内視鏡検査を受ける日が近くなり強気、空元気の私も少しナーバスになっていた。交通事故死などという知らせは、
どんな立場にいる人であろうが容赦なく届けられる。私が仲人した将来を嘱望される後輩がバイクで転倒事故、対
向車と衝突して落命したとの訃報が元の職場の仲間からあった。いつものように年に一度の挨拶としてやって来る
彼の家庭からの年賀状にはよく子供の写真が載せられていた。この時すでに私は行先のなくなった彼への年賀状
も書き終えていた。子供は大きくなって奥さん共々、平和に暮らしている姿しか浮かび上がらないのに、はっきりし
ているのはお通夜と告別式の日程だけだ。
自分の運命も他人の運命も一寸先は闇で見ることは出来ない。
お通夜の日、久しぶりの再会は無言の再会、『馬鹿たれ』と亡骸に向って叫んだ。普段と変わらない穏やかな顔は
私の怒りに応えることなく穏やかさを保ったままだった。
親よりも先に葬儀を出すほど親不孝なことはないなどと声を掛けても何の慰みにもならないのに、それを言うしかな
かった。
『人は生まれてきた時に1人1本のロウソクを与えられます。その火がいつまで燃え続けるのかはその人の定めによ
って決まるものです』と和尚さんの説教。
優秀で将来のある後輩が突然に逝き、老兵は癌ではないかと不安と闘う。
運命、この一言の意味するもの何だろうか・・・・・・