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ドーハの悲劇

2020-04-21 21:36:07 | ワールドサッカー
記憶ネタでラモス瑠偉を書こうとしましたが、ライバルチームのゲームメーカーということであまり覚えていなかったので、それならばラモスが活躍した当時の日本代表を語る上で欠かせない、1993年10月のW杯最終予選のイラク戦「ドーハの悲劇」を振り返ります。当時、日本代表を率いていたのがハンス・オフトで、当時の日本代表に「アイコンタクト、スリーライン」など基本を徹底しました。

また、当時の日本代表に吹いていた追い風は、ブラジルでプロとしてプレーしていたカズの日本復帰と、日本リーグで長年プレーしていたブラジル人MFラモスの日本帰化でした。当時36歳だったラモスは、「機械の国から来たゲームメーカー」とカタールの現地紙で話題になったほどでした。これを見て、本当に日本代表がW杯に行けるかもしれないと、思ったファンは多かったと思います。

もっとも、その最終予選は苦しいスタートでした。初戦のサウジアラビア戦に0-0で引き分けた日本は、勝利が必要だった2戦目のイラン戦を1-2で敗れました。途中出場の中山のゴールで1点を返し、中山がボールを拾ってセンターサークルに戻ったことで話題を呼びましたが、本人は「得失点差に貢献できたとすれば光栄」と真面目なコメントでした。

3戦目の共和国戦で3-0で勝利して一息つけた日本ですが、4戦目の相手は韓国でした。この試合が最終予選のターニングポイントでしたが、左からのクロスをゴール前で押し込んだカズのゴールで1-0と勝利し、日本のW杯出場は最終戦のイラク戦にかかることになりました。この試合は、負ければ鞭打ちという噂のあったイラクの勢いを感じながらの試合になりました。

日本が先制するもののイラクに追いつかれ、中山の決めた勝ち越しゴールは副審がオフサイドを見逃したラッキーな得点でした。そのまま2-1で迎えた後半のロスタイムに、事件は起こります。イラクボールのCKでしたが、相手は意表を突いてショートコーナーで来ました。カズがマークについていましたが振り切られ、そのクロスが柱谷がマークしていた6番でなく、予想外の16番オムラムに合ったことがその悲劇の理由でした。

オムラムのヘディングシュートに、日本GK松永は一歩も動けず、2-2と引き分けた日本は目前にしていたW杯を逃す結果になりました。ベンチに下がっていた中山の「何だよー」と寝転ぶ姿は何度も放送されたのでご存知の方も多いでしょう。それだけ、W杯に出るのは難しいと日本国民が皆知ることになる、一つの時代の転換点でした。

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