今日、病院内で、ノーベル賞受賞者大村智教授の本「大村智ものがたり」を読んでいました。この本は少年向きの本で、難しい言葉にはルビが振ってあり、私は1時間半ほどで一気に読み切りました。大村さんの、イベルメクチンを発見してからアフリカの2億人を失明の危機から救った話は既に有名ですが、こういう伝記は有名になる前の、前半生が面白いものです。
この本によると、大村先生は山梨県韮崎市の農家に育ち、少年時代は実家の農業を手伝う日々でした。この農業が大村先生の基礎になっているところは面白く、のちに実験を効率よく進める手法や、手先の器用さが役立ちました。人生、何がどこで幸いするかわからないですから、その時でやるべきことをきちんとやっていた、大村先生らしいエピソードです。
また、大村先生の時代だった終戦直後は、大学に進学するのは困難だった時代でした。そんな時代に、大村先生のきょうだい5人が全員大学に進学できたのは、家業の養蚕業が理由でした。大村先生の母親が、丹念に養蚕のやり方をノートにメモしており、生産性を上げて何度もコンテストで優勝した実績を誇っていたことが、学費に困らなかった理由です。
大村先生はスポーツ少年でした。高校はサッカーで有名な名門、韮崎高校で、大村先生自身もサッカー部に在籍したことがあるのは意外な事実です。もっとも、身内にサッカー部に入りながら、肺結核で亡くなった人物がいたという理由で、祖母が猛反対したのでサッカー部は辞め、卓球とスキーに打ち込むことになります。
スキーでは、クロスカントリーで山梨県大会で優勝するほどの腕前だった大村先生、そのときに養った体力が、のちの実験に向かう体力を生みました。勉強に本格的に打ち込んだ理由が、墨田工業の夜間部教師時代に、苦学する教え子を見て、自分も勉強すると考えて昼間の空いている時間を使って東京理科大の修士課程に進みました。
こういう、偉大な発見をする人物は、出会いに恵まれています。アメリカ留学時代にも、何校からも客員教授のオファーがありながら、最初にオファーを出してくれたところに行くと、そのボスが偉大だったという運もあります。
また、ノーベル賞は「長生きの賞」でもあります。いくら偉大な発見をしても、ノーベル賞は生きている人しか受賞できないので、大村先生が80歳の今でもお元気だからこその賞だとも感じます。
この本によると、大村先生は山梨県韮崎市の農家に育ち、少年時代は実家の農業を手伝う日々でした。この農業が大村先生の基礎になっているところは面白く、のちに実験を効率よく進める手法や、手先の器用さが役立ちました。人生、何がどこで幸いするかわからないですから、その時でやるべきことをきちんとやっていた、大村先生らしいエピソードです。
また、大村先生の時代だった終戦直後は、大学に進学するのは困難だった時代でした。そんな時代に、大村先生のきょうだい5人が全員大学に進学できたのは、家業の養蚕業が理由でした。大村先生の母親が、丹念に養蚕のやり方をノートにメモしており、生産性を上げて何度もコンテストで優勝した実績を誇っていたことが、学費に困らなかった理由です。
大村先生はスポーツ少年でした。高校はサッカーで有名な名門、韮崎高校で、大村先生自身もサッカー部に在籍したことがあるのは意外な事実です。もっとも、身内にサッカー部に入りながら、肺結核で亡くなった人物がいたという理由で、祖母が猛反対したのでサッカー部は辞め、卓球とスキーに打ち込むことになります。
スキーでは、クロスカントリーで山梨県大会で優勝するほどの腕前だった大村先生、そのときに養った体力が、のちの実験に向かう体力を生みました。勉強に本格的に打ち込んだ理由が、墨田工業の夜間部教師時代に、苦学する教え子を見て、自分も勉強すると考えて昼間の空いている時間を使って東京理科大の修士課程に進みました。
こういう、偉大な発見をする人物は、出会いに恵まれています。アメリカ留学時代にも、何校からも客員教授のオファーがありながら、最初にオファーを出してくれたところに行くと、そのボスが偉大だったという運もあります。
また、ノーベル賞は「長生きの賞」でもあります。いくら偉大な発見をしても、ノーベル賞は生きている人しか受賞できないので、大村先生が80歳の今でもお元気だからこその賞だとも感じます。