goo blog サービス終了のお知らせ 

静岡古城研究会会長:もっちーのブログ

静岡古城研究会会長:望月のブログです。主に静岡県内の中世城郭関係の情報を発信します。※当ブログはリンクフリーです。

第277回見学会(1泊2日)「『越前朝倉氏の山城』-一乗谷城と成願寺城、戌山城、越前大野城をめぐる-」開催のご案内

2024-03-30 06:47:28 | 見学会のお知らせ

今年も当会恒例の一泊二日見学会の季節がやってまいりました。

今回のテーマは『越前朝倉氏の山城』と題し、朝倉氏の本拠地の一乗谷城をはじめ、成願寺城、戌山城、そして“天空の山城”越前大野城をめぐります。現在の福井県北部にあたる旧越前国を五代約100年間にわたって支配した朝倉氏一族が築城または整備したこれらの城を訪ね、朝倉氏の城郭の縄張りの特徴と変遷について考察していきます。

 健脚向きのコースとなっておりますが、多くの皆さまのご参加をお待ちしております!会員以外の一般の方の参加も大歓迎です!

■実施日:令和6年(2024年)5月11日 (土)~12日(日)

※雨天決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

■見学地:  【1日目】一乗谷城、一乗谷朝倉館、一乗谷朝倉氏遺跡博物館(福井市)

【2日目】成願寺城(福井市)、戌山城、越前大野城(大野市)

■脚力レベル ★★★★★(5/5)※健脚コース

■参加費: 会員 26,000円/一般 27,000円

■宿泊地: 東横INN福井駅前(☎ 0776-29-1045)

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー、日本坂PA、小笠PA、三方原PA

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月保宏会長・稲垣雅一理事

■締切日: 4月10日(水)までにメール、s-kojouken@outlook.comまで

        ※必ず希望乗車地を明記してください

■日程

【1日目】  7:30 静岡駅北口ロータリー出発

7:40 東名静岡 IC

7:50 日本坂 PA

8:20 小笠 PA

8:40 三方原 PA

(東名→名神→北陸道)(昼食はバス車内で)

       12:00 福井 IC

       13:00~15:00 一乗谷城見学

       16:00~17:00 一乗谷朝倉氏遺跡博物館見学

       18:00 ホテル着

       19:00~21:00 懇親会(ホテル近く「くずし割烹ぼんた」120分飲み放題)

 

【2日目】  8:15 ホテル出発

9:30~10:30 成願寺城見学

11:00~11:15 道の駅 一乗谷あさくら水の駅(トイレ休憩)

12:00~13:30 戌山城見学(昼食)

14:15~15:00 越前大野城見学

15:30 荒島 IC

(中部縦貫道→東海北陸道→東名)

18:30三方原 PA

18:50 小笠 PA

19:20 日本坂 PA

19:30 東名静岡 IC

19:40 静岡駅南口着、解散

※悪天候、または時間の都合により、見学地・コースを変更することがあります

 

■主な見学地概要

【一乗谷城】(福井市城戸ノ内町)

戦国大名朝倉氏の本拠地一乗谷の詰城である。軍記物である『朝倉始末記』では、文明三年(1471)に7代朝倉孝景(英林)が居所を一乗谷に移したとあるが、今日では3代貞景の代の15世紀前半には、すでに一乗谷を根拠としていたと考えられている。

山上の詰城がいつごろ築かれたのかは詳らかでない。天正元年(1573)8月13日、浅井氏の小谷城救援に出陣した朝倉軍は、大嶽砦の失陥などを受けて撤退を図ったが、織田信長軍に追撃を受けて潰走した(刀根坂の戦い)。同月15日、朝倉義景はほうほうの体で一乗谷に帰還したが、留守の将兵は大半が逃散しており、翌16日に大野郡へ逃れた。同月18日、織田軍は一乗谷に攻め入って火を放った。一乗谷城(一乗谷山城)も、さしたる抵抗もなく落城・炎上したものと推測される。

一乗谷城の遺構は、一乗谷朝倉氏館群の東背後に聳える標高443mの一乗山上に築かれている。

北側の大手からは千畳敷・観音屋敷・宿直・月見櫓として広大な郭群が区画されており、南の尾根筋に一の丸、二の丸、三の丸と遺構が連なっている。一の丸から三の丸は堀切で区切られ、側面には幅2、3mの短い畝状竪堀群が広がっている。千畳敷・観音屋敷が主郭と考えられ、低土塁で区切られており、奥深い山中とは思えないくらい広い削平地が同城の見所の一つとなっている。

(佐伯哲也『越前中世城郭図面集Ⅱ-越前中部編(福井市・越前町・鯖江市)-』(桂書房)より)

 

【成願寺城】(福井市成願寺町)

 築城年代等の詳細は不明で、『朝倉始末記』には朝倉氏重臣の居城であったと記されている。

東郷槙山城(福井市小安)とともに朝倉氏の本拠地である一乗谷の西方を守備する出城として機能したとされ、東郷槙山城を二ノ丸、成願寺城を三ノ丸と称していたほどの重要な軍事拠点であった。

しかし、城主の前波吉継は越前に侵攻してきた織田信長に内通し、朝倉氏を滅亡に追いやった一因をつくった武将であった。吉継は、朝倉氏滅亡後は織田信長に越前国守護代を任され、一乗谷城へ入城。名も桂田長俊と改めたが、天正2年(1574)に加賀一向一揆が起こり、桂田長俊は一揆勢と結んだ富田長繁により自刃に追い込まれ滅亡した。その後、成願寺城も廃城となったと考えられる。

成願寺城は成願寺町の北背後に聳える標高214.0mの山に築かれている。成願寺城は三角点のある山頂(上の城)とそこから西へ伸びた尾根先にある下の城がある。

成願寺城の上の城は三角点のある山頂部に堀切を挟んで東西二郭あり、東の主郭は分厚い土塁で囲まれた小さな曲輪である。この東西二郭の主郭部を東は二重堀切、西は弓形状になった堀切と竪堀、南側面には畝状竪堀群を設けるなど厳重に遮断している。

主郭部から東へ続く尾根には古墳の周濠と堀切が混ざりながら続いている。西尾根も同様であるが、土橋の架かった大きな堀切、北へ続く尾根の先端には堀切が確認できる。

主郭部の南下には波着寺跡があり、山岳寺院の上に中世山城が存在している。

(佐伯哲也『朝倉氏の城郭と合戦』(戎光祥出版)より)

【戌山城】(大野市犬山)

築城年代は定かではないが、南北朝時代の康暦2年(1380)頃に越前守護斯波義種によって築かれたといわれる。義種は越前守護斯波高経の子(斯波義将の弟)で大野郡を賜って戌山城を居城とし、大野斯波家(大野氏)の祖となった。以降、『城跡考』によれば、同城には斯波氏→大野氏→朝倉氏が居城し、朝倉孫八郎景鏡が亥山城(大野市日吉町)に居城を移すまで、大野郡の主城として機能したという。その後、天正元年(1573)朝倉氏が織田信長に滅ぼされると、金森長近が大野郡を領して戌山城に入ったが、亀山の地に大野城を築城して移ったため廃城となった。

戌山城は飯降山から北東に派生した標高約325mの山に築かれている。遺構は北端最高所に主郭を置き、そこから北西、北東、南の三方に伸びた尾根に曲輪を配し、南の標高300mの所に南曲輪群を配している。

主郭はそれほど広い曲輪ではないが、三方に伸びる尾根を大堀切で遮断し、山腹には畝状竪堀群をビッシリ配して厳重に防御する。主郭の北西尾根にも小さな曲輪があり、ここも周囲を大堀切と畝状竪堀群によって防御する構造である。主郭から北東に伸びる尾根には小さな堀切や二重堀切があり、先端に小曲輪群、側面には連続竪堀と一部横堀状の遺構がある。南曲輪群は主郭から300m程離れた南峰にあり、ここも各尾根を堀切で遮断しているが、こちらは畝状竪堀は見あたらない。

(佐伯哲也『朝倉氏の城郭と合戦』(戎光祥出版)より)

 

【越前大野城】(大野市城町)

 天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて大野郡の一向一揆を収束させ、その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めた。

当時の大野城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守、2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないで城を守っていた。 その石垣は、石を立てず横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で築いた石垣である。

同城は長近が初代城主を務め、天正14年(1586)に彼が飛騨高山に領地を移した後は、城主はたびたび入れ替わった。 江戸初期には松平氏、天和2年(1682)には土井利房が領地入りし、廃藩となるまで土井氏が城主を務めた。

 天守を中心とする建物は、江戸時代に幾度となく火災に見舞われたが、安永4年(1775)の被害はとりわけ大きく、本丸までもが焼失し、寛政7年(1795)にようやく再建された。 その後明治維新を迎え明治4年(1871)廃藩となると、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残された。

現在の天守閣は、昭和43年(1968)、旧士族の萩原貞氏の寄付により再建されたものである。内部は資料館として活用され、土井氏の遺品をはじめとした貴重な資料が展示されている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石垣山城(神奈川県小田原市)に行ってきました

2024-03-03 10:51:07 | 県外の城郭の情報

先日、現在私が伊豆新聞で連載している「早雲・北条五代と伊豆」の取材で、神奈川県小田原市の石垣山城に行ってきました。

石垣山城は、前回行ったのが2016(平成28)年9月の織豊期城郭研究会の時だと思いましたので、7年半ぶりの訪城となります。近いのにすっかりご無沙汰してしまいました。

その間、小田原市の方で整備作業が進み、前回訪れた時には(夏場ということもあったのでしょうが)かなり草が生い茂っていたのですが、すっかりきれいになって石垣をはじめとする遺構が大変見やすくなっていました。小田原市の担当者及び協力者の皆様に感謝です!

訪城した当日は天候に恵まれ、城跡からは小田原の町をはじめ湘南の海や三浦半島、房総半島が一望に見渡せました。

伊豆新聞での連載も、「小田原合戦」の大詰めとなり、あと3回ほどを残すのみとなりました。夏頃にはまとめて本にする予定でおります。

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第276回見学会「天正壬午の乱ー北条編-『異形の城』」開催のご案内

2024-03-03 10:35:27 | 見学会のお知らせ

2024年に入ってから気が付けば3月になっておりました。

昨年末以来すっかり投稿をサボってしまい、今年最初の投稿となります。遅ればせながら本年もよろしくお願いいたします。

さて、今回はきたる3月17日(日)に開催される、276回目となります見学会、『天正壬午の乱—北条編—「異形の城」』についてご案内いたします。今回は山梨県北杜市にある獅子吼城、旭山砦、谷戸城の3城をめぐる見学会です。いずれも天正10年(1582)、本能寺の変を機に武田氏旧領の領有をめぐり勃発したいわゆる“天正壬午の乱”において北条軍が布陣した城で、各々が特異な縄張りを有しております。これらを現地で皆さんと楽しく考察していきたいと考えております。

下記のとおり開催いたしますので、皆様ふるってご参加ください。勿論、会員以外の方も参加も大歓迎いたします。

■実施日:令和6年(2024年)3月17日 (日)

※小雨決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

 ※中止・延期の場合、当日AM6:00に決定して連絡

■見学先: 獅子吼城、旭山砦、谷戸城  脚力レベル★★★☆☆(3)

■参加費: 会員6,000円/一般7,000円

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月 徹事務局長

■締切日: 3月13日(水)までに メール、s-kojouken@outlook.com まで

■日 程: 8:00JR静岡駅北口出発 → 日本平久能山スマートIC→中部横断自動車道→

 9:30増穂PA(トイレ休憩)→ 中央自動車道→10:30~12:00獅子吼城見学(昼食)→12:15

北杜市高根体育館駐車場着→(徒歩1.5km)→旭山砦見学→(徒歩1.5km)→14:00体育館出発

→14:20北杜市考古資料館・谷戸城見学→16:00資料館出発 帰途へ→18:00JR静岡駅南口

(解散)

 

■見学地概要

【獅子吼城】

築城時期は定かではない。応永年間(1394-1428)には江草兵庫助信泰が居城していたといわれ、豊富に散在する石材を利用した縄張が特徴。

武田氏支配の頃には信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として、また塩川沿いの狼煙中継点として機能した。

天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、その後の本能寺の変で織田信長が死去すると武田氏遺領を廻り、徳川氏と北条氏の間で抗争が勃発(天正壬午の乱)。この際、北条氏直は若神子城を本陣とし、徳川家康は新府城を本陣とした。この時、獅子吼城には北条勢が立て籠もったが九月、家康配下の服部半蔵、武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らが夜襲を掛けて落城させた。その後和睦が成立し、甲斐が徳川領となると獅子吼城は廃城となった。

【旭山砦】

甲斐国誌に「朝日山ノ塁蹟(村山北ノ割村)高サ拾町余ノ突峯也 頂ニ塁郭ノ跡存セリ 遠ク四方ヲ眺ムベシ壬午ノ時 北条氏直ノ築ク所ト云伝フ 北ハ長沢 南ハ若神子ニ当ル 東麓ニ平沢ニ出ル路亘レリ 古時ノ烽火台ト見エタリ 武田ノ軍法ニ飛脚篝(ひきゃくかがり)トテ四所アルベシ 今モ其照合タル場所預カリシメシハ知ラルル処ナリト云」とある。
武田氏時代から烽火台があり、天正壬午の乱で北条氏直がここに城を築いたとある。佐久往還を抑える要衝であり、佐久経由の部隊を駐留させる目的と考えられるが、完成を見ずして放棄された。

縄張に同時期に築かれた御坂城と共通する疑問点などが見られ大変興味深い。

【谷戸城】

築城年代は定かではないが鎌倉時代に逸見清光によって築かれたと云われる。

八ヶ岳の山体崩落で形成された尾根上に立地し、標高は850m付近。地形を利用して同心円上に土塁や空堀を配した輪状郭群。東西を東衣川、西衣川に画され、北側は尾根に通じ三方は急崖に囲まれている。

土塁の内側に穿たれた横堀などきわめて稀な縄張構造が特徴。

 天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、織田氏の勢力下となったが、織田信長が本能寺の変に倒れたことにより、徳川氏と北条氏が甲斐に侵攻して草苅り場となる。この天正壬午の乱で谷戸城は北条氏方の城となり、この北条氏によって城が改修されたとされる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第275回見学会「武蔵西部・湘南方面の城をめぐるー小机城、早川城と大庭城-」開催のご案内

2023-12-27 01:29:23 | 見学会のお知らせ

2023(令和5)年もあと数日を残すのみとなりました。

当会では、新年1月21日(日)に下記のとおり、第275回見学会を企画しました。

第275回見学会では、「武蔵西部・湘南方面の城をめぐる」と題し、小机城、早川城、大庭城の3城を見学します。

3城の縄張りから読み取れる時代背景、築城主体等について、15世紀後半~16世紀前半の武蔵西部・相模の争乱(享徳の乱・長尾景春の乱・長享の乱・北条氏と両上杉氏の抗争)との関係性を絡めながら考察していこうと考えております。皆さんのご参加をお待ちしております!

■実施日:令和6年(2024年)1月21日 (日)

※小雨決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

 ※中止・延期の場合、当日AM6:00に決定して連絡

■見学先: 小机城、早川城、大庭城   脚力レベル★★☆☆☆(2)

■参加費: 会員6,000円/一般7,000円

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー、富士川SA、足柄SA(トイレ休憩)

  ※関東方面からご参加の場合、小机城根古谷広場にて合流、帰りはJR辻堂駅にて降車

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月保宏会長、望月 徹事務局長

■締切日: 1月18日(木)までにメール s-kojouken@outlook.com まで

※1月9日現在、申込者数がバスの定員(28名)まであとわずかとなったため、誠に勝手ながら申込みの締切りを1月10日(水)に繰り上げさせていただきます。ご了承ください。

■日 程: 8:00JR静岡駅北口出発 → 日本平久能山スマートIC→ 8:40富士川SA9:10~9:20足柄SA(トイレ休憩)→10:20小机城根古谷広場→10:30~12:00小机城見学(昼食)→12:45~13:30早川城見学→(県道)→14:00~15:30大庭城見学→15:45JR辻堂駅(小机城から参加の方、降車)→17:00足柄SA→17:30富士川SA→18:15JR静岡駅(解散) *基本的に赤字の所で乗車又は集合

 

【見学地概要】

【小机城】

永享の乱(1438~1439)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、正確な築城年代は分かっていない。

この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち文明10年(1478)に起きた攻守戦である。山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こした。このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌が攻撃をし、道灌は約2か月かけて同城を落城させたとされる。

その後は廃城となったが、この地域が小田原北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により修復され、家臣の笠原信為が城主として配置され、小机衆が組織された。笠原氏は、小机城を中心に付近の村に僧侶を招き寺を建立するなど城下の整備に力を注いだと見られ、江戸時代になってもその子孫は代々この地の付近に住んでいた。その後、城主は北条氏堯、北条氏政の弟三郎、北条氏光と替わっている。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原合戦の際には、無傷のまま落城した。その後、徳川家康の関東入府のときに廃城とされた。

城跡は西側が「第三京浜」道路により破壊されているものの、東郭・西郭を中心とする主要部分や堀・土塁跡等がよく保存されており、「小机城址市民の森」として整備されている。

【早川城】

綾瀬市役所から約700m西の、相模川の支流目久尻川左岸の舌状台地南端部に立地する。鎌倉時代の御家人・渋谷重国の築城と伝わるが、史料に乏しく実態は不明という。平成元~6年(1989~1994)にかけて6回の発掘調査が行われており、曲輪、堀、土塁、物見塚、ピット(柱穴)、溝などの遺構や、かわらけ、火舎などの遺物が出土した。築城年代は伝承の通りなら12世紀代となるが、前述の発掘調査では14世紀から15世紀代の利用のみ確認されたという。

【大庭城】

大庭城は、平安時代後期(12世紀頃)の武将である鎌倉権五郎景政の子孫がのちに大庭姓を名乗り、源平合戦で有名な大庭三郎景観が居城したのが始まりと言われるが、明らかな記録はなく、 室町時代中頃(15世紀後半)になって、扇谷上杉定正の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったと伝えられている。

その後、永正9年(1512)、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて落城し、以後、小田原北条氏の支配下に入ったが、同氏は玉縄城(鎌倉市)を主要な支城として整備し、大庭城はあまり使用されることはなかったようである。そして天正18年(1590)、小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、大庭城は廃城になったと考えられる。

城は土塁と空堀によって南北に連なる4つの曲輪に大きく区分され、南端部が主郭であったと考えられている。

昭和43~46年(1968~1971)に行われた発掘調査を経て、城跡南半の主要部分は城址公園として保存整備されている。現在、城址に残る土塁や空堀は、近年の研究や発掘調査等により、小田原北条氏により改修された可能性もあるものの、扇谷上杉氏の築城術を色濃く残すものと考えられている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第274回見学会「小田原の防壁シリーズ2ー足柄城の城砦ネットワークと浜居場城-」開催のご案内

2023-11-13 23:41:44 | 見学会のお知らせ

 夏のような暑い秋から急に冬のような寒い晩秋となり、やっと山城巡りに適したシーズンが到来いたしました。

 さて、当会では、来たる12月3日㈰に第274回目の見学会『小田原の防壁シリーズ2―足柄城の城砦ネットワークと浜居場城―』の開催を計画しております。昨年の山中城、箱根城砦群に続く第二弾として、北条氏の小田原の防衛線たる城砦群を見学して参ります。今回は、下記のとおり足柄城とその砦群から浜居場城に至るルートを辿ります。かなりの健脚コースとなりますが、皆さんのご参加をお待ちしております!

■実施日:令和5年12月3日 (日)

小雨決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

■見学先:足柄城と城砦群、山伏平遺構、浜居場城(脚力レベル★★★★☆)

 ※登山・山道を7.5㎞歩ける方のみ。山中の尾根道を歩きますので途中退避できません。

■参加費:会員5,000円/一般6,000円

■乗り物:市沢さんのバス

■乗車地:JR静岡駅北口ロータリー、東名足柄SA、JR足柄駅(関東方面参加者)

     ※JR足柄駅での乗車については、この時間帯に到着する電車が下り線の9:15しか無いため、

      関東方面の方に限らせていただきます。

■身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当:望月 徹事務局長・大木一幸理事

■申込み:11月29日(水)までにメール s-kojouken@outlook.com まで

                〔氏名、住所、連絡先(なるべく携帯電話番号)、乗車地 を明記してください〕

■日 程: 8:00JR静岡駅北口出発 → 新東名→ 9:10足柄SA→ 9:20JR足柄駅→9:50 足柄城、通り尾砦、こなら尾砦、阿弥陀尾砦(昼食)  

     →12:50山伏平→ 13:50浜居場城→21世紀の森駐車場(バス乗車)→16:20JR足柄駅→16:30東名足柄SA

     →17:50JR静岡駅(解散)

 

【見学地概要】

・足柄城(駿東郡小山町竹之下字古城跡)

 駿河国と相模国の国境に位置する交通の要衝に築かれた城。築城は室町期に駿河東部を支配していた大森氏の可能性もあるが、本格的な城郭として整備、運用したのは戦国時代、足柄峠周辺を支配していた北条氏と考えられる。足柄関を城内に取り込んだ関門として機能していたようであるが、元亀2年深沢城が武田信玄により攻略されると足柄城は対武田戦線の最前線の城となり、天正7年に勃発する第2次甲相合戦直前まで修築が加えられていた。武田氏滅亡後も駿河全土を掌中にした徳川家康に対する最前線の城郭となり、その後は天下統一を目指す豊臣秀吉との緊張の高まりと共に大改修がおこなわれ、山中城とならぶ小田原の防壁へと進化した。

 その縄張は、箱根外輪山金時山から北方に伸びる尾根が一部隆起した、標高759mの山頂部を中心に足柄峠周辺の尾根・斜面部分を利用し、尾根沿いの古道を取り込む形で築かれている。東西約700m、南北約800mの主城域は5つの曲輪で構成され、俗に「五連郭」といわれる構造をなしている。随所に北条流の築城技術が惜しみなく注がれ、南方、西方、北方に築かれた砦群ネットワークと共に、天正18年の豊臣の大軍勢襲来の緊張を今に伝えている。

こなら尾砦(駿東郡小山町竹之下字山伏平)

 足柄城明神山北東約700mの稜線上に位置し、尾根の頂上部に東西約26m、南北約33mの単郭式構造の砦が築かれており、自然地形を削り残して築いた土塁、櫓台と虎口。砦西側には堀幅9mの堀切が設けられ、駿河方面からの敵の侵入を意識した構造となっている。

阿弥陀尾砦(駿東郡小山町小山字大沢入東)

 足柄城の北東約1250m、東西約35m、南北約50mの主郭の西方から北方に切岸、横堀を巡らせ、横堀南側前面には馬出を思わせる遺構も確認できる。南方のこなら尾砦、東方の浜居場城、北方の丹土尾砦を結ぶ“ハブ機能”的役割を担う砦と考えられる。

山伏平堀切(神奈川県南足柄市矢倉沢)

 阿弥陀尾砦から東方にむかう尾根上、約800mの地点にある標高671mのピークを挟む形で幅10m弱の2つの堀切がある。中央の平場部分は自然地形と思われるが、平場東側北面に虎口跡とおぼしき痕跡も確認でき、物見、番所的なものが存在した可能性がある。天正9年に北条氏から浜居場城当番衆に出された『掟』書きにある「橋をはつし可置、并彼引橋ニ番屋を作、昼夜守手を置」とあるのは、この山伏平の遺構の事であると考えられる。

浜居場城(神奈川県南足柄市内山)

 築城者については大森氏とされるが定かではない。戦国期に北条氏により運用され、足柄城との間の通行監視や城兵の行動制限、糞尿の処理に至るまで詳細な指示を記した『はまいは掟』と『掟』でよく知られる城。

 富士山の宝永噴火の降灰で埋没が激しいが、西・北・東3方向に空堀を巡らせた主郭には西側に約40mの土塁、主郭西方には馬出遺構なども確認できる。足柄城同様、西方に強い志向性を示す縄張りからも足柄方面からの通行監視を目的とした城と考えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする