オフネタ恒例の昔の代表戦は、1997年に旧国立競技場で行われた、W杯予選の日本対韓国が忘れられない一戦です。当時、加茂監督が率いていた日本代表は、初戦のウズベキスタン戦で勝利し、2戦目のアウェイのUAE戦は引き分けての第3戦でした。当時はまだアジアのサッカーにおける地位は低かった頃で、当時のアジア枠は3.5でした。1位は無条件で通過、2位だとA組2位とのプレーオフで勝利すれば通過という条件でした。
当時の国立競技場の熱気は忘れられません。6万人近い満員のスタジアムは、席に入り切れずに通路まで人があふれるほどでした。この、日本サッカー史上にも残る国立競技場の雰囲気は、ベンチの加茂監督にも何等かの影響は与えたかもしれません。加茂監督は帰化したばかりの呂比須をスタメンで起用してカズと2トップを組ませてきました。
韓国ベンチも呂比須の起用は読んでいて、カズに崔英一、呂比須に李敏成をマンツーマンでつけて、がちがちの根性サッカーで対抗してきました。攻撃的MFの中田英寿や名波浩にもマークがついたこの膠着状態の試合は、マークされていないボランチの山口素弘が上がってくることで打開できました。山口のループシュートが、相手GKの頭上を抜き、日本は1点を先制します。
しかし、この国立競技場の雰囲気に、加茂監督は飲まれてしまったかもしれません。今でも忘れられない采配ミスは、FWの呂比須を下げてDFの秋田を投入したものでした。秋田には「高正云をマークしろ」という指示を与えていながら、その高正云が交代していたというあり得ないような采配ミスでした。これで、韓国はDFにプレッシャーがなくなり、ゲームを支配して最後の逆転に賭けてきました。
その、最後の時間で、立て続けに2失点し、しかも2失点目はマーカーの呂比須がいなくなって上がって来られた李敏成でした。あれほどの熱気を帯びた国立競技場は、嘘のように静まり返ってしまいました。もちろん、この負けで1位通過は厳しくなりましたが、まだ2位に入ってプレーオフの望みはありました。今の自分なら、2位でのプレーオフでも通ればいいと開き直れたでしょう。
しかし、まだ若かった私は、この敗戦にショックを受けて、あてどもなく街をさまようことになります。サッカーの勝敗で、これほど心が揺れたのはこのときだけです。当時、1週間に1試合という異例の強行日程だった最終予選のルールもあって、このときは頭の中が代表一色だったなと、振り返ります。
当時の国立競技場の熱気は忘れられません。6万人近い満員のスタジアムは、席に入り切れずに通路まで人があふれるほどでした。この、日本サッカー史上にも残る国立競技場の雰囲気は、ベンチの加茂監督にも何等かの影響は与えたかもしれません。加茂監督は帰化したばかりの呂比須をスタメンで起用してカズと2トップを組ませてきました。
韓国ベンチも呂比須の起用は読んでいて、カズに崔英一、呂比須に李敏成をマンツーマンでつけて、がちがちの根性サッカーで対抗してきました。攻撃的MFの中田英寿や名波浩にもマークがついたこの膠着状態の試合は、マークされていないボランチの山口素弘が上がってくることで打開できました。山口のループシュートが、相手GKの頭上を抜き、日本は1点を先制します。
しかし、この国立競技場の雰囲気に、加茂監督は飲まれてしまったかもしれません。今でも忘れられない采配ミスは、FWの呂比須を下げてDFの秋田を投入したものでした。秋田には「高正云をマークしろ」という指示を与えていながら、その高正云が交代していたというあり得ないような采配ミスでした。これで、韓国はDFにプレッシャーがなくなり、ゲームを支配して最後の逆転に賭けてきました。
その、最後の時間で、立て続けに2失点し、しかも2失点目はマーカーの呂比須がいなくなって上がって来られた李敏成でした。あれほどの熱気を帯びた国立競技場は、嘘のように静まり返ってしまいました。もちろん、この負けで1位通過は厳しくなりましたが、まだ2位に入ってプレーオフの望みはありました。今の自分なら、2位でのプレーオフでも通ればいいと開き直れたでしょう。
しかし、まだ若かった私は、この敗戦にショックを受けて、あてどもなく街をさまようことになります。サッカーの勝敗で、これほど心が揺れたのはこのときだけです。当時、1週間に1試合という異例の強行日程だった最終予選のルールもあって、このときは頭の中が代表一色だったなと、振り返ります。