内的自己対話-川の畔のささめごと

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鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その三)― 「大東亜の文化」

2014-02-01 02:58:00 | 読游摘録

 「大東亜戦争と吾等の決意」というタイトルの文章が『中国文学』第八十号に無署名で発表されたのは、太平洋戦争勃発の翌月一九四二年一月のことであった。この宣言文は、「中国文学研究会」の同人会にその案が諮られた上で、竹内好によって執筆された。執筆者の胸の高鳴りが伝わってくるような文体で聖戦の思想がくり広げられたその宣言全文をそのまま書き写しながら、鶴見は、この宣言は、「竹内好にとって、彼の思想の誠実な表現であった」と言う(98頁)。これは、「その後の竹内好の思想の基礎となるもの」だと捉える(100頁)。そして、その宣言を批判しつつ、事実によって否定された宣言中の予測を竹内自身が戦後、思想的課題としてどう受け止めたかについて次のように記す。

 この宣言の特徴は現実把握の弱さである。宣言は予測としては、事実によってうらぎられた。予測の失敗は、戦中の大東亜建設の現実を見ることによって、竹内好自身にあきらかになり、敗戦によって一つの終わりに至る。新しい価値の定立としての預言と、事実の展開についての予測の区別をたてることは、それ以後、竹内が自分の方法に苦痛をもってくりいれた要素である(100頁)。
 だが、アジアとその中での日本の立場についての竹内の認識の変化は、宣言文が書かれてから一年二ヶ月後に発表された次の文章にすでにはっきりと見て取ることができる。
 私は、大東亜の文化は、日本文化による日本文化の否定によってのみ生まれると信じている。日本文化は、日本文化自体を否定することによって世界文化とならなければならぬ。無であるがゆえに全部とならねばならぬ。無に立帰るのことが世界を自己の内に描くことである。日本文化が日本文化としてあることは、歴史を創造する所以ではない。それは、日本文化を固定化し、官僚化し、生の本源を涸らすことである。自己保存文化は打倒されねばならぬ。そのほかに生き方はない。

(「『中国文学』の廃刊と私」、『中国文学』第九十二号、一九四三年三月。鶴見前掲書102頁からの引用)

 先の宣言文執筆とこの文章の発表との間に、『文学界』の「近代の超克」特集号が刊行されており、竹内は発売と同時にこのセンセーショナルな座談会記録を読んだことであろう。その上で、この文章は書かれている。竹内の思想的立場が、「近代の超克」論とどこで異なり、それとほぼ時を同じくして『中央公論』に掲載されたかの悪名高き座談会「世界史的立場と日本」に見られる京都学派の立場とどう違うのかをよく見極めるのに、この文章はとても重要な位置を占めている。この文章をはじめて読んだとき、京都学派と日本浪曼派とに対する、「肉を切らせて骨を切る」とでも形容できそうな切り込みの迫力を私は感じた。ここから戦後の論文「近代の超克」(一九五九年)「方法としてのアジア」(一九六一年)も生まれて来る。













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