつも浴びせてたようです。ソウルとは180度違う町の雰囲気に、彼はたえず戦々恐々としてたようです。
2つ目の話。これは地元のある会合でのこと。会合場所である公民館に行くと、別の会合に来てたらしいおじいさんがいました。そのおじいさんは私を見るなり、突然自分の体験談を一方的に話始めました。
そのおじいさんは、戦後まもないころは新潟で稲作農家をやってたようです。ところで、映画やテレビドラマなどでは、戦後まもないころの超食糧難の時代、都会の人(特に女性)がわずかに焼け残った反物や骨董品を持って田舎に行き、農家の人にほんのわずかの米を分けてもらう、とゆーシーンを見かけますよね。だいたいここで描かれる農民は、いかにも強欲そうな非人格者に描かれてますが、そのおじいさんの訴えによれば、あれは全部ウソだとか。
実際には米の収穫期になるとGHQがやってきて、江戸時代の年貢米のように強制的に徴用されてしまうので、とても他人に売るほどの米は残ってなかったようです。だからそのおじいさんは、映画やテレビドラマに出てくる強欲農民を見ると、そのたびに「そーじゃねーよー」と叫んでたようです。
ま、逆の見方をすれば、そうだったからこそ、貴重な反物や骨董品を微々たる量の米と交換してたのかもしれません、ね。
私は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終了してかなりの年月が経ってから生まれてます。当然戦争体験などあるはずがありません。しかし、戦争体験者からいろいろと戦争体験を聞かされています。そのほとんどは、テレビなどで定番となってる体験記ばかり。しかし、中には他ではまったく聞かれない体験録もありました。その中から2つ、妙に記憶に残ってるものをちょっと書いてみようと思います。
それは、私がゼネコンで監督をやってたときのこと。その日の仕事が終わり、上司に飲み屋に連れてってもらうと、先客だったご老人と私の同期生だったやつが意気投合し、いろいろと話をしてくれました。
そのご老人は、戦時中は憲兵だったそうです。憲兵としてまず赴任した町は京城(現在のソウル)。今想像すれば、当時のソウルは毎日のように反日・抗日活動が繰り広げられていたように思えますが、元憲兵のそのご老人の話によると、彼がソウルに赴任してた間は、一度もそんな事件はなかったそうです。そればかりか、毎日地元の人と温かい目でふつーにあいさつを交わしてたとか。ともかく、当時のソウル市民の目には、日本人に対する敵意はまったく感じられなかったようです。
彼は次に満州のある町(名前失念)に赴任したようです。彼はそこでまず上官に「かならず2人で行動するように」と命令されたようです。なんでも、日本人の憲兵が1人でその町を歩いてると、路地からいきなり手がにゅーと伸びてきて、首根っこを捕まれ、そのまま行方不明に。翌日その憲兵は皮を剥がされた死体となって発見される。そんな事件が、彼が赴任する前に何度かあったようなのです。
ともかく、その町は本当に怖い町だったようです。行き交う人すべての人の目に敵意と殺意が感じられ、特に路地や怪しい店先にたむろってるゴロツキは、スキあらば狙おうと怖い視線をいつも浴びせてたようです。ソウルとは180度違う町の雰囲気に、彼はたえず戦々恐々としてたようです。
2つ目の話。これは地元のある会合でのこと。会合場所である公民館に行くと、別の会合に来てたらしいおじいさんがいました。そのおじいさんは私を見るなり、突然自分の体験談を一方的に話始めました。
そのおじいさんは、戦後まもないころは新潟で稲作農家をやってたようです。ところで、映画やテレビドラマなどでは、戦後まもないころの超食糧難の時代、都会の人(特に女性)がわずかに焼け残った反物や骨董品を持って田舎に行き、農家の人にほんのわずかの米を分けてもらう、とゆーシーンを見かけますよね。だいたいここで描かれる農民は、いかにも強欲そうな非人格者に描かれてますが、そのおじいさんの訴えによれば、あれは全部ウソだとか。
実際には米の収穫期になるとGHQがやってきて、江戸時代の年貢米のように強制的に徴用されてしまうので、とても他人に売るほどの米は残ってなかったようです。だからそのおじいさんは、映画やテレビドラマに出てくる強欲農民を見ると、そのたびに「そーじゃねーよー」と叫んでたようです。
ま、逆の見方をすれば、そうだったからこそ、貴重な反物や骨董品を微々たる量の米と交換してたのかもしれません、ね。