今年も当会恒例の一泊二日見学会の季節がやってまいりました。
今回のテーマは『越前朝倉氏の山城』と題し、朝倉氏の本拠地の一乗谷城をはじめ、成願寺城、戌山城、そして“天空の山城”越前大野城をめぐります。現在の福井県北部にあたる旧越前国を五代約100年間にわたって支配した朝倉氏一族が築城または整備したこれらの城を訪ね、朝倉氏の城郭の縄張りの特徴と変遷について考察していきます。
健脚向きのコースとなっておりますが、多くの皆さまのご参加をお待ちしております!会員以外の一般の方の参加も大歓迎です!
■実施日:令和6年(2024年)5月11日 (土)~12日(日)
※雨天決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり
■見学地: 【1日目】一乗谷城、一乗谷朝倉館、一乗谷朝倉氏遺跡博物館(福井市)
【2日目】成願寺城(福井市)、戌山城、越前大野城(大野市)
■脚力レベル ★★★★★(5/5)※健脚コース
■参加費: 会員 26,000円/一般 27,000円
■宿泊地: 東横INN福井駅前(☎ 0776-29-1045)
■乗り物: 市沢さんのバス
■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー、日本坂PA、小笠PA、三方原PA
■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類
■担 当: 望月保宏会長・稲垣雅一理事
■締切日: 4月10日(水)までにメール、s-kojouken@outlook.comまで
※必ず希望乗車地を明記してください
■日程
【1日目】 7:30 静岡駅北口ロータリー出発
7:40 東名静岡 IC
7:50 日本坂 PA
8:20 小笠 PA
8:40 三方原 PA
(東名→名神→北陸道)(昼食はバス車内で)
12:00 福井 IC
13:00~15:00 一乗谷城見学
16:00~17:00 一乗谷朝倉氏遺跡博物館見学
18:00 ホテル着
19:00~21:00 懇親会(ホテル近く「くずし割烹ぼんた」120分飲み放題)
【2日目】 8:15 ホテル出発
9:30~10:30 成願寺城見学
11:00~11:15 道の駅 一乗谷あさくら水の駅(トイレ休憩)
12:00~13:30 戌山城見学(昼食)
14:15~15:00 越前大野城見学
15:30 荒島 IC
(中部縦貫道→東海北陸道→東名)
18:30三方原 PA
18:50 小笠 PA
19:20 日本坂 PA
19:30 東名静岡 IC
19:40 静岡駅南口着、解散
※悪天候、または時間の都合により、見学地・コースを変更することがあります
■主な見学地概要
【一乗谷城】(福井市城戸ノ内町)
戦国大名朝倉氏の本拠地一乗谷の詰城である。軍記物である『朝倉始末記』では、文明三年(1471)に7代朝倉孝景(英林)が居所を一乗谷に移したとあるが、今日では3代貞景の代の15世紀前半には、すでに一乗谷を根拠としていたと考えられている。
山上の詰城がいつごろ築かれたのかは詳らかでない。天正元年(1573)8月13日、浅井氏の小谷城救援に出陣した朝倉軍は、大嶽砦の失陥などを受けて撤退を図ったが、織田信長軍に追撃を受けて潰走した(刀根坂の戦い)。同月15日、朝倉義景はほうほうの体で一乗谷に帰還したが、留守の将兵は大半が逃散しており、翌16日に大野郡へ逃れた。同月18日、織田軍は一乗谷に攻め入って火を放った。一乗谷城(一乗谷山城)も、さしたる抵抗もなく落城・炎上したものと推測される。
一乗谷城の遺構は、一乗谷朝倉氏館群の東背後に聳える標高443mの一乗山上に築かれている。
北側の大手からは千畳敷・観音屋敷・宿直・月見櫓として広大な郭群が区画されており、南の尾根筋に一の丸、二の丸、三の丸と遺構が連なっている。一の丸から三の丸は堀切で区切られ、側面には幅2、3mの短い畝状竪堀群が広がっている。千畳敷・観音屋敷が主郭と考えられ、低土塁で区切られており、奥深い山中とは思えないくらい広い削平地が同城の見所の一つとなっている。
(佐伯哲也『越前中世城郭図面集Ⅱ-越前中部編(福井市・越前町・鯖江市)-』(桂書房)より)
【成願寺城】(福井市成願寺町)
築城年代等の詳細は不明で、『朝倉始末記』には朝倉氏重臣の居城であったと記されている。
東郷槙山城(福井市小安)とともに朝倉氏の本拠地である一乗谷の西方を守備する出城として機能したとされ、東郷槙山城を二ノ丸、成願寺城を三ノ丸と称していたほどの重要な軍事拠点であった。
しかし、城主の前波吉継は越前に侵攻してきた織田信長に内通し、朝倉氏を滅亡に追いやった一因をつくった武将であった。吉継は、朝倉氏滅亡後は織田信長に越前国守護代を任され、一乗谷城へ入城。名も桂田長俊と改めたが、天正2年(1574)に加賀一向一揆が起こり、桂田長俊は一揆勢と結んだ富田長繁により自刃に追い込まれ滅亡した。その後、成願寺城も廃城となったと考えられる。
成願寺城は成願寺町の北背後に聳える標高214.0mの山に築かれている。成願寺城は三角点のある山頂(上の城)とそこから西へ伸びた尾根先にある下の城がある。
成願寺城の上の城は三角点のある山頂部に堀切を挟んで東西二郭あり、東の主郭は分厚い土塁で囲まれた小さな曲輪である。この東西二郭の主郭部を東は二重堀切、西は弓形状になった堀切と竪堀、南側面には畝状竪堀群を設けるなど厳重に遮断している。
主郭部から東へ続く尾根には古墳の周濠と堀切が混ざりながら続いている。西尾根も同様であるが、土橋の架かった大きな堀切、北へ続く尾根の先端には堀切が確認できる。
主郭部の南下には波着寺跡があり、山岳寺院の上に中世山城が存在している。
(佐伯哲也『朝倉氏の城郭と合戦』(戎光祥出版)より)
【戌山城】(大野市犬山)
築城年代は定かではないが、南北朝時代の康暦2年(1380)頃に越前守護斯波義種によって築かれたといわれる。義種は越前守護斯波高経の子(斯波義将の弟)で大野郡を賜って戌山城を居城とし、大野斯波家(大野氏)の祖となった。以降、『城跡考』によれば、同城には斯波氏→大野氏→朝倉氏が居城し、朝倉孫八郎景鏡が亥山城(大野市日吉町)に居城を移すまで、大野郡の主城として機能したという。その後、天正元年(1573)朝倉氏が織田信長に滅ぼされると、金森長近が大野郡を領して戌山城に入ったが、亀山の地に大野城を築城して移ったため廃城となった。
戌山城は飯降山から北東に派生した標高約325mの山に築かれている。遺構は北端最高所に主郭を置き、そこから北西、北東、南の三方に伸びた尾根に曲輪を配し、南の標高300mの所に南曲輪群を配している。
主郭はそれほど広い曲輪ではないが、三方に伸びる尾根を大堀切で遮断し、山腹には畝状竪堀群をビッシリ配して厳重に防御する。主郭の北西尾根にも小さな曲輪があり、ここも周囲を大堀切と畝状竪堀群によって防御する構造である。主郭から北東に伸びる尾根には小さな堀切や二重堀切があり、先端に小曲輪群、側面には連続竪堀と一部横堀状の遺構がある。南曲輪群は主郭から300m程離れた南峰にあり、ここも各尾根を堀切で遮断しているが、こちらは畝状竪堀は見あたらない。
(佐伯哲也『朝倉氏の城郭と合戦』(戎光祥出版)より)
【越前大野城】(大野市城町)
天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて大野郡の一向一揆を収束させ、その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めた。
当時の大野城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守、2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないで城を守っていた。 その石垣は、石を立てず横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で築いた石垣である。
同城は長近が初代城主を務め、天正14年(1586)に彼が飛騨高山に領地を移した後は、城主はたびたび入れ替わった。 江戸初期には松平氏、天和2年(1682)には土井利房が領地入りし、廃藩となるまで土井氏が城主を務めた。
天守を中心とする建物は、江戸時代に幾度となく火災に見舞われたが、安永4年(1775)の被害はとりわけ大きく、本丸までもが焼失し、寛政7年(1795)にようやく再建された。 その後明治維新を迎え明治4年(1871)廃藩となると、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残された。
現在の天守閣は、昭和43年(1968)、旧士族の萩原貞氏の寄付により再建されたものである。内部は資料館として活用され、土井氏の遺品をはじめとした貴重な資料が展示されている。