人間は世界の中にあると共に或る状態性にある。そしてこの状態性によって世界の存在は我々にとって現実的となるのである。ところが状態性は世界を対象化することなくかえってこれを所有する。そしてこの所有の関係において人間的存在の現実性の最初の形は成立する。人間が現実的存在であるということは人間が世界における存在であるということと共に与えられた根本的規定である。世界の存在と人間の状態性との関係は直接であって、いわば我々は世界を感じるのに即して自己を感ずるのである。(17頁)
この一節のなかで私が引っかかるのは、「所有」という言葉の使い方である。文法的には、「状態性」が「世界」を「所有する」と読める。どういうことだろうか。
今日の一般的な用語法として、「所有」とは、「自分に属するものとして、自由な使用(処分)が認められること」(『新明解国語辞典』第八版)である。この用法に従えば、上掲の引用のなかでの「所有」も、人間の状態性が、世界に対して、それが自分に属するものとして、その自由な使用(処分)が認められることを意味しなくてはならない。
しかし、それでは文脈と齟齬をきたす。この文脈では、「所有」は世界と人間との直接的な関係性を意味し、その関係性が人間の現実的存在にほかならないのだから、世界は私に属するものとして自由に使用することなどできないし、ましてや自己から分離可能な対象物として処分することなどできない。
我々は状態性によって世界をまさしく所有しているが故に、それの存在は推論によって初めて断定されるというが如きものでなく、むしろ単純に「そこにある」という性質を担って来る。世界のこの性質はあたかも範疇的なる所有によって成立するものであるが故に、この性質の故に世界を単なる現象と見なしてその本体について尋ねることは無意味であろう。世界は本体でもなく現象でもない。それは特殊なる存在の存在の仕方に過ぎぬ。(17‐18頁)
世界は、私にとって「そこにある」ものとして存在するのであって、それ自体で存在する本体あるいは実体ではなく、存在するものの存在そのものとは区別される単なる現象でもない。この私と世界との関係性を表す概念として、三木は「所有」という言葉を使用していることがここからわかる。
それにしても、この文脈で「所有」という言葉を使うことに対して、私は違和感を覚えざるを得ない。
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