CBとしては異例の、スピードで相手との1対1に勝つことで輝きを放っていた、坪井慶介さんの記憶です。私が初めて坪井を見たのは、彼が新人だった2002年のレッズフェスタでした。当時から、大卒選手としては異例の坊主頭で、首から豚汁の代金を入れる料金箱を吊っていました。のちに、この坊主頭にはこだわりがあったことを知ることになります。
当時浦和を率いていたオフト監督は、浦和に3バックのマンツーマン守備を導入することにしていました。この戦術は、足が速くどこまでも相手FWを追い回してくれるタイプが必要で、坪井はその要求にマッチするCBでした。開幕戦から当たり前のように右ストッパーで試合に出ていた坪井は、そのシーズンをほぼ皆勤して1枚もイエローカードをもらわず、フェアプレー個人賞を受賞することになります。
もっとも、覚えているその年の坪井のプレーは、彼にとって苦いものでした。それは、10月の名古屋戦です。当時、オフト監督がエメルソン、トゥット、永井雄一郎の3トップを引いて、7連勝して勢いに乗っていた当時です。名古屋はFWウェズレイを前に一枚だけ残して守る極端な戦術で来ました。それでも、このウェズレイの単騎攻撃で、マークに来ていた坪井を振り切ってゴールを決められていました。それだけ、全盛期のウェズレイはいい選手だったという証明です。
その後は3バックの右ストッパーが彼の定位置になりました。坪井はスピードはあるものの、パスの精度があまり高くなく攻撃力に課題はありました。坪井がオーバーラップすると、そのスピードでスタンドは沸きますが、大抵横にいる鈴木啓太に短いパスを出して終わりというパターンでした。それでも、2007年のACL優勝では、右ストッパーとして相手の強力な外国人FWと渡り合っていました。
代表40試合はすべてジーコ監督時代です。ジーコ監督は坪井と宮本でCBを組ませることが多く、坪井が相手FWに当たり後ろを宮本がカバーする関係でした。ドイツW杯で1試合(豪州戦)出番を得ますが、この試合は足がつって途中交代と、彼にとっては苦い記憶だったでしょう。のちのオシム監督就任からは、世界はレッズで目指せるという理由もあって、異例の「代表引退」も宣言しました。
2014年限りで浦和を去った坪井は、湘南、山口とJ2にカテゴリーを下げても現役にこだわりました。40歳で現役を退き、今は解説者としてよく声を聴きます。今でもスリムで、どこかで趣味で体を動かしているのだろうなと思わせる、浦和にとっては懐かしいレジェンドの一人です。
当時浦和を率いていたオフト監督は、浦和に3バックのマンツーマン守備を導入することにしていました。この戦術は、足が速くどこまでも相手FWを追い回してくれるタイプが必要で、坪井はその要求にマッチするCBでした。開幕戦から当たり前のように右ストッパーで試合に出ていた坪井は、そのシーズンをほぼ皆勤して1枚もイエローカードをもらわず、フェアプレー個人賞を受賞することになります。
もっとも、覚えているその年の坪井のプレーは、彼にとって苦いものでした。それは、10月の名古屋戦です。当時、オフト監督がエメルソン、トゥット、永井雄一郎の3トップを引いて、7連勝して勢いに乗っていた当時です。名古屋はFWウェズレイを前に一枚だけ残して守る極端な戦術で来ました。それでも、このウェズレイの単騎攻撃で、マークに来ていた坪井を振り切ってゴールを決められていました。それだけ、全盛期のウェズレイはいい選手だったという証明です。
その後は3バックの右ストッパーが彼の定位置になりました。坪井はスピードはあるものの、パスの精度があまり高くなく攻撃力に課題はありました。坪井がオーバーラップすると、そのスピードでスタンドは沸きますが、大抵横にいる鈴木啓太に短いパスを出して終わりというパターンでした。それでも、2007年のACL優勝では、右ストッパーとして相手の強力な外国人FWと渡り合っていました。
代表40試合はすべてジーコ監督時代です。ジーコ監督は坪井と宮本でCBを組ませることが多く、坪井が相手FWに当たり後ろを宮本がカバーする関係でした。ドイツW杯で1試合(豪州戦)出番を得ますが、この試合は足がつって途中交代と、彼にとっては苦い記憶だったでしょう。のちのオシム監督就任からは、世界はレッズで目指せるという理由もあって、異例の「代表引退」も宣言しました。
2014年限りで浦和を去った坪井は、湘南、山口とJ2にカテゴリーを下げても現役にこだわりました。40歳で現役を退き、今は解説者としてよく声を聴きます。今でもスリムで、どこかで趣味で体を動かしているのだろうなと思わせる、浦和にとっては懐かしいレジェンドの一人です。