内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

オンリー・サイテーション(1)パスカル『パンセ』より

2024-03-21 21:25:15 | 写真

 25日・26日のシンポジウムでの発表を控え、今日から26日までオンリー・サイテーション仕様になります。引用は短かめ、ノー・コメント、です。過去の写真の再掲載もなし(そんなの、そもそも意味なかったしね)。つまり、なしなし、です。よろしく。

Quand tout se remue également, rien ne se remue en apparence, comme en un vaisseau. Quand tous vont vers le débordement, nul n’y semble aller : celui qui s’arrête fait remarquer l’emportement des autres, comme un point fixe.

Pascal, Pensées, Sellier 577, Lafuma 699, Brunschvicg 382.

すべてが一様に動いているときには、何も動いているようには見えない。ちょうど船の中でのように。万人が放埒に走るときは、誰もそうしているようには見えない。立ち止まっている者だけが、固定した一点のように、他の人々の行き過ぎを明らかにする。

パスカル『パンセ』(岩波文庫、塩川徹也訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「エモい」発見 ― 辞書散歩の愉楽へのお誘い

2024-03-20 17:41:25 | 日本語について

 今日、その他の注文本といっしょに小学館の『新選国語辞典』(第十版、二〇二二年)が日本から届いた。手元にある小型国語辞典はこれで五冊目になる。ただ言葉の意味や用法を調べるだけなら、大抵の言葉については紙の辞書を引くまでもなくネットで検索すれば事足りる。だから今回も必要のために購入したのではない。辞書オタクや辞書マニアと言えるような「深み」や「高み」にはとても至りつけないが、「辞書を読み比べるのがちょっとした趣味です」くらいは私にも言えるかも知れない。
 手元の小型国語辞典のなかで新語に強いのはなんといっても『三省堂国語辞典』(第八版、二〇二二年)だが、従来からある言葉の新用法に関しては『明鏡国語辞典』(第三版、二〇二一年)が類書に見られない的確な語釈を示してくれることがある(例「だいじょうぶ」2023年9月4日の記事参照)。今回購入した『新選』は類書中最大級の収録語数を誇る。
 先日話題にしたNHKドラマ『舟を編む ~私、辞書を作ります~』の第一話のなかに、社員食堂で同僚の女子社員三人と昼食を取りながらおしゃべりしている岸辺みどり(池田エライザ)に向かって、通りかかった馬締光也(野田洋次郎)が、今あなたが使った「あがる」とはどういう意味でしょうかと出し抜けに尋ねるシーンがある。この場面での「あがる」には主語はなく、ただ「あがるぅ~」などと語尾を伸ばし、それと同時に両拳を頬のあたりまでもってくる動作がそれに伴う。「気分が高まる」というほどの意味で使われる。この用法を乗せているのは『三省堂国語辞典』だけであった。ただし俗用扱いで、用例は「あがる春ぐつ」。履くと春らしい気分が高揚する、というほどの意味であろう。
 日本で直接観察する機会がないので推測の域を出ないが、主に若い女性がこの意味での「あがる」を使うのではないだろうか(男の子もつかうのかな?)。これに近い用法だが、ちゃんと主語を伴っていた用例をはじめて聞いたのは、是枝裕和監督の『海街diary』のなかで、次女の佳乃(長澤まさみ)が異母妹のすず(広瀬すず)とふたりきりの場面でペディキュアを塗りながら「こうすると、気分あがるよ」というセリフとしてだった。映画のストーリーの展開上は特に重要な場面というのではなかったが妙に印象に残った。
 『新選国語辞典』の「あがる」の項で気づいたことは、最後の用法として古語の「昔にさかのぼる」の意を挙げ、「上がりての世」と用例も示していることだった。
 そこで「なつかしい」を引いてみると、やはり古語「なつかし」の用法が〔「動詞「懐く」を形容詞化させたもので、心が強くひきつけられて、そばにいたい、身近においておきたいという気持ちをあらわすことば〕と説明されており、さらに語釈を「いとしい。かわいい。好ましい。」と「人なつっこく甘えた感じだ。親しい感じだ。」と二つに分け、それぞれ万葉集と源氏物語が一例ずつ用例も挙げている。『角川必携国語辞典』も古語に強いが、「なつかしい」の項に古語の用例までは挙げていない。
 さらに驚いたのは、古語「えも」(副詞)が単独で立項されていることである。

〔副詞「え」と係助詞「も」〕①よくも。よくまあ。「恋ふと言ふはえも名づけたり」〈万葉〉②〔打ち消しの語を伴って〕どうも…(できない)。なんとも…(できない)。「えもいはぬにほひ」〈徒然〉

 これに続いて古語の連語「えもいわず[えも言はず]」も立項され、「〔副詞的に用いて〕なんとも言いようがないほどすばらしく」と語釈が示されている。そして、その次に連語「えもいわれぬ【えも言われぬ】」が来る。文章語とされ、「ことばにうまく言えないほどの。なんとも形容しがたい。「―おもしろさ」「―美しさ」」となっている。
 これら三語が連続して立項されていることで「えもいわれぬ」がどこから来ているかがわかる。ちなみに他の手元の国語辞典は「えもいわれぬ」のみを立項している。
 面白いことに、『三省堂国語辞典』と『明鏡国語辞典』の「えもいわれぬ」の直前の項が「エモい」なのである。

エモ・い(形)〔俗〕心がゆさぶられる感じだ。「冬って―よね」〔「エモな気持ち」のようにも言う〕由来 ロックの一種エモ〔←エモーショナル ハードコア〕の曲調から、二〇一〇年代後半に一般に広まった。古語の「あはれなり」の意味に似ている。派 ーさ・『三省堂国語辞典』

エモ・い[形]〔新〕感情が強く揺すぶられるさま。感動的だ。情緒的だ。「―曲[映画]」△「エモーショナル」を形容詞化した語。『明鏡国語辞典』

 『明鏡』のほうは冷静な記述だが、『三国』のこの項の執筆者、執筆時「してやったり」の気分ではなかったろうか。
 こんな発見があるから、辞書散歩は楽しいですよ。


「自由であり、それゆえに傷つきやすく壊れやすいが、常に癒すことができる関係」― 『生きる希望・イバン・イリイチの遺言』より

2024-03-19 11:26:14 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた渡辺京二の「最後のイリイチ」という書評的エッセイには、「ケア」という言葉が三度出てくるが、それは・専門化・制度化されたケアのことであり、イリイチの批判の対象としてである。当該の二段落を引用しよう。

イリイチは論壇に登場して以来一貫して、行政官僚や各種専門家によるケアの提供が、人びとから自立的かつ共同的な生存の基礎を奪い、人びとを際限のない、かつまたけっして満たされることのないニーズに憑依された存在に変えてしまうと主張してきた。彼によれば現代文明の悲惨の根元はここにあったのである。

イリイチの言う専門家のケアはマルクス主義その他の社会学や精神分析をも含んでいる。『遺言』のなかで彼は言う。「今日の社会学的想定は、精神分析であれ、マルクス主義であれ、ある人のその人自身に関する感覚を、イデオロギー、社会的条件、氏素性、そして教育によって形作られた幻影であるとしています」。すなわち学者とか思想家とか呼ばれる専門家は、われわれが何者であるかということまで教えこむ。こういったケアは、イリイチによれば人びとから他者と直面することによって生ずる驚きを奪い、ひいては人間の自由と愛の根拠を突き崩すのである。

 このような専門化・制度化されたケアは、一人の人をいわば記号化あるいはコード化してしまい、記号・コードの体系に応じた対応・処置・処理の対象へと変換してしまう。その対応・処置・処理は一定の有効性を持っているだろう。しかし、そこにはもはや他者はいない。それぞれ個別である他者に向き合い、その人の表情や身振りが表現しようとしていることに注意をはらい、予期せぬ反応に驚かされることも含めて、時を分かち合うということはもはやできない。
 イリイチは『生きる希望・イバン・イリイチの遺書』のなかで、聖書の寓話のなかのサマリア人は新しい人間関係の成立を象徴しているという。その関係とは、「自由であり、それゆえに傷つきやすく壊れやすいが、常に癒すことができる関係」(a relationship which is free, and therefore vulnerable and fragile, but always capable of healing)であり、それはちょうど自然は常に治癒の過程にあると当時考えられていた」(just as nature was then conceived as always in the process of healing)ことと対応していると言う。
 渡辺京二は、イリイチの「遺言」をそのまま鵜呑みにすることはできないとしたうえで、自分なりの遍歴を踏まえて、「彼の洞察の到達点が妙に近代というものの勘どころを押さえていることに、スリリングな感動を覚える」と言う。
 「というのも、知識人の出現とそのいとなみの歴史を私なりに理解することで、それ自体はよき意図以外の何物でもなかったものが最悪のものを産みだすに至るという、イリイチとおなじ逆説に私もたどりつくからである。」
 ここで知識人という言葉を使うのが適切かどうかについては留保したく思うが、それぞれの分野で専門的知識を独占的に所有している人たちが、たとえ初発の動機が万人の生活の改良という純粋な「善意」からであっても、いやそうであればこそ、最悪のものを生み出してしまうという逆説には否定しがたいところがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「最善の堕落は最悪なのである」― イバン・イリイチ『生きる希望・イバン・イリイチの遺言』より

2024-03-18 15:08:35 | 読游摘録

 3月14日の記事では、ケアという問題が現代社会の諸問題と密接に繋がっているという話をしたが、それらの問題が何でもかんでもケアの問題に一元化できると考えているわけではもちろんない。とりわけ、ある領域においてケアの必要性が認知され、それが制度化・法制化されると、今度は本来ケアであったものが別のものに変質してしまうという危険がいつでもつきまとっていることを無視することはできない。
 そんな思いとピタリと符合する一節を渡辺京二のエッセイ「最後のイリイチ」(『民衆という幻像―渡辺京二コレクション2 民衆論』ちくま学芸文庫、2011年所収)のなかに見いだした。このエッセイは、2007年に『生きる希望・イバン・イリイチの遺言』(藤原書店、2006年。原題 The Rivers North on the Future: The Testament of Ivan Illich, 2005)の書評として発表された。
 このイリイチの本のはじめの方にイエスが語るよきサマリア人の寓話が出てくる。それ自体はよく知られた寓話であるからここに繰り返さない。この寓話についてイリイチは次のような考察を示す。以下は渡辺京二の同エッセイからの摘録である(括弧内はイリイチの本の原文からの引用)。
 この寓話に出てくる祭司もレビ人も神殿と共同体の儀式に属している人間である。彼らが傷ついた男を看過したのは彼が倫理の伝統的基盤たる同族ではなかったからだ。見過ごすことこそ彼らの倫理だったのである。ところがサマリア人はイスラエルの北に住むよそ者である。その彼が傷ついた男を介抱したのは、傷ついたユダヤ人をパレスチナ人が介抱するようなものだ(Perhaps the only way we could recapture it today would be to imagine the Samaritan as a Palestinian ministering to a wounded Jew.)。このサマリア人は、「自分の同族を優先する自文化中心主義を越え出ているばかりでなく、自分の敵を介護することで一種の国家反逆罪を犯している人間」(someone who not only goes outside his ethnic preference for taking care of his own kind, but who commits a kind of treason by caring for his enemy)だとイリイチはいう。
 つまり、人間の存在の新たな地平がこのとき開けたのである。わたしの隣人とはわたしが選ぶ人のことであり、隣人という新たな人間関係は二人の間でなされる自由な創造であり、わたしたちの決断のみに依存する関係なのだ。これこそが他者のうちにキリストを見る愛の受肉である。そして近代の創造物たる教育・福祉・公正の諸制度は、すべてキリスト教が開いた隣人への愛という新しい地平のその後の展開にほかならない。
 話がこれで終わりならば、カトリックの枠組みを超えるものではない。ところが、イリイチはもっと遠くまで行く。この新しい地平は制度化という危険を伴っていたという。「この新たな愛を管理したい、場合によっては、法で定めたい、それを保証する制度を創設したい、そしてそれに反対する者を犯罪者とすることで制度を保護したいといった誘惑」(a temptation to try to manage and, eventually, to legislate this new love, to create an institution that will guarantee it, insure it, and protect it by criminalizing its opposite)という危険である。これは当然新しい権力を要求する、「最初にまず教会、のちにはその鋳型に刻印された世俗の諸制度」が権力となる。近代のルーツのどこを探しても、見出されるのはキリスト信仰の召命を制度化し法制化し管理しようとする教会の試みなのだ。
 つまりイリイチは、教育・福祉・公正のために設けられた諸制度が生み出す現代の地獄は初原におけるキリスト的隣人愛の変質・堕落の結果だと言っているのだ。「最善の堕落は最悪なのである」(perversio optimi quae est pessima [the perversion of the best which is the worst].)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


魂へのケアとしての哲学

2024-03-17 15:19:18 | 哲学

 「ケアの倫理」という表現は近年日本語でもよく見かけるようになったが、「ケアの哲学」という表現はそれほどでもないようだ。
 私がここでいう「ケアの哲学」とは、ケアとは何かという哲学的な問い、種々のケアについての哲学的考察という意味ではない。ケアをその核心とした哲学という意味である。何をケアするのか。魂である。
 ソクラテスの哲学は、まさに魂へのケアである。実際、『ソクラテスの弁明』の英訳では、原文の動詞 ἐπιμελέομαι に対してcare about という訳語が用いられている。日本語では「配慮(する)」と訳されることが多いようだ。
 『ソクラテスの弁明』のなかで、ソクラテスが法廷においてアテナイ人たちに向かって、たとえ死刑になるとしても自分がなぜ知を愛し求めることを止めないのか説明している箇所を読んでみよう。それは端的な「哲学宣言」にほかならない。光文社古典新訳文庫の納富信留訳を引用する。

アテナイの皆さん、私はあなた方をこよなく愛し親しみを感じています。ですが、私はあなた方よりもむしろ神に従います。息のつづく限り、可能な限り、私は知を愛し求めることをやめませんし、あなた方のだれかに出会うたびに、勧告し指摘することをけっしてやめはしないでしょう。いつものように、こう言うのです。
「世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大でもっとも評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思慮や真理や、魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは」と。
 もしあなた方のだれかがこれに反論して、自分はきちんと配慮していると主張したら、私はその人をすぐに立ち去らせることなく、私も立ち去らずに彼を問い質して、吟味して論駁することでしょう。もしその人が徳を備えていないのに、もっていると主張しているように私に思われたら、もっとも価値あるものを少しも大切にせずにくだらないものを大切にしていると、その人を非難することでしょう。このことを、若者でも年長者でも、私は出会った人に行うのです。他所の人にも街の人にも行いますが、私に生まれが近い分、この街の人々により一層そうするでしょう。
 これは神が命じておられることなのです。よくご承知ください。そして、私の神に対する奉仕ほど大きな善は、このポリスであなた方にはまだ生じていないと、私は考えるのです。そう言いますのは、私は歩き回って、あなた方の中の若者であれ年長者であれ、魂を最善にするように配慮するより前に、それより激しく肉体や金銭に配慮することがないようにと説得すること以外、なにも行っていないからです。こう言ってです。
「金銭から徳は生じないが、徳にもとづいて金銭や他のものはすべて、個人的にも公共的にも、人間にとって善きものなるのだと」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「たとえ寄り添うことしかできないとしても」―沖田×華『透明なゆりかご』(7)より

2024-03-16 19:17:54 | 読游摘録

 沖田×華の『透明なゆりかご 産婦人科医院看護師見習い日記』は、ご本人の若き日の産婦人科での経験が基になってはいるが、漫画のテーマとするにあたっての医療現場の丁寧な取材と周到な情報収集、自分が看護師として働いていたときの医療事情と漫画家として約二十年後にそれをテーマとするときのそれとのギャップがきちんと説明されていて、読者が出産をめぐるさまざまなケースを単純に一般化しないようにきめ細かく配慮されている。
 全九巻を読み通して、一方では、出産をめぐる事情はこんなにも多様であることを教えられ、他方では、それらそれぞれに対応する看護師さんたちの現場での苦労についていくらかでも知ることができた。
 無事に子供が生まれ、母子ともに健康であっても、それがそのまま幸せとは限らない。さまざまな事情で中絶を選択する場合もある。独りで産んで、独りで育てていくことを選択することもある。生まれてきたのに数日しか生きられない子もいる。
 看護師として無力感に苛まれるときもある。第七巻の「出産の後で」の後編には、NICUで治療を受けていた新生児が急変して死んでしまう話が出てくる。その終わりの方に、見習い看護師である若き日の沖田×華さんと看護師長の次のような会話がある。

……私…悔しいです… こんなに近くにいたのに力になれなくて… 
無力感でいっぱいです… 
看護師ってこういう時 何もできないものなのでしょうか?

そうね… 
妊娠 出産は個人的なものでもあるから どうしても踏み込めない領域があるの
結局 どんなケアをし尽くしたとしても「それで十分」ということはないの
私たちは患者さんが背負っているものを感じとりながら 自分たちの仕事を全力で果たす… たとえ寄り添うことしかできないとしても それは大切な使命だと、私は思うわ…

 そもそも、ケアとは、ここまですればOKというものではないのかも知れない……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「終わりのないケア」― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』より

2024-03-15 15:29:52 | 読游摘録

 一方である特定の問題について系統的な文献調査を行いつつ、他方で自由な読書のなかで出会った言葉を拾い集めていくと、必ずとも言えないし、いつそうなるかもわからないが、両者が予期せぬ仕方で交叉して電光を発し、それがそれ以後の探究の導きの光になることがある。
 あるいは、最初に読んだときには特に注意を引かなかった言葉が、それを含んだ同じテキストを新たな問題意識のなかで読み直すとき、今度は逆にテキストから浮き上がり目に飛び込んでくることがある。
 今回ケアについて考えはじめてから、それ以前にあれこれ読んだ本のなかからケアと関係のある本を再び紐解いてみて、はっとさせられることが少なくない。そんな気づきを与えてくれた本から摘録しておきたい。
 一冊目は西村ユミ氏の『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫、2018年)(2020年7月29日からの連載2022年7月28日の記事を参照されたし)。四年前にこの本を最初に読んだときは、知覚経験の前意識的な層における対話の可能性という問題に特に関心をもって読み、それに付随して、なぜ言語的対話が不可能になった患者のことを「植物状態患者」というのかということが気になりだし、それがきっかけで植物とは何かという問題をいくらか系統的に考えはじめ、その結果として、「他性の沈黙の声を聴く 植物哲学序説」という論文を『現代思想』に寄稿する機会にも恵まれることになった。
 今回は、本書の副題にもあるように、「看護ケア」が導きのキーワードである。今日のところは、一箇所だけ引用する。私にとってはそれだけで充分にインパクトのある一段落だからである。

 植物状態患者の看護実践においては、医学的治療による回復が不可能とされていても、意識の回復と日常生活行動の自立、そして社会復帰をめざした関わりを続けている。例えば、問いかけに対する反応の見られなかった植物状態患者に、車椅子乗車訓練や昼夜睡眠覚醒訓練などを行った結果、発語や表情の変化が見られるようになった、という成果が報告されている。しかしながら、これらの関わりによって画期的な回復を見たり、社会復帰に至った者はごくごく少数であり、多くの患者たちは今なお、無言のまま静かに横たわっている。そして看護師たちは、このような患者に終わりのないケアを続けている。(22頁)

 今回、引用の最後の一文にはっとさせられた。このケアは医学的な治癒や回復を目的としたものではない。意識の回復の見込みはまったくゼロというわけではなく、それをどこかで願いながらのケアではあるかもしれない。しかし、それを目的としたケアではない。なにか意識より深いところでの人と人との繋がりということに関わっていると思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


なぜ私はケアをめぐる諸問題に関心をもつようになったのだろうか

2024-03-14 20:18:04 | 雑感

 なぜケアをめぐる諸問題に私は関心をもつようになったのだろう。
 とても漠然とした感じに過ぎないが、ひとつの社会がうまくまわるためには種々のケアが必要なのに、それがうまくいっていないところがいたるところにあると思いはじめたことがきっかけになっている。
 そして、そのうまくいっていない原因がどこかでケアとは別の問題にすりかえられてしまい、そっちばかりが取り沙汰され、ほんとうの問題は解決されないままになっている。あるいは、ほんとうに為すべきことが為されないままになっている。それで多くの人が生き難さを感じている。そんな風に思うようになったことがケアへの関心を強めたと思う。
 ここでいうケアとは、医療や介護や福祉など、それぞれに専門性をもった領域でのそれだけのことではない。誰にでも関わりのある日常生活のなかでのケアのことである。それだけではなく、これもまたケアだということが意識されずに日々実行されたりされなかったりしていることも広義のケアには含まれている。さらに、今まではケアの対象ではなかったもの、そうとは考えられてこなかったものへのケアの必要性という、現代になってはじめて問題となっていることがらも含まれる。
 こんな風に漠然と考えていると、現代世界のすべての問題は、なんらかの仕方でケアの問題と関係していると言えそうに思えてくる。
 しかし、こんな模糊とした思いと感じにとどまっているだけでは、それより先に問題を考え進めることはできない。無知な人間が独り悶々としているだけでは何もはじまらない。実践の伴わない机上の空論をいくら論ったところで、無益であり、時間の無駄である。
 そんな停滞状態を突破する一つの手がかりとして、ある具体的な実践の現場を経験してみることは有効かつ有益であるに違いない。そうすることで気づけることは多々あるだろう。
 さしあたり私に今すぐはじめられそうなことは、ケアの問題が歴史的にいつどのような文脈で登場し、そこで何が問題にされ、どのように論じられ、以後今日までケアについての理論と実践がどのように展開されてきているか、少し勉強してみることだ。このような勉強も無駄ではないと思う。その勉強のための教材には事欠かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「きみ、きっといい奥さんになるね」はセクハラ発言か ― K先生『悔恨懺悔録』(没後出版)

2024-03-13 23:31:24 | 雑感

 三年前の三月、フランスの極東、ドイツとの国境の都市S市のS大学で開催されたあるシンポジウムでのことである。
 初日の研究発表の後、大学会館ホールで立食形式のレセプションが行われた。発表者の一人であったK先生もそれに出席した。先生の発表は好評で、レセプションの席でも主催者や他の発表者から称賛の言葉をもらって、K先生はいたくご機嫌であった。紙皿に乗せた和食に舌鼓を打ち、プラスティック製のコップになみなみと注がれた吟醸酒を味わいながら、歓談に打ち興じた。
 会酣、紙皿に盛られた料理もほぼ食べ尽くしたとき、酔いも手伝ってか、K先生は皿を取り落とし、皿の上にまだ少し残っていた食べ物の欠片が足元に散らかってしまった。すると、まるでそれを予期していたかのように、レセプションのアシスタントの一人として臨時雇いされていた修士の女子学生が紙ナプキンを何枚か手に持ってすばやく足音もなく近づいてきて、あっというまに散らかった食べ物の欠片をきれいに拭き取って始末してくれた。
 動作に一切無駄がないその手際のよさに感動したK先生はその学生に「ありがとう。きみ、よく気がつくねぇ」とお礼の言葉をすぐに述べたが、それだけは感謝したりないと思い、冗談半分にさらにこう一言付け加えた。「きみ、きっといい奥さんになるね。」
 言われた学生は「そんなことありませんよぉ」と笑ってその場を立ち去った。
 そのときはそれだけのことで、和やかな雰囲気のままレセプションはお開きとなった。
 K先生はほろ酔い気分で帰宅し、パジャマに着替え、さて布団に入ろうとしたとき、「あれ、あれれ、あれー、あれって、ひょっとしてまずかったのかなぁ」と、先ほど学生に最後に言った言葉が俄に気になりだした。「あれって、いわゆるセクハラ発言だったのかなあ。」
 というのも、あのような発言の背景には「女性は結婚して、旦那さんのために尽くすのが務めであり、幸せなのである」という旧時代の家父長的男尊女卑的価値観が蟠踞している、と糾弾されても仕方がないのではないかと気になりだしたのである。その晩はそのことが気になってろくに眠ることができなかった……というのは嘘で、五分後には眠りに落ちていた。
 しかし、翌日以降もずっとそのことが気になり続けていた。そこで、日本女性に出会うと、上記のシチュエーションを説明して、「あなたはどう思いますか。これってセクハラ発言だと思う?」と聞くようになった。
 聞かれた側の反応はどうかというと、ある三十代後半のバツイチの女性には、言下に、「完全にアウトです」と軽蔑の眼差しとともにバッサリ切り捨てられた。他の三十代の独身女性からも冷静に「アウト」の判定を受けた。私とほぼ同世代の女性に聞くと、「今はやっぱりアウトだと思うけれど、自分が若い頃に彼女のような立場でそう言われたら、ちょっと嬉しかったかも」と条件付き「セーフ」の回答を下賜してくださった。二十歳の学生に聞いたら、「べつに気にしませんけど」というので、上記のような価値観が背後にあるって感じがしなかいとさらに聞くと、「そう言われれば、そうかも知れないですけど、私はそうまでは思いません」という返事で、隣で話を聞いていた女子学生も同意見とのことであった。ところが、その隣にいた男子学生は、「やっぱ、まずいっすよねぇ、それ」という意見であった。
 K先生は、この聞き取り調査を今後も機会あるごとに継続してくつもりであるが、現時点での総合的自己判定は「アウト」である。


「ケア」という言葉の普及とその背景について

2024-03-12 13:09:09 | 哲学

 「ケア」という言葉が日本社会で一般に広く使われるようになったのはいつのころからなのか、正確なところはよくわからないが、『新明解国語辞典』(第八版、二〇二〇年)の第二の語釈「老齢者・身体障害者・病人や精神的ショックを受けた人などに対する支援や介護・看護」という意味で広く使われるようになったのは比較的最近のことなのではないだろうか。
 この意味での「ケア」は、医療の現場での多かれ少なかれ専門性を前提とする介護や看護という意味での用法よりもはるかに広い範囲にわたって使われるようになっている。この広義の「ケア」にピタリと対応する日本語がないから、「ケア」という英語がそのまま使われているのだろう。
 他方、介護保険制度の施行とともに、「ケア‐プラン」「ケア‐マネージャー」等の和製英語が生まれ、それも「ケア」という言葉の普及に拍車をかけたということもあるだろう。
 「ケア」という言葉は、場合・場面に応じて、「手入れ」「手当て」「管理」「心づかい」「配慮」「世話」「気にかけて対応すること」等の意味で使われるが、人に対するケアという広義で使われるようになったことは、災害等で大きなショックを受けている人に「寄り添う」という動詞が頻繁に用いられるようになったこと、介護を巡る諸問題がメディアでクローズアップされるようになったこと、性的マイノリティーに対する差別が社会問題として取り上げられるようになったこと、様々な社会的弱者の厳しい現実が広く知られるようになったことなどと無関係とは思われない。最近メディアでよく目にする「ヤングケアラー」という言葉も広義の「ケア」の普及を前提としている。
 それだけではなく、何らかのケアを必要とする人とそのケアを実行する人という一方通行的な枠組み自体が問い直され、人と人との基本的な相互関係性としてのケアということが倫理学の問題として取り上げられるようになっていることも、広義の「ケア」に関連する諸問題と連動していると思われる。
 フランス語にも実は英語の「ケア」にちょうど対応する語がない。十数年ほど前から、care という英語をそのまま使っている出版物が目立って増えている。Care Studies というタイトルの叢書さえPUFから刊行されている。
 Care の倫理が正面から取り上げられるようになったのは、一九八二年にキャロル・ギリガンの In a different voice(日本語訳『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』風行社、二〇二二年)が出版されてからのことで、そのフランス語訳は四年後の一九八六年に出版されている。これはフランスの慣例からするとかなり早い翻訳なのだが、それはフランスで活発なフェミニズムの流れのなかでのことで、ケアの問題の文脈で広く取り上げられるようになったのはやはり最近十数年のことである。
 このケアの倫理を政治の問題として取り上げたのが一九九三年に出版されたジョアン・トロントの Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care である。
 フランスでは、Corine Pelluchon がアメリカで上記の両者によって展開されたケアの倫理に対して一定の積極的評価をしつつ、自身が展開する éthique de la vulnérabilité をそれに対置している(Éléments pour une éthique de la vulnérabilité. Les hommes, les animaux, la nature, Cerf, 2011 ; Réparons le monde. Humains, animaux, nature, Rivage poche, 2020)。
 これら著作を通覧しつつ、かつ現在の世界が直面している諸問題、特に、深刻な生態系破壊を考えるとき、人と人の間のこととしてだけではなく、生き物すべてに対して、そして自然に対して、ケアが地球規模での中心的な課題であり、その諸側面に日々の生活のなかで私たち一人一人が直面していることが自ずとわかる。