1月24日(土)、伊豆の国市の韮山時代劇場(映像ホール)でシンポジウム「韮山城を考える」が開催され、私望月は講師・パネラーとして参加させていただきました。このシンポジウムは、昨年伊豆の国市から『韮山城「百年の計」』が刊行され、それを契機に同城の史跡指定に向けて機運を高めていこうということで開かれたものです。
先ず最初に、学習院大学の家永遵嗣氏から「『伊豆の国市歴史文化基本構想』と韮山城跡の史跡指定」と題する基調講演がありました。家永氏は数ある伊豆の国市の史跡の中における韮山城の価値や位置付けについて言及し、韮山城の史跡指定に向けて市民と行政が力を合わせていかなければいけない、とお話ししておりました。
次に、私望月が「発掘調査で韮山城はどこまでわかったか」と題して、昭和60年(1985)以降同城周辺で行われてきた発掘調査の成果についてお話をさせていただきました。私は、過去に平成2年(1990)の韮山高校敷地内での発掘を担当させていただいたのですが、その当時検出された堀・園池等の遺構をはじめ、武家屋敷や石敷き道路など他の地点から検出された以降についても紹介させていただきました。
休憩時間をはさんで後半は、東北学院大学の竹井英文氏が「古文書資料から探る天正18年の韮山城攻防戦」について講演がありました。竹井氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原合戦」における韮山城攻防戦の位置付けを、主に古文書から豊臣・北条両軍の戦力、韮山城包囲網、籠城戦の実態などから考察していました。
講演の最後は、韮山城跡整備部会長で江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一氏が「韮山城とはどのような城か~韮山城研究の最前線~」と題する講演を行いました。齋藤氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)から小田原合戦、その後の内藤信成の時代までの韮山城の位置付けとその変遷、空間的構成等について論じ、同城は北条氏の領国の中で伊豆半島の東西をつなぐ交通の要衝にあり、非常に重要な城郭であったと述べていました。
締めくくりは、家永先生をコーディネーターに、4人でパネル・ディスカッションを行いました。韮山城とはどのような城か、をテーマにそれぞれが意見を述べましたが、私としては「全国区」の先生方に囲まれ、自分の不勉強さを痛感した時間となりました・・・。
シンポジウムは、遠くは群馬県や栃木県、茨城県方面から来ていただいた方を含め定員の100人をはるかに上回る約150人の方にお越しいただき、盛況のうちに終わりました。どうも有難うございました。
来年度は韮山城の整備を目的とした発掘調査も行われるかも知れない、とのことで、このシンポジウムをきっかけに、地元の方々や研究者の皆様とともに同城の有効な整備について考えていければ良いと思います。
