師走を迎えてというより、クリスマスを迎えてというのが相応しい光景として各地で華やか
に輝いているイルミネーション。光の種類、色の種類が増えてケバケバしく輝いていた豆
電球のものより圧倒的に綺麗になった。それを浮き出すデコレーションにも工夫が施され
光の織りなす、お伽の世界のようで、長らく見ていても飽きない。数も大量になり総数で
数十万個などと聞かされてもピンとこないがTVで観ていても圧倒されてしまう。こうした光
景はクリスチャンでもないないのにクリスマスと言って飾る必要はあるのだろうか。素朴な
疑問を持つ。先日のクロアチアでもスロベニアでもクリスマス飾りは簡素なものだったし、
イタリアでも同様なのに日本の飾りは飛び抜けているように思える。あの飾りはクリスマス
用ではなく年末行事だと言訳しても嘘は直ぐばれる。こうした飾りの大半は12月25日くら
いまでで終えてしまうからクリスマスを意識しているに違いない。
こうした光景にけしからんと苦言を吐いているのではなく、私は年末の風物詩として見て
いる。見ていて綺麗、飽きないものには違いないが、こうした所で消費される電力は半端
なものではないはず。原発は動いていなくても、こうした贅沢な光の美を楽しむことができ
るし、何ひとつ不自由は起きていない。なのに、政府や電力会社は狼少年のように起こり
もしない電力不足を煽り、なし崩し的に再稼働に持ち込もうとしている。
こうした背景には経済界から安い電力確保の強烈な要望があるからに他ならない。その
証明として、電気料金値上げは困ると言う民ですら、多くの人は原発の再稼働には疑問
を持ち、脱原発に向かうべきだと思っているからだ。原発停止後しばらくは避難民のことも
あり遠慮していたが人の関心が少しでも薄れてくると、禿鷹どもは本性を表し原発再稼働
を声高に叫び出してきた。それは島根県議会においても同様で表面では慎重な態度を見
せているが、腹の中は再稼働決めているがgoを出す度胸はないから、誰かが言訳の出来
説明をしてくれるのを待っているだけだ。何が安全なのか理解することができない議会が
決めるのだから、住民は腹をくくって生活していくしかない。
昨日の新聞で経産省は原発再稼働を推進に舵を切ったと載っていたが、原発に故郷を追
われた人たちの目にきれいなイルミネーションはどう映るのだろうか。
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