内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

万物照応の瞬間の壊れやすさと儚さ、あるいはマイスター・エックハルトにおける文学的美

2016-08-22 08:17:56 | 読游摘録

 昨日の記事では、言表不可能なものに迫ろうとする表現においてヴァージニア・ウルフとマイスター・エックハルトとが親近性を有するという Mangin 氏の主張に関して私は同意しがたく、批判的な言辞を弄した。
 一昨日と昨日取り上げた段落の直後の段落で、同氏は、エックハルトの述作に見られる表現に話を戻し、独語説教からのいくつかの引用を重ねながら、エックハルトが言語の不十分さを自覚しつつどのように言表不可能なものへと迫ろうとしているかを例証しようとしている。その例証自体は、もはやウルフとの比較は抜きにして検討することができる。
 氏は、その段落で、多くの専門家たちによってエックハルトに帰されている唯一の詩(ラテン語で書かれた同詩の注釈において Granum sinapis[『芥子種』]という題が付されている)に特に行数を割いている。「詩において、作者(=エックハルト)は、きわめて簡素な仕方で神の現前とその把握不可能性との間の緊張を表現している。」(op. cit., p. 31) 
 その詩の最終節において、何かが言葉の覆いを貫いて己自身を語り始めるに至る。それは、人と神との、本来あまりにも互いに近い人と神との、壊れやすく儚い照応の瞬間である。その詩の最終節で「私」は神にこう呼びかける。「私があなたから逃れれば、あなたは私のもとへと至る。私が己を棄却すれば、そのとき私はあなたを見いだす。」
 言葉による表現は、しかし、この照応の瞬間を持続させることはできない。ましてやそれを永遠化することはできない。言語は生の経験に対する距離を導入してしまう。生はまたしても私たちから逃れてゆく。しかし、まさにこの照応の瞬間の壊れやすさと儚さがこの詩に文学的な美しさを与えていると Mangin 氏は言う。





















































言い表し難い生の奥処 ― ヴァージニア・ウルフとマイスター・エックハルト(二)

2016-08-21 06:49:45 | 読游摘録

 昨日の続きで、Maître Eckhart, Sermons, traités, poème. Les écrits allemands, traduction de Jeanne Ancelet-Heustache et Éric Mangin, introduction et notes d’Éric Mangin, Éditions du Seuil, 2015, 864p. の序論の中でヴァージニア・ウルフが取り上げられている段落の続きを読む。
 生を表現することの困難さを実感し、その表現にとっての言葉の不十分さを自覚し、それにもかかわらず書き続けることで、書く者は、何ものかがそこで本当に現前する存在の奥処へと降りてゆく。
 すると、ある時突然に、「共感」(« communion »)が生じる(この仏語はカトリック世界では第一義的に「聖体拝領」を意味する)。それは、諸々の他者及び万物との邂逅である。しかし、それは壊れやすく儚い一致でしかない。
 その瞬間、時間の流れは一時的に止まり、恒常的な何ものかが私たちのうちに降臨する。
 ヴァージニア・ウルフの作品は、真実へとさらに一層近づくことを一個の人間に可能にする現在の瞬間の力を強調する。その現在の瞬間の力は、それによって真実へと近づくことで、生をまさにあるがままに愛することを可能にする。それがもたらすものは、生に対する同意であり、生への頌歌でさえある。« La vie est agréable, la vie est belle. »
 序論の筆者 Mangin 氏は、ヴァージニア・ウルフとマイスター・エックハルトとの間に語彙における驚くべき親近性を認め、生を表現することに対する同じ困難を両者の述作の中に見出している。
 しかし、なぜ、Mangin 氏は、マイスター・エックハルトの思想を解説する序論の中に一頁余りも割いてヴァージニア・ウルフに言及したのか、結局のところ、私にはよくわからない(上田閑照氏のようにシモーヌ・ヴェイユに言及するのならばよくわかるのだが)。なぜなら、まさに氏がそれを見出したと信じたところで両者は決定的に乖離するとしか私には考えられないからだ。
 一切からの離脱、そして神性への突破を説くエックハルトと、生への高揚と絶望との間に終生引き裂かれ続け、悲劇的な最後を遂げるウルフとの間にあるのは、その語彙的親近性にもかかわらず、二つの異質な精神的気圏を隔てる深淵であろうと私は考える。
























































言い表し難い生の奥処 ― ヴァージニア・ウルフとマイスター・エックハルト(一)

2016-08-20 11:08:39 | 読游摘録

 昨日紹介したマイスター・エックハルト全ドイツ語著述仏訳の巻頭に置かれた Eric Mangin による序論にヴァージニア・ウルフの作品への言及が見られる段落が現れるのは、人間の知性による表現が不可能な神性とまさにそれゆえにこそ魂のうちに自覚されるその現前との間の緊張関係が問題とされた段落の直後である(op. cit., p. 29-30)。それは、そのような緊張関係が文学における深い直観においても見られると序論の筆者は考えるからである。
 主に参照されている作品は、ウルフの代表作の一つ『波』である。六人の男女のモノローグからなり、それぞれのモノローグで語られるのは自分以外の人物たちについてで、己自身については語られないという極めて特異な形式の作品である。
 しかし、序論では、そのような作品構成の特異性はまったく無視されており、ウルフの文学作品に通底するテーマと Mangin 氏が考える、生の捉えがたい奥底を表現しようとする絶え間ない努力を『波』の中にも氏は見出そうとする。
 当該段落の氏の所説を今日明日の二回に分けて追ってみよう。
 ウルフの文学的努力の形は、氏によれば、寄せては返す波とそれに対する態度として表象される。心の中で揺れ動き砕ける波を感じること。その囁きに耳を傾けること。そして、波が引いたとき、姿を現した風景の痕跡を一瞬知覚すること。
 すべては過ぎ去り、すべては永久に変わりゆく。生とは絶えざる遁走であり、常に流れ行くものである。人間は、どのようにして己のうちで波うちつつ流れ行くこの生の流れに対して戦うことができるのか。
 さらに恐ろしいことには、そもそも自己について、私たちの心の奥底で逆巻くものについて私たちは語りうるのだろうか。私たちが何であるのかは到底知り難い。おそらくは、本質的なことは私たちの手を逃れることを認めなくてはならないだろう。恒常的な何ものかに到達することは不可能であり、言葉は常に諸事象の複雑さを前にして不十分であろう。
 しかし、まさに生を言い表すことのこの困難さが、徐々にではあるが、書くとはどういうことか、つまり、思考の暗がりの細道を辿り、魂の内奥で起こっていることを探索するとはどういうことなのかという問いに対する答えを描き出していく。
 かくして、書くことによって私たちは存在の奥処へと降りてゆき、何ものかが現前する場所へと到達する。

























































マイスター・エックハルト全ドイツ語著述仏訳一巻本について

2016-08-19 21:43:20 | 読游摘録

 昨年、Seuil 社から、Maître Eckhart, Sermons, traités, poème. Les écrits allemands が堅牢な装丁の一巻本として出版された。これまでにすでに仏訳されていた説教・著述だけでなく、初訳の説教も十数収録され、全部で百十九(L. Sturlese 版による)の説教が収録されている。それらの説教の中には異本を収録している場合もある。著述ならびに Quint 版で八十六番までの説教の仏訳は、名訳の誉れ高い Jeanne Ancelet-Hustache の再録であるが、八十七番から百九番までの仏訳は、編者の Eric Mangin による(同氏には今月二九日のストラスブール大学神学部での博士論文審査のときに初めてお目にかかることになる)。
 本書について特筆すべきことは、これが初めてのエックハルト独語著作全集であるばかりでなく、説教の配列が J. Quint と G. Steer による校訂版の配列、つまり説教本文の真正性の高さの順序によってではなく、L. Sturlese による典礼暦に従った配列になっていることである。この配列によって、本書の頁を追うことでエックハルト独語全説教をそれが教会暦の一年の中で語られた順にしたがって読むことができるようになった。
 本書には編者 Mangin 氏による三十八頁に渡る序論が巻頭に付されている。その内容は、一般の読者を主に想定していると思われる啓蒙的な内容になっているが、その中で特に私の目を引いたのは、ヴァージニア・ウルフについて一頁余り割いて言及している箇所である。同氏は、ウルフ作品とエックハルト説教との間に、生命をそれとして言い表すことの困難とそれ故にこそ生まれてくる表現への志向における照応性を認めている。私には俄に納得しがたい所説なのだが、明日の記事でその当該箇所を検討してみよう。























































ストラスブールの自宅に帰着

2016-08-18 14:15:12 | 雑感

 本日日本時間午前零時五〇分羽田発のルフトハンザ・全日空共同運航便でフランクフルトにこちらの時間で午前六時に到着。飛行時間約十二時間のうち半分以上寝ていた。座席は最後尾の通路側で、そこだけ通路が広く、満席でありながら比較的快適なフライトであった。
 ただ、深夜の出発なので、出発二時間後にはサンドイッチが出ただけで、食事は着陸二時間前の一食だけ。それも大して美味しくもなく、工夫もない中身。一食だけなのだから、もう少し知恵を絞ってほしい。
 空港でのパスポート審査も滞りなし。荷物受け取りも待ち時間ゼロ。そもそもベルトコンベアから出てくる荷物の数が少ない。これは、日本からの場合、フランクフルトが最終目的地である乗客が少なく、乗り継ぎ便利用者が多いためだと思う。税関も、係官が見張ってはいるが、ほぼフリーパスだった。
 フランクフルトからは往路同様ルフトハンザのリムジンバスでストラスブール中央駅へ。途中、独仏国境で警察官三人が乗り込んできて、乗客全員のパスポート検査。これも最近の治安の悪さゆえのこと。それでも定刻午前十一時にストラスブール中央駅脇着。
 駅からは路面電車を乗り継いで午前十一時半過ぎに帰宅。まだ夏休み中だから、普段から静かな辺りがなおのこと静まりかえっている。ストラスブールの本日の最高気温は二五度、湿度六〇パーセント(快適そのものザマス)。
 帰宅後直ちに二つのスーツケースの中身を全部出し、所定の位置に戻したり、今回の滞在中に購入した本を整理したり、すべて片付ける。片付けが一通り済んだところで昼食。
 今日の午後は半日休息して、明朝からは仕事モード。東京滞在中は、暑さとオリンピックのせいで(って別にオリンピック自体のせいじゃなくて、それを私が熱心にテレビ観戦したからなのですが)勉強を少しさぼってしまった。明日から巻き返しを図らねば。













































この夏の日本滞在最終日に思うこと

2016-08-17 15:19:19 | 雑感

 後九時間余りで帰国の途につく。その直前に、まったく私的なことだが、ちょっとがっくりくる知らせが入り、気持ちが沈んでしまっている。
 それはさておき、昨日の拙ブログの記事について一言記して、この夏の日本滞在中のブログの締め括りとしたい。
 普段、拙ブログに頂戴したコメントへのお礼の意味で他の方のブログを訪れ、そこにコメントを残すことはあっても、それ以外の理由でコメントを残すことは一切ないので、その当然の帰結として、拙ブログにコメントを頂くことはほとんどない。あったとしても、こちらのブログの内容には関係なく、こちらが関心も持てないような話を一方的に述べるだけのようなコメントで、それに対してお答えすることはない。私もそれほど暇ではないのである。
 ところが、昨日の記事に対しては、その内容に感応してくださった方たちからコメントを頂戴した。それだけ無関心ではいられない内容だったということなのだと思う。その方たちにはここに心より感謝申し上げます。
 人間中心主義的な人類世に対して、しかし、個人が個人としてそれをどうにかすることはできない。個が属する種を媒介として類のレベルでの変化が起こらないかぎり、地球規模では何も変わらない。
 個としての人間を相も変わらず責任主体として問題を立てているかぎり、「輝かしい」人類世をこの地球にもたらした近代の枠組みを一歩も超え出たことにならない。その枠組みの中には、そもそも人類世の将来に対する責任主体は存在しない。
 それにもかかわらず個に責任を還元し問題の所在を隠蔽する狡猾なる権力に騙されないように、あるいは近代理性の狡知に欺かれないように、私たちはせいぜい気をつけなくてはならない。

















































人類世が地球最後の地質年代にならないために

2016-08-16 16:58:41 | 哲学

 現在私たちが生きている地質年代は完新世であるが、人間の諸活動が地球環境の変動にとって決定的な要因として作用するようになった産業革命以降を特に「人類世」(フランス語では « anthropocène »)と呼ぶことを提唱する科学者たちがいる。その厳密な定義はまだ定まっていないようだが、少なくとも、二十世紀以降の地球環境をそれ以前の地球環境と区別して考えなければならないほど、ここ百年余りの人間の諸活動が地球環境を左右する重大な要因になっていることは何人も否定することができないであろう。
 そしてつい最近まで、あるいは現在もなお、人類世は取りも直さず人間中心主義(anthropocentrisme)の時代であったと言わざるを得ないであろう。そして、もしこのままそうであり続けると、人類世は地球最後の地質年代ということになってしまうかもしれない。しかも、人類世が人間中心主義を超克する新しいパラダイムを内在的に構想することができなければ、その終焉はそれほど遠い未来のことではないのかも知れない。
 人類ははたしてそのパラダイム構想の責任主体であり得るのだろうか。




















































接頭辞 《 trans- 》について

2016-08-15 13:50:30 | 哲学

 フランス語には、英語と同様、 « trans- » という接頭辞がある。語義は、大きく二つに分けることができる。一つは、「~を超えて」、もう一つは「~を通じて」である。この接頭辞が付いた語は多数ある。二つの意味のうち、どちらか一方の意味あるいはいずれかに明らかに重点が置かれている語の場合、例えば、 « transcender » は前者の意味、 « transpercer » は後者の意味で機能しており、それに応じて訳語も考えればよい。
 ところが、どちらとも言えない、あるいはむしろ両方の意味を兼ね備えている用語法がある。シモンドンにおいては、 « transindividuel » « transduction » が、マルディネにおいては、« transpassible » がそれに該当する(2016年3月15日の記事参照)。その他に « transhumain » を他の例として加えてもいいだろう。
 これらに共通する両義的な接頭辞 « trans- » が付いた術語が現代の哲学の鍵概念になっているように私には思われる。




















































自国に生きながら国外追放にあったかのように ― トクヴィルの晩年について

2016-08-14 17:41:03 | 読游摘録

 失意のうちに政界を引退した後のトクヴィルは、アンシアン・レジームを分析対象とした著作の準備に専念する。その執筆期間(1853-1856)、トクヴィルは身近な友人たちに心境を吐露す手紙を何通も書いている。その間の精神状態はおよそ次のようであったと Brigitte Krulic はそのトクヴィル伝(Gallimard, coll. « folio bibliographies », 2016)でトクヴィルの当時の書簡からの引用を交えながら叙述している。

Dans son propre pays, il vit comme un exilé de l’intérieur qui s’accroche à des idées en décalage complet avec l’esprit du temps. « Viel homme au milieu d’un nouveau peuple » qui combat jour après jour le découragement et la tristesse, il se réfugie dans le travail qui le met à l’abri des vicissitudes de son époque. Absorbé dans le lent dépouillement des archives et l’immense travail préparatoire qu’il consacre à son livre, il s’évade d’un quotidien morose : « Je suis parvenu ainsi à me sortir de moi-même, qui est un bien mauvais gîte », confie-t-il en juin. La confrontation avec un passé dont il vérifie, au fil de ses recherches, qu’il agit encore puissamment sur le présent s’effectue presque toujours à tâtons, par une appropriation progressive du sujet qui le conduit à préciser ses hypothèses de départ (op. cit., p. 236-237).

 時代精神とどうにも相容れない思想の持ち主は、日々、意気阻喪と悲哀と戦いながら生きている。時代の迷走からの避難場所を著作活動の中に見出す。資料の時間をかけた博捜と自著の準備に必要とされる膨大な作業とに没頭することで、鬱屈とした日常から逃れる。かくして、居心地の悪い己自身の外へと己を引き出すに至る。現在になお強力に作用を及ぼしつつある過去との対決は、いつも手探り状態であり、自著の主題そのものを徐々に自分のものにしていくことで初発の作業仮説が次第に明確化されていく。




















































飛行機と美容院と映画

2016-08-13 18:19:48 | 雑感

 若い頃は映画を特に好むということはなかった。よほどの名画でもないかぎり、二時間もじっと何もせずにただ映画だけを観ているのは、たとえ家で観る場合でも、時間の使い方としてもったいないと思っていた。ましてや金を払ってまで映画館で観る気にはほとんどなれなかった。
 ところがここ数年、ときどき家では観るようになった。DVDも買うようになった。邦画を好む。映画館にはやはりほとんど行かないが。
 観るようになったきっかけは、飛行機である。日本に帰国する機会が増え、その行き帰りの飛行機の中で観るようになったのである。最初は、むしろ仕方なしに観ていた。長時間本を読む気にもなれず、音楽を聴くにも機外からの騒音が大きすぎ、他にすることもなかったからである。しかし、ときどきいい映画に出会うことがあり、そんなときは結構感動してしまって、あやうく涙を流しそうになったことも一再ならずあった。ちなみに、ここ数年、涙腺は緩くなる一方である。
 映画を観るようになったもう一つのきっかけは、美容院である。帰国のたびごとに必ずカットに行く近所の美容院があるのだが、その美容師さんが大の映画好きで、カットしている間、映画を大画面テレビで観せてくれるのである。私が一時期東野圭吾と横山秀夫に凝っていたときは、その作品のほとんどをその美容院で観た。カットが済んでも、次の予約が入っていなければ、最後まで観させてくれた。しかもコーヒ付きである。
 今日、その美容院に行ってきた。美容師さんがいくつか候補に挙げてくれた作品の中から、『深夜食堂』(劇場公開日2015年1月31日)を選んで観た。いい映画だと思った。主役の小林薫の抑えた演技は味わい深く、脇役たちも芸達者な役者さんたちが多数登場して、多様な人間模様がさり気なくユーモアを込めて描き分けられ、飽きさせない。特に、多部未華子の演技には強く惹きつけられた。