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Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

当たるかもしれない(カルロス・ケイロス)

2012-02-19 21:25:44 | ワールドサッカー
このカルロス・ケイロスという名前は、名古屋のサポなら覚えていらっしゃる方もいるかもしれません。当時はあのベンゲル監督の後任で来日し、指導者を指導できる「スーパーライセンス」を持っている世界でも数人しかいない人物と高い評価を受けていました。しかし、名古屋では結果を残せず、途中解任されており、この名前を思い出したとき、そういえばいい監督なのか悪い監督なのかわからないと思いました。

そのケイロス監督は、なんと今はイラン代表の監督で、日本と豪州が第一シードになりそうな最終予選で、たぶん韓国と同じポットに入り、1/2の確率で当たる相手です。イランは最終節を残して3次予選通過を決めており、よほど政治的混乱でもなければ最終予選も指揮を執るでしょう。まさかこんな近い位置にいるとは、知ったときは正直驚きました。

いい監督かもしれないが悪い監督かもしれないというのは、私の個人的感想ですが、それでも実績は十分です。ポルトガルのユース代表を率いてワールドユース優勝、南アフリカ代表を率いて2002年W杯予選通過、ポルトガルのA代表を率いて2010年W杯ベスト16と、それなりに結果も残しています。

しかも、マンチェスターUでアレックス・ファーガソンのアシスタントをやっていたことも評価できます。監督じゃないんでしょう?と思うかもしれませんが、ファーガソンほどの人物が無能な人物をアシスタントに置くはずはなく、しかも一度Rマドリードの監督をやるためにチームを離れながら、もう一度呼び戻したところはファーガソンの信頼が現れています。

ただ、ポルトガル代表に関しては、ルイス・フェリペの後任だっただけに、どうしても前任者と比較される不運はあります。戦術的にはフェリペ時代を受け継いだケイロスでしたが、W杯の解説をやっていた奥寺氏に厳しく戦術の不徹底を指摘されるなど、ポルトガルを欧州選手権で準優勝させたあのフェリペの後任は不運でした。

それでも、イランは最終予選でおそらく第二シードに入り、通過の可能性は高いチームです。イランをW杯に導けば彼のキャリアにもはくが付くことは間違いなく、途中解任されなければもう一度世界トップレベルに返り咲ける可能性はあると思います。
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スペースインベーダー

2012-02-19 17:58:14 | 雑記
これを知っているとは年がばれる話ですが、私の少年時代、喫茶店などが客寄せに置いていた1ゲーム100円のスペースインベーダーには憧れました。病気で大幅に行動力が落ちた今となってはゲームに関心のあった時期は過ぎましたが、良い操作をすればするほど長時間ゲームを楽しめるルールは当時の憧れでした。

初ゲームは国道沿いの喫茶店で、父が100円を出してくれてインベーダーをやりましたが、初挑戦のスコアはわずか730点で、物足りなさが残ったものの、それが商売のネタですから父が止めるのも今となってはわかります。母もこういったアーケードゲームは「一種のギャンブル」とあまりいい顔はしておらず、今きっぱり身を引いてほっとしているかもしれません。

それでも、相手も商売ですから、何とかして客から100円でも多くお金を引き出す手段は考えてきます。次第にゲームが高度化してくると、100円を追加すればやられたところからゲームを再開できるルールを採用してきます。当時の憧れのゲームは、CG映像がきれいだったシューティングゲームの「ゼビウス」です。

中学校の前にゲームセンターがあった環境もあり、しかもそのゲームセンターが客寄せにゲーム料を50円に引き下げていましたから、一時はまりかけました。しかし、ゲームはそのときは楽しくても、後に何かを残せるものではありません。高校生になると次第にゲームセンターからは足が遠のくようになりました。

今はモバゲーの時代らしいですが、確かに昔親しんだゲームを携帯でやっている人を時折見かけます。それでも、それよりはブログの原稿を考えている方が楽しいので、自分でやろうとは思いません。もう、思い出の一ページにとどめておこうと思っています。
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皆期待はしている(田中達也)

2012-02-19 13:15:04 | 浦和レッズ
浦和の全盛期を知る選手は昨年堀之内が去り少しずつ少なくなっていますが、たとえ負傷が多くても、浦和のサポは皆期待はしているのが田中達也選手です。田中達也は代表に入っていた時期は短かったですが、そのサッカーセンスの高さは今でもサポを惹き付けるものがあります。

私の中で田中達也が最初に印象に刻まれた場面は2001年の国立競技場の対磐田戦です。当時J1に戻ったばかりの浦和と、当時タイトル争いをしていた磐田では力の差は否定できず、試合も0-2で敗れましたが、途中出場の田中達也が見せてくれたサッカーセンスは今でも印象にあります。

あの当時、浦和のトップ下は小野伸二でした。小野伸二はどちらかといえば足元よりスペースのパスが得意ですが、田中達也はうまく体の向きを調節して、小野伸二がパスを出しやすいような動きをして、ゲームの流れを一時的とはいえ浦和の方へ持ってきました。

田中達也は最初の頃はドリブルで抜くことを目標にしていて、点を取ることにこだわってはいませんでした。そんな意識は永井からポジションを奪ってエメルソンと2トップを組んだあたりから変わってきました。

エメルソンから学んだことはシュート意識の高さだと言っていましたが、確かにナビスコ杯の雨の決勝戦のゴールなど、田中達也の思い出のゴールはこの頃が多いです。一番いい時期に重傷を負ってしまったのは不運でしたが、浦和が1トップを採用することが多くなったのも不運でした。

代表時代は岡田監督が2トップの一角で起用したので輝きも見せましたが、田中達也はどちらかといえばサイドアタッカータイプなので、1トップには不向きです。エンゲルス監督が4-2-3-1の1トップで起用したこともありますが、パスコースを完全に消されて存在感は希薄でした。

今年の浦和は田中達也にとっては得意でない1トップです。キャンプには何とか間に合い、Bチームの1トップには入っているので監督の構想には入っているでしょうが、このポジションはポポやデスポトビッチに勝たないと試合に出られない厳しいポジションです。

もっとも、明らかに1トップ向きではない佐藤寿人を1トップに定着させたミシャですから、可能性はあります。期待は今でもしています。
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同世代のスーパースター(ラーション)

2012-02-18 16:51:22 | ワールドサッカー
今年6月、ポーランドとウクライナの共催で欧州選手権が開催されます。この欧州選手権は欧州諸国にとっては「ブラジルとアルゼンチンがいないW杯のようなもの」と重視していて、この大会で代表歴に区切りをつける選手もいます。私もカズのような稀な例外を除くと年上や同世代のJリーガーがいない年になってきましたが、そういえば4年前の欧州選手権ではラーションいまだにプレーしていたんだと思い出しました。

私の一つ年下の世代が、フィーゴ、ネドベド、ジダンとビッグネームを次々輩出しましたが、私の年はこれといったビッグネームはおらず、クラブレベルではセルティック(スコットランド)という地味なチームでプレーしたラーションが同世代では最大のビッグネームと思います。私がスウェーデンに旅して、旅先でラーションが活躍した1994年アメリカW杯の3位決定戦を見ているという理由もあります。

ラーションは若い頃は「メドューサの首」のような金髪のドレッドヘアをしていました。当時はラーションはダーリン、K・アンデションの2トップの控えでしたが、既にオランダのフェイエノールト在籍で、スウェーデン国内にとどまっている選手ではありませんでした。

その後、ラーションはスコットランドのセルティックに移籍します。国民のほとんどが英語が話せるというスウェーデンでは英語の国のスコットランドはなじみやすかったはずで、ここで欧州全体で最多得点を挙げるなど活躍して、チームの伝説的存在になります。

代表では2002年W杯で埼玉スタジアムに来ています。右足でも左足でも頭でもシュートができるラーションは、髪型を坊主に変えていたので目立ちにくい選手ではありますが、スウェーデン代表では不動のエースという存在感は見られました。その後、一時代表を引退していましたが、当時6歳の息子から「スウェーデン代表のパパが見たい」と懇願されて代表復帰を決意し、2006年ドイツW杯に出場しています。

2008年のときは意外な代表復帰でした。ヨーロッパのトップレベルを退き、家族のためもあるにせよスウェーデン国内のチームでプレーしていたラーションの代表復帰は監督の決断とはいえ驚きをもって迎えられました。それでも、1次リーグの3試合すべてでスタメン出場しましたが、これが最後の代表姿になりました。

監督にでもならない限りもう見ることはないかもしれないですが、思い出の選手として大事に記憶にしまっておこうと思います。
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PUFFY「渚にまつわるエトセトラ」

2012-02-18 13:34:55 | 雑記
最近あまり音楽を聴いていない私は、この「渚にまつわるエトセトラ」でもそんなに昔の曲とは思えないほどです。ちょうど会社に入った頃のヒット曲ですが、聴いただけでは何を歌っているか分からない曲ですがリズムだけでも大好きな曲でした。

たぶん、生まれも育ちも埼玉で海と縁のない生活を送っていたので、歌詞を知ると海と関係あるものを集めた、詞としては意味のないものでも、海への憧れが反応させた曲だと思います。

まさか「カニ 食べ 行こう」と歌っているとは思っていませんでしたが、ちょうど当時は読書にはまっていて、塩野七海のベネチア共和国を描いた地中海の小説をこれでもかと読んでいたので、この地中海の物語とこの歌がヒットしました。

それでも、私は2度イタリアに行っていますが、地中海はローマに向かう飛行機からちらりと見たのが唯一の機会です。ベネチア共和国は今のクロアチアにあたる地中海の反対側に点々と植民地を築いてその間を船で航行することで地中海の貿易を独占して繁栄しましたから、それを知るにはセリエAのマニアックツアーでは無理ですね。
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狂喜乱舞のオウンゴール(2005年バーレーン戦)

2012-02-17 19:07:08 | ワールドサッカー
またオフネタで失礼しますが、浦和レッズの試合だとオウンゴールの1-0で勝った試合はあまり喜ばず、不機嫌さすら出てしまうこともあります。しかし、私がオウンゴールの1-0を狂喜乱舞したことが一度だけあります。

それはジーコジャパンの当時のW杯最終予選、埼玉スタジアムのバーレーン戦です。手腕は疑問視もされていたジーコ監督ですが、救世主が現れて引き分けの試合を勝ちにする運の強さは持っていて、この最終予選でも共和国戦で途中出場の大黒将志が引き分けの試合を勝ちにしています。

このバーレーン戦も苦しんだ試合でした。日本がイランに敗れて後がない焦りをうまく利用して、勝つことを完全に放棄して0-0だけを狙うサッカーに、日本はいくらセットプレーを取っても跳ね返される苦しい展開が続きました。

バーレーンの布陣は3-6-1で、3バックは全員高さのあるタイプで日本のセットプレーを跳ね返し、攻撃は長身FWフセイン・アリを中央に置いているもののクロスの質はあまり問わず、右MFのサルミーンがキープして時間を作ればいいサッカーでした。

当時のメンバーにはセットプレーに強い中村俊輔や中澤らもいましたが、いくら日本のセットプレーが強化されても最初から0-0狙いの相手の守備を破るのは簡単ではありません。時間だけがどんどん過ぎていく嫌な展開に持ち込まれてしまいました。

放り込む、跳ね返すの連続だった試合展開は意外なところから破れました。宮本が放り込んだクロスは高さもスピードもなく、あっさりゴール前で守るサルミーンのところに入りました。本職のDFではなかったサルミーンはCKに逃れようと低いボールを蹴りましたが、これがなんと自分のゴールに入ってしまい日本が1-0と先制しました。

最初から守備的な布陣を引いていたバーレーンにはこの失点を取り返す力はなく、日本はこの試合の勝利で2位以内のW杯出場が現実的になりました。当時近い側のゴール裏にいた私は誰かはわからないけどオウンゴールだということはわかっていました。

しかし、このオウンゴールに対する反応は狂喜乱舞で、W杯予選の重さと結果がすべての最終予選を噛み締めて、とりあえず喜んでおこうと歓喜の輪に加わった微妙な心理状態は抱えていましたが。
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消えた壮大な夢

2012-02-16 18:49:46 | ワールドサッカー
2002年日韓W杯は、私にとっては夢の実現の場になる予定でした。郵便局に置かれていたチケットの申し込み用紙がなくなって、ヤフーオークションで申し込み用紙に1000円の値段がつくほどの異常事態で、おそらくどんなにつまらなそうなカードでも完売する事態になるだろうと予想できました。

韓国との共同開催なので全試合の半分しか日本でやらないのですから当然といえば当然ですが、私はどんなことをしてでもどこかの試合を見ておかなければ一生後悔すると早い段階で動いていました。そのため、私が目を付けたのは韓国開催の試合でした。

英語ながらチケットの一般販売はあり、予選通過に予想したチームをどこまでも追うチームチケットと、開催地を決めてそこで行われる試合をすべて見るベニューチケットがあり、抱き合わせ販売だと文句を言いながらも、確実に試合を見られるベニューチケットを申し込み、済州島のチケットが当選して、これで夢の一つはかなったと喜んでいました。

日本国内のチケットも会社の知人に名前を借りたり、サポーター優先販売で半券に懸命に住所と名前を書いて当選を狙いました。その結果、埼玉スタジアムのイングランド対スウェーデンを当て、夢だったサッカー漬けの日々が楽しめると喜んでいました。

しかし、そこで私を襲ったのは病魔でした。今でこそある程度の病気なら自分でコントロールすることもできますが、当時は一度病気になってしまったらどういうコントロールをすべきか分からない頃です。海外へ一人で行く韓国の目は完全に消えました。

この韓国でのカードがブラジル対中国、ドイツ対パラグアイと後で知ったときの悔しさは忘れられません。特にドイツ対パラグアイはオリバー・カーン対チラベルトのGK対決で見応えがあっただけに、あれを生で見ていたかもしれないと思うと悔しくて仕方ありませんでした。

それでも、韓国の代わりと思って申し込んだ3次販売のサウジアラビア対アイルランドが当たって少しは悔しさも紛らわせました。それでも、済州島に滞在してリゾート気分を味わうか、空いている日に韓国本土に渡って試合を見るかと思っていた夢が目前で消えた悔しさは10年経った今でも消えません。それでも、W杯は逃げないから、いつかロシアかカタールに行ってあのときの借りを返そうという夢は持っていたいと思います。
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U-23マレーシア戦プレビュー

2012-02-15 19:07:33 | ワールドサッカー
シリア戦に敗れた日本は、このマレーシア戦と最終戦のバーレーン戦が正念場です。もちろん、バーレーンのシリア戦での他力は期待していますが、選手は連勝して得失点差で上回ることを考えて、マレーシアから1点でも多く取って欲しいです。

ただ、不安材料もあります。山崎がシリア戦で腕を骨折したのに続いて、山田直輝まで肉離れでマレーシア戦の出場は不可能になりました。急遽原口を代役に呼び、さらにドイツから大津を呼ぶ計画もあるようですが、たとえ大津の招集に成功したとしても頭数こそ揃いますが不安もあります。

理由はU-23日本代表がグアム合宿を開いた理由がマレーシア戦対策だからです。オフ明けの初戦だったシリア戦にトップコンディションを持ってくるのはどんな名監督でも無理なので、シリア戦に敗れた場合のことも考えて、マレーシア戦の暑さに慣れるための対策がグアム合宿でした。

その酷暑のマレーシア戦に、暑さ対策をしていない原口や大津に頼るのは正直厳しく、原口や大津が途中で足が止まってもやむを得ないと考えて早めに交代枠で対処するしかありません。原口の場合、チーム内とはいえ不祥事なので代表には呼びにくかったのでしょうが、暑さ対策をさせておけばという残念な思いはあります。

マレーシアは驚くような攻撃力はなかったので、失点をしないことはできるでしょう。問題はどうやって点を取るかで、日本が強力な1トップを持たないチームである以上、中盤の3枚のところでチャンスを作って点を取る必要があります。

前回のシリア戦では160cm台の山田直輝のところにハイボールを送るような戦術的な不徹底が見られ、思うようにキープできませんでした。今回こそ、中盤でつなぐ日本の本来のサッカーに戻して欲しい気持ちがあります。人数をかけて守ってくるマレーシアが相手だと、サイドとバイタルエリアの両方にスペースがない可能性もありますが、前回のマレーシア戦でもバイタルエリアでボールを持てましたから、どこかにスペースはあると信じてボールを回すべきだと思います。

最終戦はシリアがマレーシア戦なので、よほど点を取らない限りシリアの突破は無理という条件にできればしておきたいです。ホーム戦が中立地のシリアは最終戦あたり疲労が出てくると思いますが。
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史上最大の采配ミス(1997年日韓戦)

2012-02-14 19:11:08 | ワールドサッカー
ドーハの悲劇から20年近くが経ち、日本人サポもいい意味でW杯予選に慣れてきました。試合の日は熱くなっても、リーグ戦の合間の国際AマッチデーにW杯予選が行われる現在の日程なら熱くなったり冷静になったりとコントロールが効くようになりました。

しかし、1998年フランスW杯予選の頃はまだアジア連盟が日本、韓国の東アジアとイラン、サウジアラビアの西アジアで毎回勢力争いが起こってルールが一定しなかった時代です。このときも最終予選の開催地をめぐってマレーシア開催を主張した東アジアと、バーレーン開催を主張した西アジアで調整がつかず、直前になってホームアンドアウェイ開催になりました。

マレーシアに出かけることも考えていた私にとってはホーム戦の4試合が国立競技場にやってくるこのルール変更は歓迎でした。徹夜で並んでチケットを取り、日本がフランスに行くところを見るんだとすっかり熱くなっていました。

そんな、熱い思いを受けて行われた最終予選第三戦の日韓戦は史上最高と思われるほどの緊張感がみなぎる試合になりました。日本は帰化したばかりだった呂比須をいきなりスタメンで使い、韓国はカズに崔英一を、呂比須に李敏成をマンツーマンでつけて消しに行く熱い戦いになりました。

後で冷静になって振り返れば、この最終予選は韓国に勝つことが目的ではなく、予選を通ることが目的です。2位になって第3代表決定戦を勝つことや、豪州とのプレーオフでも通ればいいのです。それでも、この異様な雰囲気は当時の日本代表監督、加茂監督にも影響を与えたようです。

時間が止まって見えるほどだった山口のループシュートで先制した日本は、たぶんチーム全体も熱くなってしまったようです。史上最大の采配ミスは、後半残り17分近く残してFWの呂比須を下げてDFの秋田を投入したものです。

さすがにスタンドのサポも、守りに入るにはちょっと早すぎないか?と少し不安が出てきました。秋田も高正云をマークしろという指示で出ながら、その高正云が交代していたという采配ミスもありました。立て続けに韓国に2点を取られて敗れた国立競技場は、満員のスタンドが嘘のように静まり返ってしまいました。

この試合の結果、韓国は混戦になったこの組を抜け出して1位で通過します。日本は中央アジア遠征で加茂監督が解任され、岡田コーチを昇格して残り試合を戦い、これでもかと苦しみながらも第三代表決定戦でイランに勝ってW杯に出場します。

ただ、このときは日本中がまだW杯予選が4年に一回確実にやってくるもので、熱くなるべきところと冷静に見るべきところの区別がついていなかった頃です。私も、このときにあまりにも熱くなりすぎてしまったので、今の冷めた目で試合を見られる自分の立場で振り返ると恥ずかしい限りです。
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岩崎宏美「思秋期」

2012-02-13 21:07:54 | 雑記
年がばれる歌ですが、この歌は昭和52年のヒット曲ということで、当時子供だった私はリアルタイムでは知りません。ただ、岩崎宏美の過去の名曲というと歌番組で大抵紹介されるのがこの曲で、あと知恵で覚えた曲です。

私の少年時代は、松田聖子、早見優、松本伊代といったあたりがアイドルでした。こういったまだ少女の域を抜けていなかった当時のアイドルたちと比べると、岩崎宏美は断トツの大人で、その大人の魅力が当時のヒット曲「聖母たちのララバイ」をいまだに歌える理由でもあります。

今回、話題にする「思秋期」は本当に19歳でこんな境地に至るのかと驚く歌です。この歌は大人になってから知った歌ですから、30歳を過ぎてくると「誰も彼も通り過ぎて 二度とここに来ない」という心境はわかってきます。ただ、19歳のときはこれから何でもやってやるんだと気持ちだけは先に走っていた頃です。

当時、この歌を知っていたら素直に受け入れたかどうかは微妙で、偶然後から知ったから印象に残るという歌もあるものだなと、歌が記憶に残るかどうかは人それぞれだと思います。確かに、30歳を過ぎると年賀状の枚数も少しずつ減っていき、当時はつけで飲めた店も持っていましたが今は営業していないとか、少しずつ人と関わる領域が狭くなっている気持ちはあります。

特に自分の場合、大病をしたのが30の頃なので、病気をして今は当時の輝きはないということを承知でつきあってくれる友人以外は誰も残っていないのは確かです。あれほど持っていたギラギラした気持ちは消え、「青春は忘れ物 過ぎてから気が付く」という言葉が重く響く年になってしまいました。

それでも、2002年W杯でチケットを当てさせてくれたのは、病気に苦しむ自分に対する天の助けだと思っています。埼玉スタジアムのスタンドが待っているから病気を治そう、そんな思いが通じたと思っています。
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