自分が属する社会においてその社会との一体感を一人の個人が感じるメカニズムを記述する概念装置を作成するために、レヴィ・ブリュールは、一つの行動の哲学を導入する。行動の哲学という構想は、デュルケームにおいては、ただ素描されただけで、発展させられることはなかった。なぜなら、デュルケームは、制度の集合的表象という枠組みにまだ囚われていたからである。
レヴィ・ブリュールは、マルブランシュから « participation »(「分有(融即)」)という概念を借りている。マルブランシュは、それをプラトンから借りているのだが、それは、マルブランシュの時代に提起されていた根本的な哲学的問題の一つに解決をもたらすためであった。その問題とは、デカルトによって提起された問題である。魂は、身体とはその本性において異なるのに、いかにして身体に働きかけることができるのか、という問題である。
十七世紀に一個の精神の問題として考察されたこの心身二元論的問題が、二十世紀に入って、社会学の分野で、集団的次元で問い直されることになる。その問いは、次のような形で問われる。集合的精神は、表象を介してしか作用することができないとすれば、いかにして個別的な身体に働きかけることができるのか。
二元論が提起する心身問題に対して、マルブランシュは、機会原因論という解決法を適用する。物体と思惟とは、互いに並行関係にある二つの秩序を形成している。しかし、前者は後者が発動するための機会を提供するに過ぎない。言い換えれば、それぞれの自然的因果性の背後に超自然的因果性を見なければならない。この超自然的因果性とは神的因果性である。例えば、私の腕を動かすのは私の精神ではない。それは一般意志である。
個人の行動の問題に対するこのような形而上学的な解決法が、社会学の諸問題を新たな光の下に見直すことを可能にする。なぜなら、このような見方によれば、社会的制度が個別的身体に働きかけるのは、一個の個体が他の個体に働きかけるような仕方ではなく、そのような働きかけが実効性を持つためには、社会的制度が個々人の諸行動を通じてそれらの行動を方向づけるものとして知覚されるだけで充分だからである。つまり、諸個人の行動がその中でこそ意味を持つ「見えない諸力の場」(« champ de forces invisibles », Présentation de F. Keck pour La mentalité primitive, op. cit., p. 17)として社会的制度が知覚されれば、「社会」は、個々人に実効的に作用を及ぼすことができる。
このような考えから、レヴィ・ブリュールは、知覚の分析へと向かう。そこでの問題は、どのようにして社会が私たちを見えない諸力に参加させるか、ということではない。なぜなら、もしそうならば、社会が他の作用因と同じように働きかけることになり、社会に固有の作用様態を捉えることはできないからである。
問題は、むしろ次のように立てられる。
諸個人は、自分たちがそれらを「分有(融即)」し、社会的存在として行動できるように導く見えない諸力をどのようにして知覚するのか。
かくして、社会的なるものは、レヴィ・ブリュールにとって、諸個人に対して超越的に飛翔する集合的実体などではなく、むしろ共同的な行動の知覚の仕方として捉えるべきものとして認識されるのである。
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