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引越しいたします。

アンディジャン事件、あれから1年

2006-05-26 00:14:38 | ニュース

2005年5月13日 ウズベキスタンで起こった大きな事件、あれから1年が経った。あの時なにがあって、あれから一体なにが変わったのか。
まず、高橋巌根氏の著書「ウズベキスタン」により、復習をしてみたい。

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以下引用

2005年5月13日 ウズベキスタン、現地時間で12日から13日に日付が変わるころ、ウズベキスタン東部、フェルガナ盆地の都市アンディジャンの刑務所を武装した何者かが集団で襲撃し、そこに収容されていた多くの囚人を解放した。これに対してほどなく軍が現場に急行し、周囲を封鎖、その後数時間に渡り武装集団と軍の間で交戦状態となった。夜が明けるころ、武装集団は市の中心部に移動し、アンディジャン州の州庁舎を占拠。この一連の動きにより通常は軍と警察の強固な治安維持力により維持されていたアンディジャン州の治安状況に空白が生じた。主要な通りに一定間隔ごとに警官がたち、常に町の動静に目を光らせていると言うのが、ウズベキスタンの都市でおなじみの風景であったが、このときアンディジャン市内の通りからは警官たちの姿が忽然と消えていた。 おそらくそのことに触発されたのか、多くの市民が通りに繰り出して、状況を確かめようとした。やがてその中の一部の人たちが州庁舎の向かいにある広場に集まって、集会をはじめた。集まった人々の正確な数ははっきりしないが、報道によれば一万人を超えていたといわれる。彼らは口々に、停滞する経済や民主化の遅れについて日頃の不満を訴え始めた。中には、それを大統領の退陣という具体的な要求に結びつけるものもいた。 政府側はこうした状況にしばらく手をつけられずにいたが、13日夕方になるとアンディジャン外部の治安維持力を動員し、武装勢力の排除をはじめた。政府側の当初の見込みでは夕方のうちにそれを完了するはずであったが、徹底抗戦を宣言した武装勢力との間の交戦は長引いた。結局それは14日朝に武装勢力が州庁舎から撤退し、どこへともなく去っていくまで続いた。この過程で多くの市民が犠牲になり、その数は数百にのぼるとも言われている。激しい政府の弾圧に動揺した市民の一部は隣国キルギスとの国境の町カラスウに殺到した。その勢いに地元の治安機関も対応できず、ここの所封鎖されていた、キルギス側との通行を再開することを余儀なくされる、そうして数百人がキルギス領に渡り難民になった。多くの市民の犠牲や難民の発生により、この事件は国際問題となった。アメリカはこれを見のがすことができず、ウズベキスタン政府に対して改革の推進と開かれたシステムの構築を迫った。 この事件に対する評価は主に二つある。 一つは中央アジアで浸透するイスラーム反政府勢力による「イスラーム革命」の一巻として捉えるもの もう一つは2003年のグルジア政変や2004年のウクライナ政変などの「民主化ドミノ」の新たな一歩と観るもの。ウズベキスタン政府やロシアは前者の見方を取る、これは中央アジアのイスラーム勢力の現状を考えると的を射ているとは考えにくい。このアンディジャン事件に葉「アクロミーヤ(アクラミヤ)」といわれるイスラーム組織が深く関与しているといわれるが、その真偽の程は明らかではない。「アクロミーヤ」は中東に発祥し1995年から中央アジア地域で活動をはじめた「ヒズブアッタ・タッヒリル(イスラム解放党)」(略称HT)から1996年に分派して出来たといわれる組織である。「アクロミーヤ」の名称は、創始者アクロム・ユルダシェフにちなむ。アクロムはHTの元メンバーといわれていてアンディジャンの実業家であった。彼はHTは中東で生まれた組織であり、その戦術は中央アジアの条件になじまないと考えた。そしてHTはじめとした反体制派が取ったような国家の転覆と言う目標でなく、地方におけるイスラーム統治の定着とその政府による公認を目指したという。しかし、今回の事件と「アクロミーヤ」の関連性には反論や疑問の声も多い。「アクロミーヤ」以外のイスラーム組織に目を移してみてもHTは今回の事件について関与をはっきりと否定している、それにかの「ウズベキスタンイスラム運動」IMUは9.11後のアフガン攻撃の影響で壊滅状態にあるという。後者の「民主化ドミノ」説にしても限界がある。確かにアンディジャンの中央広場で集会を行なった民衆の主張の中には民主化を求めるものもあった。しかし、この集会は武装勢力の襲撃によって市内に生まれた力の空白に対して自然発生的に起こったものであり、こうした主張を具体的に集約して組織化していく政治勢力はまだウズベク国内にはほとんど存在していない。つまりこの動きが本格的な民主化に結びつくには相当長いプロセスの進展を必要とする。

クローズアップ現代2005年6月17日
http://blog.goo.ne.jp/kokkok2014/d/20050617

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