内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(五)

2014-04-19 00:00:00 | 哲学

1. 2 身体と世界との根本的関係(1)

 人間は感受能力によって自分を取り巻く事物に対して受容的な関係に置かれるが、この能力は、行為する身体に与えられた直観的な受容性からなっている。人間は、その受容的な身体と共に生きているかぎり、世界における他の諸事物との恒常的な関係に置かれる。行為的直観は、人間の身体性が備えている受容可能性と共にはじめて可能になる生の根本的な様式である。行為的直観の直観の契機によって、人間の身体は、つねに他の事物との相互的な関係の中にすでに投企されている。人間の身体は、生命の世界において行動するとき、他の諸事物がその下に現れる諸々の感覚的な形態との関係においてつねに限定されるある感覚的な形態の下に現れる。身体の受容可能性によって、人間は感覚的諸形態の世界の中に投企されている。
 そうであるとすれば、行為的直観の能動的な契機とはどのようものであるのか。行為的直観が世界への根本的な存在様式として現に働いている領野において、他の諸存在に対して人間の身体はどのように行動するのか。世界における行為する身体として、私たちは、自らにある感覚的な形を与えながら、他の諸存在にある感覚的な形を与える。私たちは、他の諸存在との相互的な関係の中で諸々の感覚的な形の弁証法的な世界を構成している。
 行為的直観の立場から、以上のようにこの世界を〈形〉の世界として捉えることができるとすれば、この世界はどのように構成されているのか。この問題が提起される論脈において、西田は、「道具」という概念を導入する。この概念の導入には、ハイデガーの『存在と時間』における道具論の影響があったかも知れない。しかし、西田がこの「道具」という語に自らの哲学に固有の意味を与えて使うときには、ハイデガーの名を引用することはない。実際、概念の見かけ上の近似性とは裏腹に、〈道具〉に対する両者の視角は大きく異なり、交叉することはない。両者の間に見られるもっとも重要な違いの一つは、ハイデガーの「道具」が日常的な関心の中で出会われる存在者のことを指すのに対して、西田の「道具」は、それを使用する行為的身体との関係において規定されることである。ハイデガーにおいては、現存在と諸道具との交渉が「配慮的気遣い Besorgen」であり、諸道具を目指す眼差しが「目配り・慎重さ Umsicht」であるのに対して、西田においては、道具の身体性と身体の道具性とに力点が置かれている。つまり、西田の哲学的思索の焦点は、行為的直観の世界における身体と道具との弁証法的な関係、言い換えれば、歴史的生命の世界に創造性をもたらす関係性にある。

人間は啻に物を道具として有つのみならず、自己の身体をも道具として有つ。人間は身体的存在であると共に、自己の身体を道具として有つのである(全集第八巻一四頁)。

 人間はある物を道具として使用することができ、諸々の道具によって構成されるシステムの中で生きている。このように人間にある物を道具として使用することを可能にする実践知が「技術」である。

我々が物を道具として使用し、それによって又物を作ることが技術である(同巻四四頁)。

 人間にとって、すべての存在は、道具として使用されうるか、あるいはそのように道具として使用される諸存在との関係において限定されうるものとして現れる。世界は、そのようにして技術によって把握され、自己自身を形成して行く。人間は、諸道具が形成しているネットワークの中で行動するかぎり、技術を媒介として、それら諸道具との間の動的な関係に置かれる。諸道具は、それを使用することができる行為する身体との関係においてのみ配置が限定され、機能する。行為する身体は、道具の世界の中ですでに与えられた諸形態を用い、それらの機能に従いながら、ある与えられた形を変化させ、あるいは新しい形を創造する。これがポイエーシス的な身体、つまり世界にある形を与えることができる身体であり、これが技術と道具を媒介として世界を人間の身体の延長として変容させる。